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(イ)海上交通を遮断する

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5、封鎖にできなかった封鎖
(イ)海上交通を遮断する
実態はほぼ平時封鎖 交通遮断の宣言 遮断の結果
(口)遮断を侵破した中華民国船舶
拿捕船舶調査委員会を設ける 抑留された船舶はどうなるか
(ハ)「第三国」へ転籍された中華民国船舶の処置
「第三国」の船舶に効力は及ぼない 偽装転籍の場合 正当な転籍の場合
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(上記部分の転載)

5、封鎖にできなかった封鎖

(イ)海上交通を遮断する

実態はほぼ平時封鎖


盧溝橋事件が起こってから一か月ほどのち、戦火は華北から華中へ飛び火した。昭和十二年八月十三日には壮烈な上海戦が始まり、激闘・死闘はおよそ三か月もつづいた。
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中国軍の士気は高く、その主力はとくに軽火器において外国製の優れた小銃や機関銃で武装していた。以下は、外国製品の一例である。

短銃   ドイツのモーゼル、アメリカのトンプソン
小銃   ドイツの八八式歩兵銃、チェコ・スロバキアのブルノニ四式歩騎兼用銃
軽機関銃 ドイツのベルグマン、チェコ・スロバキアのチェッコ
重機関銃 ドイツのマキシム、アメリカのコルト
砲    イギリス式一八ポンド野砲、スウェーデンのポフオース山砲、イタリア式アンサルド七センチ五高射砲

中国が外国から輸入する諸種の軍需物資は、日本軍にとってはありがたくないものである。日中の戦いが国際法上の戦争なら、中立義務を「第三国」に生ぜしめる中立法規が発動する。そのため、「第三国」っまり中立国は兵器などの輸出ができなくなる。しかし、事変である。中立法規の発動はなかった。

兵器その他の運び込みを阻止する有効な方法には、海軍による海上の戦時封鎖という手もある。だがこれも事変であるために行なえない。戦時封鎖は国際法上の戦争の手段なのである。

戦時封鎖となると、被封鎖国である敵国はもちろん、「第三国」の船舶も出入りできなくなる。封鎖を破る船舶は、国籍を問わず、封鎖している国の海軍力によって拿捕され、積み荷とともに
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戦時捕獲審検所の検定に付されたのち、没収となる。乗組員も必要ならぼ抑留される。ただし、封鎖宣言と「第三国」政府への告知が効力要件のひとつである。

戦時封鎖ができなけれぼ、同じ国際法上の平時封鎖という手もまだ残っている。ただ、戦時封鎖に比し、「第三国」の船舶の出入りを禁じることができないというマイナス点がある。とはいえ、船籍を確かめるための臨検は許される。封鎖を侵破する被封鎖国たる相手国の船舶や積み荷の抑留もできる。だが、没収はまずできない。捕獲審検所も設け得ないのが普通である。封鎖に際しての、正式な封鎖宣言も必須ではない。宣言に代わる適当な通達でもかまわない。ただし、「第三国」政府に対する告知が要るかどうかにっいては定説がない。

平時封鎖は、その名のとおり、平時に行なわれるものだから、事変下でも実施できる。戦時封鎖のできない日本にとって都合のよい次善の策である。

にもかかわらず日本の海軍は、平時封鎖を行なわなかった。いや、より正確には、平時封鎖という言葉を使わなかった。交通遮断という名目で平時封鎖同然の対応策をとったのである。海軍省法務局は、これは「平時封鎖と解すべきものである」と述べている(『海軍司法法規』)。

海軍のとった交通遮断の内容の実際は、平時封鎖の内容とほぽ同じである。ただ、捕獲審検所まがいの拿捕船舶調査委員会が設けられているのは見落とせない。平時封鎖とはいわず、交通遮断と称したことが設置を容易にしたのだろう。この調査委員会についてはのちに触れる。
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平時封鎖といわなかったのは、中華民国に利害関係をもつ外国の動静を気遣ったためとも考えられる。同国の背後には、たとえぼ、フェイントまがいの門戸開放を盾に中国進出をねらうアメリカが、そして、すでに大きな利権をもつイギリスがいた。平時封鎖は、平時といい表わしはするものの、一方的な強力手段である。これでは、それらの国に戦争開始の意思表示とも解されかねない。国際法では、被封鎖国の意思次第で戦争行為と認めることができるという説もある。

最悪の場合、アメリカやイギリスが中華民国に与して戦いの相手国となったらどう対処するか。それに、平時封鎖は相手国に義務の不履行や不法行為がなけれぼ行なえない。そうした行為のあったとき、義務を履行させ、不法行為を防止し、すでに被った損害を補償させる目的で仕返しもしくは干渉として行なわれるのが平時封鎖である。平時封鎖に値するほどの義務の不履行ないし不法行為が中国側にあったのか、とアメリカやイギリスが正面切って問うてくればどう答えるか。

平時封鎖を使わなかったひとつはこのような不都合の生じるのを避けてのことだったかもしれない。だが、当の海軍自体、用語は遮断よりも封鎖のほうを多く部内的には用いている。交通遮断の実態が「平時封鎖と解すべきもの」だったためだろう。たとえぼ、遮断宣言後の十二年十一月二十日、支那方面艦隊司令長官から遮断に関して指揮下の第四艦隊にあてた命令がそうである。
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交通遮断の宣言


昭和十二年八月二十五日、海軍は第三艦隊司令長官長谷川中将の名でつぎのような交通遮断を宣言した。これにより、揚子江河口の上海付近から広東省の汕頭にいたる沿岸で中国の公私船舶の航行はできなくなった。この一帯は第三艦隊の警戒担当海域であった。翌二十六日には、海軍省と外務省もその宣告と同じ趣旨の声明を発表した。

本官は、昭和十二年八月二十五日午後六時以後、北緯三十二度四分・東経百二十一度四十四分より北緯二十三度十四分・東経百十六度四十八分に至る中華民国沿海を、本官の指揮下に属する海軍力を以て、中華民国公私船の交通を遮断する事を宣言す。本遮断は、中華民国船舶に対しては総て其の効力を有すべし。第三国船舶は及帝国船舶遮断区域内に出入りするを妨げず。

遮断の監視には、第三艦隊の第五水雷戦隊が充てられた。

この交通遮断ののちも戦いはっづき、戦火は広がっていった。海軍はさらに広い範囲にわたる交通遮断の必要性を認め、ふたたび交通遮断の宣言を出した。

すなわち九月五日に、第二艦隊司令長官吉田善吾中将と第三艦隊司令長官長谷川中将がそれぞれ宣言をし、海州湾(江蘇省)以北の中国沿海の警戒担当だった第二艦隊がその海州湾を起点にして北へ山海関(河北省)の東方までの遮断に当たり、第三艦隊がそれまでの警戒担当区域に合わせて海州湾を境にここから南に下る中国沿海の遮断に当たることになった。第二艦隊では第二
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水雷戦隊ほかが、第三艦隊では第一潜水戦隊ほかが監視に従った。

遮断は同日の午後六時より実施され、これで、ほぼすべての中国の沿岸は中華民国船舶に対して閉ざされてしまった。除外区域は、山東省の青島と、当たりまえといえばいえる「第三国」の租借地だけだった。租借地にはイギリスの香港(九龍を含む)、ポルトガルの澳門、フラソスの広州湾があった。

青島が外されたのは、同省の中国側を刺激しないためだった。青島居留の日本人たちは、戦火を避けようと、九月四日を最後にすでに引き揚げてしまっていた。その際、山東省主席と青島市長に掛け合い、紡績工場や鉱山施設などの日本の権益や個人財産は保護するという言質を得て、それらをそのままにしてきていたのである。

同じ五日、海軍省と外務省も宣言へのコメソト的な声明を公表した。海軍省の声明はこうである。


帝国海軍は、曇(さき)に自衛の一手段として且亦速(すみやか)に事態を安定せしめんとするの考慮に基き、支那船舶に対し、中南支沿海一部の交通を遮断せるが、更に其区域を拡め、第三国の租借地及び青島を除きたる爾余の中華民国領域の全沿岸に対し、支那船舶の交通を遮断するの措置を執るに至れり。右の措置は専ら支那側の反省を促し、速に事態を安定せしめんとするの念慮に出でたるものにして、第三国の平和的通商に対し、干渉を加うるの企図を有せざることは従前と異る所なし。
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この声明にみられる遮断が自衛のためのものであるというのは、日本の初めからの主張だった。前回のときの外務省の八月二十六日の声明にも、遮断は「支那側の不法行為に対する自衛的措置に外ならず」とあった。日本にとってシナ事変そのものが自衛権の発動とみなされていたことはすでにみた。

十月二十日、連合艦隊下から離れた第三艦隊と新設の第四艦隊を合わせて支那方面艦隊が編成された。第三艦隊司令長官の長谷川中将が支那方面艦隊の司令長官を兼ねた。長谷川中将は、第三艦隊の担当していた区域の遮断を、この日から同艦隊に代わって第四艦隊が行なうよう命じた。連合艦隊下に留まった第二艦隊はこれまでどおりの担当区域で遮断に当たった。

しかしほどなく、第二艦隊の日本国内への帰還が決まり、遮断はすべて支那方面艦隊に委ねられることになった。十一月二十日、同方面艦隊司令長官としての長谷川中将は、第二艦隊の吉田.第三艦隊の長谷川両司令長官が九月五日の宣言でなした交通遮断は、「二十日午後六時以降、本官の指揮下に属する海軍力を以て之を行う」と宣言した。遮断の任務には第四艦隊がいっさい統一的に当てられた。この宣言は、その後、支那方面艦隊司令長官が代わるたびに、新しい長官の名で繰り返された。

十二月にはいると、青島では残してきた日本の権益や財産に対する中国側の侵害が目立ってき
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た。十八日の夜から十九日の朝にかけては紡績工場が焼かれた。外務省の石射東亜局長は翌二十日にこう記す(『石射猪太郎日記」)。

青島の我工場等やかれたとの情報。青島[引き揚げ居留民代表]連中陳情に来る。愈(いよいよ)出兵となるであろう。之は蒋介石の手である。戦局更に拡大、日本コマル。滋(ここ)が彼のネライドコであろう。


山東省主席の韓復蹐癲△垢任暴酬遒砲脇鐱椶叛錣Δ海箸鯡世蕕・砲靴討い拭C羆皞海陵弯Δ魴鵑佑襪・譴蓮∋嚇貍覆砲い訛荵囲・海料躬愆・韻任△蝓・莽桟海侶劃垢任發△辰拭」

こうした事態にいたり、十二月二十六日、長谷川中将は同日の午後八時以降における青島の交通遮断を宣言した。これで、租借地を除き、中華民国の全船舶はすべての中国沿岸で出入りできなくなってしまった。

遮断の結果


日本海軍は、山海関の東方からフランス領インドシナ、現在のベトナムの国境にいたる全中国沿岸を封じ込むことになった。しかし、気の遠くなるほどの長い沿岸線に比べ、遮断に当たる艦艇は少なかった。絶え間のない監視が昼夜をおかずにつづいた。
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しぶきも凍る支那海の
逆巻く浪を押し分けて
敵の海上鎖(とざ)さんと
今日も見張の甲板で
睨みつづける吾が頬に
霙(みぞれ)静かに溶けてゆく

昭和十四年七月、古橋才次郎少佐は遮断任務をこう詠んだ。全五番のなかの一番である。かれは第四艦隊にあって遮断に従っていた。

遮断により、中華民国の公私船舶の多くは動きを封じられ、あるものは日本軍の手の届かない揚子江の上流に移って行った。小型の河川用船舶がほとんどであった。

そして、あるものは船籍を「第三国」に転じて航行をつづけた。こうすると船舶に遮断の効力が及ぼず、兵器、弾薬、トラツクなどの運び込みが可能となる。遮断が「第三国」の船舶の出入りまで禁じ得ないことは述べた。なお、このケースからは偽装移籍とみなされるものも出てきている。移籍船舶の問題については項を改める。

また、あるものは香港を利用して軍需物資の運び込みに従った。いわゆる香港ルートである。主要海路としては、租借地のうちの、香港だけが中国船舶に対して開かれていた。

追い込まれた搬入。これが遮断されたあとの中国側の実情だった。十四年四月当時の海軍省調
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査課長高木惣吉大佐はのちにこう伝えている(高木『自伝的日本海軍始末記」)。

全支沿岸三十五港の出入船舶は、十二年八月に比べて九月の統計は、入港一、九九六隻(約九一万トン)、出港二、一一二隻(約九一、五万トン)で三六バーセソト、六月に比べて五五バーセントに激減したのであった。

こうした窮地を免れるために中国側はふたつの方法を採った。

ひとつは、「第三国」の船舶に依頼して物資を供給してもらうことである。だが、日本の遮断宣告後、トラブルを避けるためだったろう、軍需物資を運ぶ「第三国」の船舶の出入りは少なくなっていた。

しかし、イギリスの船舶だけは搬入の割合がまだ高かった。供給をつづけるというイギリスの基本的な態度は、これまでと同じだった。

アメリカの場合は異なる。トラブルを避けようとする姿勢がイギリスよりも強かったためか、十二年九月十四日にルーズヴェルト大統領の声明が出されている。政府所属の船舶は兵器をふくむ軍需物資を中華民国へ運んではならない。その他のアメリカ籍船舶にはそうまではいわないものの、安全について政府は責任を負わない、と。

この声明の効果はあった。たとえぼアメリカ政府所有船のウイチタ号のヶースである。同年八月二十七日のこと。同号はワシントン近くのボルチモアを出港した。中華民国の依頼による拳銃
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や鉄条網、ベンガラ社製造の爆撃機一九機などの軍需品を積んでいた。

最初の遮断宣言の直後であるだけに、日本ではかなりの反響をよんだ。大統領の声明はまだ出ていなかった。

声明のあった二日後の九月十六日、アメリカ大陸を大西洋岸から太平洋岸へと抜けていたウイチタ号はカリフォルニアのサンペドロ港にはいった。しかし結局、ここで同号は積んでいた軍需品を降ろしてしまう。そして、翌々日の「東京朝日新聞」夕刊は、「米機陸揚げ」という見出しでこう報じた。

ウイチタ号船長は大統領の禁輸令によりそれらの軍需品を同港で卸し、予定の香港行を中止してマニラに向うこととなったが、ワシントンにおける消息では支那側は右の軍需品を米国以外の第三国の船に積み替えるべく奔走中であるといわれるが、これによりウイチタ号と日本海軍との間に予想された蟠(わだかま)りは解消されることとなった。

アメリカはただし、搬送制限の対象国として中華民国だげでなく日本をも加えていた。日本が軍需物資の多くをアメリカに頼っていたことからすると、ルーズヴェルト大統領の声明は日本の遮断への牽制を兼ねていたとも推測される。

さていまひとつは、陸路による運び込みである。十三年十一月には、ソ連からの赤色ルート(共産ルート)、アメリカ、イギリス、フランスからの仏印ルート(ハノイルート)、ビルマ雲南ル
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ート(ビルマルート)という援蒋ルートができていた。この四か国は常に蒋介石の国民政府を援助していた。

こうした海路や陸路による中国側の対抗に、日本軍は手を焼いた。中国軍の戦力の減殺をねらった封じ込め策がじゅうぶんに功を奏しないのである。したがって、さらにつぎの手を打たねばならなかった。中国側が主要な補給拠点として使っている港や地域に対する新たな攻略戦の展開である。

しかし、作戦が成功しても、中国側はすぐにまた別の援蒋ルートを開設してしまう。十三年十月二十一日に広東を陥落させて香港ルートを断ったときには、すでにビルマルートが設けられ始めていた。作戦が対抗策を生み、対抗策がまた作戦を生む。日本軍はこうして、戦いを重ねるごとに広大な中国大陸に限りなく呑み込まれていった。

とはいえ、海上交通の遮断が中国側にかなりの影響を及ぼしていたのも事実であった。さきには「追い込まれた搬入」といい表わしたが、だからこそ、いま述べたような対抗策が講じられたのである。
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