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産経石川水穂論評

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【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 閉ざされた沖縄の言語空間

2008.3.15 03:44

◆地元紙は新証言を無視

 先月、集団自決を日本軍の隊長が戒めた事実を本紙などに証言した沖縄県座間味村の宮平秀幸氏(78)が今月10日、沖縄県庁で記者会見を行った。

 宮平氏は、集団自決前日の昭和20年3月25日夜、村の三役らが同島に駐屯する海上挺進(ていしん)隊第1戦隊長の梅沢裕少佐のもとへ、自決用の弾薬類をもらいにいったものの断られ、自決を戒められた状況などを改めて語った。

 だが、この会見は地元の有力2紙、沖縄タイムスと琉球新報には報じられなかった。宮平氏は以前、両紙に「集団自決について真実を話したいから、取材に来てほしい」と申し入れたが、どちらも取材に来なかったという。

 宮平氏の証言は、教科書などで誤り伝えられてきた集団自決をめぐる「日本軍強制説」を否定する決定的なものだった。しかも、宮平氏は当時、15歳の防衛隊員として梅沢少佐の伝令を務め、梅沢少佐や村の幹部の話をじかに聞いている。これだけの重要な証言がなぜ、地元紙の取材網に引っかからなかったのか、不思議である。

 今回の宮平氏の証言は、今年1月下旬に東京の旅行会社が企画した「座間味・渡嘉敷ツアー」の一行との偶然の出会いがきっかけだった。一行は、歴史学者の秦郁彦氏▽自由主義史観研究会代表、藤岡信勝・拓殖大教授▽昭和史研究所代表、中村粲氏ら約40人で、座間味・渡嘉敷両島で起きた集団自決の調査を目的としていた。

 一行が、座間味島で日本軍が米軍に斬(き)り込みを行って玉砕したことを記した「昭和白鯱隊之碑」を訪れたとき、宮平氏はたまたま、玉砕した将校の遺族が近く碑を訪れるというので、碑の周囲の草刈りをしていた。宮平氏の回想はそこで語られ始めた。産経は翌2月中旬の補強調査に同行し、宮平証言を2月23日付朝刊で報じた。


◆異論を認めない雰囲気

 座間味島と渡嘉敷島での集団自決が両島に駐屯する日本軍の隊長命令によって行われたと最初に書いたのは、沖縄タイムス社編「鉄の暴風」(昭和25年、初版は朝日新聞社刊)だ。この記述が大江健三郎氏の「沖縄ノート」や家永三郎氏の「太平洋戦争」などに引用され、梅沢元少佐らは大江氏らを相手取り、名誉回復を求める訴訟を大阪地裁に起こしている。

 沖縄のメディアには、集団自決「軍命令」説に対する異論を認めようとしない雰囲気が、いまだに残っているように思われる。

 平成17年6月上旬、都内で自由主義史観研究会による集団自決に関する現地調査報告会が行われ、戦後、渡嘉敷島の村長が同島に駐屯していた海上挺進隊第3戦隊長の赤松嘉次元大尉を訪ね、「集団自決は軍命令だったことにしてほしい」と頼んだとする沖縄県の元援護担当者、照屋昇雄氏(当時は匿名)の証言が明らかにされた。集団自決した住民の遺族が援護法に基づく年金を受けられるようにするための措置で、赤松元大尉はこれを承諾したという。

 渡嘉敷島での集団自決については、作家の曽野綾子氏が昭和40年代に同島などを取材した結果をまとめたノンフィクション「ある神話の背景」で、「鉄の暴風」が記述する「軍命令説」への疑問が提起されており、これを補強する有力な証言だった。

 この報告会に沖縄の地元紙記者も来ていたが、その証言は産経が報じただけで、地元紙には載らなかった。

 照屋氏はその後、実名での取材に応じ、産経は18年8月27日付朝刊で「軍命令は創作」とする照屋証言を改めて詳しく報じたが、地元紙は取り上げていない。

 「鉄の暴風」で、赤松大尉の自決命令を聞いた副官として実名で登場する知念朝睦元少尉は、曽野綾子氏の取材に対し、自決命令がなかったことを証言し、「鉄の暴風」の記述を明確に否定した。知念氏は「沖縄タイムスの記者が私に取材を申し込んだり、話を聞きに来たりしたことはない。知らんぷりしている方が都合よかったということだろう」と本紙記者に語っている。


◆検閲下の記述正す時期

 「鉄の暴風」の初版本は前書きで「米軍の高いヒューマニズム」をたたえ、「国境と民族を越えた人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた」と書いている。米軍の検閲を受けなければならなかった当時の事情がうかがえる。本文では、旧日本軍の“悪”をことさら強調した記述も少なくない。同じような検閲は本土でも行われた。

 それから半世紀以上が過ぎ、沖縄のメディアも、当時の「閉された言語空間」(江藤淳氏)から脱すべき時期に来ているのではないか。(いしかわ みずほ)


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