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つくる会那覇記者会見補充

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つくる会那覇記者会見補充


つくる会ニュース
第231号 平成20年 3月18日(火)

宮平秀幸氏が補足証言を発表
『座間味村史』の母(貞子)の証言の間違いを指摘

  3月10日沖縄県庁の記者会見で発表された、沖縄戦「座間味島集団自決」に関する宮平秀幸氏の新証言については、FAX通信第229号(3月10日付)でお知らせしましたが、この新証言を補足する証言が3月14日に発表されましたのでお知らせします。
宮平秀幸氏の補足証言は次のとおりです。



証言・座間味島集団自決の「隊長命令」について(補足)
平成20年3月14日
宮平 秀幸

■宮平家の壕にて

 昭和20年3月25日夜の出来事について、前回の証言を補足します。宮平家の壕はシンジュというところにありました。私は戦隊本部の壕で伝令の任務についていて、家族とは分かれていましたので、忠魂碑前に集まれという村からの指示を直接聞いたわけではありません。忠魂碑前に行って家族と一緒になってから、母(貞子)と姉(千代)に聞いた話は次の通りでした。

 夕方、村の役場の女子職員が伝令で来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことは出来ません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしましたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰って来れなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。

 そのうち、防衛隊の漁労班に行っていた長男の秀信が、玄米のごはんのお焦げを持って来ました。それをみんなで食べるか食べないかのうちに、午後8時ころ、役場の伝令役の宮平恵達が壕のところに来ました。うしろには宮平ツルの姿も見えました。恵達が、「ほい、ほい、誰かいるか。僕は恵達だが」と声を掛けました。「はい」と母が返事をしました。祖父が「フカガリク[屋号]の恵達か?」と聞きました。恵達は、「はい、フカガリクの恵達です」と答えました。そして、「おじい、軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ。軍が殺してくれる。爆薬をくれるというから、アッという間に終わる。遅れたら自分たちで死ななければならないよ。遅れないように、ぐそうすがい[あの世に旅立つ時に着けていく晴れ着]を着けて来てください」と言いました。

■忠魂碑前にて

 午後9時ごろ、祖父母、母、姉、妹、弟の6人の家族が連れ立って忠魂碑前まで歩いて行きました。家族は、忠魂碑に向かって右手の30メートルくらい離れた窪地に固まっておりました。宮里盛秀助役から、私の家族が自決するために忠魂碑前に集まっていると聞いた私は、心配になって忠魂碑前にやってきました。母や祖父母の姿はすぐに見えましたが、姉の千代の姿が見えなかったので、「千代姉さん、来てるのか?」と聞きましたら、姉は「はい。秀幸、あんたも元気か?」と言いましたから、「僕、無事だよ」と答えました。

 母が「秀幸、こっちに来なさい」と呼ばれたので、私は「たった今、本部の壕からここに来たのは、村長、助役、収入役、校長、それから恵達だよ」と言いました。母は「何で早く自決をさせないの?」と聞きますので、私は声を潜めて、「今さっき、役場の三役が隊長に自決するから爆薬を下さいと言ったんだけど、隊長が断って、自決用の弾薬も何もない、自決してはいけないと命令したので、この役場の人たち、自決をやめるために帰って来たんだよ」と言いました。母と祖父は、こもごも、「軍の方から何も貰えないのに、『軍が忠魂碑の前で自決させるから』と言ってみんなを呼び出しておきながら、今あんたの話を聞いたら、自決は中止だというんだから」と、村の幹部について批判的な口調で言いました。そして、母は「どうしたらいいの?」とぼやきました。私は本部壕前のことを話してやりました。

 そのうち、村長が「今から大事な話をするから、みんなこっちに寄って来なさい」と言いました。その内容は前回の証言で述べた通りですが、村長の解散命令を、母や私の家族はみんな自分の耳で聞いています。


■『座間味村史』掲載の宮平貞子(母)の証言について

 『座間味村史(下)』(1989年刊行)に証言が掲載されている宮平貞子は私の母です。母は、1993年8月に亡くなっています。私はこの母の証言をつい最近読みました。事実と違う、つくりごとが書かれているので驚きました。母のことを言いたくはありませんが、間違いは間違いとしてハッキリさせる必要があります。母の証言の明確な間違いは次の通りです。

(1) 千代姉がお米をもらいに行こうとして祖父に止められたのに、母の証言では家族全員でお米をもらいに出かけたことになっています。

(2) 恵達とツルが役場の伝令で来て、軍命だとして忠魂碑前に集まるように言ったのに、その伝令がなかったかのように書かれています。

(3) 家族は間違いなく忠魂碑前に行って、そこで長い時間過ごしているのに、忠魂碑前には行かなかったと書いています。

(4) 整備中隊の壕の前で、「兵隊さんに殺してもらう」と言おうというのが母と姉の案でしたから、私が代弁してそう言いましたが、兵隊さんの方から「殺してあげる」とは言っていません。

(5) 整備中隊の壕でたくさんの食料をもらって、「生きられるだけ生きのびなさい」と励まされたのに、そのことが書かれていません。

(6) 「三中隊の兵隊さんの壕」と書いているのは、「二中隊」の間違いです。

(7) 二中隊の壕でも食料をもらったことが書かれていません。

(8) 家族が私の家の壕に戻ったあとも、私は家族とともに居たように書かれていて、「三男[私]」が、「何言うか、あれはアメリカーだよ。上陸してきたんだ」と言ったことになっていますが、私はすぐに任務に引き返していて、家族と一緒には居ませんでした。

(9) 母は、「おじい、綱を貸してちょうだい。早く子供たちを殺さないとならないけど」と言ったことになっていますが、考えられません。死ぬという気はなかったと聞いています。また、綱を使わなくても、死ぬなら包丁も竹槍も備わっていました。

(10) アメリカ兵からもらったチョコレートを、母は「毒が入っている」と言って、子供たちが食することを禁止したことになっていますが、実際はチョコレートを沢山もらって妹も弟もおいしいと喜んで食べていたというのが事実です。


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