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つくる会那覇記者会見

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つくる会那覇記者会見


http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_229.htm
つくる会WEBニュース
第229号 平成20年 3月10日(月)

沖縄戦「集団自決」宮平秀幸氏の新証言で記者会見
座間味島・梅沢隊長は「住民に『解散』を命令した」


 新しい歴史教科書をつくる会の藤岡信勝会長、杉原誠四郎副会長は3月10日午後1時30分から沖縄県政記者クラブで「沖縄戦集団自決問題」について記者会見を行いました。
 記者会見には、座間味島在住の宮平秀幸氏も同席し、座間味島における「集団自決」に関する新しい事実を明らかにしました。
 会見の内容と宮平秀幸氏の「証言」内容は次のとおりです。


座間味島集団自決「宮平秀幸証言」の意義と今後の展望 
平成20年3月10日
沖縄県県庁記者クラブにて
新しい歴史教科書をつくる会
会長 藤岡 信勝

 座間味島在住の宮平秀幸氏(78歳)は、このたび、沖縄戦で米軍が上陸した前日にあたる昭和20年3月25日夜から明け方にかけての体験を詳細に証言した。(別紙参照)この証言は、次の4点において、従来の証言や文献になかった新しい事実を明るみに出した画期的な内容を含むものである。

 第一に、座間味島の梅澤裕隊長が25日夜、本部壕を訪れて集団自決のための弾薬等を求めた村の幹部に対し、「自決するな」と強く説得し、「命令」していたことが明らかになった。これによって、「自決するなと命令しなかったことが自決命令に当る」とする大江健三郎・宮城晴美・大城将保氏らの主張の論拠は完全に崩壊した。

 第二に、大江氏らの主張とは反対に、梅澤隊長による「自決するな」という「命令」は、証言者の宮平氏本人とその家族を含む多数の村人の生命を救ったことも明白となった。また、梅澤隊長のみならず、日本軍の将兵が住民に対し機会あるごとに「生きのびなさい」とはげましていたことも明らかになった。これらの事実は日本軍が住民を集団自決に「追いつめた」という報道が根拠のないものであったことを示している。

 第三に、従来の理解とは異なり、野村正次郎村長は本部壕前の要請行動に参加し、村当局の最高責任者として問題の処理に一貫してかかわっていたことが明らかになった。さらに重要なことは、村長が隊長の「解散させよ」という「命令」を受けて、集団自決のために忠魂碑前に集められた村人に「解散命令」を出していたことである。これは、梅澤隊長が集団自決をとめようとした事実を裏付けるものである。

 第四に、住民を忠魂碑前に集める口実として使われた「軍命」は、村当局が仕組んだものであったことも明瞭となった。他方、安仁屋政昭氏の「合囲地境」論によれば、隊長による「自決するな。解散せよ」との説得は、正規の効力をもった行政命令であったことになる。当会は安仁屋説をとらないが、あえて一言しておきたい。

 宮平秀幸氏の勇気ある新証言によって、座間味島集団自決の真相究明は全く新しい段階を迎えることになった。当会としては、今後の展望として、①明らかになった集団自決の真相を広く社会に訴えるとともに、見解の異なる人々とも対話と討論を進め、②証言者の人権を守り、③文科省に対し、集団自決の教科書記述の再修正を求め、④集団自決を含めて、反軍イデオロギーによって歪められた沖縄戦の全体象を描き直すため、実証的で公正な立場から研究を進める新しい学会として「沖縄戦研究会」(仮称)を設立する動きがあることに賛同し協力していくこと、を予定している。
                                         (以上)


八証言・座間味島集団自決の「隊長命令」について
平成20年3月10日
宮平 秀幸

■本部壕前にて

 昭和20年3月23日、アメリカ軍による空襲が始まりました。アメリカ軍は26日に上陸するまでの三日三晩、ものすごい爆弾、ロケット弾、艦砲射撃による攻撃を仕掛けてきて、それこそ島の形が変わるような激しいものでした。

 いよいよ明日は敵軍が上陸してくるという25日の夜、正確な時刻はわかりませんが、9時と10時の間ぐらいのときでした。野村正次郎村長、宮里盛秀助役、宮平正次郎収入役の村の三役と国民学校の玉城盛助校長が戦隊本部の壕に来ました。私の姉で役場の職員の宮平初枝と、同じく役場職員の宮平恵達もついてきていました。ただし村長は少し遅れて来たように思います。これに戦隊長の梅澤裕少佐が対応されました。壕の入口にはアメリカ軍の火炎放射器で焼かれるのを防ぐため、水で濡らした毛布を吊していました。その陰で、私は話の一部始終を聞いていました。隊長とは2メートルぐらいしか離れていません。当時、私は15歳で、防衛隊員として戦隊本部付きの伝令要員をしていました。

 助役は、「もう、明日はいよいよアメリカ軍が上陸すると思いますので、私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい。それで、忠魂碑前に村の年寄りと子供を集めてありますから、自決するための爆弾を下さい」と言いました。すると梅澤隊長は、「何を言うか! 戦うための武器弾薬もないのに、あなた方を自決させるような弾薬などありません」と断りました。助役はなおも「弾薬やダイナマイトがダメならば毒薬を下さい。手榴弾を下さい」と食い下がりました。

そこで梅澤隊長がさらに出した命令は、「俺の言うことが聞けないのか! よく聞けよ。われわれは国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここに来たのではない。あなた方に頼まれても自決させるような命令は持っていない。あなた方は、畏れおおくも天皇陛下の赤子である。何で命を粗末にするのか。いずれ戦争は終わる。村を復興させるのはあなた方だ。夜が明ければ、敵の艦砲射撃が激しくなり、民間人の犠牲者が出る。早く村民を解散させなさい。今のうちに食糧のある者は食糧を持って山の方へ避難させなさい」というものでした。 村の三役たちは30分ぐらいも粘っていましたが、仕方なく帰っていきました。

■忠魂碑前にて

帰り際に、助役が「おい、宮平君、あんたの家族も忠魂碑前で自決するといって集まってるんだよ」と言いました。私は家族のことが心配になり、村の三役の15メートルぐらいあとをついて歩いて忠魂碑前に来てしまいました。そこには老人と子供ばかり80人くらいの人がいました。私の家族は祖父母、母、姉、妹、弟の6人が、碑に向かって右側の窪地にかたまっていました。

 母と姉の話では、午後8時ごろ私の家の壕に役場の伝令役の宮平恵達が来て、「ほいほい、誰かいるか。僕は恵達だが、軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ。軍が爆薬くれるというからアッという間に終わる。遅れたら自分たちで死ななければならないよ」と言ってきた。それで支度をして家族で忠魂碑前にやってきたとのことでした。私は、「お母さん、おじいちゃん、それは軍の命令じゃないからね。死ぬことないよ」と言いました。

 村の三役たちがやってくると全員が総立ちになりました。三役たちは、忠魂碑の下で、何ごとかしばらく相談していました。私はそこから7~8メートル離れた井戸のそばのタブの木のところにいました。助役の声か収入役の声かわかりませんが、「村長、もうあともどりはできませんよ」と言うのが聞こえました。

やがて「こっちに来なさい」とあちこち隠れている人たちを呼んだので、皆村長のそばに集まって行きました。村長ひとりが忠魂碑の階段を上り切った一つ下の段に立って、「これから軍からの命令を伝える」と言いました。集まった人々は、いよいよ自決命令だと思っていたのです。すると村長は、「みなさん、ここで自決するために集まってもらったんだが、隊長にお願いして爆薬をもらおうとしたけれど、いくらお願いしても爆薬も毒薬も手榴弾ももらえない。しかも死んではいけないと強く命令されている。とにかく解散させて、各壕や山の方に避難しなさい、一人でも生き延びなさいという命令だから、ただ今より解散する」と言いました。5分くらいの話でした。助役や収入役は、忠魂碑の下のところで、集まった人々と何ごとかを話していました。村長が解散命令を出したのは午後の11時ころです。時計は持っていませんでしたが、お月様が出ていたので、大体の時刻を判断しました。

 村長の話が終わったあと、照明弾が落ち、続いて忠魂碑の裏山の稜線に艦砲射撃の弾が3発落ちました。村人は三々五々帰っていきました。うちの家族はどうするか、壕に帰るか、山の方に逃げるか、うちに宿泊している整備中隊の壕を訪ねるか、しばらくグズグズしているうちに、忠魂碑前には誰もいなくなってしまいました。

■整備中隊壕の前にて

そこで、家族7人で1時間以上歩いて大和馬(やまとんま)にある整備中隊の壕に行きました。整備中隊の内藤中隊長、池谷少尉、木崎軍曹、落合軍曹、藤江兵長の5人が出てきて、「このさなかに何しに来たの」と言いましたから、「軍から自決命令が出ているといって忠魂碑前に集まったけど、解散になった。それで、よく知っている兵隊さんに万一の時は殺してもらおうと思って参りました」と言いました。兵隊たちに殺してもらうというのは、母と姉の案を私が代弁したのです。すると「軍の命令なんか出ていないよ。死んではいけんぞ。死んで国のためにはならんよ。国のため、自分のために生き延びなさい。連合艦隊が逆上陸してきたら、万が一救われるチャンスもあるから、家族ひとりでも生き残りなさい」と言われました。「食べ物がないんです」と言ったら、「持っていけ」といわれて、軍が保管していた玄米、乾パン、乾燥梅干しをクツ下の形をした袋に詰め込めるだけ詰め込んで渡してくれました。

 それからまた、1時間以上もかけて山を越え、戻ってきて第2中隊の壕のところまで来ると、爆撃が激しくなり進むことが出来ません。第2中隊の田村中尉が、しばらくここに避難しなさいといわれ、金平糖、ミカンの缶詰、黒糖アメをもらいました。そのころは、夜も白々と明けかけていました。この兵隊さんたちは、アメリカ軍上陸後、敵陣地に斬り込み、皆戦死してしまいました。
                                         (以上)





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