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第一章 支那に於ける近時の発展の概要

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第1章 支那に於ける近時の発展の概要


 現在の紛争が初めて国際聯盟に持ち出されるに至れる1931年9月18日の事件は、日支間の関係緊張を加え来れるを示せる長期のより重要ならざる軋轢の連鎖の結果に他ならず、現在の紛争を完全に理解せんが為には右2国間の最近の関係の主要なる要素に関する知識を必要とす。従って問題の研究を満州事態以外に及ぼし且現在の日支関係を決定するあらゆる要素を最も広範なる局面に付観察する必要ありたり。例えば支那共和国の国民的翹望、日本帝国及旧露西亜帝国の膨張政策、現時「ソ」連邦よりの共産主義宣布及右3国の経済的及軍略的必要等の如きは如何なる満州問題の研究にあたりても根本的に重要視せらるべき要素なり。

 支那の此の部分は地理的に日露両国の領域の間に介在するを以て満州は政治的に紛争の中心となり右3国間の戦争は此の土地に於いて行われたり。実に満州は相衝突する要求及政策の遭遇点にして現在の紛争の具体的事実を十分に正解するに先ち先ず之等の相衝突する要求及政策を考察するを要す。故に吾人は先ず右根本的要素を順じ検討せんとす。

1、近代支那の発展


 支那に於ける主導的要素は徐々に行われつつある国民自体の近代化なり。現代支那は其国民生活のあらゆる方面に於いて過渡的証跡を示しつつ進展しつつある国家なり。政治的擾乱内乱、社会的及経済的不安は中央政府の衰微をもたらすとともに1911年の革命以来支那の特徴となりたり。之等の状態は支那の接触し来れるあらゆる国家に不利なる影響を及ぼし来れるものにして、匡救せらるるに至る迄は常に世界平和に対する脅威たるべく又世界経済不況の一原因たるべし。

 現在の状態に至る迄の諸段階に就きては本報告に於いては詳細なる歴史を記載するを得ず。単に簡単なる概要を述ぶるに止むべし。支那は個々の西洋人と交際したる最初の数世紀中は、歴史よりの影響の関する限り限りに於いては実際上孤立せる国家たりき。此孤立状態は、第19世紀の初にあたり近代的交通機関の改良が距離を狭め極東を他の諸国より容易に到達し得るに至らしむるに及びて当然終了すべき運命にありたり。然れども此時にあたりても支那が此新なる接触に応ぜんとする用意無かりき。1842年の戦争の終末を告げたる南京条約の結果として支那の数港は外国人の貿易及居住の為に開かれたり。外国の影響は之を採り入るる何等の準備をも為し居らざる政府を有する国に導入せられたり。外国の商人は政府が外国人の行政的、法律的、司法的、知識的及衛生的必要に対する設備を為し得ざる以前に其諸港に居住し始めたり。外国商人等は自己の慣れたる状態及標準をもたらしたり。諸条約港には外国都市建設せられ組織、行政及商業の外国方法採用せられたり。外国と支那との此の対照を緩和し得べかりし両方よりの努力も効果なく軋轢と誤解との長年月之より継続するに至れり。

 度々の武力衝突に於いて外国武器の大なる効力を見たる支那は兵器廠を建て西洋式方法に依りて軍隊を教練し力を以て力に対抗せんとしたり。範囲に於いて限られたる支那の此方行への努力は結局失敗すべき運命にありたりき。支那が外国人に対抗し得んが為には更に根本的なる改革を必要としたつも支那は斯かる改革を望まざりき。寧ろ反対に支那は外国人に対し支那の文化と主権を護らんと保したりき。

 日本も初めて西洋の影響に対し国を開きたる当時同様なる諸問題、即擾乱的なる諸思想との新なる接触、相異なる標準の衝突、其結果たる外国居留地の設定、一方的関税協定及治外法権要求等の諸問題に面せざるを得ざりき。然れども日本は内政上の改革に依り、自己の近代的要求の標準を西洋の標準迄高むる事に依り及外交交渉に依り之等の諸問題を解決せり。日本に依る西洋諸思想の同化は未だ完全ならざるやも知れず、又相異なる時代の新旧思想間の軋轢は時に之を見ることもあるやも知れず。然れども日本が自己の古き伝統の価値を減ずることなく西洋の科学と技術を同化し西洋の標準を採用したる速度と完全性は遍く賞嘆せられたり。

 日本の同化改革の問題が如何に困難なりしにもせよ支那が直面せる諸問題は、支那の領土の広大なること、支那の人民に国家的統一の欠如せること及徴収せられたる収入の全体が中央国庫に到達せざる伝統的財政組織を有することに依り、更に頗る困難なり。支那が解決することを要する問題は日本が直面したる問題に比し更に頗る複雑にしてニ者を比較するは不正当なりとするも而も支那の必要とする解決は結局日本の採用せる如き方針に依らざるを得ず。支那の外国人を接受することに対する嫌悪及支那在住外国人に対する支那の態度は当然重大なる結果を生むべきものなり。此の態度は其当事者の注意を外国人の勢力に対する反抗及其制限に集中せしめ、支那が外国居留地に於ける進歩せる諸状態の経験に依り利益することを妨げたり。其結果として支那をして新しき諸状態に対抗し得しむる為に必要なる建設的改革は殆ど全く着手せられざりき。

 各自の権利及国際関係に関する相容れざる2思想の不可避的衝突は戦争及論争となり其結果は次第に主権の割譲及一時的又は永久的の領土喪失となれり。支那は黒龍江の北岸に於ける大地域及沿海州、琉球諸島、香港、ビルマ、安南、東京、ラオス、交趾支那(印度支那の諸地方)、台湾、朝鮮其他数個の朝貢国を失い、又其他の領土を長期にわたり租貸したり、又外国法廷、行政、警察及軍事施設を支那の領土に於いて許容せり。自国の輸出入関税を自由に規定する権利は一時喪失せられたり。支那は外国人の生命及財産に対する危害に対する賠償を支払い又戦敗しては巨額の償金を支払いたるが之等は其後常に支那財政の重荷たるに至れり。支那領土の諸外国の勢力範囲への分割に依り国家としての存在さえも脅かさるるに至れり。

 1894~95年の日支戦争に於ける敗北及1900年団匪反乱の惨憺たる結果は支那主導者中の心ある者の眼を開き根本的改革の必要を感ぜしめたり。改革運動は当初は満州朝廷の指揮を甘んじて受くる意ありしも其目的及指導者が西太后の手に欺き取られて後は同王朝より離反し光緒帝は其百日の改革の代償として1908年崩御に至る迄事実上の牢獄生活を送りたりき。

 満州王朝は支那を250年間統治したりき。同王朝は其後年に至りては太平乱(1850-65年)、雲南に於ける回教徒の乱(1856-73年)及支那「ターキスタン」に於ける反乱(1864-77年)等度々の反乱により力を失いたりき。殊に太平乱は同帝国の基礎を揺るがし王朝は其威厳上遂に回復する事を得ざる大なる打撃を受けたり。而して1908年西太后の崩御後、其内部の虚弱よりして遂に倒壊せり。

 革命主義者は幾度か反乱の小計画を試みたる後南支那に於いて成功せり。斯くて短期間の間革命の指導者孫逸仙博士を臨時大統領とする共和政府南京に樹立せられたりき。1912年2月12日当時の皇太后は幼児たる皇帝の名に於いて退位の勅書に署名し次て袁世凱を大統領とする臨時立憲政治開始せられたり。皇帝の退位と共に各省、県及地方に於ける皇帝の代表者は皇帝の権威に基づきて彼等が有し来れる勢力及道徳的威厳を失えり。彼らは普通の人間となり其決定を強制し得る限りに於てのみ人民は彼らに服従することとなれり。斯くて各省に於いて文官都督か武官たる都督に依りて代らるるに至りたるは当然の結果なり。中央主権者の地位も亦同様に最も強大なる軍隊を有する軍閥首領又は省又は地方の有力軍閥の最も強力なる一団に依り支持せられたる軍閥首領によりてのみ保持せられ得るに至れり。

 南方よりも北方に於いて顕著なりし軍閥独裁の傾向は、軍隊が革命に対してしばしば与えたる援助に依りて人気好かりし事実に依りて容易となりたりき。首領軍人は革命を成功せしめたる功労に対し報酬を要求するに躊躇せざりき。彼等の大部分は北方の首領にしてある程度まで所謂北洋軍閥―日支戦争後袁世凱に依りて訓練せられたる模範軍隊に於いて低き身分より高き地位に上りたる人々―として一群を為したりき。之等の軍人は袁世凱にとりては、西洋に於ける組織の特徴たる団体に対する忠実の観念未だ発達せざる支那に於いては最も重要なる個人的忠誠の絆に依り結ばれ居るを以て比較的信頼し得るものなりき。之等の軍人は袁世凱に依り其支配下にある諸省の督軍に任命せられたり。之等の諸省に於いて権力は彼等の手中に止まり、従って省の収入は彼等が自由に取りて以て自己の個人的軍隊及部下の為に使用し得るに至れり。

 南方諸省に於いては一には諸外国との交際の結果として又一には人民の異なれる社会的慣習のために事態を異にしたり。南支那の人民は常に軍閥の独裁政治及外部よりの公務干渉を好まざりき。孫逸仙博士其他南方の指導者は立憲主義の理想に忠実なりき。然れども揚子江の南方の諸省に於いては軍隊の改造は未だ余り進歩し居らず又設備整える造兵廠を有せざりし為、彼らは其背後に有力なる軍隊を有せざりき。

 遷延に遷延を重ねたる後、1913年第一の議会が北京に於いて開催せられたる時には、袁世凱は既に其軍事的地位を確立し只欠くるところは各省軍隊の忠誠を確保するに足る財源のみなりき。世に善後借款と云わるる大外債は彼に必要なる財力を供給せり。然れども彼が右借款を議会の同意を得ずして締結したる行為に依り国民党に属する彼の政治的反対者は孫博士の指導の下に結合し、公然彼に背反するに至れり。軍事的の意味に於いては南方は北方よりも弱かりしが、北方の勝ち誇れる督軍連が南方の数省を征略し之を北方の将軍の下に置くに至りて更に其弱きを加えたり。

 其後袁世凱に解散せられたる1913年の議会を回復せしめ又は偽国会を開かんとする数次の企画、王政を樹立せんとする2度の計画、大統領及内閣の幾度となき変更、軍隊首領間に於ける服属関係の不断の変化及一省又は数省の一時的独立の多くの宣言を見たりき。広東に於いては孫博士を首班とする国民党政府は1917年以来時に活動を止めたることあるも兎も角存続するに成功せり。此十数年間に於いて支那は各軍閥間の戦争に依り荒廃せられいたる所に存在する匪賊は零落せる農夫、飢饉に襲われたる諸地方の絶望せる住民及給料不渡の兵士を加えて愈其数を増し有力なる軍隊を成すに至れり。南方に於いて戦いつつありし立憲主義の人々さえも幾度となく彼ら自身の中に発生する軍事的確執の危険に曝されたり。

 1923年、自己の主義の勝利を得るの為には確定せる「プログラム」厳重なる党規及組織的宣伝の必要なる事を露国革命に依りて確信するに至れる孫逸仙博士は彼の「綱領」及「三民主義」(民族、民権、民政)の中に略述せる「プログラム」を以て国民党を改造せり。系統的組織は党の規律及中央執行委員会の仲介に依る行動の統一を確保せり。政治訓練処は宣伝者及地方党支部の組織者を教育すると共に他方黄埔に於ける軍官学校は露国士官の援助の下に党の理想を抱懐せる指導者を有する能率ある軍隊を党の為に作り上げたり。斯くして地方党支部は党と連絡せる農夫工人組合に組織せられたり。斯くして先ず民衆の心を獲ち得たる国民党は1925年孫博士の死後国民党軍の北伐に成功し1928年の末には多年存せざりし名目上の統一に成功し暫時は実際上の統一をもある程度迄実現せり。孫博士の「プログラム」の第1段即ち軍事的段階は斯くして成功するに至れり。

 党独裁の下に於ける訓政の第2期開始せられ得ることとなれり。

 右時期は民衆の自治政治の技術上の教育及国家の再建に捧げられるべき時期なりき。

 1927年、南京に中央政府樹立せられたり。同政府は党に依りて統制せられたり。―実際に於いて政府は党の一重要機関に過ぎず。政府は5院(行政、立法、司法、監督、考試の諸院)より成れり。人民が一部は直接に又一部は其選挙せる代表者を通じて自ら政府を指揮すべき最後の段階即位立憲政治の段階への推移を容易ならしむる為に、政府は能う限り孫博士の「5院憲法」―「モンテスキュー」の三権分立に支那の古来の2制度たる監察院と考試院とを加えたるものの方針に依りて構成せられたり。

 各省に於いても同様に省政府の組織に付きて委員制度採用せられたるが他方村落、都市及地方に於いては人民は地方自治政治実行上の教育を受くることとなれり。党は今や其政治的及経済的再建の計画を実行するの用意なりたるも、内部の不和私的軍隊を有する諸将軍の定期的反乱及共産主義の脅威の為に実行し得ざりき。実際に於いて中央政府は幾度となく其生存の為に戦うこと必要なりき。

 暫時は統一は表面に於いては保持せられたり。然れども有力なる軍閥が相互に同盟を結びて南京に向かいて進軍せる場合には統一の外観さえも保持すること不可能なりき。此等軍閥は一度も目的を達せざりしも彼らは敗戦の後に於いても軽視せられ得ざる潜勢力たりき。加ふるに彼等は決して中央政府に対する戦争は叛逆行為なりとの態度を採らざりき。彼らの眼中に於いては此戦争は単に彼等の党派と単に国都に在住し諸外国に依り中央政府として承認せられたる他の党派との間の争覇の戦闘に過ぎざりき。此上下関係の突如は、党そのものの中の重大なる付和に依り中央政府が孫博士の疑うべからざる後継者たるの資格弱めらるる為愈々以て危険なり。此新たなる分裂の結果として南方の有力なる諸首領は離反し広東に退きたるが同地方の地方官憲及国民党の地方支部はしばしば中央政府と独立に行動し来れり。右概要の叙述より見るに支那の分裂的諸勢力は今尚強きものの如し。此の結合の欠如の原因は国民の大衆が支那と諸外国との間の関係緊張せる時期を除きては国家を基礎とせず家族及地方を基礎として考える傾向にあり。現今に於いては自己独立主義的感情を超越せる指導者もありといえども、真の国家統一がもたらさるるが為には先ず更に多数の市民が国家的見地を有するに至らんことを必要なるは明瞭なり。

 避くること得ざる政治的、社会的、知識的及道徳的乱雑を示しつつある支那の過渡期の状況は支那の性急なる友人を失望せしむるものにして平和に対する危険となりたる不和怨恨を作りたるも、而も種々の困難、遷延及失敗にも拘らず事実に於いて相当の進歩が遂げられたるは事実なり。現在の紛争を論議する際に於いて常に聞く一議論は支那は「組織ある国家に非ず」又は「完全なる混沌及意想外の無政府の状態にあり」而して支那の今日の状態は当然支那より聯盟の一員たる資格を失わしめ支那より規約に基づく保護要求権を奪うものなりとの言説なり。

 之に関しては華府(ワシントン)会議に際し参加各国が全く異なりたる態度を取りたることを記憶すること必要なるべし。而も当時に於いても支那は北京及広東に於いて二箇の全然異なる政府を有し又奥地の交通通信をしばしば妨害する多数の匪賊に依る擾乱を受けたる一方に於いて支那全体を其の渦中に投ずべき内乱の準備行われつつありたり。1922年1月13日、即ち華府会議の尚開催中にありたるとき中央政府に発送せられたる最後通牒に続き開始せられたる右内乱の結果として中央政府は同年5月転覆し右政府に代わり北京に樹立せられたる政府に対する満州の独立は同年7月張作霖に依り宣言せられたり。此の如く独立を主張する政府は実に3個ありたり。而も実際上独立せる省又は省の部分若干存在せり。現在に於いては中央政府の権威は尚若干省に於いて薄弱なりといえども中央の権力は少なくとも否認せらるることなく若し中央政府が現在のままに維持せらるるに於ては地方行政、軍隊及財政は漸次国家的性質を帯びるに至るべきものと期待することを得べし。叙上の諸理由は他の諸理由と共に聯盟総会をして去年9月支那を理事国として選挙せしむるに至りたるものなること疑いを容れず。

 現政府は其の歳出及歳入の均衡並びに健全なる財政的原則の遵守に努め来れり。諸種の課税は統一せられ且簡単化せられたり。正当なる予算の制度なき場合には財政部は毎年度の歳出及歳入の説明書を発表し来れり。中央銀行は設立を見たり。国家財政委員会任命せられ其の委員には銀行及商業界の有力者包含せらる。財政部は又徴税の方法未だ甚だ満足ならざる地方の財政を監督するに努めつつあり。総て此等の新たなる措置は政府の功に帰せらるべきものなるも而も政府は間断亡き内乱の為に其の内債を1929年以来約10億ドル(銀)増加することを余儀なくせられたり。政府は資金の欠乏に妨げられ其の野心に満ちたる復興の諸計画を実行することを得ず又国内の殆ど総ての問題の解決に欠くべからざる交通通信の改良を完成することを得ざりき。政府は数多の事項に付失敗したること疑いなきも而も既遂の業績多々あり。

 近代支那の国民主義は支那が今や過渡しつつある政治推移の時期に於ける一つの通常なる事象にして之と同様なる国民的感情及翹望は同様の状態に置かれたる如何なる国に於いても見ることを得べし。然れども国民的統一を意識するに至れる人民が外的制肘を離脱せんと欲する自然的欲望に加うるに国民党の勢力は一切の外部的勢力に益反感を抱かんとする異常なる色彩を支那の国民主義に注入し来り其の目的を拡大して尚「帝国主義的圧迫」の下にある一切のアジア民族の解放を包含せしむるに至れり。今日の支那の国民主義には其の再現を希う過去の偉大さに対する記憶も亦多分に盛られあり。右主義は租借地、鉄道付属地に於いて外国の手に依り行使せらるる行政上及他の純粋に商業的ならざる諸権利、租界に於ける行政権、並びに外国人が支那の法律、法廷及課税に服従せざることを意味する治外法権の返還を要求す。世論は国民的屈辱と看做さるる此等の権利の存続に強く反対なり。

 諸外国は概して此等の要望に対し同情ある態度を取り来れり。1921-22年の華府会議に於いては右要望の妥当なること原則として容認せられたるも只之を満足せしむべき最善の時期及方法に付ては意見の相違存したり。

 此等の権利を直ちに放棄するに於ては財政上其の他の内面的困難に基づき支那が今直に達成することを得ざるが如き程度の行政、警察及司法を樹立する責任を支那に負担せしむるに至るべしとすること当時の感想なりき。当時単一に取扱はれたる治外法権の問題は若し之を尚早に撤廃するに於いては諸外国との間に他の別個なる諸問題を誘発したるなるべし。又若し外国人が支那の多数の地方に於いて支那国民の蒙りつつありたると同様の不公平なる待遇及苛酷なる課税を受くることと為るに於ては国際関係は改善せられず、却って悪化すべしとすること亦当時の感想なりき。此等の留保に拘らず特に華府会議に於いて又同会議の結果として達成せられたるもの多々ありたり。即ち支那は5箇所の租借地中の2、多くの租界東支鉄道付属地の行政権、関税自主権及郵政権を回収し均等の基礎に立つ多くの条約も亦商議せられたり。

 支那は華府会議を機とし其の困難を解決する為の国際的協調の道程に上りたるを以て若し右道程に従い進みたるに於ては爾後の10年間に於いて更に顕著なる進歩を遂ぐることを得たるなるべし。只支那は其の毒々しき排外宣伝の遂行に依り妨害せられたり。右宣伝は特に2方面に於いて実行せられ其の結果現在の紛争を惹起せる雰囲気の醸成を誘導せり。即ち第7章に記述せる経済的「ボイコット」の利用及諸学校に対する排外宣伝の注入之なり。

 1931年6月1日発布せられたる支那の臨時約法には「三民主義は中華民国に於ける教育の基本的原則たるべし」との規定あり(「人民の教育」の章、第47条)。孫逸仙の思想は恰も従来古典の有したる権威を持つが如きものとして今や諸学校に於いて教授せられ孫先生の遺訓は革命以前に於いて孔子の教訓が受けたると同様の尊敬を受けつつあり。然れども不幸にして青少年の教育にあたり注意は国民主義の建設的方面に対するよりも寧ろ其の否定的方面に注がれたり。諸学校の教科書を熟読する者は其の著者が愛国心を燃やすに憎悪の焔を以てし男性的精神の養成を虐待を受け居れりとの意識の上に置くことに努めたりとの印象を得。此の結果として学校に於いて植付けられ且社会生活のあらゆる方面を通して実行せられたる毒々しき排外宣伝は学生を駆って政治運動に従事せしむることと為り時には国務大臣其の他の官憲の身体、居宅又は官庁の襲撃又政府の転覆を図るが如き事態に立至らしめたり。斯くの如き態度は有効なる内部的改革又は国民的素質の改善を伴はざりし為諸外国を驚愕せしめ現在諸外国の唯一の保障たる諸権利の放棄を益々躊躇せしむるに至れり。

 法律及秩序の維持の問題に関連し現在支那に於いて交通通信の手段の見るべきものなきは重大なる障害なり。国家の軍隊を迅速に輸送すべき交通及通信の便が充分に備わるに非ざれば法律及秩序の維持は假令全部に非ずとするも其の大部分は地方官庁の手に委せられざるべからず。而して地方官憲は中央政府の遠隔なる為地方的問題の処理にあたり自らの裁量に依ることを許されざるべからず。斯くの如き状態にありては独立せる考慮及行動は容易に法律の規矩を逸脱し其の結果地方は漸次私有の領地なるが如き貌を呈するに至る。地方の軍隊は其の指揮官に与するも国民に与せず。中央政府の命を以て一軍の指揮官を他の軍に転任せしむることは多くの場合に於いて不可能なり。中央政府が全国に亙り其の威令を敏速且永久に行う為の物理的手段を有せざる限り内乱の危険は存続せざるを得ず。

 支那の全歴史を通じ存在し且今日も支那のあらゆる地方に存在する匪賊の問題に対しても右と同様の考察を加えることを得。匪賊は支那に於いてかつて絶えたることなく政権は未だかつて之を掃滅することを得ざりき。適当なる交通及通信の便を欠きたることは政権が四囲の状況に伴い増減する此の害悪を艾除することを得ざりし理由の一なり。之に加はる他の理由は特に悪政の結果として支那に頻発せる地方的騒擾及叛乱に之を求むることを得べし。假令斯くの如き叛乱が無事鎮圧せられたる後に於いても叛民の投合したる匪賊団は支那の諸地方に於いて活動を継続せり。右は太平乱(1850-65年)の鎮圧後に於いて特に顕著なりき。近時に於いては給料不渡にして他に生活の途を樹つることを得ず且内乱に従事して掠奪に慣れたる兵卒も亦匪賊の源と為りたり。

 支那の各地に於いて匪賊を増加せしむるに至れる他の原因は洪水及旱魃なり。此等は寧ろ常規的に発生し常に飢饉及匪賊を随伴せり。問題は急速に増加する人口の圧迫に依り悪化せられたり。人口周密なる地域に於いては通常の経済的困難は更に増加し僅かに生命を支ふるのみにして不時の災厄に備ふるの余裕なき人民の間にありては其の生活状態の極めて些少なる悪化も多数の者を生活不能ならしむに至れり。従って匪賊は当時の一般的経済状態の影響を蒙ること大なりしなり。一賊は富裕なる時代又は地方に於いては減少せるも上記何れかの理由に依り生存競争深刻と為り又は政治的状態が撹乱せられたる場合に於いては必ず増加したり。

 匪賊が一旦ある地域に於いて其の勢力を確立するに至れる時は内地に於ける交通及通信の便欠如したるに依り之を実力を以て鎮圧すること困難と為れり。接近困難にして数哩を行くにも幾日かを要するが如き地方に於いて武装せる多数の賊団は自由に行動し出没を恣(ほしいまま)にし、其の居所及行動を知ることを得ざらしめたり。

 匪賊の討伐を永く放置し、しばしばありしが如く兵士も之と内応するときは水陸の路に依る交通は妨害せらるるに至る。此の如き事態の発生は只適当なる警察力に依りれのみ之を阻止することを得。奥地に於ては必然的に出没戦を惹起するが故に匪賊の討伐益困難なり。

 地方軍閥の私兵及全国に瀰漫する匪賊の集団は支那の内部的平和を撹乱するものなりと雖も此等は其れ自体として今や中央政権の権力に対する脅威たらざるに至れり。然れども此処に他の原因よりする此の種の脅威あり、即ち共産主義之なり。

 支那の共産主義運動は其の発生の初期に於いては知識及労働の2階級に限られ、1919年乃至1924年の期間に相当の勢力を得るに至れり。当時支那の農村地方は殆ど此の運動の影響を蒙らざりき。1919年7月25日の「ソビエト」政府の宣言は旧帝政政府が支那より「奪取」せる一切の特権を喜んで放棄すべきことを宣言せるものとして支那全国、殊に知識階級の間に好感を以て迎えられたり。1921年5月「中国共産党」正式に組織せられ宣伝は特に上海の労働階級の間に行われ、同地に赤色「シンジケート」組織せられたり。1922年6月の第2回大会に於いて当時党員三百を超えざりし共産党は国民党との合作を決議せり。孫逸仙は共産主義には反対なりしも支那共産党員を個人として入党せしむることには反対せず。1922年の秋「ソビエト」政府は「ヨッフェ」を首班とする一団を支那に派遣し孫「ヨ」両者の間に行われたる重要会談の結果、1923年1月26日の共同宣言と為り、右宣言に依り「ソビエト」政府は支那の統一及独立の為に其の同情と援助とを与ふべき旨の保障を与えたり。一方、共産党の組織及「ソビエト」式統治組織は当時の支那に於ける状態の下に於いてはこれを輸入すること不可能なる旨明瞭に声明せられたり。右協定に基づき1923年末迄に若干の軍事及政治顧問「モスクワ」より派遣せられ「孫逸仙の監督の下に国民党の内面的構成及広東軍の改革に従事したり」。

 1924年3月召集せられたる国民党第1回全国代表大会に於いて支那共産党は国民党に加入することを正式に承認せられたるが只之に対しては斯くの如き党員は以後「プロレタリア」革命の準備に参加すべからざる旨の条件附せられたり。斯くして容共時代開始せらるるに至れり。

 右時期は1924年より27年に及ぶ。1924年初期に於いて共産党員は2千名又赤色「シンジケート」は6万の会員を擁したり。然れども共産党員はまもなく国民党内部に於いて勢力を扶植し旧来の国民党員をして之に対し不安を感ぜしむるに至れり。右共産主義員に属するものを除く一切の不動産の国有、国民党の改組、共産主義に反対する一切の軍閥頭目の艾除、共産党員2万並びに労働者及農民5万の武装の如きもの迄も包含せられたり。然れども右提案は否決せられ為に共産党員は従前国民群の編成に最努力したるに拘らず国民党の企図する北方軍閥の討伐に対し援助を許与することを中止するに至れり。然るに後に至り右討伐に加わり北伐が中央支那に及び1927年武漢に於いて国民党政府樹立せらるや国民党要人がその軍隊の南京及上海占領に至る迄合作を肯せざるに乗じ同政府内の実権を把握するに成功せり。武漢政府は湖南及湖北の両省に於いて幾多の純然たる共産主義的施政を実行し国民革命は将に共産革命に転化せしめられんとするに至りたり。

 国民党要人は遂に共産党の脅威重大にして最早之を寛容し得ざることを決断し、自己の勢力が南京に確立せられ1927年4月10日、別個の国民政府、同地に組織せらるるや布告を発して南京政府は直ちに軍隊及行政部より共産主義を駆逐すべき旨命令せり。7月15日、従来在南京国民党要人との合作を肯せざりし在武漢国民党中央執行委員の大多数も国民党より共産党員を除去し「ソビエト」顧問の支那退去を命ずる決議を採択せり右決定の結果国民党は其の統一を回復し南京政府は広く同党の承認を受くるに至れり。

 容共時代に於いて数箇の軍隊共産主義に加担するに至れり。此等軍隊は国民党軍の北伐に際しては大部分河西地方に遺留せられたるが右軍隊を連絡し且国民政府に対し事を挙げんことを説得する為共産党員派遣せられたり。1927年7月30日、河西省首府南昌の駐屯軍は他の部隊と共に叛乱し人民に対し幾多の暴虐を行いたるも8月5日、政府軍の撃破する所と為り、南方に退去せり。12月11日、広東に共産主義者の暴動あり。同市は2日間其の手中に帰したり。南京政府は右2叛乱には「ソビエト」政府代表者の活発なる干与(原文のママ)ありたるものと認め1927年12月14日の命令を以て一切の支那駐在「ソビエト」連邦領事の許可状を撤回せり。

 内乱の再発は1928年乃至1931年の時期に於いて共産党の勢力に伸張に幸いせり。赤衛軍は編成せられ河西、福建両省に於ける広大なる地域は「ソビエト」化せられたり。中央政府が共産主義の鎮圧に力を用いることを得るに至りしは漸く1930年11月、即ち北方軍閥の強力なる連合を撃破したる稍後の事なり。共産軍は河西、湖南両省の各地に策動し当時2,3ヶ月の間に20万人の死者と約10億ドルに上る物的損害とを惹起したる旨報ぜられたり。此等軍隊は今や其の勢力強大と為り政府の第1回討伐軍を撃破し第2回の討伐軍を粉砕するに至れり。第3回討伐軍は総司令官蒋介石軍の指揮の下に数度の会戦に於いて共産軍を撃破し、1931年7月半に至る迄に共産軍の最も重要なる根拠地を陥れ共産軍は福建方面に総退却を行えり。蒋介石軍は共匪の蹂躙したる地方の再興を目的とする政治委員会を組織する一方、赤軍を追撃して之を河西省南西の山岳地帯に撃退せり。

 斯くの如く南京政府は将に主要なる赤軍をして活動の余地なからしめんとし居たる処、遇々支那の各地に各種の事件発生し政府をして其の攻撃を中止し、軍隊の大部分を撤退するの余儀なきに至らしめたり。即ち北方に於いては石友三将軍叛乱を起こし一方広東軍湖南省に侵入して右石軍に策応するあり之と時を同じくして奉天に於いては9月18日事件発生せり。此等の情勢に乗じ赤軍は再び攻撃を開始し討伐の戦勝に依り収められたる成果は幾何もなくして殆ど完全に失われたり。

 福建、河西両省の大部分及広東の若干部分は信頼すべき報道に拠れば、完全に「ソビエト」化せられ居れり。共産党の勢力範囲は更に広大にして揚子江以南の支那の大部分並びに揚子江以北の湖北、安徽及江蘇各省の諸地方に跨れり。

 上海は共産主義宣伝の中心と為れり。共産主義の個人的同情者は恐らく支那の各都市に発見せられ得べし。現在は2箇の共産主義地方政府が河西及福建に於いて組織せられたるに止まると雖も比較的小なる「ソビエト」組織は数百に達す。共産主義政府自体は地方の労働者及農民の会議に依り選挙せられたる委員会に依り組織せらる。右共産主義政府は実際は支那共産党の代表者に依り支配せられ居り支那共産党は其の目的の為に訓練せられたる人員を派遣し而も其の派遣人員の大多数は曩に「ソビエト」連邦に於いて訓練せられたるものなり。

 支那共産党中央委員会の支配下にある地方委員会は先ず省委員会を支配し、省委員会は更に県委員会を支配す。斯くして工場、学校、兵営等、内に組織せられたる共産主義細胞に及ぶ。一県が赤軍に依り占領せられ其の占領が多少なりとも永久的性質を有すと認めらるるに於ては其の県が「ソビエト」化する為努力す。如何なる民衆の反対も恐怖主義に依り弾圧せらる。共産主義政府は上記の如くして建設せらるるなり。斯くの如き政府の完全なる組織は左記の組織即ち内政局、反革命主義者に対する争闘の為の局(「ゲー・ペー・ウー」)、財政局、農業経済局、教育局、衛生局、郵便及電信局、交通局並びに軍事委員会及労働者及農民取締委員会を包含す。斯くの如き精細なる政府組織は完全に「ソビエト」化せられたる県に於いてのみ存在す。他処に於いては比較的微温的なる組織なり。行動綱領は債務を放棄し並びに私の大地主又は寺院、僧院、及教会の如き宗教団体より強力を以て接収せる土地を「プロレタリア」及小農に分配するにあり。課税は簡単化せられ農民は其の土地の生産高の一定部分を納付せざるべからず。農業改良の為灌漑、農村信用制度及組合を発達せしむる手段が講ぜらる。小学校、病院及調剤所も建設せらるることあり。

 斯くの如く最貧困なり農民は共産主義に依り驚くべき利益を得るに反し富裕及中産階級の地主、商人並びに地方紳士は即時没収又は徴収及罰金の何れかに依り完全に没落せしめらる。而して此の農業綱領を適用することに於いて共産党は群集の支持を得ることを期待す。此の点に関し其の宣伝と行動とは共産主義原理が支那の社会組織と衝突するの事実にも拘らず非常なる成功を勝ち得たり。圧制的課税より生ずる怨嗟の存在するを以て不法徴発、横領及兵卒又は匪賊に依る掠奪は極度に行わる。特殊なる「スローガン」が農民、労働者、兵卒及知識階級の為に特に夫人に適する様工夫せられて使用せらる。

 支那における共産主義は「ソビエト」連邦以外の多数の国に於けるが如く既存の政党員に依りて支持せらるる政治上の主義にも非ず。又他の政党と権力を争う特別の党組織にも非ず。支那共産主義は国民政府の事実上の競争相手と為れり。支那共産主義は其の独自の法律、軍隊及政府並びに其の行動の特別の地域的分野を有す。此等の事態に関しては他の如何なる国に於いても比較すべきものなし。加之支那に於いては共産主義の戦闘に依り生ぜる混乱は、国家が国内改造の重大時期を経過しつつある事実に依り一層重大化せられ更に最近の11月間の例外的重大性を有する対外危機に依り一段と複雑化せられたり。国民政府は共産主義の勢力を利用し各県の支配を再び得て一度此等の各県に於いて其の権力を回復したる暁には経済的更生の政策を遂行せんと決心したるものと認めらる。然れども既述の国民政府の地位を弱めたる内外の困難を別とするも軍事行動に於いて国民政府は資本の欠乏と不完全なる交通とに依り悩まされたり。支那に於ける共産主義の問題は斯くの如く国民的改造の大問題と関連する所あり。1932年夏、南京政府は重要なる軍事行動は赤色抵抗の徹底的鎮圧を其の目的とする旨声明せり。軍事行動は開始せられ上記の如く再獲得地方の全般的社会的及行政的再組織を伴うべき筈なりしが現在に至る迄何等の重要なる結果も公表せらるるに至らず。

 日本は支那の最近接せる隣国に於いて且最大なる顧客なるを以て日本は本章に於いて既述せられたるむ法律状態に依り他の何れの国よりも苦しみたり。支那に於ける居留外人の3分の2以上は日本人にして満州における朝鮮人の数は約80万を算す。故に現在の状態に於いて支那の法律、裁判及課税に服従せざるべからずとせば之に依り苦しむ国民を最多く有する国は即ち日本なり。日本は其の条約上の権利に代わるべき満足なる保護が期待し得られざるに於ては到底支那側の願望を満足せしむること不可能なるを感じたり。日本の支那に於ける利益は特に満州に於いて著しきものある処他の大多数の国の利益が撤回せらるるの時機に際し更に顕著に主張せらるるに至れり。日本の支那に於ける其の臣民の生命及財産の保証に対する不安は内乱又は地方的混乱に際ししばしば干渉を行わしめたり。斯くの如き行動は痛く支那の憤激を買い特に1928年斉南に於いて起これる武力衝突に依り行われたる時に於いて然り。近年日本の主張は支那に於いては他の列国の総ての権利以上に国民的願望に対する重大なる挑戦なりと認めらるるに至れり。

 本問題の日本に及ぼせる影響は列国以上に大なりと雖も日支間のみの問題には非ず。支那は例外的権力及特権は其の国民的栄誉及主権を侵害するものなりと感ずるの故を以て此等の特権を直ちに還付することを要求す。諸外国は支那に於ける状態が此等諸外国の国民の保護に充分なるに至らざる限り右支那側の希望に応ずることを躊躇せり。蓋し此等外国人の利益は特別の条約上の権利に依り獲得せらるればなり。

 本章が記述せんと試みたる過渡期に於いて不可避なる擾乱過程は世論の力を発達せしむるに至り此の世論の力は恐らく中央政府が国家の統一と改造とを安成するに失敗して弱められ居る限り其の外交政策の遂行にあたり中央政府を困却せしめるものなるべし。外国関係に於ける支那の国民的願望の実現は内政の分野に於いて近代的政府の機能を発揮する能力の如何に基づくものなり。而して此等の機能の齟齬が除去せられざる限り国際的軋轢及事件の発生の危険「ボイコット」並びに武力干渉は継続せらるべし。

 現在の国際的軋轢の極端なる事例は再び支那をして国際聯盟の干渉を求むるの余儀なきに至らしめたるか若し満足なる解決が達成せらるるに於いては支那をして1922年華府に於いて有益なる結果を持って着手せられたる国際協力の政策の利益を覚知せしむることを得べし。現在支那は其の国民的改造を援助を籍らずして完成するに必要なる資本をも、訓練せられたる専門家をも有せず。孫逸仙博士自身も此の事実を認め現に同国の経済的発展に対する国際的参加の計画を作成せり。国民政府も亦近年其の諸問題の解決に於いては1930年以来財政問題に於て、1931年国民経済委員会の組織以来国際聯盟技術委員会と連絡して経済的計画及発展に関する問題において並びに同年の大洪水に依り蒙れる被害救済に於いて国際援助を求め且之を受諾せり。国際協力の此の行路に従い支那は其の国民的理想の達成に向て最確実にして最速なる進歩を為すべく而して斯くの如き政策は諸外国にとり中央政府の求むる所のものを与えて世界列国との平和的関係を危殆ならすむるの処ある軋轢のあらゆる原因を能う限り速やかに且有効に除去することに於て援助を与えることを一層容易ならしむべし。

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