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証言の意味するもの・・・谷川健一(続)

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pipopipo555jp

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中公新書256
名嘉正八郎・谷川健一編
沖縄の証言(上)
庶民が語る戦争体験
中央公論社刊
昭和46年7月25日初版
昭和57年2月1日5版

  • 長い文章なので、章立てと小見出しを転載時に付加しました(以下※印)。そのキャプション語彙も私の責任です。この民俗学者である谷川健一氏の解説は、大書「沖縄県史」を紐解くガイドとして極めて有効だと思われるので転載しました。なぜなら、200ページ余りの新書版には収めきれない証言・戦史を反映しようと、熱を込めて書かれた一文だからです。 by pippo

証言の意味するもの(解説)・・・谷川健一

(一 沈黙という岩盤)※

(二 沖縄の戦況)※


(三 沖縄住民にとって友軍とは)※


聖戦の名の下に皇軍兵士がどのような仕打ちをしたか。それは本書に語られている。誇張も形容詞もたいだけに、恐ろしい真実がむき出しになっている。

「友軍」は沖縄住民の最後の住家である壕と食糧とを奪い、壕の中のいたいけな幼児を虐殺した。それだけでなく、スパイ容疑で、おそらく数百名におよぶと推測される沖縄人の非戦闘員を惨殺した。たとえぼ慶良間諸島の阿嘉島では、米軍が上陸したときに逃げおくれて米軍につかまったおじいさん、おぼあさんは、その一週間あと、日本軍に切り殺された。

これらはすべて断末魔の錯乱、終わってしまえぼ、よみがえらせる必要もない一場の悪夢にす
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ぎなかったのであるか。スバイ容疑として惨殺されたものの記録を見ると、日本軍に協力しようとして、その善意がかえってあだとなった場合が少なくない。

日本軍は沖縄住民の善意の行為すら理解できないほど眼がくらんでいたのだろうか。いな、それは本土日本人の幾世紀にもわたる氷のように冷ややかな沖縄住民への差別感、そしてそれにもとづく不信感が、沖縄戦において決定的に深淵をのぞかせた、ということなのだ。

ふりかえってみれば、薩摩藩(さつまはん)の琉球王国侵犯は間接的な支配形式をとっておこなわれた。それが中国との密貿易に都合がよかったためであるが、一方では、薩摩藩が「異民族」を従属させているという優越感をいだきたいためであった。つまり沖縄は、疎外される形で日本に同化を強制されたのである。それが明治十二年の琉球処分によって一変した。こんどは日本政府は、同化する形での疎外の政策を強行した。すなわち、皇国民化を強制し、沖縄固有のものを抹殺することによって、沖縄の住民を疎外した。結果はどうなったか。遠ざかろうとすれば引き寄せられ、近づこうとすればつき放された。それが日本本土と沖縄との関係の基本的なあり方であった。

戦後における日本政府と沖縄との関係もこれ以外の何物でもないことはこんにち明らかである。これを沖縄の側からみれぽ、徹底的に疎外されてしまうこともできなければ、本土との真の一体化も不可能なのであった。そして疎外されるものが、その疎外感を消し去り、克服するために、すすんで同化しようとする姿勢をもつことは、べつに珍しいことではない。

日本国民が総力をあげて戦おうとしたときに、沖縄県民もその一員に加わろうとした心情には、
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日ごろの疎外感を消減させる場が到来したという勇躍があったはずである。本土日本人が「生まれながらの日本人」であるとすれぽ、沖縄の民は「日本人になること」をすすんで意識しなければならなかったのだ。そのいじらしくもかなしい南島人たちにたいして、薩摩藩の琉球支配このかた三世紀半にわたって、いちども消えたことのない氷塊のような冷酷さが爆発したのだ。その冷酷さとはなにか。それは、沖縄の人たちは日本国家にたいする忠誠心をもたない異邦の民であるという不信の感情である。

さきにあげたようにスパイ容疑で惨殺されたものが、「友軍」に協力を示せぱ示すほど、日本軍から疑いの目をもたれたということは、その間の事情をはっきりとものがたっている。日本本土の同胞にたいしてならばさしひかえたような残虐行為を、なんの手心も加えることなく沖縄の住民にたいしてふるまった。

しかしそれは本土の日本人が沖縄の住民に示した強固な差別感情のあらわれにすぎないのだろうか。問題はそこにとどまることができない。沖縄住民に向かっては、米軍のほうが日本軍よりは人間的なゆとりをもってのぞんだということは、沖縄戦を体験した住民の証言がほぼ一致することだからである。つまり、一時的にせよ、同胞である友軍よりは異民族である米軍のほうがまだましだと沖縄の住民に思わせたもの――そこにあらためて問われなけれぼならない日本人の体質が存在する。

米軍の捕虜になれぼ、非戦闘員でも男子はみな殺しにあい、女子は凌辱(りょうじょく)されてはずかしめを
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受けるという考えが、自明のことのように日本軍の中に存在していた。この日本軍の考えこそは、中国大陸でおこなってきた日本軍自身の行為を表明したものにほかならなかった。「焼げ、殺せ、犯せ」を文字どおり実行した日本兵は、立場が逆転するにあたって、非戦闘員である沖縄の住民も中国の民衆とおなじ仕打ちを受けると思い込んだのもむりはなかった。

沖縄出身の者で中日戦争に参加して、日本軍の悪徳行為を目のあたりに体験していたものも少なくなかった。たとえぱ慶良間諸島の渡嘉敷島で、自決の場所の西山(にしやま)に住民を集めたのは駐在の安里巡査であり、また集団自決の場に立ち合ったのは古波蔵村長であった。安里巡査と古波蔵村長は中日戦争のとき現役でしかも同期であった。「シナ(中国)の野戦帰り」であったこの両人は、中国における日本軍の残虐ぶりをよく知っていたから、負けるとどんなになるかを推測したのである。

渡嘉敷島の住民も西山盆地に行くまでにほとんど死を決意していた。日本軍や沖縄出身の軍隊経験者を通して、捕虜になった場合の恐怖感が住民のあいだにみなぎっていた。そのうえ、彼らは戦時中の皇国民教育をいやというほどたたきこまれていた。

三月二十六日の朝、慶良間諸島の中の慶留間島では、米軍の上陸と同時に、壕に避難していた住民は、ひもやなわでたがいに首をしめあって、集団自決をした。命令がなかったばかりか、死のうという相談すらなかった。ただ米軍につかまったらむごたらしく殺されるから、捕虜になるよりは自決したほうがよい、それがお国のためである、ということを友軍からなんども聞かされ
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ていて、それを信じていたという。

慶良間諸島の座間味島でも阿嘉島でも、また問題の渡嘉敷島ですら、強制命令が出たということは認めがたい。とすれぽ、問題を個人の責任に帰することはできない。もとより赤松某の情状を酌量するつもりはない。米軍に頼まれて渡嘉敷島の日本軍に降伏を勧告にいった伊江島の青年男女は赤松隊にとらえられ、スパイ容疑というか非国民というか全員処刑された。

赤松の命令で処刑される寸前、日本刀を抜きはなった下士官が、「いい残すことはないか」と聞いた。そのうちの女三人が歌をうたわせてくれ、といった。「よし、うたえ」といいおわらぬうちに、女たちは荘重な「海ゆかば」をうたったといわれる。赤松の指揮する日本軍の手で殺されたのは渡嘉敷島だけで十名にのぼる。久米(くめ)島では悪名たかい鹿山兵曹長のかずかずの住民惨殺がある。

だが沖縄戦におげる戦争責任の間題は、赤松大尉や鹿山兵曹長などひとにぎりの人物たちに悪玉の役割を負わせて、それで解決されるものではない。問われるべきは、日本軍の行動とその裏側にある日本人の体質である。沖縄戦において、非人間性(ヒューマニズムの底の浅さ)をみごとに暴露した本土の日本人は、沖縄人にたいして「醜い日本人」であるぼかりではない。存在それ自体として「醜い日本人」なのである。

沖縄の住民はみずからの土地、みずからの血であがなうことによって、そのことを証明したのである。いかなる美名を冠しようと、家や畑や農作物を焼き、道路や橋をこわし、人間や家畜を
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殺す戦争と、生活者であり生産者である民衆との関係は矛盾する。この矛盾を知った上で、あえて戦争を遂行しようとすれば、徹底して民衆の側に立つべきである。日本軍が沖縄戦において住民の不信を買ったのは、彼らがその最後の瞬間において民衆と敵対する存在としての立場をみずからの行為によって明らかにしたためであった。沖縄の住民は決定的瞬間に、本土日本人の冷酷さをみとどけた。日本帝国の軍国主義は、沖縄本島の南端の断崖の上に立たされたとき、その本質的な醜さを暴露したのである。

おそらくこのことは、現在おこなわれているベトナム戦争を想起せずにはおかないだろう。そこでは生活と戦争とが日常のこととして入りまじっている。生活の中に戦争があり、戦争の中に生活がある。それは破壊と生産とが同時に進行する地域である。沖縄戦においても住民は食糧を確保するために、米軍から射殺される危険をやむをえずおかした。このような状況下の住民にとって、だれが自分たちの味方であるか、だれがそうでないか区別するのは、まぎらわしいことではない。

では沖縄の住民は日本軍に不信をいだいたとすれば、米軍にたいして期待をいだくことができたのであるか。

沖縄の女たち、とくに若い娘は、かたっぱしから米軍の強姦の対象となった。もしかたわらの男が救い出そうとして手を出すと、米軍兵士はいやおうなしに撃ち殺した。米軍兵士がむりやりにつれていこうとする娘たちにとりすがって泣く母がいた。その母に向かって、娘たちは「お母
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さん、私たちを産んだとは思わないでください。忘れてください」といった。凌辱されないまでも、米軍病院で下腹部の治療を受けていた女子学生が、米軍兵士の環視の的になってさらしものになるのを恥じ、クレゾールを飲んで自殺するということも起こった。沖縄の大地をおおう戦争は、あらゆる悲劇をのみこみながら、無慈悲に進行した。その最大の犠牲者はつねに名もなき庶民であった。



(四 戦争とはなにか、日本人とはなにか)※


本書を読むときに、沖縄の住民だけがこれほどの惨禍を受けなければならない理由とは、そもそもなにか、という疑間がわいてくるであろう。本土決戦を防ぐために、沖縄が犠牲にならねばすまなかったというのであれば、それにたいして戦争遂行者、もしくは戦後の本土の政治家は、どれだけ礼をつくしたか。礼をつくすほどのことではない、ということであれば、それでは沖縄の苦難がいかなるものであったかを、住民自身が語るこの体験記録をどのように否定するか。よし、いかなる支配者が否定しようとも、白分の血であがたった記録は残る。彼らの血のしみついた大地と共に。永久に。

沖縄本島の住民のうち三人に一人が死に、島尻に逃げた人びとのうち二人に一人が死んだ。そして、かろうじて生き残った者たちの場所が、南島のやせた珊瑚礁(さんごしょう)の大地の象徴である自然洞窟であり、また先祖伝来の骨を納めた風葬墓であったという事実は、沖縄の住民の生命を守ったものが沖縄の風土と伝統以外の何物でもなかったことをものがたっている。
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この非戦闘員による沖縄戦体験記こそは、戦争とはなにか、また、日本人とはなにか、という問いをもっとも痛切に訴えている。この証言者の記録をもとにして、戦争責任論は新しく始められるであろうことは疑いない。

谷川健一

この解説を書くにあたって次の戦記を参考にしたことを付記する。
『沖縄方面陸軍作戦』防衛庁防衛研修所戦史室著、朝雲新聞杜
『日米最後の戦闘』米国陸軍省編、外間正四郎訳、サイマル出版会

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(おわり)


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