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WILL11月号藤岡論文

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【雑誌WILL十一月号・原稿】
〈沖縄集団自決訴訟〉

完全に破綻した母・宮平貞子の証言

藤岡 信勝


九月九日、沖縄集団自決冤罪訴訟(岩波・大江裁判)の控訴審第二回口頭弁論が大阪高裁で行われ、即日結審した。判決の言い渡しは十月三十一日午後二時と指定された。被告勝訴の一審判決(三月二十八日)後、原告が控訴した四月二日から判決まで七ヶ月で、二年半かかった一審に比べて異例のスピード審理となった。

控訴審では二つの争点が存在した。一つは、名誉毀損の成立要件に関する法理論上の争点で、原告は「真実性」と「真実相当性」の解釈について、最高裁判例の分析をもとに原審判決の理解の誤りを突いた。もう一つは、集団自決の原因についての「隊長命令説」の是非に関わる事実関係をめぐる争点である。私見によれば、どちらの争点についても、原告が被告を圧倒した。

特に、事実関係を巡る争点では、「宮平証言」の信憑性をめぐり、結審直前の一ヶ月間に双方から文書と証拠資料が次々と提出され、激しい論争が展開された。私はこの論争に深く関わる結果となったので、その内容を立ち入って報告し、被告の論拠が無残に崩壊した次第をご覧に入れたい。


●宮平証言との出合い


私は一月二十六日、旅行社が企画したツアーの参加者の一員として座間味島をフィールドワークしている時、偶然に新しい証言者・宮平秀幸(78歳)に出会った。その証言の新しさのポイントは、(1)一九四五年三月二十五日の夜、座間味島の本部壕で梅澤裕隊長が、自決用の武器弾薬を求めた村の幹部に対して、その提供を拒否しただけでなく、自決のために忠魂碑前に集まった住民を解散させるよう「命令」していたこと、(2)その「命令」を受けて野村正太郎村長が忠魂碑の階段に立ち、住民に解散を命じていたこと、の二点に要約される。

宮平はどちらの場面にも立ち会い、自分の目で直接に目撃していたのだが、隊長命令説をタテマエとして戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用を受け、長年、国から援護金を受給されてきたという事情を抱えた村の同調圧力のため、今まで証言することができなかったものである。集団自決冤罪訴訟が始まった時期の三年前に、実は原告梅澤の紹介で弁護団が宮平に面会している。「法廷で証言できないか」という弁護団の打診に対して、宮平はその時は「そんなことをしたら殺される」という強い表現で拒絶していた。

宮平が「本当のこと」を語ろうと決心したのは、昨年秋のことだった。皮肉にも、集団自決をめぐる教科書検定問題で、沖縄が行政ぐるみの大騒ぎを演じたことがきっかけとなった。このままでは、全くの「つくりごと」に過ぎない「軍の強制による集団自決」という歴史の嘘が教科書に定着しかねない。

危機感をもった宮平は、意を決して沖縄のメディアに電話をかけた。沖縄タイムスにも琉球新報にも、「集団自決について本当のことを教えてやるから島に来い」と言った。地元のテレビ局には、知り合いの伝手を通して、幹部に連絡した。東京の政党関係にも働きかけた。ウミガメ保護の環境問題に理解を示してくれた公明党の浜四津敏子がいる党本部に電話した。結局、どこからも何の反応もなかった。

一月二十六日、私たちの一行と出会ったことは、宮平にとって真実を語る決意を固めてから、初めて自分の話を真剣に受け止めてくれる聞き手を得たことを意味した。同日午後、ホテルで急遽聞き取りの場を設定したいがどうかと提案した時、宮平は「ありがたいことだ」と、私たちに対する感謝の言葉を口にした。

沖縄のメディアに全く無視されてきた宮平証言を歴史に残すためには、記者会見を開いて広く社会に表明しておく必要がある。そこで、私は宮平と相談して、三月十日、那覇の県庁記者クラブで記者意見を開いた。こうしておけば、たとえ地元のメディアが無視しても、記者会見を開いて証言を公表したという事実は残るのである。それは将来、大きな意味を持ち得る。

はたせるかな、宮平の記者会見を、地元の沖縄タイムスと琉球新報はただの一行も報道しなかった。ただ、NHKと民放の一局がローカル枠のニュースで短く報じた。情報封鎖の一角は破れたというべきである。


●二つの攻撃材料


記者会見の翌日、沖縄タイムス編集委員の謝花直美の講演が那覇市内のホテルであった。私はその場で宮平証言を黙殺する同紙の報道姿勢を糾した。それには答えず、謝花は『座間味村史・下巻』に掲載されている秀幸の母・貞子の証言と宮平証言が食い違うと言った。

『座間味村史・下巻』(1989年刊行、75ー79ページ)には、「死んではいけない」というタイトルで貞子の証言が収録されている。証言者名は「宮平貞子(ウルンメーグワー 当時四五歳)」としてある。

私は宮平に電話し、村史にある貞子の証言を読んでみるよう依頼した。全三巻からなる『座間味村史』は秀幸の家にもあったが、実は母・貞子の証言をまともに読んだことはなかったということだった。一読して電話をしてきた秀幸は、第一声で「おばあ(貞子)は、とんでもないつくりごとを言っている」ともらした。

そこで私は、宮平に電話で取材し、昭和20年3月25日の夜、宮平家の壕と忠魂碑の前で起こったことをさらに詳細に聞き出して記録するとともに、村史掲載の貞子の証言についてその誤りを指摘してもらい、文書にまとめた。これをさらに宮平にチェックしてもらい、私が会長をつとめる「新しい歴史教科書をつくる会」のFAX通信として3月14日に公表した。タイトルは、「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について(補足)」とした。

その後、三月二十八日、大阪地裁で被告勝訴の判決があった。終了後、法廷から出てきた私に、沖縄タイムスの吉田啓記者が、「宮平は本田靖春のルポでは自分の家の壕にいたことになっている」と言った。吉田は『小説新潮』一九八七年十二月号に掲載された本田靖春のルポ「座間味島一九四五」に登場する宮平の当時の証言内容を問題にしたのである。

私は、控訴審で被告が宮平証言の信憑性を攻撃してくるに違いないが、その際、母・貞子の証言とのズレや、本田ルポにおける宮平自身の証言とのズレを問題にしてくることは必至だと予測した。そこで私は、沖縄タイムスの記者たちが問題にしていた二つの文献について詳細に分析した。そして、宮平秀幸証言とのズレは、村の同調圧力のもとで真実を語れなかったという事情によって説明がつき、それらの文献が宮平証言の信憑性をいささかも損なうものではないことを論証し、意見書としてまとめて原告弁護団に提出しておいた。

●貞子証言絶対化の動機


七月下旬、案の定、岩波・大江側は、他の論点に先立って、原告の控訴理由書にある宮平証言を問題にし、その信憑性を攻撃する準備書面を提出した。被告は、

(1)村史の貞子証言
(2)本田ルポにおける宮平証言
(3)一九九二年制作の記録社のビデオ作品に
登場する宮平証言

の三件を持ち出した。そして、(1)については、宮城晴美の陳述書が添えられ、(3)については、ビデオ作品のDVDとその反訳文全文まで添付されていた。

しかし、すでに述べたように、私は、(1)と(2)については、完全に反論の準備をすませていた。原告弁護団は、私が提出しておいた7月28日付けの意見書をそのまま反論として裁判所に提出する方針を決め、それに加えて、私がまだ意見書で取り扱っていない被告の論点について、再度の意見書の提出を求めた。この課題を果たすため、私は八月五日から七日まで那覇に出張し、調査と関係者の陳述書のとりまとめを行った。それをもとに、八月二十八日付けの「意見書(2)」をまとめ、裁判所に提出した。

そこで、被告が宮平秀幸証言の信憑性を否定するためにどのような論点を押し出し、それを私が二つの意見書の中でどのように粉砕したかを、最も重要な争点である村史の貞子証言の問題に限定して紹介したい。

村史の貞子証言は長いので、そのうち、宮平家の壕で起こったことについて述べられた最初の部分だけを引用する。■以下のタイトルは便宜のため私がつけたものである。

■宮平家の壕にて(貞子)
【夫が外地で兵隊にとられていたもんだから、当時は私が一家の中心になっていました。七○歳前後の舅と姑、それに二十三歳の長女、十五歳の三男、五歳の娘、三歳の息子の六人をひきつれて壕にかくれていたんですよ。それが三月二五日になって、ものすごい空襲と艦砲でしょう。特に夜になって、あまりに艦砲がひどいもんだからどうしようかと思っているときに、「お米の配給を取りにくるように伝令がきたので、行こう」と、前の壕の人が合図にきたんですよ。私の壕はシンジュの上のほうにあって、奥まっていたもんだから、ウチの所まで伝令は来てないんです。

お米を取りにきなさいと言われて出ていこうとしたら、とても歩けない。このままでは生きられないと思ってね、燃え続けている木々の間をぬって家族全員、移動をはじめました。後でわかったことですが、その頃、ほとんどの家族が忠魂碑前に行ったそうですが、私の家族の所には、さきほど言ったように、伝令が来なかったので、忠魂碑前に集まれというのがわからなかったわけです。もし、伝令を受けていたら、真先に行って玉砕していたかも知れません。それを知らなくて自由行動していたんです。】

この記述を根拠に、7月31日付けの被告準備書面は次のように書く。

〈昭和20年3月25日は、70歳前後の夫の父母、23歳の長女、15歳の三男(秀幸)、5歳の娘、3歳の息子をひきつれて自分の壕に隠れており、夜になって米軍の艦砲射撃が激しくなり、前の壕の人が、「お米の配給を取りにくるように伝令が来たので、行こう」と合図に来たので、家族全員で壕を出て移動し、整備中隊の壕、御真影避難壕、第三中隊の壕などを逃げ回り、3月26日の夜明けに自分の壕に戻ったものである。この間、三男(秀幸)は祖父母の手を引くようにして歩いた。貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない。〉

これは被告による貞子証言の要約であり、その最大のポイントは、(1)秀幸が家族とともに壕にいたこと(従って本部壕には行かなかったこと)、(2)秀幸の家族は忠魂碑前に行かなかったこと(従って、忠魂碑前で村長の解散命令を聞いたという秀幸の証言は信用できないこと)にあるとみることができる。つまり、貞子証言に依拠すれば、宮平証言の二つのポイントをどちらも否定することが可能なのである。被告が貞子証言を絶対化しようとする動機はそこにある。


●壕で何が起こったか


しかし、子細に検討すると、貞子証言には内在的矛盾がある。すなわち、人間の行動として現実には絶対にあり得ないことが書かれているのである。

まず、順序として、同じ場面を秀幸はどのように証言しているか紹介しておきたい。三月十四日付けの「補足文書」で、秀幸は宮平家の壕の場面を次のように述べていた。

■宮平家の壕にて(秀幸)
【昭和20年3月25日夜の出来事について、前回の証言を補足します。宮平家の壕はシンジュというところにありました。私は戦隊本部の壕で伝令の任務についていて、家族とは分かれていましたので、忠魂碑前に集まれという村からの指示を直接聞いたわけではありません。忠魂碑前に行って家族と一緒になってから、母(貞子)と姉(千代)に聞いた話は次の通りでした。

夕方、村の役場の女子職員が伝令で来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことは出来ません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしましたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰って来れなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。

そのうち、防衛隊の漁労班に行っていた長男の秀信が、玄米のごはんのお焦げを持って来ました。それをみんなで食べるか食べないかのうちに、午後8時ころ、役場の伝令役の宮平恵達が壕のところに来ました。うしろには宮平ツルの姿も見えました。恵達が、「ほい、ほい、誰かいるか。僕は恵達だが」と声を掛けました。「はい」と母が返事をしました。祖父が「フカガリク[屋号]の恵達か?」と聞きました。恵達は、「はい、フカガリクの恵達です」と答えました。そして、「おじい、軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ。軍が殺してくれる。爆薬をくれるというから、アッという間に終わる。遅れたら自分たちで死ななければならないよ。遅れないように、ぐそうすがい[あの世に旅立つ時に着けていく晴れ着]を着けて来てください」と言いました。】

■『座間味村史』掲載の宮平貞子(母)の証言について(秀幸)
【『座間味村史・下』(一九八九年刊行)に証言が掲載されている宮平貞子は私の母です。母は、一九九三年八月に亡くなっています。私はこの母の証言をつい最近読みました。事実と違う、つくりごとが書かれているので驚きました。母のことを言いたくはありませんが、間違いは間違いとしてハッキリさせる必要があります。母の証言の明確な間違いは次の通りです。
  1. 千代姉がお米をもらいに行こうとして祖父に止められたのに、母の証言では家族全員でお米をもらいに出かけたことになっています。
  2. 恵達とツルが役場の伝令で来て、軍命だとして忠魂碑前に集まるように言ったのに、その伝令がなかったかのように書かれています。
  3. 家族は間違いなく忠魂碑前に行って、そこで長い時間過ごしているのに、忠魂碑前には行かなかったと書いています。(後略)】

●家族全員で米をとりに?


以下、この、母と息子の証言の食い違いについて、私の分析を述べる。

第一に、貞子の証言では、明示的にはっきり書いているわけでないが、家族構成を紹介したあと、役場の伝令の話になり、それから家族全員で出かける話につながるので、秀幸がシンジュの宮平家の壕に家族と一緒にいたように文脈上読めてしまうことは確かだ。しかし、秀幸は二十五日は家族と別々に行動しており、のちに忠魂碑前で家族と合流し、それから長時間行動をともにすることになる。貞子の証言ではその前後関係が混乱している。

第二に、貞子の証言では、秀幸の指摘するとおり、「家族全員でお米をもらいに出かけた」と読める。被告準備書面もこの点に関して、全く同じ読み取りをしている。「お米を取りにきなさいと言われて出ていこうとしたら、とても歩けない。このままでは生きられないと思ってね、燃え続けている木々の間をぬって家族全員、移動をはじめました」と書かれているからである。しかし、「家族全員でお米をもらいに出かけ」るのは、明らかに非合理的な行動である。

村当局が備蓄していた米は、産業組合の壕に保管してあった。配給の米を取りに行くということは、シンジュにある宮平家の壕から産業組合の壕に行き、配給の米を受け取って、またシンジュの壕に戻ることを意味する。その目的のために「家族全員」で出かける必要はまったくない。誰か大人が一人行けばよいのである。被告準備書面は、壕の中に家族7人がいたとしている。このうち、秀幸は実際は壕にはいなかったのだが、かりに秀幸が壕にいたと仮定しても、米をとりに行くべき人物は、貞子、千代、秀幸の誰か一人であるべきだ。

昌子と秀頼はまだ小さすぎて、この任務を課すのは無理であり、70歳前後の祖父母は、単に高齢というだけでなく、二人とも足が悪く、容易に歩けない状態にあった。被告がこの度提出した前掲本田ルポにも、祖父の次良について「リュウマチを患っていて、両脚を前へ投げ出した形でしか坐れず、歩行に困難が伴っていた」と書かれている。このような祖父母を含む、「家族全員」で弾雨の中を配給の米を取りにいかなければならない理由などあり得ない。被告準備書面は、こうした矛盾を含んでいることにすら気付かずに、貞子証言を絶対化しているのである。

第三に、貞子証言で、米を取りに行った家族がその後どうしたのかと続きを読むと、産業組合の壕に行ったことが全く書かれていないことに気付く。家族全員で米を取りに出かけたのなら、必ず産業組合の壕に行かなければならないのに、それが何も書かれていないのだ。これは奇妙なことだ。この矛盾にも、被告準備書面は全く気付いていない。実際は、秀幸が忠魂碑前で家族と再会したあと、家族から詳細に聞き取ったとおり、米は取りに行かなかったのである。

秀幸は、三月十四日付けの「補足文書」の中で、この間の事情を次のように書いていた。関係箇所を再度引用する。

〈夕方、村の役場の職員が伝令で来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことは出来ません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしましたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰ってこれなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。〉

実際は、千代が米をとりに行こうとしたのを、祖父が止めていたのである。だから、宮平家からは産業組合の壕に米をとりに行った者はいなかったのだ。貞子証言に産業組合の壕に行ったことが書かれていないのは当然である。貞子証言には決定的な虚偽が含まれているからだ。貞子証言と宮平証言のどちらが真実を語っているか、あまりにも明らかだ。


●伝令は来なかったのか?


第四に、被告準備書面は、貞子証言に依拠して、「貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない」とのべている。貞子は壕が奥まっていたから伝令は来なかったとし、それを家族が忠魂碑前に行かなかったことの理由にしていた。

しかし、そもそも、宮平家の壕が奥まっていたから伝令が来なかったというのは、極めて考えにくいことである。伝令の恵達は、60あまりもある各家の壕を回るのに急いでいたことは確かだが、だからといって特定の家を省略するとは考えられない。まして、伝令の内容は部落全員で自決しようという村当局からの重大な呼びかけなのだから、ますます恣意的なスキップは考えにくいことになるのである。

「私の壕はシンジュの上のほうにあって、奥まっていた」(貞子証言)ということも、恵達たち伝令が秀幸の壕に来なかったとか、伝令が来たことに家族が気付かなかったとかという言い訳にはならないことを指摘したい。シンジュの壕の配置について私が秀幸から聴取したところによれば、畑に沿った土手に宮平初枝(結婚後、宮城初枝)の家の壕があり、そのすぐ上の段、初枝の壕から2メートルの高さのところに秀幸の壕がつくられていた。初枝の壕から秀幸の壕まで、歩くと5~6メートルの距離があったが、下の家の壕を訪ねた人の声は上の壕にも筒抜けに聞こえていたし、その逆も成り立っていた。

秀幸の壕は幅1.5メートル、奥行き3メートルほどの広さで、たいていは入口に貞子と千代が布団をかぶって寝ており、中間に祖父母、奥に小さな子供二人が置かれていた。恵達が来た時のことを秀幸が祖父から聞いたところによれば、恵達は秀幸の壕の入口までやってきた。壕の扉は、養蚕に用いる「まぶし」に木の枝を差した簡単なもので、恵達が外から扉をガタガタ揺すったので、内側から止めていたひもをはずし、祖父が顔を出して恵達と話をした。

貞子は忠魂碑前に行かなかったことの口実として、シンジュの壕の配置に言及したが、それは実態に照らすと全く説得力のないものであることが、以上の分析から明らかである。

●忠魂碑前に行ったか?

第五に、秀幸証言と貞子証言が決定的に食い違うのは、家族が忠魂碑前に行ったかどうかである。この点について、貞子証言は他の箇所とは異なる、一種奇妙なトーンで語られている。

《後でわかったことですが、その頃、ほとんどの家族が忠魂碑前に行ったそうですが、私の家族の所には、さきほど言ったように、伝令が来なかったので、忠魂碑前に集まれというのがわからなかったわけです。もし、伝令を受けていたら、真先に行って玉砕していたかも知れません。それを知らなくて自由行動していたんです》

家族全員で壕を出たのなら、普通はその先の家族の行動や体験を語るのが自然な話の流れである。ところが、「後でわかったことですが」と、突然説明的に語調が変わり、ここでわざわざ忠魂碑前に行かなかったことについて、その理由を言い訳的に述べている。それは、そもそも役場の伝令が自分の家の壕には来なかったから、というものだ。これが成り立たない理由であることについては、すでに述べた通りである。

いずれにせよ、このような文脈の乱れと文体の屈折は、貞子証言の採録にあたって何らかの作為や調整が行われた可能性を強く推認させる。村の中で貞子の置かれた立場は次のようなものであったに違いない。秀幸の言う通り、家族全員で忠魂碑前に行ったなら、村長の解散命令を貞子は聞いたはずである。それに言及することは村にとってタブーであることを貞子はよくわきまえていたから、安全策をとって、そもそも忠魂碑前には行かなかったことにする。しかし、役場の連絡を受けていながら行かなかったとすれば、役場に反抗したことになる。そこで、貞子の家にはそもそも伝令がこなかったという言い訳を考えたのである。

第六に、伝令が来なかったので忠魂碑前には行かなかったという貞子の言い分を仮に認めるとしても、今度は別の矛盾が貞子証言には生じる。

(千代が)米をとりに行こうとしたのだが、「出て行こうとしたらとても歩けない」ほど、米軍の攻撃は激しかった。祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰って来れなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めたほどだった。

こういう状況なら、家族のとるべき行動は、壕の中でじっと身を潜めている以外ではあり得ない。それなのに、貞子は、「このままでは生きられないと思って」、家族全員壕を出て、「燃え続けている木々の間をぬって」移動するという「自由行動」を始めたというのである。これはあまりに不自然で説明がつかない。壕の中にじっとしているとどうして「このままでは生きられないと思う」ことになるのか。貞子が述べていることは、一家が、わざわざ弾雨の中を、弾に当たる危険をおかし、足の悪い祖父母を伴って壕の外に出ることの理由の説明にはまるでなっていない。

第七に、右の矛盾に対する唯一の合理的な解決は、それほどの危険を犯しても壕を出なければならない特別の事情があったとすることである。それは、集団自決のため忠魂碑前に集合する、という目的以外にはありえない。貞子が「忠魂碑前に行かなかった」というのは、村のタブーをおかさないようにするために貞子が予防線を張った虚偽の証言であったと考えざるを得ない。

あるいはそのように、村当局から説得されたのかもしれない。三男の秀幸が、本部壕での梅澤隊長の解散命令と忠魂碑前での村長の解散命令を聞いたとする証人になり得ることを村当局もよく知っていたのであろう。秀幸は村当局にとって、いわば「危険人物」だった。それだけに母の貞子が忠魂碑前に行かなかったことにしておく強い動機が存在したと思われる。そうでなければ、貞子がこれほど支離滅裂な証言をしてまで事態を取り繕う動機が説明できない。

八月七日付けの宮平秀幸陳述書には、「母はテ―プに証言を吹き込む取材を受けた時、『そこは、ストップ』、『はい、戻って』などとくり返され、終わって帰ってきてから『ああ、疲れ果てた』とこぼしていました」という一節がある。何が行われたのか、おおよそ推測がつくように思われる。。

●昌子証言で万事休す


以上の通り、村史の貞子証言には、解消することが不可能な内在的矛盾が含まれていて、それ自体全く信用できないのだが、宮平証言とどちらが正しいか最終的に決着させるには、証言の外部の事実とつきあわせればよい。

例えば、壕を出た時の家族の服装を確かめるのである。家族が正装していたのなら、忠魂碑前に自決を覚悟で死装束で出かけたことになる。単に空襲を逃げ回るために正装して出かける人はいないからである。

壕を出た秀幸の家族の中に、当時六歳の昌子がいた。私は昌子に証言を依頼した。六歳(より正確には、当時昌子は五歳十か月)の子供でも、家族の服装くらいは記憶しているかもしれないと私は期待した。実のところ、私が期待したのはそこまでだった。

ところが、驚くべきことに、昌子は、三月二十五日夜の出来事の大筋を記憶していて、証言してくれた。印象深い深刻な体験だったのであろう。七月十五日、昌子は自身の体験談をテープに録音し、私あてに郵送してくれた。以下は、その中の主要部分を文字に起こしたものである。なお、これと同一の文書を作成し、昌子の署名と捺印を得て、のちに陳述書として裁判所に提出した。

■壕を出てから忠魂碑の前で起こったこと(宮平昌子、当時6歳)
【暗くなってから、私たちが入っている防空壕の前へ大人二人が来て、一人はおじさん、もう一人は女の人でした。「マカー(忠魂碑のある地名)の前へきれいな着物を着て早く来なさい」と呼んでいました。おじいさんとおばあさんも、私も弟もきれいな着物を着けて、お母さん、お姉さんも着けて、マカーの前へ行きました。マカーの前には人がいっぱい集まっていました。私と弟を、母と姉がおんぶして連れて行きました。おじいさん、おばあさんは杖をついて行きました。私たちはマカーの広場のそばの小さなみぞに座っていました。兄さんが来ました。「千代姉さん」と呼んでいました。兄さんはおじいさんとお母さんと話をしていました。少したってから、大人の人たちが集まるように大声でみんなを呼んでいました。大人が「解散、解散」と言っておりました。(以下、略)】

昌子の証言には、(1)家族の壕に伝令が来たこと、(2)家族が全員正装して出かけたこと、(3)忠魂碑の前で秀幸と家族が落ち合ったこと、(4)大人が集まるよう呼びかけられたあと、「解散、解散」と言っていたこと、が含まれている。このうち、(4)が村長の解散命令に対応することは明らかで、ここで証言されている出来事の骨格は、宮平証言と完全に一致している。

以上の通り、貞子証言には虚偽が含まれているのであり、その貞子証言と矛盾することをもって宮平証言の信憑性を否定することはできない。それどころか、昌子証言とつきあわせるならば、むしろその信憑性はますます確実なものとなっているのである。

結審直前に、被告は私の二次にわたる意見書に反論する準備書面と、宮城晴美の第三の陳述書を提出した。しかし、右に指摘した論点については、何一つまともに答えることができない。当然である。

被告は、私の議論が宮平証言の矛盾の「辻褄合わせ」だと揶揄し、「逐一反論する必要はない」などと強がりを言っているが、そのもの言いは敗北宣言にほかならない。村のすさまじい圧力に耐えて懸命に頑張っている証言者・宮平秀幸とともに、私も控訴審での原告逆転勝訴の判決を当然のこととして期待している。
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