15年戦争資料 @wiki

宮平秀幸さん聞き書き調査記録2005年9月2日 午後12時半~午後1時

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
今日の訪問者 -

「宮平秀幸さん聞き書き調査記録2005年9月2日 午後12時半~午後1時

専修大学大矢根淳ゼミナール卒業論文PDFより


宮平秀幸さん聞き書き調査記録


□語り手:宮平秀幸さん
□聞き手:(引用者略)
□場所 :ペンション高月1階
□日にち:2005年9月2日 午後12時半~午後1時

  • &font(#0a0){(引用者注)藤岡信勝が意見書(2)で引用したのは、200年のゼミナール合宿の報告書。}

□宮城晴美さん『母の残したもの』


戦争当時晴美さんは、母親のお腹の中におり、晴美さんは母の体験や部落の人々の話を聞いて本を作る。宮平さんはもっと味の濃いもの、中身の濃いものを(家族が艦砲射撃にあったときの気持ちをギリギリまで)書くように言った。

晴美さんは、体験者たちの米軍による激しい艦砲射撃や爆撃の餌食になった過去を奥深くまで追求し、限界まで探る。しかし(体験者でない人は)脳裏に焼きついた体験はしていない。

同僚、兄弟、肉親、艦砲のえじきになったときにどんな状況になったか。限界の限界まで書く。本当に被害を受けた家族がかなしい、苦しいは苦しい、目にみえない悲しみを書けと宮平さんは語った。目に見えない悲しみ・苦しみが存在するそれが“感じる”ということ



□戦後の緯度線


戦後の緯度線。昭和20年。おじさんたちは、38度戦の戦いは見た。座間味に緯度線をもってくる。イラク戦争、宗教戦争、何を見出すか。戦前の沖縄には、そういう状態があった。今あるイラクでの戦争などは当時の座間味と一緒である。座間味でおきた戦争から考えてみるべきだ。人間の醜さ、まるでせみの抜け殻。



□戦前の教育


戦前、日本人は天照大神の子孫であるから自分や家族を犠牲にしてでも、日本を守らなければいけない。これを教え込まれた。

320度目玉の中に入ってきた心境。何を感じたかというと。死んでよかった、死ななければいけない。死んだら靖国神社へ行っただろう。本当にうらやましくて。生きている自分が、敵に捕虜になることは恥を受けることはあってはならない。

宮平さんは「死んでよかった」「死んでうらやましい」「死んで靖国だ」「なんで自分は生きているんだろう。くやしい。」と思っていた。

捕虜になっても「生きて虜囚の辱めを受けず」


□貧困の時代


明治、大正、昭和から貧困の時代。台風が来ると食べる物がなくなる。ソテツを毒抜きにして食べた。貝がとれるし、お米はとれる。雑炊を作って食べた。海で獲れた物を加工して那覇の市場で売る。

笑い話しかできない話だけど。(親が)山から木を切って下駄を作り学校に出してくれた。
今日から1年生、古ぼけた風呂敷に文具一式、帽子もないから丸ぼうず。入学式のとき、全員が同じだった。洋服を着ているのは役場の子供だけ、それでもお古。入学式の日に、学校に行くまでに下駄の鼻緒が切れて、泣きながら姉と登校したのが今でも忘れられない。

食事は芋とソテツ。豚の食べ物半分、人間が食べるもの半分、周囲も同じようなものだった。当時は大不況で子供は飢餓に苦しんでいた。しかし、鰹が取れた為、親は出稼ぎにいって、南洋からに仕送りで潤ったが、戦争でみんな壊れた。



□戦後復興


戦後すぐは、山から木を切って、村人全員で家を建てる。かやぶき屋根。昭和47年に日本復帰、道路が作られ、住宅が建てられる。日本の政府の恩恵を受けて、住宅資金を借りることが出来るようになった。島の人々全員で助け合う共同作業→「ゆいまーる」。

昭和39年ごろまでは近所づきあい親密、戦前は食べ物はなくて、ものがなかった時代。かきね越しであげてた。日本復帰して物が出回るようになって親戚が離れていく、みなぎりぎりの生活だった。経済格差によって貧乏人とは付き合えない。みな自分の財産・生活が大事。

  • 「肉のあまりは切って捨てることは出来ない。」*
身内は捨ててはいけないということ。肉=血縁。血縁は切ることは出来ない。

  • 「人の指は前に曲がる」*
人指は前にしか曲がらない。それは仲間を助ける為に前を向いているということ。

  • 「言葉はじんじけい」*
人はお金は大切に使う。人も同じように大切に使いなさいということ。
じん=銭 じんじけい=金使い

  • 「良い言葉を吐きなさい。」*
空に向かって唾を吐いたら顔にかかることから、良い言葉は良い事になって自分に返ってくる。悪い言葉は泥水のように悪い言葉になって返ってくるということ。



□座間味の戦争に関する文献


『鉄の暴風』骨は抜け落ちている。
『血塗られた珊瑚礁』関根さん書かれている。
『ある愛のかたち』(曽野綾子)なぜそうなったか。軍人の立場。慰安婦はどっちかというと、民間の立場。彼らは見習い看護婦として、連れてきた。どこの島かわからんが、ついたのが、座間味島(というような感じだったのではないか)。



□従軍慰安婦


日本軍は悪いことをした。座間味に連れてきた。何千、何万人連れてきた。
おおさこ中尉。慰安婦の係。おそらく3万、4万人。
フィリピン、シンガポール、ボルネオ、アジアの各地域に送っていた。

(宮平さんは)韓国のコピーを持っていた。厚生省からきた韓国の顧問弁護士が、座間味島にきた。宮平さんは、その書類を持って山に逃げた。

韓国慰安婦の食事、賃金が昭和19年9月に15000円、牛島からいけたにりゅうこうに振り込まれた。



□軍隊の駐留と『アネの言葉』


沖縄の人はたくさん働いても差別された。軍隊に行ったら、きちんと日常語話せるように、方言が訳されている。しっかり働いても本土の言葉遣いを知らないと上官に半殺しにされる。軍隊にどうせ行くんだから、上官とコミュニケーションをとるために、『アネの言葉』。おじいの世代からは、日本国民全体に対しては恨みはもっていない。

学校のグラウンド15回、周った。長靴(30センチの)を口にくわえさせられて、犬のまねをさせられた。屈辱だったが、軍の人々は神様だと思っていたので仕方が無かった。

「一等国民に入ったと思ったら大間違い」屋久島から八重山までは二等国民。朝鮮人、台湾人は三等国民。(本土から八重山までの図を書いて、本土と屋久島の間に線を引き、八重山から西に線を引いていた。八重山までは二等国民。その西は朝鮮人、台湾人と書いた)

「忘れてはいけないよ」梅沢隊長が言った。



□日本軍駐留後の座間味島


1944年座間味島、運動場に天幕。

昭和19年3月、Aさんは海軍航空兵、志願合格。対馬丸、780名亡くなった。昭和20年前に海上特攻隊が入ってきた。梅沢さんのもとで伝令員。



□座間味島の住民役割分け


在郷軍人会・・・明治からいる。満3年軍隊にいると、軍から退役して、入る。

婦人会・青年会・女子青年団

防衛隊の人・・・1945年の米軍上陸で亡くなっている。戦時中の防衛隊のほとんどが座間味の在郷軍人。



□日本軍の駐留、文宿


小沢義廣 部隊長 アカツキ第17188(1788?)部隊。(第32軍)牛島中将付の部隊。昭和19年9月1日慶良間諸島へ配置された。

渡嘉敷:赤松大尉(3中隊)海上特攻

阿嘉:野田大尉(3中隊)海上特攻

座間味:梅沢大尉(3中隊)

昭和20年、2月11日。建国記念日、紀元節。赤松、野田、梅沢、少佐になった。召喚した。昭和20年、2月10日迄。座間味島部隊長、特攻基地施設隊900名。小沢少佐が指揮した。その傘の下大隊が文宿した。

オオ隊:60名 屯中隊

サー隊:60名 一般兵役

ハー隊:60名 衛生兵

ヨー隊:60名 つるはし隊

シー隊:60名 整備中隊 内藤中尉 池谷少尉 日直室 3名 落合たけお軍曹

新米兵士いない。年寄り。30~40歳の年配者で構成。期して帰ってきた人。6.7回軍隊に入ってきた人。

座間味部落では第1~9班まで民宿(文宿の意味)。食事は軍がまかなう。昭和20年3月23日になったら、民宿から出た。各部隊編成。

整備中隊長は内藤中尉。小隊長は池谷少尉。日直室、軍の特別、機密取り扱い。落合タケオ軍曹、木崎ハルオ伍長、フジエカネヤス務保(千葉、神奈川の人。家族のお参りは一度もこない)



□流言について


文宿していた中に、古参兵が50名以上。つるはし隊や整備中隊に多く配属されていた。
南京大虐殺や満州事変の話をしていた。中国、昭和12年、7月7日関東軍が盧溝橋で、戦に加わった日本兵が、南京で大量の人を殺した。中国の人を「ちゃんころ」「ぽこぺん」と言った。頭悪い人にはその呼び名を言った。中国民を虐殺してきた兵隊がいた。敵につかまえられると、女だろうが赤ちゃんだろうがみんな殺される。子供は焼き殺される。女は若いものは将校のおもちゃにされる。年寄りは大事なところを。耳を鼻を切られる。敵に殺される前に殺されるか。だからアメリカもそう思っていた。こういう話をしてきたので集団自決が起こる。自分たちもそういう目にあう。


□武勇伝について


(大量虐殺があったといわれている当時)中国では、慰問会が行われた。喉自慢、お国自慢やダンスなど。しるこを食いながら。何ヶ月かに一回。慰安会に向けて、舞台の上で若い女の子(娘)とお父さんに首をくびっておいて、裸にしてSEXしなさいと。そのあと。衛生兵が捨てる。ワイヤーで女の人の足をくびる。これを朝、晩に民宿で話した。何名殺したと、首切るのも大変だった。着剣飲みこませて殺した。

民間人は聞きたくない、という。意思こうじのために話す。夕ご飯食べるとき、お昼ご飯食べるとき、「中国の話をするからきなさい」(住民たちは)軍人の話は聞きたい。(内容は)こりあんの畑で手足をしばって犯した。いい話はしなかった。日本人は日本人らしく、死のうとして殺された。集団自決につながる(死ぬのが当然だと思っていた)。



□在郷軍人について


支那事変から帰っていないため、在郷軍人はいない。



□米軍上陸当時の座間味島


女の人ばかり。赤ちゃんを窒息させて、死ということは何とも思わない。死んだ人がうらやましかった。一番迷ったのは、自分のおねえさん、お母さん。包丁もないし、日本兵の兵隊から借りたらいいけど、どこをさしたらいいかわからない。軍刀を借りてもどうやったら1発で死ねるのか。殺しそこなっても、苦しませてもいけない。最後はどっかのがけっぷちで突き落とそう。殺すしかない。自分も飛び込むしかない。

死は目の前に迫っているが、冷静でいる。こんなに苦しんで死ぬより、崖っぷちのほうがいいかも。母さんは「死のうか」宮平さんは「今日つかまえられなければ崖っぷちから、ふっとんで・・・」母「みんな死んでるよ」宮平さん「あわてるな」

逃げている途中に村の人(役職者)と会った。「死にきれないのか」と言われるが宮平さんは、私たちはいいが15歳、4歳、6歳の兄弟のことを思い、殺すんだったら一家族で死ぬ」と言った。その人から「やい臆病もの」と言われたが、「家族避難させますから」とその場を去った。

逃げている途中、今度は田村少尉と会う。田村中尉は士官学校出身の特別幹部候補生。艦砲射撃と砲弾のなか、「田村少尉」と声をかけると、「どこの家族ですか」と返答があった。「宮平の家族です」海上特攻2中隊の壕に裏からいれてもらった。食べたあまりだから、とみつまめの缶詰をもらった。これだけあればなんとか、と。お互い元気だったらまた会いましょうと、別れた。

本部の壕はからっぽ、海上特攻隊はもういない。海へはいけないので、山のほうへ逃げた。

戦後、毎年お酒とお米を昭和白鯨隊の碑のとなりにある田村少尉の碑のところへ持っていく。

  • (引用者注)ここでは、死に場所を求めて家族とにげまわる秀幸が語られている。藤岡が引用している2003年のゼミ報告集とは云ってることが違っている。本部壕で戦隊長の話をきいたとは言ってない。「首尾一貫している」(藤岡意見書(2)下に引用)とは逆のようだ。



□日本兵


士官学校、大学生たちは広島、えた島あたりで、特訓受けた人だった。一般の兵隊はわけわからんこと言っていた。軍の命令じゃなくて、つかまるよりは自分で死んだほうがいい。自主性を持って死んだ。ぼろをまとって死んでしまった。



□15歳で兵士として命をかけて戦うという気持ちは?(伊藤くんの質問から)


15歳で兵士として命をかけて戦うという気持ちは、その場所で、戦う場所がきたら今でも怖い。怖いけれども戦わなければ、自分は殺されるんだ。死にもの狂いで殺される。戦うメリットはなにもなかった。国を守りたい。ただ助かりたい。あとは何もない。その場を弾を撃って、敵を倒して、脱出して生きられるか、その後に家族をひきつれて座間味の海岸へ行った。

前はクジラ公園で200~300人くらい集めて話をしていた。役場はしようとしない。学校にそのような話を持ち込んでも、「時代が違う。」と言われる。



□南京虐殺の話について、みんなすごいなあと思って聞いていたのか?(白岩さんの質問から)


「そう」現人神。貧乏人が、神様、嘘でもまことでも、うのみにして聞いていた。軍人が虐殺したことを聞くと、日本の軍隊はすごいと思ってた。軍人は天皇の直属であり、今で言うと貧乏人がダイアモンドを拝むようなものだった。人を殺すのが偉い軍人だと思っていた。戦時教育だった。余計、士気高揚した。


<対照:藤岡意見書(2)より>


(2)専修大学で災害社会学を専攻する大矢根淳ゼミナールの学生8人は、2003年9月、座間味島で夏合宿し、宮平秀幸の案内で集団自決の調査を行いました。その報告書が同年10月29日付けで『ゼミナール報告書シリーズ(1)2003夏・ちゅら海の語るもの~宮平秀幸氏と歩く座間味島』と題して発行されました。その中で、次のように、2箇所にわたって3月25日夜の本部壕前の出来事についての秀幸の証言が記録されています。

 <17ページ>
3つの展望台から眺める座間味
 ~宮平さんの視点を感じ取る~
2003/09/08 晴れ 11:00~13:30くらい ポイントをバスでめぐる(参加者8名)

【宮平さん-当時15歳】
梅沢部隊長(注1)と行動を共にしていた。
●集団自決の相談(3月25日の夜)
 村長-野村正次郎
 助役-宮里盛秀、
 収入役-宮平正次郎
以上の三役(注2)が部隊長に集団自決の相談に来る(注3)。

部隊長「村長、助役。何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族、一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」
三人は壕を追い出された。

<22ページ>
歴史年表からは見えなかった、もう一つの歴史
~座間味・日本の歴史と宮平秀幸さんの自分史との比較~
【宮平秀幸さん-当時15歳】
梅沢部隊長と行動を共にしていた。
●3月25日の夜<集団自決の相談>
 村長-野村正次郎
 助役-宮里盛秀、
 収入役-宮平正次郎
以上の3人が部隊長に集団自決の相談にくる。この部隊長の側に宮平さんはいたといいます。

部隊長「村長、助役、何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」
3人は壕を追い出された。


目安箱バナー