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藤岡意見書(大阪高裁提出資料)3/3

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藤岡意見書(大阪高裁提出資料)3/3

平成20年7月28日
藤岡 信勝
PDFソース:http://www.jiyuu-shikan.org/pdf/ikensho.pdf




第三 本田靖春ルポにおける宮平証言との食い違いについての分析(つづき)



  上の本田の文章を私から送られたファックスで読んで秀幸は困惑したようだ。自分が語るはずのないことが、自分の言葉であるかのように書かれていたからである。深夜、高月で、本田にこのような話をした記憶がそもそもはっきりしないと秀幸はいう。しかし、本田がわざわざ意図的に取材源を秀幸であると偽って書く理由はないと思われるので、本田が書いている通りのシチュエーションで秀幸が証言したという前提で以下の検討を進める。

   最大の問題点は、本田の文章では、秀幸が家族とともに壕の中にいて、そこへ役場の「伝達員」が忠魂碑前に集まるようにとの伝令をもってきたように書かれていることである。実際はその時、秀幸は家族の壕にはいなかった。私は改めて三月二十五日の秀幸の行動を確認した。

  それによれば、次のとおりである。

  三月二十三日から始まった米軍の攻撃で秀幸は村中を裸足で飛び回った。二十四日の夜は日本軍の中隊の壕で寝たが、先日からの疲労が重なって元気がなく、その日は夕刻までそのまま中隊の壕で仮眠をとっていた。午後七時ころ、兵隊は戦闘準備に入り、秀幸は寝ているところを起こされた。金子上等兵は、明日いよいよ敵が上陸してくる可能性があるので、家族のもとへ帰ったほうがよいのではないかと勧めた。秀幸は迷った。そこへ木崎軍曹(当時は伍長)が来て、「家族の元へ帰って行きなさい」と言った。「はい」と答えて夕暮れに紛れて壕を出たが、高月山に登る道の頂上付近まできたところ、折しも猛烈な艦砲射撃に見舞われ、高月山の稜線を南に向かって進み、本部壕に転がり込むようにして避難した。その後、村の幹部が梅澤隊長に集団自決のための弾薬をもらいに来た場面に出会うのである。

  秀幸は、このようにして、三月二十五日は、一度も自分の家族の壕には帰っていなかった。だから、午後八時ごろ、宮平恵達とつるの2人が役場の集合命令を伝えに来たときには、秀幸は家族の壕にはいなかったのである。

  梅澤隊長が武器弾薬の提供を断り、村の幹部が引きあげる時、助役の宮里盛秀から秀幸は自分の家族もすでに忠魂碑前に集まっていると聞かされ、家族のことが心配で村の幹部の後について忠魂碑前まで来た。そこで家族と再会したのだが、当時十五歳の秀幸は、家族に会いたくて仕方がなかったので、窪地に母たちの姿を認めたとき、涙ぐんでしまったほどだった。こうした前後の経過から見ても、秀幸が二十五日は忠魂碑前で再会するまで家族とは会っていなかったことが裏付けられる。

  役場の伝令が壕に来たとき、秀幸が家族と一緒に壕にいたかのように本田が誤解した要因の一つは、秀幸がその場面をあまりに生き生きと語ってみせたので、当然当人がその場にいたものと錯覚したのだと思われる。

  本田ルポの中で秀幸の家族と役場の伝令員との会話が再現されているのは、忠魂碑前の窪地で家族から秀幸が詳しく聞き出した内容がもとになっている。秀幸は梅澤隊長が自決するなと命令していたことを知っていたので、役場の伝令員が壕を回ってどのように住民を説得したのか、強い関心をもって家族から詳細に聞き出した。先に引用した三月十四日付けの秀幸の「補足」文書でも、恵達が来たときの家族とのやりとりが、「ほい、ほい、誰かいるか。僕は恵達だが」と声を掛けると、「はい」と母が返事をし、祖父が「フカガリク[屋号]の恵達か?」と聞いた、というぐあいに、目に浮かぶように再現されている。このような話を聞けば、本田ならずとも誰しも語り手当人がその場に居合わせたと思い込むのは当然である。

  これは、語り手としての秀幸の話し方の特徴にもなっている。秀幸は場面を描写的に再現する語り方をする証言者である。極限状況の中での肉親の体験は、自分の体験と同じである。秀幸は、自分の直接体験であるかのように伝令が壕に来たときの家族の体験を語ったのである。

  秀幸の話し方にはこうした特徴がある反面、時刻についての記憶は揺れがあり、曖昧である。たとえば、梅澤隊長のもとに村の幹部がやってきた時刻を、午後九時頃としたり、十時頃としたりで揺れている。彼は時計を所持しておらず、月の高さでおおよその時刻を判断していたから、一時間程度の違いはやむを得ないだろう。もっとも、人間の記憶の中で、時間に関する記憶が最も曖昧になるという特性は誰にも共通することではある。

  また、強く印象に残っていること、自分が是非語りたいと思っていることが、文脈ヌキに語られるという傾向も強い。秀幸の取材を始めた当初、あまりにもビビッドに語られるので、私も彼がその場にいたのだと錯覚した経験をもっている。時間の前後関係も、二十五日のことなのか、二十六日のことなのか間違って理解していたということがあった。私は一月以降、電話での会話を含めて合計百時間をはるかに超えるほどの会話を秀幸と交わしている。だから、どの話はどの時点に位置づくのか容易に理解できるようになった。いわば「宮平語」にかなり通
暁したわけである。

  しかし、夜、数時間しかこの話を聞いていない本田が、意気込んで話す秀幸の話の位置づけを誤解したとしても決して責められることではない。また、時点と場所の確認を絶えず頭の中で脅迫的に遂行しなければならない宿命にある歴史研究者とは異なり、市井の人は、時間と空間を絶えず特定しつつ構造的に順序よく話をするというわけではない。時間と空間の位置づけが曖昧なまま印象的な場面を熱烈に語ってしまうという秀幸の語り方は、一般的な証言者の基準に照らして、特に欠点というべきものではない。むしろ、彼の映像的記憶に基づく的確で描写的な再現能力は特筆に値するというべきである。

  以上のことを踏まえて、本田の文章を検討しよう。本田の文章では、行文上、役場の伝令に対して秀幸が、「じゃ、死ぬのはどういうふうに死ぬのか、って訊いた」ことになっている。しかし、これは秀幸が訊いたのではなく、秀幸の家族が訊いたのである。

  秀幸は今回、本田ルポの記述を読んで、あまりのことに当惑し、本田は母・貞子に取材して聞いたことを書いたのではないか、文中「宮平さん」と書かれているいくつかの発言は、「宮平貞子さん」という意味なのではないか、という趣旨の感想をもらしている。しかし、私は、秀幸のこの推測は当たらないと思う。第一に、本田のような熟達したジャーナリストは情報源を読者が間違うような書き方は決してしないものだからである。第二に、もし、本田が実際に貞子に取材していたとしたら、当時の貞子は、「忠魂碑前には行かなかった」と証言したはずだからである。本田の座間味島取材は一九八七年、村史下巻の発行は一九八九年七月で、貞子への聞き取りはその前年か前々年あたりに行われと思われるから、時期的には重なるのである。

  「伝達員があわただしく引き返して行ったあと、彼は考え込んでしまった」というのも、本田による場面の再構成であって、「彼(=秀幸)」とは関係のない出来事である。この場面も秀幸は、家族に成り代わって、迫真的に語ったのであろう。目に浮かぶようだ。本田の誤解は確定的なものになった。なお、本田は、「三男である宮平さんが数えの十六歳にして一家の中心的存在になっていたのである」と書いているが、秀幸によれば、一家の中心はあくまで母の貞子で、この表現は当たらないという。

  「忠魂碑の前へは行かず、山に逃げ込めば生き延びる可能性もないではないが、それには命令違反のうしろめたさがつきまとう。しかし、宮平さんの気持ちは逃げる方に傾いていた。とはいっても、一人で断を下すには重すぎる問題である。いかにすべきかを、まず母貞子さんに問うた」。

  このあたりからは、(1)役場の伝令が来たとき、家族が忠魂碑前に行くべきかどうか逡巡したという話と、(2)忠魂碑前で村長の解散命令があったあと、秀幸を含む家族が、このあとどうすべきか迷ったという話が、入り組んで混乱している。前者は午後八時過ぎ、後者は午後十一過ぎの出来事である。

  右の引用箇所のあと、本田の文章では家族会議での各人の意見が一わたり紹介されている。しかし、秀幸が参加した家族会議は、宮平家の壕で行われたのではなく、村長が解散命令を出したあとの忠魂碑前で行われた。村長が解散と言ったので、忠魂碑前での集団自決はなくなった。しかし、それで家族にとって問題が解決したわけではない。それは、忠魂碑前での、村の幹部のお膳立てによる、軍からもらった爆薬を使った集団自決が取りやめになったことを意味するだけで、その後の行動は、家族単位で決めなければならなかったのだ。(このことは、改めて集団自決と軍の行動とが無関係であったことを証し立てるものでもある)

  すでに集団自決覚悟で晴れ着を着ていた秀幸の家族は、米軍の上陸が必至である以上、やはり自決するしかないと思いこんでいた。母・貞子は、米軍につかまって姉の千代が辱められることを一番恐れていたから、みんなで一緒に死のうと主張した。千代も同じ意見だった。祖父母は、足が弱って歩けないので、自分たちの家の壕に戻って死のうと言った。貞子と千代は、宮平宅に寄宿していた兵隊さんたちのいる整備中隊の壕に行って、顔なじみの兵隊さんに殺してもらうようお願いしようと主張した。結局、家族は貞子たちの意見に従う形で、祖父母の手を引いて、長時間かけて大和馬の整備中隊の壕に出かけることになった。このように、家族会議の末に、整備中隊の壕に出かけるという決断をした。

  忠魂碑前では、概略このような家族会議がおこなわれたのであるが、本田ルポの記述では、シンジュの壕の中で、忠魂碑前に行くかどうかの話に置き換わってしまった。それはどちらも、家族全体がどう行動するか、という行為の選択肢を吟味するという点で同型の構造をもった場面だったから、容易に重なったり、すり替わったりすることができたのである。実は、私も秀幸の話を聞いて同じ混同をしたことがあったので、事情がよくわかる。

  「いろいろと考えて、おふくろにこんなこともいってみたんです。母さん、死ぬのは簡単だけど、兄さんたちが生きて帰って来たときに、われわれが骨になっていたら、親きょうだいの姿もわからないというので、どんなに嘆くか知れない、とね。そうしたら、吹っ飛ばされたら、うちらばかりじゃなく、みんなそうなるんだから、って。じゃ、そういうふうにしようかということでーー」

  これは、二つの場面が複合した結果、話が複雑に絡み合った典型的な箇所である。傍線の部分は、私も何度か聞いていることで、秀幸の基本的な発想である。母の反論はみんな同じだからというだけで秀幸の提起した問題に答えておらず、結論のまとまり方も唐突で説得力がない。

  「宮平家の七人が忠魂碑の前に着いたのは、そろそろ午前零時になろうとしていたころであった」。

  秀幸の証言では、午後十一頃に村長の解散命令があり、その後も窪地の所で宮平家の家族は一時間以上も家族会議を開くなどしてぐずぐずしていたとされている。すでに述べたとおり、時間についてのズレはやむを得ない。本田ルポでは、このあと、忠魂碑前の住民の上に照明弾が投下され、それから十分とたたないうちに忠魂碑をめがけて艦砲射撃が行われたので、居合わせた人々は逃げ出してしまったという、村の公式見解と一致する話が語られている。

  ここで注目すべきことは、本田ルポには忠魂碑前での家族会議の話が全く出てこないことである。その理由は簡単で、忠魂碑前の家族会議の中身はすべてシンジュの壕での家族会議の話の中に吸収されてしまったからである。そして、そのようになった根本原因は、秀幸が村長の解散命令について完全に口をつぐんで語らなかったからである。

  秀幸が本田に秀幸のペンションで話をしたのは、本田が書いているとおり、取材を受けた日の夜十時ころから数時間であっただろう。その後秀幸は、本田の原稿を事前に見たわけではなく、活字になったものもこの度初めて読んだので、本田の文章の錯誤に秀幸が責任を負わなければならない理由はないのだ。

  沖縄タイムスにとっては、本田ルポをもとに、宮平証言は信用できないとキャンペーンを張りたいところであろう。また、今後、秀幸証言がマスコミの記事になるときは、必ず、「宮平秀幸は本田ルポで過去に違うことを言っているから信用できない嘘つきである」という類の攻撃をかけてくることは間違いない。しかし、それこそ、笑止千万というべきである。その論理は、長い間発言を封じられ、心ならずも嘘をつかざるを得なかった人物が、決心して真実を語ったとき、その内容の真偽ではなく、その人物が過去に虚偽を語っていたという事実をもってその証言がすべて信用できないと論じているのと同じだからである。(以上)



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