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宮平貞子『死んではいけない』

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座間味村史下巻(1989年)村内における戦争体験p75 

『死んではいけない』

宮平貞子
ウルンメーグヮー 当時45歳

 目次

(シンジュの家族壕で)


  夫が外地で兵隊にとられていたもんだから、当時は私が一家の中心になっていました。七〇歳前後の舅と姑、それに二十三歳の長女、十五歳の三男、五歳の娘、三歳の息子の六人をひきつれて壕にかくれていたんですよ。それが三月二五日になって、ものすごい空襲と艦砲でしょう。特に夜になって、あまりに艦砲がひどいもんだからどうしようかと思っているときに、「お米の配給を取りにくるように伝令がきたので、行こう」と、前の壕の人が合図にきたんですよ。私の壕はシンジュの上のほうにあって、奥まっていたもんだから、ウチの所まで伝令は来てないんです。

(壕を出て逃げさまよう)


  お米を取りにきなさいと言われて出ていこうとしたら、とても歩けない。このままでは生きられないと思ってね、燃え続けている木々の間をぬって家族全員、移動をはじめました。後でわかったことですが、その頃、ほとんどの家族が忠魂碑前に行ったそうですが、私の家族の所には、さきほど言ったように、伝令が来なかったので、忠魂碑前に集まれというのがわからなかったわけです。もし、伝令を受けていたら、真先に行って玉砕していたかも知れません。それを知らなくて自由行動していたんです。

(整備中隊の壕をたよりに)


  壕を出てずいぶん歩きまわったけど、これだけの艦砲ではどうなるかわからない。それにおじい、おばあは足が悪くて、やっと歩いている状態だから、兵隊さんに会いに行こうということになったんです。ちょうどウチには、整備中隊の木崎軍曹と落合軍曹、それに藤江兵長の三人が割り当てられて家族のように生活していましたからね。兵隊さんたちは、もし敵が上陸して危ないと思ったら、いつでも自分たちの所に来なさいと言っていたのよ。それで、大和馬の整備中隊の壕に行った。そうしたら、佐藤さんという兵隊さんと木崎軍曹が出てきて、「こっちは兵隊のいる場所だから、あなた方は上の方に逃げなさい。もし玉砕の必要があったら、自分たちが殺してあげるから、決して早まったことをしてはいけないよ」と、すごい口調で言ったので、それではできるだけ逃げようということになったんです。

(高月山をのぼる)


  シンナークシから二本松に渡り、それから高月の崖をよじ登って行ったのよ。それが、いま考えてもとっても不思議なんだけど、おじいは両足が不自由で、おばあは片手と片足が悪くてね、こんな体で、崖っぷちを這い上がっていったんだからね。私は三歳の息子をおんぶして、長女は五歳の次女をおんぶしているから、おじい、おばあは三男が手を引くように歩いたわけ。夜中に、しかも岩肌がむきだしのところを、よくみんな逃げられたもんですよ。

(ご真影避難壕、三中隊避難壕)


  しばらく歩いていると、三男が御真影避難壕に行こうと言い出したわけ。その壕は、忠魂碑のすぐ近く、ウンナガーラにあったから、高月を下りてウンナガーラに来たわけね。来てみると、その中に久留米絣が一枚下がっていて、御真影はないのよね。すでに羽地かどこかに移動していたから。そこに居ようかと思ったところが、忠魂碑めがけて、艦砲がさんざん打ち込まれてきたんです。私たちはすぐ近くにいるもんだから危険でしょう。それからまた歩きだしてね、今度は三中隊の兵隊さんの壕に行こうと思って。

  燃えている山の中をかき分けかき分け歩きだしました。時々は火が体に触れるんだけど、三歳の子供ですら声も出さないし、泣きもしない。真っ赤な火のかたまりが、"ひんやり"と顔のそばを通り過ぎていくけど、それがぜんぜん当たらない。ようやく三中隊の壕に着いて、まず小さい子を押し込むようにして入れ、おじい、おばあも格子状に組まれた松の木の間から中に入ったんです。

  全員、入口の方に座って休んでいると、奥の方から「だれだ!」という叫び声が聞こえたんですよ。みんなびっくりしてね。「はい、整備中隊の宿を割り当てられている者です。艦砲から逃れて、避難しています。」と答えると、「ここは、戦場だということがわからんのか。ここに民間人がいたら、戦争ができないのだ」と怒鳴られたのよ。そうしたら三男が「しかたないから、自分の壕に戻ろう」というので、泣く泣く出て行きましたよ。

(シンジュの壕に戻るとアメリカ―が・・・)


  何時頃か全くわからないけど、夜明けに近かったと思う。艦砲がずいぶん静かになったもんだから、いったん、部落の中に降りていったんだけど、もう、あっちこっち燃えている。その後自分の壕に戻ろうということになってね、山もあっちこっち燃えていて、まるでいざりをしている松明のような感じでしたよ。シンジュに着いたときはすっかり夜が明けていましたね。

  自分の壕に落ち着いて、どれくらい経ってからかね、ウチの壕の入口は、たくさんの木や枝をかぶせて隠していたわけね。だれかが、ガサガサと、そこを踏んで行くんですよ。「どこのマジムン(どいつ)か、人の壕の入口を踏んで。失礼な人だ」と怒鳴ったんです。それでもまだガサガサするので、腹が立って外をうかがってみると、朝鮮人みたいな人がたくさんいて、着剣で草をかき分けかき分け何かをさがしているのよ。「アイ、友軍は弾が不足しているのか、朝鮮人が薬爽をさがしているみたいよ」というと、同じように外を見ていた三男が、「何言うか、あれはアメリカーだよ。上陸してきたんだ」と言う。私は怒ってね、「アンタが自分の壕に戻ろうといわなければ、アメリカーに見つかることもなかったのに」って、さんざん説教しましたよ。

(子供から殺さなければと思って)


  それから、どうしようもないので、私は子供から殺さなければと思ってね、鎌とか鍬をさがすけど、壕の中には何もない。三歳と五歳の子供は、セレベスに言ったときに産んできたもんだから、セレベスに行っていたことを後悔してね、むこうにさえ行かなければ、この子たちを産むこともなかったのにって。アメリカーに捕まったらどんなふうにして殺されるかわからんでしょう。とにかく、自分の手で殺さなくてはと思った。

  そこで、フッと、舅が山を逃げるときに役立つかもしれないということで綱を持っていることを思い出したわけね。「おじい、綱を貸してちょうだい。早く子供たちを殺さないとならないけど」と言ったら、舅は「何を言うか、絶対死んではいけない。何のために死ぬのか」って怒鳴ってね。その時は姑もあわてて「早く殺して」と騒いでいるけど、舅は綱を渡してくれない。ウチのおじいは全く無学なんだけど、いまから考えたら理解があったんだね。

(壕をでてアメリカ―に)


  結局、武器がないもんだから、みんな布団をかぶって震えていたさ。そうしたらアメリカーが壕の中に入ってきてね、「カマン、カマン、出てこい、出てこい」と言うんですよ。それでもしらんふりしていたら、ナカマーレーラのおじさんがきて、「あんたたち、出て来ないと殺されるよ。早く出てきなさい」とあせって言うもんだから、しかたなく出ていきましたよ。出て行きながらそのおじさんに、「殺されるのかね」と聞いたら、「もちろんさ」と答えるのよ。ほんとに怖かったね。

  ンナトの水がからからになっていたので、私たちはそこに連れていかれて座らされた。アメリカーは子供たちにチョコレートをあげるわけね。私は「毒が入っているから食べてはだめ」と子供たちに言うと、アメリカーはいったん自分でかじって、それから渡そうとするわけ。それでも私が許可しないもんだから、子供たちもあきらめてね。ほんとはお腹も空いているし、欲しかったはずなんだけど、我慢したんだろうね。

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(子供を殺そうと思ったワケ)


  でも、考えてみたらおかしいさ。子供たちを殺さないといけないと思っていたのに、毒が入っているから食べるなというんだから。人間はね、一瞬ノイローゼ風になったら、死ぬのは怖くないよ。ちょうどアメリカーを見たとき、すぐ頭に浮かんだのが、南方で、日本兵が子供たちだけ集めて穴を掘っていれ、そこにガソリンまいて火をつけたという話さ。自分の子供たちはどんなにして殺されるかと考えただけで、もうノイローゼになって、とにかく子供を殺して、それから自分も死のうとね。それが親というもんなのよ。

  でも、あのバカみたいな戦争に苦労させられたんだから、いま考えても、ほんとに腹が立ちますよ。(談)


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