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小嶺園枝『後生(グソー)スガイ(死装束)で雨の山道を』

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渡嘉敷村史資料編(昭和62[1987]年3 月31日出版)p372

後生(グソー)スガイ(死装束)で雨の山道を

渡嘉敷 小嶺園枝(当時三〇歳)

 一〇月空襲の後ですよ、渡嘉敷でも本格的た壕をつくったのは、

 うちは、お父さん(夫)が農会の会長していたから、最初は、家の南側の山を道のこちら側と反対側、両方からくり抜いて作ったげど、水が湧き出して、座ることも出来ない、今でも屋敷のまわりに水が流れているのは、壕の跡からですよ。

 昨日は、家のまわりの水はけをよくしようと、溝をさらっていたら、もう体のふしぶしが痛くて……

 また、第二玉砕場で死んだ人たちの命日だったから、夕方は、親戚の家で線香あげて、あの時のことを話して、泣いたり、笑ったり、おそくまで話しこんで、

 十九年の夏休みの終り頃ですかね、私ね、歯が悪いものだから、那覇に入れ歯をしに通っていたから、宿小(ヤードゥグヮー)は、渡地(ワタンジ)に石川旅館といって、中城の小母さんがやっていて那覇に出るときは、いつも石川旅館で泊まっていたが、そこで鰹節と黒砂糖を交換して、石炭箱(シチタンバークー)一杯の黒砂糖と、また、与那国の人が泊まっていて、その人と甲イカのくんせいも交換して、ダー、島にはないし、あれはタブラレル(保存がきく)からね、そしたらね、玉砕場から帰ってみたら全部なくなっているさー、

 苦労して持ち帰ったものの、チュカキ(一切れ)も口にしないうちに盗まれたのよ。

 歯の治療で那覇に行ったとき、船は全部徴用されてしまって、もう帰る船がなくて、島には、一年生の長女と次女が六歳、長男四歳、次男は、誕生(日)前だからね

 もう、心配で心配で、安夫(次男)なんかオッパイ欲しがって泣いているんじゃないかなーと、考えると夜も眠れなくて、

 その時は、私の実家の父と母も一緒だったから、父があっちこっち顔を出して、通信隊の船が渡嘉敷に行く、ということを聞いてきて、兵隊と一緒に乗って帰ることができました。

 その兵隊たちは、そのまま島で各家庭に入って、私の家にも、船で一緒になった兵隊が入って、農会の壕も二中隊が使って、ずーと並んで兵隊が入ったので、

 この家の裏にも壕掘って、こちら側は、農会の重要書類を入れてあった。

 兵隊は出入するし、農会も、でしょう、狙われて、この壕も危ないといって、イチャジシに避難小屋、うちの兄たちと従兄、それに南洋から姉が、子どもを三人連れて引揚げてきたので、私の実家の土地に水をたよって、家族全部が入れる大きな茅葺屋を作りましたよ。

 あれは、何月だったかね、仏壇は浦の壕に移してあったから、そこに餅やら何やら御馳走つくって供えたから、春の彼岸だったと思うよ。

 すぐパラパラーされて、それからが戦(イクサ)のはじまりよ。

 一〇月空襲と違って、部落内にも爆弾や焼夷弾が落ちて火事になるものだから、壕にも居れなくて避難小屋に行ったら、もう、阿波連の人たちが私たちの小屋を占領してね、

 主の私たちは外に出されて、その夜から雨は降るし、その日だったか、次の日かね、昨日(三月二八日)が命日だったから、二七日かねー、"玉砕するから、本部に集まれー。あれが一番まずいよ。

 安夫は、私がおんぶして、長男は、お父さんがおんぶして、後生スガイ(死装束)といって、五、七、九枚と着物を重ねて変なかっこうで、長女と次女は歩かせて、ウワラヌフルモー(今の第一玉砕場)の山をすべっては転び、登っては落ちして、大雨のなか-…

 本部のそばの川なんか、水が溢れて、赤土がドドーッと流れて、そこを渡って、今、玉砕場といわれているころに行った。

 私たちは死ぬつもりはないから、最後の最後まで立っていたけど、他の人たちは、心中して、家族みんな死ぬのもいるし、傷負って生きている人もいるし、むごいものでした。

 うちは、子ども四人に夫婦の六人家族、一番上の兄夫婦は子どもがなくて、また、姉が南洋から子ども三人つれて引き揚げて帰っていたから、これだけ一か所にまとまって座っていたら、義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を二個持ってきた。

 これを私たちにくれたのですが、爆発しなかったため、傷、これだけで助かりましたけどね、

 義兄なんかは、そのとき家族のうち、次女と四女、次男とお父さん(義兄)四名、亡くなって、姉はもう、肋骨を貫通されて、長女も腕に穴があいて、長男と四男も負傷して、もうたいへんでした。

 一晩中雨にぬれて、グヮッチャイ(泥田のようなぬかるみ)のなかに座りっばなしよー

 二七日に登って行ったでしょう、今の青年の家から見て左は渡嘉敷、右は阿波連の人と別れて、椎の木の下で雨にたたかれ濡れた着物のまま、ヤーサ、ヴーガリ(飢・空腹)して、オッパイも出なくなるし、安夫は泣き出す、まだ一〇か月(生れて)か、そこらでしょう。

 始まったのは、日がくれる前ですよ、スバヒラ(周り)で手榴弾をボンボンする人、太刀(銃剣)やヤマナジ(ナタ)で家族殺すのもいるし、負傷した人たちは、アビヤーアピヤーして、"タシキティキリー、クルチキリー"(助げてくれー、殺してくれー)するものだから、ウワラヌフルモーから本部の兵隊に追っ払われて、今の第二玉砕場に兵隊に連れて行かれたのですよ。

 その前だったかね、村長の米田さんが、本部から機関銃かりて生き残った人たちをやろうとして兵隊にとめられたのは、

 親も子も血ダラダラして、本部に行ったら、隊長にはおこられるし、もう一人の兵隊は、剣ふりまわして、怖くなってカーシーガーラに逃げていく人もいるし、

 私たちは、第二玉砕場に行ったんですげど、次女が、いま役場の総務課にいるけど、あの時六歳ですよ。

 もう、これが二ーブイカーブイ(半醒半睡)して歩かないものだから、隣の娘で、いま、どこかの学校の先生しているという娘に"これが歩かないから、いっときおぶってくれないね。と頼んで、私たちもカーシーガーラに行くつもりだったんですけど、兵隊が列の整理をしていて、"ハイ、カーシーガーラは、ここまで"と、ぢょうど次女をおぶっている娘のところで列を切って、私たぢは、第二玉砕場に連れて行かれたのです。

 その時、うちのお父さんは、おじさんの仇を討つといって斬り込みに行ったんですよ。

 玉砕場にいたとき、"もう此処には居れない。アメリカーが攻めてくる、その前に逃げよう。といって、私たち家族が逃げ出すのを、今、ここの小学校の校長先生のお父さん(夫の伯父)が見て、"山川(家号)ヌ、シソカヌチャー ヒンギーンドーヒャー"(山川の連中は逃げ出したぞー)して、あっちの親子とうちの姉夫婦も逃げ出したんです。

 もう夜明けですから、迫撃砲ですかね、ボンボン射ってきて、それに校長先生のお父さんが途中で頭を直撃されて、それで校長先生の弟とうぢのお父さんは、仇討といって斬り込みに行って、私は、四名の子を預けられ、死んだり、怪我してうなっている人たちのなかにチャーウイ(ずーと居た)ですよ、本部の前で。

 他の人たちは、玉砕がおわった次の日には、ウンナガーラの避難小屋に降りていって、御飯炊いたりしているのに、それも知らないで、子ども連れでは動けないし、シーツを敷いて、その上に座りっぱなし、三~四日くらい死んだ人たちと一緒です。

 食べ物は何にも無い、壕掘ったところから湧き出る水をカーサヌ葉(幅広の草の葉)に汲んできて、喉をしめらすだけ、食べ物ひとつもない、歩く気カもなくなって、そうしているうち、私の家にいた通信隊の兵隊で静岡県の人ですがね、宇田(または牟田)さん、この人は、お父さんと兄弟同様にしていました。

 その人が、何処から探してきたか、赤ちゃんに飲ませるドライミルクを持ってきてくれて、おかげさまで、それを泥水で……溶けないですよ、ムルサームルサー(だまだま)しているものを、安夫に飲まして、子供たちにも少しずつ分けて、それで蘇ったようになっているとき、お父さん(夫)が、ワッター(私たち)が、本部の前で親子四人動けなくなって座りこんでいると、聞いて迎えに来たのです。

 私たちは、第二玉砕場から本部の内に四~五日いました。

 玉砕した次の日は、第二玉砕場、みんな死んで、山降りる人は降りて、負傷して動けない人は本部にもどって、無傷はうちの家族だけ、負傷している兼島という母子二人、父親は、妻と子を探しにイチャジシに来ていたらしいけど、前島の伊元さんたち夫婦と男の子一人、また、阿佐から嫁に来ている母子二人、私たちの家族四

名、それに東(アガリ)カニマチなんか、全部もう傷して動けなくなっている人をうちのお父さんが、崖のところなんか自分を踏み台にさせて、ひとりびとり降ろして、その頃からは弾も止んでいたから、タジャーガーラというところまで降りてきて。

 そこから、今の電力公杜の発電所の近くのマッントジー、こっちは畑が広がっていますからね。

 今の渡嘉敷石油とあっちの間ぐらいのところに、日本軍の食糧が、たくさん俵積みされてあったのが焼けて、もうヤチグミ(焼米)がたくさんあるのですよね。

 もう、ヤーサヌ、フシガランドゥアクトゥ(ひもじくてたまらなくて)歩きながらワラビンチャー(子たち)は、手で口に掻きこんだり、ふところに入れたりして、アメリカーの上陸の前にウンナガーラに運んでおけば島の人も兵隊も朝鮮の軍夫もヤーサヴーガリ(飢え)する事もなかったはず。

 海岸に全部積んで置くものだから、爆撃されて全部燃えてしまって、後は、一般民から徴収がはじまったんですよ。

 私たぢは、本部にいるとき兵隊が食事をしているのを見た事もなかったし、食事を分けてくれるなんてなかったです。

 そうしたなかで、粉ミルクをもらって、あのミルクのおかげで子どもたちの命が救われたと思っています。

 あの時の兵隊さんとは、今も文通していますよ、出征するとき奥さんのお腹にいた子が、今は長距離の運転手をして、去年、奥さんとも会いました、この島に来てもらってね。

 それでね、山降りて、畑のところまで来たら、アメリカーが陣地(塹壕)掘ったりしてあった。

 部落内を通るのが、もう怖くて、浜口(ハマグチ)、今の学校のところですよ、今はブロック積んだりして塀になっているが、あの塀は、防風林のアダンが山になって、そこを抜けて、今の役場をちょっと越したところまできたら、さっきの陣地から、パラパラパラーですよ。

 シラシ山むかって機銃射撃だけど、もう大変と思って

 すぐそばのスージ小(グヮー)(細道)に入り、内に逃げこんだんだけど、道は、水管だとか、いろいろな物が散らかって、足のふみ場もない。

 水管も爆発するものだと思っていたから、今は、水を入れる物と判るが、そんな事は知らないからもー、踏まないように蹴とばさないように、とびこしとびこし、ワラピンチャーひっぱったり、今は笑い話だけど、グヮングヮーラ、グヮーラーと音がしても怖いし。

 そこから、イチャジッに行ったら、先に山降りた人たちは、二・三日前から御飯も腹いっばい食べて、うちなんかは、米粒も当たらなかったのに、もう。

 イチャジシに何か月いたかね、そうとう永らくいましたよ。

 その後は、ウフジシクビに行って避難小屋作って、茅葺屋作って終戦になる前までいましたよ。

 避難小屋作って後は、食べ物はね、稲苅りてきたり、ミーンム(芽芋)をあさったり、人が掘りかえした後から、また掘りおこすんです。掘り当てたらよいけど、芽だけだったり、もう命がけですよ、芋掘りや稲苅りの行き帰りに地雷踏んで死んだ人もいましたし、アメリカーに射たれた人もいましたから、赤ミーンソム小(グヮー)で生命をつぎました。

 米は、最初の非難小屋に少し残っていましたね、私たちが、本部に座りこんでいる内に鰹節とか黒砂糖、クブシミ等は持ち出されてなくなっていたが、米は持って行かず残っていました。

 それをですよ、お父さんは、友軍が斬り込みに行くというと、炊いておにぎりにして本部に持って行くし、逃げ出した山羊つかまえて殺したり、豚つぶして本部に持たせて、残りを私たちが食べる、後は、牛までつかまえて殺しました。

 イチャジシにいたころは、私たちの茅葺の長屋に、イジンミ、姉の家族四名、うちの家族、みんなアガチ(足掻く、せいっぱい)喰えですよ。

 私は、子洪抱いて働けないから、イジンミという人が、芋あさってきてくれたり、稲苅りの頃から別べつになったけど、

 うちは、姉夫婦と次女姉さんと子どもたち、いとこの家族、お父さんなんか、眠るところがないから、屋根裏にゆか、いや天井はって、そこにしか寝なかったですよ。

 どんな小屋かというと、山いって、まっすぐな丸木を切って、それを、あっちこっちに立て、ちょうど山羊小屋ですよ、その奥に、物置のように竹で床を張って、そこで眠るのです、むしろさがして来てね。

 ウフジシクビにも同じような小屋をお父さんと義兄が通って作り、出来あがったら移動しました。

 山を少しけずりとって、山肌を支えにしてあったですよ、そしたら、雨が降ったら、噴水を逆さにしたように。、水が流れこんで川の中に座っているようでした。

 ウフジシクビに行ってからは、漂流物ですね、海はすぐ下ですから、航空母艦や飛行艇もいたし、他の軍艦もいっばい浮んで、アメリカーが捨てたり、特攻機にやられたりした船から、牛肉やハム、べーコソ、バターなどが流れてきよったです。

 アメリカーが煙幕はったり、霧がかかっているときに慌てて探しに出て行きましたよ。

 見つかったら射ってきますからね。

 そうしたなかを、お父さんと義兄さんは、いろいろ探してくるのです。

 肉やバターなんか砂がついているでしよう、それを鍋に入れ、少し温めると溶げるから、その時砂は、鍋の底に沈むから、それを別の器に移しかえたりしてつかいました。

 野草、普通の野菜よりアクが強いから、油がないと食べられないですよ。

 どんな草を食べたかというと、最初は、タンポポ、大葉子、よもぎ、これは山焼かれたらもうなかったです。

 焼跡に生えだしたのは、これまで見た事がない草でした、葉の裏に生毛のようにふさふさ毛がはえて、名前も知らない草です。

 その草が焼跡に群れて生えていたので、それをむしり取って来て食べたり、ふきをとってきたり、あれは茎がおいしいのに、茎は捨てて、葉をゆでてアク抜きして食べました。

 また、アダンの焼跡には、椎茸に似たきのこが生えてきた、これは、ゴムのようにかみ切れないですよ、それも腹のたしになればと、流れついた牛缶といっしよに煮て食べました。

 ふきは、山から降りて家に帰ってまで食べましたね、ソテツを切る頃からは終戦近かったですね、私たちはいっべんだけ切り倒しました。

 その頃から姉に安夫をあずけて、私は畑耕すのはカッテ(得手)だから、姪をつれて一緒に、ミーンム掘りに行ったり、稲を苅りとって来たり、稲苅りといっても全部苅るのじゃなく、穂を摘むのです。

 アメリカーの目をぬすんで、田圃いって、稲のなかにかくれて摘んでくるんです。

 水挽き臼をもっていってあったから、籾ごと入れて、挽くのです。それを籾ガラをとばして、一升ビンに入れ木の枝か細竹でつくのです。

 籾ガラも充分とれてないから、籾ガラもそのまま食べていたんじゃないかね。

 海岸でナツメの缶詰を三個も探してきたものだから、ずい分助かりまLた。

 砂糖もないし、子どもたちは甘いものやる事も出来ないときでしょう、スーテー(節約)して少しずつ子どもたちにやりましたよ。

 ソテツは、さらしてバショーの葉に包んで食べられる頃になっていたけど、もう終戦になっていたから、そのまま捨てて、食べる事もなかったです。

 雨は降るし、陽が出ても乾かすためにひろげると、すぐ見つかって爆弾落としたり、機銃射ったりされるから、黒いカビが生えたまま、他の人たちは、ヨダレみたいにだらだらたれるものを食べていたけど、誰ひとり死んだ人はいませんね。

 ウフジシクビには、生き残った渡嘉敷の人の大半が集まっていました。

 私たちば、ウフジシクビに行ってからお父さんが、防衛隊にとられて、蓮華少尉に連れられて、阿波連に自活班としていったものだから、私たちが、山降りたのは、八月十二日だったと思いますよ。

 他の人たちは、次つぎ山を降りて渡嘉敷に帰ったけどうちは、お父さんは阿波連に行っていないし、何処で死んでも同じことだと動かなかったんです。

 姉夫婦と、次女姉さんも傷がよくなって動けるようになって、うちの四つになる長男の手をひいて降りていったけど、私は"いや"だといって降りなかった。

 そしたら、姪がね、荷物をサージャ小(グヮー)というところに置いて、今度は子どもたちを連れにと、おばさんといっしょにやって来て、口説かれて、降りる事にしました。

 その時に"歩げる人は、いっしょに降りよう"という事になって、私は、長女は歩かせ、次男はおんぶして降りたけど、もう兵隊に見つかると大変だ、といって、隠れかくれして降りたけど、兵隊にあうこともなく降りて来ました。

 降りたときは、明け方になっていまLたね。
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