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渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』

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『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』

渡嘉敷村役所蔵。渡嘉敷村遺族会編一九五三・三・六。伊敷論文よりの復元版。

大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出された。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出された。参照:書証一覧

はじめに
  この記録は今次大戦における沖縄戦の一端渡嘉敷島における戦聞の概要を収録したのであるが 沖縄本島と切離された孤島の戦線には幾多様相を異にするものがある
  当時村長米田惟好氏 役所職員 防衛隊長屋比久孟祥氏等の協力を得て纒めたものでありますが 過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し そして今後幾多反省すべきことがあること(※1)を痛感した
  将来この社会において再びこの様な事を繰返すことのないよう 永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄を自由世界に樹立することを願って止まない 
一九五三年三月二十八日渡嘉敷村遺族会

  昭和十九年九月二日七千屯級の汽船が慶良間海峡、阿佐港外に停泊してゐたその船を目標に友軍戦闘機三機が編隊で毎日急降下演習が続けられていた(※2)、この汽船は兵器弾薬を南方方面へ輪送途中寄航したものと住民は想像していた。
  • (引用者注)阿佐港は座間味島東側の湾内

  同 九月七日 沖縄憲兵隊の軍曹が来島した。その目的は渡嘉敷の漁船を軍需部の漁撈用に徴用することである。 鰹漁船、嘉豊丸、源三丸、神祐丸、信勝丸の四隻は乗組員一三〇名と共に九月八日午前四時を期して阿波連港へ集結を命ぜられ同日午前十時那覇港へ出港した

  旬日を過ぎずして村営航路嘉進丸も軍需物資輸送の目的で徴用され那覇、久米島間の輸送任務についた、軍は秘密保持のため移動性のある船舶の慶良間各港への出入を堅く禁止した為渡嘉敷住民は全く孤立状態に置かれた、

  同 九月九日午前八時南方行きと思ってゐた汽船から渡嘉志久に小型舟艇が近づいて来た 驚いたことは(※3)武装した陸軍の兵隊が上陸したのである。或る兵隊に尋ねたら渡嘉敷駐屯するとのことである 部隊は鈴木部隊で兵員一千名基地隊と呼ぱてゐた 鈴木部隊は渡嘉志久へ上陸を完了し同日渡嘉敷部落へ移動した、

  村の国防婦人会は部隊歓迎のため総動員で湯茶の接待や慰労に努めた、 兵員の中には長途の輸送で疲労した為に数多くの下痢患者(※4)を続出する有様であった、部隊の宿舎には住民の住家があてがわれた早速鈴木少佐の要請により男女十六才から六〇才までが軍に協力することになり九月十日から陣地構築作業に従事せしめられた、

  • (引用者注)7,000トンもの大型輸送船が突然やってきたとは驚きです。1千名もの海上挺進第三基地大隊の将兵を、沖合い停泊で1週間も待たせ、泥縄の上陸準備をした上で、渡嘉敷島西側の渡嘉志久に上陸してきたということです。この部隊はいったいどこで編成され将兵はどこから乗船してきたのでしょうか?

  同 九月二十日、特幹船舶隊と称する部隊が赤松大尉を隊長とし兵員一三〇名と舟艇百隻を以って来島 渡嘉志久と阿波連に駐屯し日夜攻撃演習が秘密裡に行われていた。 数日後には本村から徴用された漁船は漁業根拠地を渡嘉敷港に変更された為全船帰港し連日軍の需要獲得に従事した、

  • (引用者注)(引用者注)赤松大尉を隊長とした海上挺進第三戦隊の訓練、編成、移動の経緯は、赤松資料:「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」参照のこと

  同 十月十日那覇上空は、絶好の秋日和である慶良間から沖縄本島が手に取る様に見渡しことができる

  午前九時頃平素と異った様子が見受けられた、時には高射砲の弾雲が見られるので鈴木部隊本部に問い合すと友軍の対空射撃演習だとのことである、 村民は安心して平素のように陣地構築に従事した、

  漁撈班においても嘉豊丸が出漁した、源三丸神祐丸、が出漁準備を整えている頃前島前方の上空で数百の飛行機が乱舞するの(※5)が見られたかと思うと間もなく八千米の上空に四機編隊の銀翼が現れた、何時もとは異った爆音に不案を抱き乍ら眺めていると 飛行機は機首を下げて底空すると(※6)同時にダヽヽヽと機銃掃射が始まった はじめて敵機の空襲と知った村民は足の踏み場を知らず上を下への大混乱に陥った、殆どの大人が陣地構築のため留守である、老人は幼児をかヽえ教員は学童の手を引き右往左往(※7)であるために待避に長時間を要した 

  敵機の空襲はますヽヽ猛烈を極め機銃掃射と共に小型爆弾が投下された、幾度となく波状空襲が繰返へされる中に嘉豊丸は東海岸で餌料採捕中に爆沈され機関長古波蔵鉄彦は戦死し他の乗組員は辛うじて生命を得ることができた、

  源三丸神祐丸は出漁することができず港内において炎上沈没し軍用船(えぴす丸)も爆破炎上し二名の戦死者を出した

  村営航路嘉進丸は軍需物資を輸送しての久米島からの帰路、渡名喜島沖合で空襲を受け撃沈され 機関長金城連平、事務長小嶺賀明の命を奪った、船長古波蔵良秀は三日間漂流の末渡名喜島へ辿り着き生還した、

  全漁船を失った乗組員は翌日から陣地構築作業に従事する者や各高地に設けられた監視哨勤務等日夜軍務に就くことになったが 状況は日毎に悪化し島の東海岸には暗夜に乗じ敵潜水艦の接近浮上する姿が度々見受けられるようになった

  • (引用者注)10.10空襲で全漁船を失ったとは驚く。島は産業を失ったに等しい。情報の入手ができない完全に孤立した存在となった。以後物資は軍の補給に頼ったのだろうか。しかし軍の物資補給がやがてなくなれば、駐留部隊の将兵の分まで細々と自活を強いられる村民に負担がのしかかる。

  同十月下旬 今まで自家通勤で陣地作業に従事してゐた、七十九名の者に防衛隊としての召集が下された、兵舎には村の国民学校が充てられ(※8) 初年兵勤務が始められたが(※9)教練訓練ではなく専ら壕掘作業に従事せしめられ 昭和二十年の元旦を兵舎で迎えた

  • (引用者注)渡嘉敷島の防衛召集について明確な表現がなされている。召集された防衛隊員は正式な軍人=二等兵として入営したのである。

  サイパン島陥落後戦況は益ヽ悪化し、沖縄部隊へ入隊する現役兵の送り出しにも困難を極めた 学童も率先して軍の作業従事し 婦人会や女子青年会員は軍の炊事班に徴用された、

  いよヽヽ軍の防衛陣地や壕も大方完成し舟艇の待避壕や海岸に至る枕木も施設も終へ舟艇百隻は橇の上に乗せられ出撃の準備は完了した。

  昭和二十年二月下旬 渡嘉敷島の陣地構築が完成すると間もなく基地隊である鈴木部隊は整備中隊と通信隊の一部(※10)と赤松隊長が率いる特幹隊を残して沖縄本島防衛のため島尻地区へ移動のであるが これと前後して水上勤務中隊と称する朝鮮人軍夫二二○名が楠原中尉を隊長として来島し任務についた、

  鈴木部隊移動後 村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した、

  • (引用者注)「村出身の防衛隊員は赤松隊長の指揮下に属した」という表現は、軍隊組織としては当然のこと(赤松元戦隊長自身も自認している)。しかし集団自決裁判の原告とその代理人弁護士或いは秦郁彦氏などは、防衛隊があたかも戦隊とは指揮命令系統が違う「民兵」であるかのような荒唐無稽な主張をしている。

  昭和20年三月二十三日午前五時空襲讐報が発令された、事態は愈々悪化し早朝からグラマン機の波状攻撃が間断なく続けられた B二九と思われる大型機の編隊も再三飛来し爆音は山谷にこだまし耳をつんざく凄しさ(※11)である。午前八時半村役所郵便局が爆撃され 続いて防衛隊の兵舎である国民学校が爆破炎上した村民の住家も大半焼失した 伊野波診療所長外十名は村役所附近の壕に待避中至近弾のために重症を負ふた。

  空襲が一時止んだので住民は兼ねて構築した谷間の待避所へ避難を急いだ 平素の防空訓練も実戦にはその甲斐なく 敵機の独占場となり明けて二十四日 二十五日も空襲は続き美しき緑の山河は火の海と化し 夜空を真紅に染めた、 祖先伝来幾百年住みついた吾が郷里も今は戦場と化したことを思う時唯胸に迫るものを感じ涙さえ出すことの出来なものがある(※12)

  三月二十五日(※13)未明米軍は阿嘉島に上陸を開始したが間もな&く慶良間海峡には潜水艦を伴った艦隊が浸入し如何にも友軍を見くびったかの如く悠々と投錨し渡嘉敷陣地への攻撃を開始し またヽく間に山谷や部落は昔の面影を止めざる焼土と化した、

  午後後十一時赤松隊長は特幹隊員に出撃準備の命令を発した 夜空に敵艦砲の落下も、ものかわと防衛隊員七十余名、男女青年団員百余名壮年団員、婦人会約七十名が協力し、舟艇百隻は待避壕から引き出され 二十六日午前四時渡嘉志久、阿波連の海岸にその勇姿を揃へることができた 気の早い元気旺盛な特幹隊員の中には勇躍乗船しエンヂン音も高々と敵艦撃沈に胸を躍らせ出撃の命令をいまかヽヽと待った(※14)ゐた

  • (引用者注)出撃準備は島民も総動員であったことがわかる。曽野綾子『ある神話の背景』では、島民の奮闘はボヤケた表現だ。

  防衛隊員新城信平上等兵以下八名は機関銃をかヽえて援護射撃の陣地についた、

  東の空は白みつつあり出撃の機を失ひつヽありながら赤松隊長は出撃命令を下さず 壕の奥深く待避したまヽ全く戦闘意識を全く失ったかに思われ百隻の舟艇は出撃の勇姿を揃へたまヽ夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った、

  隊長赤松大尉は何を考へたか まるで気でも狂ったのか 突然全舟艇破壊命令を下した 特幹隊員はたヾ呆然としてゐたが 至上命令に抗することも出来ず既に出撃の時期を失しては如何ともし難く隊員は涙を呑んで舟艇の破壊を実施した 舟艇を失った特幹隊員は本来の任務を完うすることができない為 兼ねて予定された西山の奥深く待避し赤松隊の持久作戦が始まったのであるが 陸士出の赤松隊長は卑怯者の汚名を着せられても致し方ない状況である

  • (引用者注)出撃準備に総動員で協力奮闘しただけに、出撃中止は島民にとっても大きな落胆だったのだろう

  当時船舶団長三宅少佐も座間味村を抜け出し渡嘉敷へ退避し赤松隊長と行動を共にした

  • (引用者注)船舶団長は大町茂大佐。随行者に三池少佐という人物がいて彼は渡嘉敷島からの脱出に失敗して赤松大尉と同道してたので勘違いしたのだろう。部隊幹部の名前は島民らには知らされてないようだ。

  昭和二十年三月二十六日 敵は海空援護の下に渡嘉志久 阿波連より上陸を開始したが(※15)赤松隊は応戦の意志は勿論なく、武器 弾薬を放棄したまヽ隊長以下全将兵が西山陣地に引っ込んた為敵は完全にこの島を無血占領することになった、

  昭和二十年三月二十七日 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた、その夜は物凄い豪雨である 米軍の上陸は住民に生きのびる場所を失わしめ ひたすら頼るは赤松隊のみであると信じ ハブの棲む真暗な山道を豪雨と戦いつヽ 子を持つ親は嬰児を背に負い 三ツ子の手を引づりながら合羽の代りに叺や莚をまとい 老人の足を助け乍ら弾雨の中を統制もなく西山へたどり着いた、暗闇の谷間は親、兄弟を見失った人々の呼び声がこだまし、全く生地嶽(※16)の感である 

  間もなく兵事主任新城真順をして住民の結集場所連絡せしめたのであるが 赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外(※17)へ徹退せよとの命令である 何の為に住民を集結命令したのかその意図は全く知らないまヽに恐怖の一夜を明かすことが出来た

  昭和二十年同三月二十八日午前十時頃住民は友軍の指示に従い軍陣地北方の盆地へ集ったが島を占領した米軍は友軍陣(※18)北方の約二、三百米の高地に陣地を構へ完全に包囲態勢を整え 迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の終結場も砲撃を受けるに至った 時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、

  危機は刻々と迫りつヽあり 事こヽに至っては如何ともし難く全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死なう(※19)と悲壮な決意を固めた、 かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々二個が唯一の頼りとなった

  各々親族が一かたまりになり一発の手榴弾に二、三十名が集った、 瞬間手榴弾がそここヽに爆発したかと(※20)思ふと轟然たる無気味な音は谷間を埋め 瞬時にして老幼男女の肉は四散し 阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された

  死にそこなった者は梶棒で頭を打ち合い 剃刀で自らの頸部を切り 鍬や刀で親しい者の頭をたヽき割る等世にも おそろしい情景がくり拡げられた 谷川の清水はまたヽくまに血の流れと化した 寸時にして三九四人(※21)の生命が奪い去られた、

  その憎みの盆地を村民は今なほ玉砕場と呼んでいる、 手榴弾不発で死をまぬかれた者は友軍陣地へ救いを求めて押しよせた時 赤松隊長は壕の入口に立ちはヾかり軍の壕は一歩も入ってはいけない、速に軍陣地近郊(※22)を去れと厳しく構へ住民をにらみつけた 住民は致し方なくすごヽヽと友軍陣地東方盆地に集ひ無意識の一夜を過ごした

  昭和二十年三月二十九日、 米軍の砲撃は執拗にも住民待避の盆地へ飛来し住民三十二名の命を奪い去ると共に防衛隊数名の戦死者を出した。

  昭和二十年三月三十一日米軍は赤松隊の無低 ママ 抗を見くぴったか夜半島を徹 ママ 退した 砲弾の音も止み生きた自らをうたがひ 張りつめた気力を失い五日間の空腹を夢遊病の如くさまよい乍ら死場所を失った住民は迷い歩いた揚句 僅少な食糧を残して置いたもとの避難地恩納川方面へと移動した、

  赤松隊も持久態勢に入る為に食糧確保に奔走した 間もなく赤松隊長から命令が伝達された 「(※23)我々軍隊は島に残ったすべての食糧を確保し持久戦の準備を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならない事態はこの島に住む人々に死を要求していると主張し」住民に家畜屠殺禁止の命が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である 直ちに住民監視の前哨戦が設けられ多里少尉がその任務についた。
  住民の座間味盛和にスパイ嫌疑を問い無実の罪に陥れて斬り殺したのも多里少尉である

  その他家族全員を失ひ山をさまよい歩く古波蔵樽を捉え敵に通ずるおそれありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為が始まった、

  慶良間海峡には常に敵輸送艦や駆逐艦、小型空母等が停泊しその散およそ(※24)三〇〇隻を下ったことはない。

  時々友軍特攻隊の攻撃もあったが 敵の対空砲火には坑し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見受けられた。

  昭和二十年四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし 蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつなぐ状況となった。

  元気の者は監視の眼を逃れて蘇鉄を集めた 生き残った防衛隊員は命令によって防衛隊長屋比久孟祥氏の指揮で軍の食糧獲保に努力した。

  昭和二十年五月初の軍は遂に住民の保有する僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧徴収が行われた。 住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴてゐることの不甲斐さを嘆くものもあった。

  気力ある者は夜間海岸に出て米艦船から捨てられた肉切れや果物等の標流物を求めて食糧の足しにした。

  座間味島を逃れて赤松隊と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ渡る機会を絶えずねらっていたのであろう

  防衛隊員の中から割舟に経験のある者の調査が行われた、 この時の白羽の矢が隊員小嶺賀牛玉城定夫の両名に当った. 本人達は希望するところか軍命であれぱ致し方なく決死行の意固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手に糸満漁夫二名を補強し渡嘉敷港を出発した 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり四哩の海路を無事前島部落へ辿り着いた.

  前島北方海岸に刳舟をかくし 島に上陸して見ると住民の姿は全く見受けられない.

  その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まず 照明弾の合間を伝って砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である

  一夜明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達成することは到底望むべくもない。 然し少佐は万難を排して決行せよとの事である 宵闇と共に前島を出発したのであるが掃海艇の讐戒厳しく二、三回失敗を操り返し命からヾヽ引返した.三宅少佐は艇長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった. 小嶺は慎重を期せねぱ 目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握ってにらんでいた。 切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考へたか平静に返った。 今こヽで切っては目的が達成出来ないことを知ったのてあらう、

  漕手は疲れ切って精一杯だった.遂に最後の決死行である. 再ぴ前島を後にした. 輻輳する艦船の横腹を手探りつスクリウの波にまき込れながら遂に神山島北方へ出た。 暗夜に乗じて那覇へ向かったが掃海厳しく接岸不能である、 全員合議の上 舟首を糸満港へ向けた 東天はすでに夜明けを知らせつヽあるので島伝いに必死の力漕を続け遂に糸満港に着くことができた まさに天佑である全員無事を喜び合いながら疲れを忘れて真玉橋の方面隊本部へと急いだ

  昭和二十年五月初旬米軍は再度渡嘉敷に上陸した。

  赤松隊の急襲に備へるため各高地には砲陣地が構築された.

  間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動せしめられ米軍の保護の下に収容されていた 

  赤松隊は極度の食糧欠乏が目立ってきた。 若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍の食糧集積所を襲い食料や煙草等を確保する様になった.その為に米軍は各要所ヽヽに地雷施設をし友軍の侵入に備えた。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった 伊江島住民は米軍の保護を受け乍ら渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活している。

  まもなく米軍からの要求で伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。

  戦争がすでに日本に不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へる為の軍使であるが 赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の青年男女を斬殺したのである。

  また集団自決場で重傷を負い米軍に収容され(※25)座間味の米軍病院で治療を受けやうやく快復し米軍の使者として渡嘉敷住民へ連絡のために住民避難地へ派遣された十六才の少年小嶺武則金城幸次郎の両人は不幸にも途中赤松隊将兵二人に捕えられ米軍に通じた理由の下に直ちに処刑された。

  渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏が敵に通ずるおそれありと斬首される等 住民は日々欠乏する食糧難と赤松隊の恐喝に益々くたぱり食ふに糧なく下山するにもその方途なく栄養失調が続出するのみ 飢餓と戦いつヽ六月、七月とニケ月を過し八月を迎えたが食糧はますヽヽ欠乏の極に達し今日まで生き長らへた住民は死の寸前に晒され玉砕した同僚を羨む者さへあった

  昭和二十年八月十二日午前 自決場で妻を失い幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い 長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山野を移動中 米軍の潜伏斥侯数名に包囲され拉致された これが住民下山の第一歩となった.

  昭和二十年八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒布された。 ボツダム宣言の要旨が記され降伏は矢尽き刀折れたる者のとるべき賢明な途であることを勧告(※26)してあった.

  住民は集団投降の意を決し代表者をして村長古波蔵惟好氏と相談した.村長も民意に随ふことを許しぞくヾヽ白旗を掲げて下山した

  八月十六日防衛隊員と共に残った住民の一部が下山したが赤松隊は依然として投降せず 米軍指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり 新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた その任務は赤松隊への投降勧告であるが一旦見付けられると死を覚悟しなければならない 新垣、古波蔵はよく状況察知し軍隊生活の経験ある為(※27)歓告文を木の枝に縛り付け密に任を果して帰ったが与那嶺、大城の両氏は要領得ずして赤松隊に捕らわれ即座に切り捨てられた、

  昭和二十年八月十八日赤松隊知念副官が軍使として投降の交渉に当った、

  昭和二十年八月十九日赤松隊長知念副官外将校一名が米軍本部へ到着渡嘉敷小学校々庭において武装を解除され降伏文書に調印した、

  次いで西村大尉の率いる赤松隊将兵が戦友の遺骨を先頭に 八月二十二日渡嘉敷小学校々庭に集合武装を解除され直ちに沖縄本島へ連れ去られた

  あらゆる力を結集し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ皇国の為全員玉砕渡嘉敷島に屍をさらすと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には(※28)坑すべきすべもなく牧牛の如く連れ去られたこと思ふ時一掬の涙をさそうものがあった.

  斯様に沖縄本島と切り離された島の戦線は独特の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じたのである


尚最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久路上で米軍と遭遇し激戦の末、伊芸山の山頂に護国の華と散った佐藤小隊の一こまである (完)



(役)渡嘉敷村役場にあるテキスト。(山)は山田義時氏所蔵のテキスト

1(役)『概要』「あるかを」の「か」の上に、ベンで「こと」と直してある。
2(役)『概要』「いた」の「た」の上に、ペンで「る」と直してある。
3 (山)『概要』には、「驚いたことは」とある。(役)『概要』は「驚いたことには、」という具合に、「に」と「、」が加えられている。
4(役)『概要』では、「を」をペンで消して、「が」に直してある。

5(役)『概要』では、「見られたかと恩ふと」というように、「た」がペンで傍書されている。
6(役)『概要』では「底」をペンで消し、「低」に直してある。
7 『概要』は「左」文字を「在」に書き誤り、右方に「左」と訂正。
8(役)『概要』では「充」を消し、「当」に直してある。
9(役)『概要』では点をほどこしているが、後人が「か」と読みとったからであろう。
10『概要』は、「一部」の次に「を残」と書き誤り、==で消してある。
11(役)『概要』では、「じ」となっている。
12(役)『概要』には「できないものがある」というふうに、「い」文字がペンで書き加えられている。
13『概要』では「六」と書き誤っており、ペンで「五」に書き直してある。
14(役)『概要』では、「待った」の「た」をペンで「て」に直してある。
15 9に同じ。
16(役)『概要』では、「〓」の「廾」をペンで消してある。「獄」の謂であろう。
17『概要』では「友軍陣陣地」と書き、上の「陣」を斜線で消してある。

18(役)『概要』では、鉛筆で「友軍陣地北方」と「地」文字を書き加えてある。
19「死なう」の、な」は、(役)『概要』において、「の」とペンで書き直してある。
20『概要』では、「ら」を==線で消し、「と」に直してある。
21(役)『概要』では、鉛筆で「三六ニ」に直してある。
22(役)『概要』では、ペンで「郊」を消し、「軍陣地附近」と直してある。
23『概要』のカギのとじの部分は正しくない。
24『概要』は「おそよそ」と書き誤り、最初の「そ」を==で消してある。
25(役)『概要』では「小嶺武則次金城幸次太郎」というふうに、鉛筆で訂正してある。
26(役)『概要』は、焦け跡よって判読不能。煙草によるものと思われる。
27(役)『概要』「歓」の「欠」部を消し、右方に「力」とペソで直してある。
28(役)『概要』では「土」を「才」に直してある。

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