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小嶺幸信『一〇・一〇空襲と戦場になった島』

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渡嘉敷村史資料編(昭和62[1987]年3 月31日出版)p385

一〇・一〇空襲と戦場になった島

渡嘉敷 小嶺幸信(当時十四歳)
  • (引用者注)括弧つき小見出しは引用者が付したもので原文にはありません

 次の年の三月二三日の空襲の時は、「アメリカの機動部隊が沖縄に向かっている、空襲があるらしい」と、情報が前もって知らされていたので、私たちは、空襲の始まる前から壕に入っていましたよ。


(10.10空襲)


 一〇・一〇空襲の時は、学校に行っていましてね、

 本校舎は日本軍に接収されていて、北山(ニシヤマ)のふもとに、イーヒョーローという所で、地番は小嶺原で、そこに仮校舎を三棟ほど造りましたよ。

 その日の朝、学校に行く前に、兵隊と一緒に海岸に行ったら、あそこ(那覇の方角)から、四六時中飛行機が飛びまわってくるので、不思議に思って私たちは、見に行ったんですよ。

 上等兵の話では、「友軍の演習だから、なんでもない、心配するな」と、いう事だったので、学校に行ったんですけどね。

 「どうも状況が悪い」と、いう事で、先生と一緒に、僕ら最上級生が四、五人、海岸に様子を見に行く途中、あまりにも飛行機が、低空していくもんだから、おかしいなと、思ったら、爆弾を三発か四発落とされて、それからですよ、「本物の空襲だ」と、騒ぎ出したのは。それで、一応学校にもどって、先生に引率されて家に帰り、各自の避難壕に隠れました。

 私たちを引率したのは、崎間という男の先生でした。

 うちの壕は阿波連に行く途中の田圃の向こう側で、部落から離れた一番南の端に掘ってありましたね。

 そこは、母の実家の親爺、私の祖父が掘った壕で、私達も一緒に入りました。

 その時は、一日だけの空襲で、やられたのは、鰹船が三隻ですか、亡くなった人もいますがね。

 陸上には、あまり被害はなかったですよ。


(3.23空襲)


 次の年の三月二三日の空襲の時は、「アメリカの機動部隊が沖縄に向かっている、空襲があるらしい」と、情報が前もって知らされていたので、私たちは、空襲の始まる前から壕に入っていましたよ。

 前の年の一〇月一〇日の空襲の経験で、どうせ一日で終わるだろうから、と、食糧もたいして準備せずに壕に入ったら、もう、やり方がひどいんですね、一〇・一〇空襲の時は、船が狙われただけでしたが、今度は、三日間ぶっつづけで、家も山も爆弾で焼かれたわけです。

 経験のある人がいっていましたね。"これは、上陸まちがいない、四日日から艦砲射撃が始まって、上陸の準備だ"と、いっていましたよ。

 それで、昼はバンバンやって壕から出られないから、夜、飛行機の来襲がおさまると、その時、食糧を運び入れました。

 また、壕の周囲は、芋やカンダを植えてあったから、まず食糧は心配なかった、調味料さえ持っていれぱ大丈夫だった。

 壕には、母の両親と、祖父母(私の曽祖父母)と、母の実家の嫁さんと、子ども二人(私の従兄弟)の七名と、私たちの家族四名を加えて十一名。

 四六時中、壕に入っているのではなく、空襲のない時は、壕の近くに仮小屋を作ってあったから、そこで暮らし、空襲がはじまると、壕に逃げ込む生活でした。

 アメリカーが上陸するまでは、西側(部落の)壕にいたが、その夜(二六日)防衛隊が「敵が上陸して危険だから移動しろ」と、いう事で、一応南側の山に避難した。

 シジミチ山で一晩過ごしました。そこから見える慶良間海峡には、軍艦がいっぱい並んでいるのが見えて、もうそこら辺りにも(敵は)入りこんでいるなと思って、また、部落に降りて北山(ニシヤマ)に行った。

(北山で)


 その日は、だいぶ雨が降って、母の両親は、もう年で山道は歩くこともできない状態で、じいさんぱあさんに「あんたたちは、若いから、出来るだけ命を永らえるようにしなさいよ」と、いわれ、別れました。

 その夜、北山(ニシヤマ)の、今、玉砕場と呼ぱれている処についた。

 僕らは、手榴弾なんか持ってなかったけれど、隣りに座っていた人たちや他の人たちは持っている人もいた。親戚同志で集まり坐っていた。

 僕らは、夜明け前に着いたが、夜が明けてから村の人たちが、どんどん避難してきた。どこから命令があったか知らないけど、みんな集まって来るから、僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた。

 誰が音頭をとったか知ら放いが、"天皇陛下バソザイ"と三唱をやった事を覚えている。

 しぱらくして、母が、振子のような"カッチ、カッチ"と、いう音を聞いて同時に、あっちこっちで爆発しはじめ、僕らは、びっくりしてうつぶせになった。

 やがて、静かになったと思って顔をあげると、周りは、血だらけで倒れている人、死んでいる人でいっばいだった。

 僕らの家族、おぱの家族と母の兄弟の子どもたち七名全員無事だった。

 その後は、ごろごろ死んでいる人、傷を受けた人たちは、ものすごい悲鳴をあげている。ここに居たら大変だ、と怖くなって、川の下流の方に逃げて行った。


(元の壕に帰る)


 川下は、ちょっと安全な場所だったから、そこで日が暮れるのを待ち、自分たちの元の壕にもどろうという事になった。

 元の壕に帰るには、山の地形で、もう一ぺん玉砕場を通らなければならないし、暗闇のなかを、倒れている(死んでいる)人たちの間を、手さぐり、足さぐりで通って、北山(ニシヤマ)の頂上まで登り、そこから尾根を越えて南側に降りていったら泉があるので、そこで一晩すごした。

 そこには、島の東の海岸にいた人たちが避難していた。二日間、食べ物もなく、水だけ飲んで山を登ったり、降りたりして、三日日にやっと元の壕に帰る事が出来た。上陸したアメリカ軍は、一ぺん船にもどり、日本兵が、だいぶ生き残っている事を知ったかどうか、再上陸して来た。アメリカ軍が再上陸しない前は、部落を出歩く事も自由で、山羊や牛、豚を捕まえてはつぶし、食事もそんなに不自由しなかったが、生き物も捕りつくし、仔山羊なんか捕まえて、壕の近くで飼ったりもしていた。

(アメリカ軍再上陸の後)


 再上陸の後は、ずーっとアメリカ軍は居続けて、部落に降りる事も出来ない状態になった。

 しばらくして、伊江島の人たちが入って来て、アメリカ軍は、部落内にテントを張り、陣地を構え、伊江島の人たちの保護をしながら、時どき斥侯を出して、山に登って機関銃を射ったりするものだから、おじいさんの掘った壕にも居られなくなり、山の中に、新しい壕を掘って、終戦まで生活していた。

 食べ物は、底をついて、芋も掘りつくしたが、かずらを植える余裕もないし、ソテツを倒して、デンプン採ったり、野草を食べたり、ソテツは、五月頃から食べはじめていたでしょうね。

 夜になると、ソテツを倒しに行ったが、その頃、アメリカ軍は、あっぢこっちに地雷を埋めてあって、それを踏んで死んだ人もたくさんいる。

 稲が植えてあったから、穂を摘んで、一升ビンで精米して、ソテツを混ぜて食べましたね、あれは、だいぶ助かった。

 たまたま米軍の船が特攻機にやられた時など、缶詰、メリケソ粉、卵の粉、コンピーフ、ビスケット、野菜缶などが、海岸に流れてきたのを、夜になって採りに行ったりもした。

 慶良間海峡のアヌガラという所は、よく漂流物が着くところだったが、年配の人たちが採りに行って、アメリカの軍艦から機銃されて、やられた人もいる。

 みんな命からがら逃げ帰ったり、食べ物あさりも命がけで、結局はそういう状態が八月まで続いて…

 アメリカーと、最初に出会った人は、"芋掘りをしているところを掩まったが、別に撲ったり、乱暴されたりもしなかった"という情報が入ったりしているところに、島の防衛隊が、斥侯に出て、アメリカーの監視哨を突破して・部落内に入り込んで、伊江島の人たちをびっくりさせたらしいが、伊江島の人たちの話では、アメリカーは、何にも危害を加えない、食糧もくれると、いう話が伝わって来た。

(山を降りる)


 僕らは、山にいて食べる物もない、このままだと死んでしまう、それより山を降りようと、集団で(八月)十七、十八日に山を降りた。

 しかし、日本兵が監視しているから、そこを突破したいと、降りられないし、芋掘りに行くんだと、嘘をついて、(部落の)反対側に夜おりて行ったら、アメリカーが待っていた。

 あっちこっちの山から、三日くらいで全部おりてきたようだった。

 部落内の残っていた家には、伊江島の人が住みついているので、山羊小屋に床を張ったり、アメリカテントに集団(数家族)で入ったりした。

 最初に捕虜になったのは、郵便局長の一家でね。

 長男は、手を引いて歩るけるくらい、長女は、おんぶして、アガリの山によくソテツを採りに行っていた。

 いつものように、ソテツを採りに行くところを、待ちかまえていたアメリカーに捕えられて、一家三名とも捕まったという情報が流れてきた。

 また、局長の姉さんが、玉砕場で負傷しているところをアメリカーに救けられ、座間味で治療をうけて元気になり、島にもどってきていたらしい。

 その時、米軍のことをいろいろ話して、それから、あの人(局長の姉さん)は、連絡係をやっていたかも知れない。

 局長は、子どもを抱えているから、山に登って説得なんか出来なかったんではないか。

 母の実家は、北山(ニシヤマ)に行った時、別れて壕に残したつもりだけど、どういうわけか追いついて来て、手榴弾の爆発のとぱっちりで、当時三歳の一番末の女の子を残して全滅した。
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