15年戦争資料 @wiki

玉城源二『巡査に連れ出され処刑された二人の少年』

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
今日の訪問者 -
渡嘉敷村史資料編(昭和62[1987]年3 月31日出版) P406

巡査に連れ出され処刑された二人の少年

阿波連 玉城源二(青年団分団長当時十九歳)
  • (引用者注)括弧つき小見出しは引用者が付したもので原文にはありません

(特攻隊がきてから)


 私はね、十九年に南洋のトラックから帰ってきたら、すぐ徴用されて、与那原に行かされ、船着場かね、与那原は、砂浜で山原船も着けられない所だから、そこの埋立作業をさせられ、徴用解除で一〇・一〇空襲の前には、島に帰っていました。渡嘉敷に帰って来たけど、ここも兵隊が一杯で、阿波連にも特攻隊がだいぶ入って、各家庭に分宿して、私の家にも二、三名いましたよ。

 私は、当時阿波連の青年分団長をしていて、毎日、朝から鐘を鳴らして青年たちを集めるのです。

 しぱらくすると、兵隊がやって来て、班別になって、海岸地帯に壕掘りですよ、掩体壕ですよ、特攻艇のね。とにかく、いつも兵隊と一緒でした。

 私たぢの避難壕は、阿波連のカーラガシラに作った。一〇・一〇空襲の被害は、漁船がやられた程度で、たいした事はなかったが、マーミナグスクのお父さんが、やられて亡くなった。

(三月二三日の空襲)


 それよりも、三月二三日の空襲が大変だったよー その日、父がやられて、みんなと一緒に行動する事が出来なくなって、私は、母と二人で父をかついで、渡嘉志久の野戦病院に運んだ。道も今の道じゃないよ、あれは戦後、造った道で、その時は、山道よ、今は、草木が密生して歩けなくなっている旧道を通って病院に行き、二晩過ごして、病院の内は、軍人と民間に仕切られて、軍医や衛生兵がいた、看護婦はいなかったですね。

(米軍の上陸)


 二七日、病院の前の浜から米軍の上陸が始まった。病院には、大勢の病人、負傷者が多く収容されていたが、米軍の舟艇は近づいて来るし、その人たちをほっぽり出して歩げる人だけで逃げ出した。

 私も、親父に、戦(イクサ)だ、しかたがないから、置いて行くよと、生き別れです。逃げながらも後から、どんどん発砲されるし、気が気じゃないが、どうする事も出来ない。それから二日後にもどって見ると、全部焼けて、人も死んで何も残ってなかった。


 私と母は、渡嘉志久の病院から米軍に追われ、山に逃げ込んだが、阿波連の人たちが、オンナガーラに避難しているという事を聞いて、そこに行った。

(オンナガーラへ)


 そこには、阿波連の人たちが七、八○名ほど避難していて、そこで長い事暮した。

 阿波連からオンナガーラに行くには、右と左の二つの谷間の道、道ともいえない道で、薪とりなどに通う細い道です。阿波連の人たぢは、そこで二つのグループに別れて行動し、私たちは、こちら側の谷間にいて、運よく助かったが、もう一つの谷間をたどって行った人たちは、玉砕場に行き、ほとんどが亡くなった。

 玉砕場で生き残った人たちもいます。今の阿波連の区長をしている金城重英さん、大城良平と奥さん、大城ヨシと、運強く生き返った人たちもいます。

 なかには、家族で殺し合いして、家の長である父親が、自分の妻や子どもを殺して最後は、自分も首吊って死んだり、死にきれず助かった人もいます。

(手榴弾を二個ずつ渡され)


 二七日、男の人には、手榴弾が二個ずつ渡された。敵の手に落ち、生きて辱めを受けるより、最後の時に使えということだった。

 私も二個渡され、幾度か安全ピンを抜こうとしたが、そのたびに家族から、敵はまだ見えない、もう少し待ちなさい、と引きとめられた。

(二人の少年)


 私がオンナガーラに居た頃(日時不詳、防衛隊生き残りの人たちの記録には、五月初旬)一番印象に残っているのは、親戚の子で、金城幸太郎、当時十六歳と小嶺武次、当時十七歳で、二人は従兄弟だった。

 私に兄さん、僕たち、やっとここまで来る事が出来た、といって私を尋ねてきた。種々きくと、二人は、座間味に捕虜になっていったが、どうして、また渡嘉敷に来たかは、よく聞かなかったが、阿波連に生き残った人たちがいる。という情報をたよりに阿波連にたどり着いた。

 その頃、島に安里巡査という人がいて、その人に、ちょっと山の方まで呼び出しだといわれて、二人とも山に連れて行かれて、二人は、日本軍に渡され、巡査は帰ってしまった。

 それから二人は、どこをうろついたか知らないが、オンナガーラまで逃げてきたと話していた。

 最後は、日本軍に処刑された。その事が一番印象に残ってかわいそうだった。

(食糧捜し)


 オソナガーラに居た頃、手持ちの食糧といえぽ、鰹節ぐらいで、若い老たぢは、夜中、ティサグイ(手探り)して食糧を捜しに行った。

 元の避難場所など、そこに行くと、逃げたり、玉砕した人たちの食糧が置き去りにされていた。今日死ぬか、明日死ぬか判らない戦争中だから、何処の誰の物か、そんな事などかまわずに、手あたり次第、取って来ては、食べていた。

 そうした食糧もなくなり、渡嘉敷の部落の事もよく知らないし、阿波連に帰る事にした。六月頃だったと思うが、出発の時は、すごい大雨で、移動中に敵の陣地を見つけて、これは昼間は通れない、という事で、夜まで待って、私が先頭で夜明け方、無事、阿波連の最初に避難小屋を作った所に着いた。

 そこでは、若い者は、兵隊に協力しながら、夜になると、稲刈りをしたり、芋掘りなどやって、オンナガーラにいるときより食べ物は少し楽になった。

(兵隊に捕まる)


 そこで、私はひどい目にあった。若い者を引率して、ウキという所にある田の稲刈りをして、明け方の四時頃、帰って来たら、兵隊につかまって、もう一度行ってこいというのだ。私は、これから行くと夜は明けるし、敵の船は、いっばいで危険だから行かないと答えたら、なかの、古兵殿と呼ばれている一等兵が、さからうな、と、どなって、私の臍に銃口を突きつけ、遊底をガチャガチャさせて、バーンとやられそうになって、今日は殺されるなーと思った。

 これらは、自活班と呼ばれている連中で、隊長は蓮華少尉(※)で、この連中から、食糧捜しに何度も強制され、今いった様な事があったりした事がつらかった。
  • (引用者注)連下少尉

 ここにも長い事は居れないので、次は、ヌラクールに行き、また渡嘉敷の方に移動して、今の青年の家あたりで、一緒に行動して来た人たちと別れた。


(家族の安否)


 父親が三月二三日の空襲で、機銃にやられ、病院を攻撃されて死に、七三歳になる祖母を親戚にあずけたら、この人たちと一緒に玉砕場で亡くなった。

 その時、母が四か月の身重で、これは山の中で生まれるのではないかと心配だった。

 避難中も苦しそうに息ハアハア(肩で息をして)栄養失調で瀕死状態になったりしたが、なんとか阿波連までたどり着く事が出来、比嘉範夫さんの家が焼き残っていたので、そこでお産をしたよ。

 この子は三女でね、戦後、阿波連で生まれた第一号です。現在三七歳になるよ。
目安箱バナー