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『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同

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『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同

  • (引用者注)この稿は、「関西沖縄文庫」様よりご提供いただいた伊敷さん論文の別刷(下記写真)をタイピングしなおしたものです。「関西沖縄文庫」様に深く御礼申し上げます。
  • 関西沖縄文庫:関西の沖縄情報・文化・芸能の発信基地である「関西沖縄文庫」が大阪・大正区から発信 http://okinawabunko.hp.infoseek.co.jp/
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迫手門学院大手前中・高等学校
紀要第五号 1986年3月30日

『渡嘉敷島における戦争の様相』と
    『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同
伊敷 清太郎

  • (引用者注)大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出されました。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出されました。参照:書証一覧
  • (引用者注)文中のリンクマーク箇所に「?」が付加されているものは、資料の収集もしくはアップロードが出来ていないものです。読者の皆様にはご迷惑をおかけしますが、私の努力目標マークとしてご了承くだされば幸いです。


はじめに


 琉球大学図書館の『渡嘉敷島における戦争の様相』(『慶良間戦況報告書』、渡嘉敷村、座間味村、所載)と沖縄県渡嘉敷村役所にある『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(渡嘉敷村遺族会、一九五三・三・六)は、共に、沖縄戦における渡嘉敷島の戦闘を記録したものである。その内容、文章は酷似しており、戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社、一九五〇・八・十五)を踏襲している点でも同じい(ママ)

 『渡嘉敷島における戦争の様相』(以下『様相』と略す)について、曽野綾子氏は、『ある神話の背景』(文芸春秋・一九七三・五・十)の中で、「恐らく初めて星氏によってジヤーナリズムの明るみに出された」ものだと述べ、また、「星氏によって発見された琉大図書館の資料」であるとも説明している。が、この指摘は正しくない。一九五九年四月十日に刊行された『みんなみの厳のはてに』(金城和彦・小原正雄編、光文社)に、その梗概が載っているからである。二二二ページ「二 渡嘉敷島の戦闘」と章題のつけられた前文には次のようなことが書かれている。

 沖縄本島周辺の島々の戦闘は、沖縄本島の戦闘とは、また違った様相をもっていた。ここには慶良間群島渡嘉敷島の戦闘の模様を紹介しよう。この記録は、当時の村長古波蔵村惟好(こはくらいこう)[※1]氏と召集された村民でつくられた防衛隊の隊長尾比久孟祥(おびひさもうしょう)[※2]氏の話をもとにして書かれた渡嘉敦村の公式文書を抄録したものである。

 編者は、『様相』を「抄録した」と述べているけれども、両書を比較してみると、表現の異るところが目につく。

 また、同じく金城和彦の手になる『愛と鮮血の記録』(国会財政研究委員会出版局、一九六六・一・一)には、その全文を掲載しているが、これも『様相』の正確な再録とは言いがたい(P八四~P八八参照)。


 昭和二十年、米軍に上陸された沖縄の渡嘉敷島の戦記は、軍・民、怨讐の記録だという。琉球大学の図書館に眠りつづけているというガリ版刷の"資料"は、ごく一部の人の知るところであっても、一般にはほとんど知られていない。
                  (「戦記に告発された赤松大尉」)

と指摘し、原文を引用しつつその内容を紹介している。「ガリ版刷の"資料"」が、それまで、一般に知られていなかったのは事実であるが、その内容については、先の二著で、すでに、明らかであったこと言うまでもない。

 以上述べた点から、曽野氏の推察は、誤りであることが知られよう。星雅彦氏以前に、『様相』は「ジャーナリズムの明るみに出され」ていたと言わなけれぱなるまい。

 一方、『慶良間列島渡嘉敦島の戦闘概要』(以下『概要』と略す)が、一般の目に蝕れたのは、赤松元大尉来沖の年すなわち一九七〇年三月二七日付沖縄タイムスが最初であろう。ただ、それは「渡嘉敷島戦闘の概略」という見出しで、「集団自決の日、昭和二十年三月二十八日」の項のごく一部を引用しているに過ぎない。

 『概要』を詳細に紹介したのは、管見に入る限り、『週間(ママ)朝日』の「集団自決の島――沖縄・慶良間25年目の暑い夏」(一九七〇・八・二一)である。記者の中西昭雄氏は、その中で、『概要』を引きながら、極限状況の中の集団自決問題について考察している。

 それまで『概要』を読んだ者がなかったわけではない。星氏もその一人であった。氏は、赤松元大尉来沖の二年前に、それを渡嘉敷村「役所で読んだ」(「25年前は昨日の出来事」、沖縄タイムス、一九七〇・四・三)という。

 星氏は、『鉄の暴風』、『様相』、『概要』の文章のよく似ている点から、相互に関係のあることを、新聞の随筆欄中で指摘したのである。

 その星氏の文章から示唆を受け、三書のつながりについてより詳しく論じたのが、曽野綾子氏であった。曽野氏は『ある神話の背景』の中で、三書の成立順序を、『鉄の暴風』→『概要』→『様相』の順であろうと緒論づけたのだが、その論拠とする点には多くの問題がある。それについては、『教育研究所紀要』第五号(追手門学院教育研究所、一九八六・三・二十三)の拙論「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」を参照されたい。

 『様相』と『概要』は、マスコミに別々に取り上げられ、星氏を待ってはじめて、その類似性に疑問が投げかけられたのであった。そしてそれを発展させ、考察したのが曽野氏であったわけだけれども、氏の説には実証性を欠く憾みがあることを指摘しておこう。

 『様相』と『概要』が、『鉄の暴風』の影響下に成立したであろうことは、まちがいない。しかし、それは決して曽野氏の言う通りの順序ではないであろう。

 さて、『概要』は、現在、渡嘉敷村役所にある。だが、後人の手によってペンや鉛筆で修訂された跡が各所に見受けられ・そのまま文献として使用するのにはどうかと思われる点が多い。特に『様相』との前後関係を比較検討する場合など、問題があるであろう。

 ここに参考に資すべき一つの資料がある。それは那覇市在住の山田義時氏の所蔵する『概要』である。曽野氏のものと同じくコピーであるが、山田氏によれぱ、この『概要』のコピーは赤松元大尉来沖の半年から一年程前、資料収集の必要から入手したものだという(その時期を推定すれぱ、一九六九年三月~九月頃ということになる)。当時渡嘉敷村役所には複写機がなく、氏は『概要』を那覇へ借り出し、コピーしたとのことであった。

 曽野氏の場合は、一九七〇年九月十七日、大阪で『週間朝日』の中西記者から、コピーをもらっている(『ある神話の背景』P三〇~P四四参照)。氏はこのコピーによって、『様相』との比較を試みたわけである。山田氏と曽野氏のコピーの間には、約一年の差があるけれども、山田氏のコピーから推して、曽野氏のそれもほぼ元の形をとどめていた、ということがいえそうである。

 筆者は「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」疑問を感じ、曽野氏の各論点を追考してみたが、氏とは逆の結論に達した。『概要』は、文の達意さ、明解さの点において勝っており、はっきりと『様相』を推敲した跡がうかがえたからである。

 以上、『概要』『様相』のこれまでの取り扱われ方について簡単に述べてみた。本稿の目的は如上の点をふまえて、両書の異同を逐一指摘し記録することである。大方の参考にでもなれぱ幸甚としたい。


※1 こはぐらのぷよし
   「古波蔵惟好氏」の誤り。
※2 やびくもうしょう
   「屋比久孟祥氏」の誤り。


〔凡例〕


一、テキストは『様相』を用いた。

二、線の右に小さく示してあるのは『概要』の表現である。

三、『様相』になく、『概要』にある表現は、(  )の中に傍書しておいた。

四、『様相』にあって、『概要』にない表現の場合はという記号を用いた。

五、『概要』は句読点に対して意識が低いが、それにあたる個所に一~三字分程の空白がある。それが明確な場合のみ右に口で示した。

六、『概要』『様相』ともに、段落が変わっても一字下げはしていないのが特徴である。『概要』の段落が変わる場合、本文右に斜線\で示しておいた。

七、誤植と誤る心配がある場合「ママ」と傍書してある。

八、旧字、略字、草行書体の漢字は、できるだけ常用漢字に改めたが、歴史的仮名遣い、変体仮名はそのままとした。

九、渡嘉敷村役所にあるオリジナルの『概要』の加筆訂正部分は、注によって明らかにした。その中で (役)『概要』とあるのは、村役所のそれであり、 (山)『概要』とあるのは、山田氏所蔵のコピーの謂である。両『概要』に共通する部分は、単に、『概要』とした。


様相と概要の異同の実際


(クリックすると拡大)

上写真のような記述を、本wikiに適した記述に変えたものを次のページ以降に記します。
様相と概要の異同の実際



琉球大学図書館。日付なし。手書き・ガリ版刷り。伊敷論文よりの復元版。

渡嘉敷村役所。一九五三・三・六。伊敷論文よりの復元版。





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