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控訴人準備書面(2)2/2

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控訴人準備書面(2)2/2



第2 英文報告書にみる自決のアドバイスと校長ら教員による指導

1 証拠提出された英文報告書の記述

原判決は、米軍の『慶良間列島作戦報告書』(乙35の1、2)の座間味村の状況について「明らかに、民間人たちは捕らわれないように自決するように指導されていた」との記述があることを極めて重要視し、「沖縄に配備された第32軍が防諜に意を用いていたに通じる」と述べて(原判決p203~204)、「集団自決に梅澤隊長が関与したこと」の認定資料として認め(同p204~205の5行目)、その上で真実相当性の結論に至っている(同p205(カ))。

『慶良間列島作戦報告書』の証拠評価に関する原判決の問題点は、控訴理由書p49~で詳細に述べたとおりであるが、被控訴人らは、米軍の「慶良間列島作戦報告書」(乙35の1、2)に記載されていた「座間味島」に関する報告書の英語原本を今になって提出してきた(乙114の1)。

該当英文は、
「Apparently、civilians had been advised to attempt suicide to avoid being captured.」
(明らかに、村民たちは、捕まることを避けるため、自殺を試みるように「アドバイス」されていた)
となっている。被控訴人らが今まで英文を提出しなかったのは、「アドバイス(助言)」は、その語義からしても到底「命令」と解することはできないことに加え、英文においても受け身形がとられており、自決を「アドバイス」した主体が不明であることにあると思われる。この記載をもって「軍が」自決を指導した証拠であるとし、しかも、それが軍の防諜目的によるものだとした原判決の認定には、予断に基づく論理の飛躍があることは明らかである。

2 校長ら教員による自決の助言ないし指導

美恵子、恒彦は、壕の中で校長らの壮絶な自決のありさまを目撃しており、その証言は、『沖縄県史第10巻』(乙9p739)、『座間味村史下巻』(乙50p31)『母の遺したもの』(甲B5p129~135)、『潮だまりの魚たち』(甲B59p54)に収められている。

美恵子が上陸してきた米兵から銃剣をつきつけられたこと等を話すと壕内は騒がしくなる。恒彦は、「殺される」ということだけが頭の中をかけめぐったと証言している(甲B59p54)。

そのとき校長は、
「めいめい自分で死ぬ方法を考えてください」(甲B59p55)、「死ぬ気持ちを惜しまないで、立派に死んでいきましょう」(甲B5p130)
と言い、かねてから用意していたカミソリや手榴弾による壮絶な自決が始まる。

また、ここで亡くなった教員の内間敏子は、忠魂碑前に向かう途中教え子に、
「座間味はアメリカの船団が取り巻いているのよ。先生もこれから忠魂碑前で玉砕するから、あなたも立派に死になさいね」
と言い、自決直前の壕の中では、
「いざとなったとき、生き恥をさらしてはいけませんよ」
「捕虜になれば、敵の虐待を受けて殺されます。“玉砕”はこわくはありません」
とやさしく言葉をかけていた(甲B5p135)。

3 自決を助言した主体と目的

校長や内間教員が宮平美恵子や教え子たちに言った「死ぬ気持ちを惜しまないで、立派に死んでいきましょう」「いざとなったとき、生き恥をさらしてはいけませんよ」「捕虜になれば、敵の虐待を受けて殺されます。玉砕はこわくはありません」などといった指導は、捕まって生き恥をさらすより自決を選択するようアドバイスするものであったといえる。即ち、『慶良間列島作戦報告書』における自決のアドバイスそのものである。

このことは2つの事実を示唆する。第1に、忠魂碑前の集合を命令したのが盛秀助役ら村幹部であったことも踏まえると、座間味島において自決を助言していたのは、軍ではなく、校長や教員らを含めた村幹部であったことが浮かび上がってくる。第2に、教員らによってなされた自決の助言ないし指導は、あくまで教え子らを、米軍の暴行・虐殺から守り、生き恥をさらして人としての尊厳を奪われないためになされた助言(アドバイス)そのものであり、軍の「防諜」を主目的とする命令ではなかった。

4 慶留間島での自決指示が意味するもの

更に、乙35の2には、「日本兵という主語が明記されているのは慶留間のケースだけ」と林教授自身が記載している。このことは、座間味島や渡嘉敷島では、軍が「自決を指導」していた事実がないことの証拠ともいえよう。そして、その唯一のケースが記載されている慶留間島(げるまとう)に関する乙35の英文によれば、住民は兵士らから、まず「山中に隠れろ」と言われており、自決の指示は条件付きのものである。それは、宮城初枝や宮里育江らが、交付された前記の「万一のための手榴弾」と同様、軍の「善き関与」であったことが分かる。

結局、『慶良間列島作戦報告書』の記載は、《隊長命令》を否定すべき「軍の善き関与」を語っているとはいえても、《梅澤命令》を肯定すべき「軍の関与」を示しているとは到底いえないのである。

第3 垣花武一の陳述書について

1 はじめに

 当時15才の阿嘉島の住民であり、阿嘉島で結成された少年義勇隊の一員であった垣花武一の証言は『沖縄県史第10巻』に「阿嘉島の戦闘経過」(乙9p722~)として、また、『座間味村史下巻』に「あこがれの軍隊-少年兵としての戦闘参加-」(乙50p144~)として収められている。この度、垣花武一の陳述書(乙105)が被控訴人らから提出された。それは、阿嘉島における集団自決に関するものであるが、伝聞にもとづく不確かな情報が多く、重要な点において、これまでの自らの証言とも他の信用すべき住民証言の内容と食い違うところが多々あり、極めて信用性に乏しい。

2 阿嘉島における集団自決(第3項)

 陳述書によれば、阿阿嘉島でも3月26日から27日にかけて阿嘉島の住民約380名が、杉山という山の中に集まり、手榴弾を抱えた人を中心にいくつかの円陣を作り、目隠しをし、集団で玉砕しようとしたという。3名の日本兵が丘の上に機関銃を構え、私たち住民に銃口を向けたが、防衛隊がきて、「今すぐ死ぬことはないしばらく待て」と伝えたため、自決には至らなかったとある。

 同様の話は『座間味村史下巻』に収められた垣花武栄(武一の父)の証言(乙50p130~)にも出てくる。「3月27日、山奥(スギヤマ)に避難していた部落民は、もはや戦況がこのようになっては、玉砕以外に道はないということで、全員が広場に集まって機関銃を前に時を待った。そしてみんな口々に『天国に行くんだよ、みんな一緒だから怖くないよ』と家族同士ささやきあっていた。ところが『集団自決』寸前になって、防衛隊員の命令で、『米軍は撤退したから自決することはよせ』ということになり、その場は解散することになった」(p131)。

 また、『沖縄県史第10巻』でも当時15才だった中村仁勇(武一の親戚)が次のように証言している。「26日の斬り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って『部落民をどうしますか、みんな殺してしまいますか』ときいたわけです。野田隊長は、『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』と指示したそうです。」(乙9p708)「翌日、山の上をみると、そこに谷間に向けて機関銃を据えて兵隊が3名ついているのが見えました。後で聞いたんですが、糸林軍医が2名の兵隊をひきいて銃座についていたということです。その友軍の機関銃を見て、住民は、いざとなったら自分たちを一思いに殺してくれるんだと、安心していました。みんな一緒に玉砕できるんだということで、かえって混乱がしずまったんです。当時の私たちは、とにかくアメリカにつかまったら、マタ裂きにされて、大変になるんだと、そればっかりがこわかったわけですから、敵が上陸してきたら玉砕するんだとみんなが思っていたわけです。」(乙9p709)

 さて、『座間味村史下巻』に収められた武一の証言によれば、少年義勇隊だった武一は、3月26日の晩から行われた斬り込み隊に編成され、出陣の合図を待っていたという。義勇隊の斬り込みは中止されたが、それ以後もずっと軍と行動を共にしていたとあり、27日の杉山での場面は出てこない(乙50p148~149)。武一が杉山に集まったかどうかは疑わしい。しかも重要な点で粉飾が施され、部隊が住民を自決に追い込もうとしたように歪曲されている。住民が手榴弾を抱えていたことや、日本軍の兵士が銃口を向けていたことは、武栄の証言にも中村仁勇の証言にもない(中村仁勇の前記証言では、銃口は谷間に向けられていたとある)。また、防衛隊員の伝令で自決が中止されたことは共通しているが、武栄の証言では「米軍は撤退したから自決するのはよせ」との命令があったことが語られているが、武一の陳述書では「今すぐ死ぬことはない、しばらく待て」と伝えられたとされている。そもそも安全地帯であった杉山への避難は、野田隊長が「早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ」としたことによるのである(乙9p709)。

 『沖縄県史第10巻』ないし『座間味村史下巻』に収められた中村仁勇の証言(34年以上前)、垣花武栄の証言(18年以上前)が、その信用性において武一の陳述書より格段に上回ることは論じるまでもない。  

3 「全員玉砕」の打電(第4項)

 武一は陳述書において「慶良間列島の日本軍は、軍とともに住民を玉砕させる方針だったのだと思います」との意見を述べ、その理由として柴田通信隊長が、3月26日に軍指令にあて「軍も住民も全員玉砕する」と打電し、無線機を破壊したことがあげられている。

 ところが、柴田通信隊長の話は、1974年に発刊された『沖縄県史第10巻』に収められた武一の証言にも出てくる。そこでは、「通信隊の柴田少尉は、この調子では部落民も兵もだめということで、どうせ死ぬものならと、『阿嘉島守備隊、最後の一兵に至るまで勇戦奮闘、悠久の大義に生く』の電報を打つと、受信機だけを残して発信機をたたきこわしました」とある。

  内容の迫真性、通信内容、語られた時期、『沖縄県史第10巻』の公的性格から、そこに収められた証言内容が正しいことは明らかであろう(打電された通信内容は中村仁勇の証言とも合致している。乙9p705)。そこには部隊の玉砕はあっても「住民の玉砕」は含まれていなかった。しかも、それは「どうせ死ぬものなら」という柴田通信隊長の考えによるものであった。

 柴田通信隊長による打電は、「住民の玉砕」が慶良間列島の日本軍の方針だったという武一の推測をなりたたせるものではなかった。陳述書は、なんとか自決命令を導き出そうと事実を脚色する被控訴人らの姿勢を浮き彫りにしている。 

4 石川郵便局長の証言(第5項)

 陳述書のなかで、武一は、日本軍が座間味村の村幹部に集団自決を指示していたという話を座間味村の郵便局長だった石川から聞いたという。垣花は昭和42年に郵便局につとめ、局長の石川の話を聞く機会があったようだが、「村の幹部は、米軍が上陸したら軍の足手間といにならぬよう住民を玉砕させるよう、軍から命令されていた」と話していましたとし、昭和20年の2月ころ、「村の三役が石川さんたち要職者を村のある場所に秘かに集め、米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている、と打ち明けたということでした」という。

 この石川郵便局長の話は、武一の伝聞に過ぎないが、座間味島の住民の証言が記録された『沖縄県史第10巻』にも『座間味村史下巻』にも『母の遺したもの』にも『潮だまりの魚たち』にも一切登場しない。その内容の重大性に照らせば、不自然極まりない。座間味島にきた武一が「在職中何度も聞かされた」というのだから、石川郵便局長が当時、この話を秘匿していたわけでもない。武一自身も伝聞として語る機会はいくらでもあったにもかかわらず、その証言録のなかでは、触れられていない。

 そもそも、昭和20年の2月頃は、島に米軍が上陸するようなことは日本軍においても全く想定されていなかったのである。梅澤隊、赤松隊は、沖縄本島に向かうと考えられていた米艦隊に夜陰に乗じて特攻ボートで体当たりする特攻隊であり、陸戦を戦う火器の準備もなかったのである。部隊が、この時期に、想定もされていない米軍上陸の事態に備え、住民の玉砕を命令したなどということはありえない。

 杉山での集団自決のことや柴田通信隊長による打電の話にみるように、本陳述書における武一の証言は、粉飾と歪曲に満ちており、そこには、なんとしてでも軍命令による住民玉砕を打ち出そうとする強い意図が働いていることがみてとれる。石川郵便局長の話もまた、全く信用性がないものであることは明らかである。

5 野田隊長の謝罪と訓示(第6項)

 陳述書は、昭和47年3月26日、野田戦隊長が部下を引き連れ阿嘉島の慰霊祭にきたことに触れている。そこで住民に憎まれていた野田戦隊長が住民虐待のことを「申し訳なかった」と謝罪したことが述べられている。

 阿嘉島における食糧難の実情が、渡嘉敷島や座間味島に比べて深刻であり、食糧をめぐる島民と兵士とのいさかいが頻繁にあり、厳しく取り締まる必要があったことについて、合同慰霊際に訪れた将校たちから聞かされたことを『沖縄県史第10巻』において照喜屋定森が証言している(乙9p726)。野田戦隊長は住民から反感をもたれていたようであるが、当時15才だった中村仁勇は「ただ一つ、住民に対する措置という点では立派だったと思います」と証言しており(乙9p708)、野田戦隊長は、阿嘉島では住民の自決者を出さなかった。 

 また、陳述書には、慶留間島では住民の大半が自決しているが、2月8日の大詔奉戴日に、野田戦隊長が「敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示したためではないかと話したところ、野田氏は「俺があんなことを言わなければ」と、後悔の言葉を口にしていたとあるが、慶留間島の集団自決が野田隊長の訓示が原因だったというのは極めて疑わしい。そのような話は、『沖縄県史第10巻』及び『座間味村史下巻』に収められた慶留間島の住民の証言には出てこない。

 いずれにしても、何らの強制的契機をもたない約2カ月前の慶留間島での訓示が、慶留間島における集団自決の命令であるわけはないし、座間味島や渡嘉敷島での集団自決の原因となったわけでもなく、《隊長命令》の根拠となるものではない。 


第4 推知報道と特定性について

1 問題の所在と最高裁判決

 原審においては、特に『沖縄ノート』に関して、控訴人梅澤、赤松大尉が特定できるかという特定性、名誉毀損性が争点となったが、原判決は、いずれをも肯定しており、結論的には極めて正当な判断である。

 しかし、なおも被控訴人らは、原審と同じく、特定性がない旨の主張を繰り返しているところ、原判決も「特定情報を明示していなかったとしても」(原判決p101)として、あたかも『沖縄ノート』の記載自体では特定できないかのごとく判示している点で、若干の問題があるので、念のため整理しておく。

 この問題、すなわち、本件記述2(原判決p5)の特定性、名誉毀損性の有無は、「座間味島」の集団自決、すなわち、『沖縄ノート』に記載された「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決」という「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷島の酷たらしい現場」における「日本人の軍隊の-中略-という命令に発する」「この事件の責任者」が控訴人梅澤だと特定されているかどうかにかかっている(なお、被控訴人大江は、「この事件の責任者」は、慶良間列島の2人の守備隊長のことであるとし、控訴人梅澤も含んでいることを認めている。〈乙97p11〉)。

 しかし、特定性の判断基準に関して終止符を打ったといえる最高裁平成15年3月14日判決民集57-3-229(その判例解説として甲C18p143~167)によれば、控訴人梅澤が『沖縄ノート』の記載自体から「推知」されるとも言えるし、仮にそうではないとしても、控訴人梅澤と面識を有する者や、『鉄の暴風』や引用されている上地一史著『沖縄戦史』を読んだことのある不特定多数の一般読者において特定が可能である以上、名誉毀損の特定性においても問題がないことは明らかである。「座間味島」における「日本人の軍隊」の「事件の責任者」は、控訴人梅澤一人しかおらず、控訴人梅澤と面識等のない不特定多数の一般人においてさえも「推知」可能な十分な重みを持つ特定情報なのである。

2 少年法61条の推知報道に関する最高裁判決

 上記最高裁の原審は、少年法61条の「推知」報道に該たると判断したが、最高裁は、そもそも「推知」報道に該たらないとしながらも、しかし、個別的な名誉権等の侵害は認め、それら個別的な違法性阻却事由等が判断されていないことを理由に差し戻した。最高裁は、「推知」は否定したが、名誉権侵害に関する「特定」については、より広い基準(後述)で肯定したのである。

 そうとすれば、少年法61条の推知性は、名誉毀損性に関する特定性が肯定される範囲より狭い範囲の概念といえ、「推知」に該当すれば、当然、名誉毀損に関する「特定」がなされていると判断されてよいことになる。

 最高裁は「少年法61条に違反する推知報道かどうかは、その記事等により、不特定多数の一般人がその者を当該事件の本人であると推知することができるかどうかを基準にして判断すべき」とする。

 最高裁のこの基準に関しては、甲C18p153~に最高裁判例解説に詳しい説明がされているが、要するに、「推知報道」というためには、「その記事等自体」に「本人と一義的に特定できる情報」が記載されている必要があり、その場合には、名誉毀損被害者と「面識等のない不特定多数の一般人」においても、推知可能だといえる。

 本件『沖縄ノート』自体に記載された「座間味島」における「日本人の軍隊」の「事件の責任者」は、隊長であった控訴人梅澤以外おらず、少年法61条の列記事由たる「氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等」と同じく「本人と一義的に特定できる情報」であることは明らかである。例えていうならば「日本国第○代総理大臣」と同じように、その職業から「本人と一義的に特定できる情報」が、『沖縄ノート』自体に記載されており、控訴人梅澤と「面識等のない不特定多数の一般人」においても「推知」することが可能なのである。 

 この点、被控訴人大江は、自ら『沖縄ノート』の本件記述2の「この事件の責任者」と書いているのは、「慶良間列島の2人の守備隊長のことです」として控訴人梅澤をも対象としていることを認めている(乙97p11)にもかかわらず、控訴人梅澤は特定されていないとする。被控訴人らの主張を善解すれば、「座間味島」における「日本人の軍隊」の「事件の責任者」とあっても実名が記載されなければ、沖縄戦等に知識がない者には、それが控訴人梅澤と分からないのではないかという主張ともいえよう。

 しかし、この主張が失当であることは、次の例からも明らかであろう。
  「1994年ノーベル文学賞受賞者」(この年文学賞は一人)
  「1994年日本人ノーベル賞受賞者」(この年日本人受賞者は一人)
  「8人目の日本人ノーベル賞受賞者」
  「2人目の日本人ノーベル文学賞受賞者」

 これらは、1人の同じ人物を指すが、これらの情報を提供されても即座に誰々と分かる者は希であろう。このように「推知」の概念は、その記載だけを見て即座に本人と現実に分かるものだけが含まれるというものではない。あくまで「本人と一義的に特定できる情報」が記事自体から提供されているかで決せられるのである。

3 最高裁判決が示した特定性の判断基準

 上記最高裁判決は、上記の基準に照らし、当該表現を少年法61条の「推知報道」に該当しないと判断したが、名誉毀損の要件としての特定性については、次のとおり、より緩やかな基準をもって判断し、これを肯定している。 

 「本件記事に記載された犯人情報及び履歴情報は、いずれも被上告人の名誉を毀損する情報であり、また、他人にみだりに知られたくない被上告人のプライバシーに属する情報であるというべきである。そして、被上告人と面識があり、又は犯人情報あるいは被上告人の履歴情報を知る者は、その知識を手がかりに本件記事が被上告人に関する記事であると推知することが可能であり、本件記事の読者の中にこれらの者が存在した可能性を否定することはできない。そして、これらの読者の中に、本件記事を読んで初めて、被上告人についてのそれまで知っていた以上の犯人情報や履歴情報を知った者がいた可能性も否定することはできない。」

 本件では、仮に、『沖縄ノート』の本件記述2において控訴人梅澤を一義的に特定できる情報が含まれていないという判断がなされたとしても、控訴人梅澤と面識を持つ者、或いは、『鉄の暴風』や上地一史著『沖縄戦史』を読んだ不特定多数の一般読者において控訴人梅澤を推知することは十分可能である。ましてや、原判決を含め、本件訴訟に関心を持つ不特定多数の一般人が、『沖縄ノート』の本件記述における「この事件の責任者」が控訴人梅澤であることを推知することは余りにも容易である。

 ここまで考えれば、本件記述2において控訴人らが特定されていると認定するうえで、何らの支障もないことは明らかである。

以上


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