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控訴人準備書面(1)1/3

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控訴人準備書面(1)1/3


平成20年9月5日
大阪高等裁判所第4民事部ハ係 御中  

控訴人ら訴訟代理人

弁護士  松  本  藤  一
弁護士  徳  永  信  一
弁護士  岩  原  義  則
弁護士  大  村  昌  史
弁護士  木  地  晴  子
弁護士 中  村  正  彦
(以下略)



第1 「真実相当性」に関する再反論

1 口頭弁論終結時における真実性と真実相当性の判断が異なることの問題点

⑴ はじめに
  被控訴人らは、その控訴審準備書面(1)において、「原判決の真実相当性に関する判断は単に真実性の立証要件を緩和したものに過ぎないと言え、これを違法性阻却事由ではなく故意又は過失の阻却事由とした最高裁判例の立場に違背する」との控訴人ら主張を、「趣旨が不明」とする(p2、3)。また、被控訴人らは、その控訴審準備書面(3)においても、「同一の証拠によって、真実性自体を高度の蓋然性をもって証明できない場合であっても、それが優越的蓋然性の程度に達して真実相当性の立証ありとされることは当然のことである」と主張し(p5)、真実相当性に関する判断は真実性の立証要件を緩和してなされるのは正当であるとの見解を明確にしている。

被控訴人らは、伊藤眞教授の見解を引用するが、かかる見解がありうることは控訴人らも否定するものではない。ただ、それは最高裁判例の立場には違背するのである。控訴人ら主張の趣旨が被控訴人らには十分理解されていないものと思われるので、この点について、以下、改めて詳述する。

⑵ 原判決の判断とそれに端を発する疑問
 原判決は、両隊長の自決命令につき、真実性の立証はないとしながら、真実相当性については合理的な資料若しくは根拠があるとしてこれを認定した。原判決は、真実性及び真実相当性双方について判断し、異なる結論を導いたのであるが、それらの判断にあたっては、その法的性質と判断基準時についてまず正確に理解しておく必要があろう。

 最高裁判例によれば、真実性の立証とは、摘示された事実が客観的事実に合致していたことの立証であり、名誉毀損表現の違法性阻却事由とされているが、真実相当性は、行為者の故意又は過失を阻却する責任阻却事由であり、行為者の認識内容が問題となるとされている。従って、真実性の判断基準時は口頭弁論終結時であるが、真実相当性の判断基準時は名誉毀損行為時であるということになる(最高裁平成14年1月29日判決。甲C14)。

  ところで本件原判決は、真実性については口頭弁論終結時でも立証はなされなかったとしながら、真実相当性については口頭弁論終結時に立証はあったとしている。上記最高裁判例の真実相当性の判断基準時に関する規範との関係が問題となる。

  その点、原審裁判所は、今回の請求においては「『沖縄ノート』の出版は継続されていて、口頭弁論終結時までずっと名誉毀損行為を続けている」というのが原告ら(控訴人ら)の主張なのだから、いわば、(最終の)名誉毀損行為の時期が口頭弁論終結時と一致しただけであり、最高裁判例の規範に矛盾しないと考えるのであろうが、そこでは、真実相当性が真実性の証明の緩和であるということが前提となっている。 

原判決の結論が前提としている立場(真実相当性を真実性の証明の緩和であると捉えること)に対しては、次のような疑問が生じてくる。

 即ち、「名誉毀損の事実摘示を含む書籍等の出版につき、真実性の立証ができない事実についても、真実相当性が認められるという理由をもって、名誉毀損の不法行為の成立は否定され続けてよいのだろうか」ということである。特に、当初の事実摘示(あるいは、ある事実を前提とした論評)から、かなりの時間的経過があり、その事実に関する資料、情報も十分に公表された以降の段階で、事実の真実性が立証できない場合にも、真実相当性を認め、名誉毀損の事実摘示(出版)を継続する名誉毀損者側の新たな出版行為を救済するというのが果たして正当なのであろうか。そこでは、真実相当性は、真実性の証明を単に緩めるだけのものとなり、名誉の保護を著しく後退させることとなる。何より、「真実性」は名誉毀損の不法行為の成否の要件としては全く機能しなくなり、そもそも不要ではないのか。

 一つ、ロス疑惑事件を例にとって考えてみたい。

  例えば、三浦和義が妻に対する殺人の容疑で逮捕され起訴されて、下級審で有罪判決を受けるなどした段階で、仮にある出版社が、下級審判決を主要な根拠として三浦が妻を殺害したと判断し『妻を殺した三浦の心の闇』というハードカバー本を出版して販売した後、上告審において三浦が無罪となった場合を想定してみよう。三浦の無罪判決が確定した時点において、ハードカバー本の名誉毀損性が問題とされたとする。その場合、真実性の立証はないが、出版時点における真実相当性は肯定され、名誉毀損の不法行為の成立は否定されるものと一応考えられる(類似のケースとして、最高裁平成11年10月26日判決〈甲C15〉ご参照)。

しかし、三浦の無罪が確定して以降も『妻を殺した三浦の心の闇』の出版が続けられたとしたらどうだろうか。民事訴訟においても名誉毀損の不法行為が成立するであろう(もちろん刑事訴訟の結果が民事訴訟における判断を拘束するものではないが、ここでは、刑事訴訟と民事訴訟とで「真実性」の判断については一致する場合だとして議論している)。この点については、佐伯仁志及び道垣内弘人もその対談集『刑法と民法の対話』(甲C16)p303において同趣旨を述べている。

刑事訴訟の判決が下級審と最高裁で有罪から無罪に変更されるくらいであるから、三浦による妻殺害が真実か否かは極めて微妙であり、下級審が無罪の推定を乗り越えて有罪にする程度の「真実らしさ」すなわち「真実と誤信してもやむを得ないような微妙さ」は、常にあるはずである。それは最高裁判決が出ても、実態として変わらない。真実相当性を単なる真実性の立証の緩和として捉え、真実性の証明がないという判断と両立しうるものだとすると、最高裁での無罪判決以降も、三浦による妻殺害を叙述する出版が真実相当性で救われうることになりはしないか。最高裁での無罪判決以降も、三浦による妻殺害を事実として断定的に叙述する出版行為が、真実相当性で救われうるという結論は名誉の保護を余りにも後退させることにならないか(なお、意見論評としての叙述はこの限りではない)。

  そのような検討を経ると、真実相当性を単なる真実性の立証の緩和と捉え、口頭弁論終結時において真実性の立証のできない名誉毀損の事実摘示につき、口頭弁論終結時における真実相当性を理由に救済しうるという原判決の立場が、真実性の立証を違法性阻却事由として位置づけ、真実相当性を故意又は過失を否定する責任阻却事由として限定的なものに止めている最高裁判例の立場に背走するものであることが一層明らかに見えてくるのである。

⑶ 原判決の真実相当性に関する判断の誤り
 控訴理由書でも述べたが、原判決の誤りは、両隊長の自決命令につき、真実性の立証はないとしながら、判断基準時も、従って根拠資料も全く同一であるにもかかわらず、真実と考えるに足る合理的な資料若しくは根拠があるとして安易に相当性を認めたこと、即ち真実相当性の存否について真実性の存否と結論を違えたことにある。

 そもそも、名誉等の人格権を保護するため、真実相当性の認定には厳格性が求められ、客観的で確実な資料に依拠しなければならない。「ある者が犯罪を犯したとの嫌疑につき、これが新聞等により繰り返し報道されていたため社会的に広く知れ渡っていたとしても、このことから、ただちに、右嫌疑に係る犯罪の事実が実際に存在したと公表した者において、右事実を真実であると信ずるにつき相当な理由があったということはできない」(最高裁平成9年9月9日判決。甲C13)し、定評ある通信社から配信された記事をスポーツ新聞社が掲載した事案についても、相当な理由がないとされている(最高裁平成14年1月29日判決。甲C14)。

  真実相当性が認められるハードルは非常に高いのである。 この点については、この平成14年判決の最高裁判例解説(甲C14)においては、下記のような解説がなされている(p122以下)。

「上記昭和41年一小判決後の相当の理由に関する最高裁の判例には、最一小判昭和47年11月16日民集26巻9号1633頁、最二小判昭和49年3月29日裁判集民事111号493頁、最一小判昭和55年10月30日裁判集民事131号89頁(判例時報986号41頁)などがある。これらは、いずれも、犯罪報道に関して相当の理由を否定し、不法行為の成立を認めたものである」(p122)

「これらの判例では相当の理由の有無の判断についてかなり厳格な姿勢がとられていることがうかがわれる」(p123)

「昭和47年一小判決、昭和55年一小判決によって、最高裁の厳格な判断姿勢が示されたことにより、下級審の裁判例では、詳細な裏付け取材を要求するという方向が定着している」(p123)

 真実相当性の法理は、行為時において名誉毀損者側が調査可能な資料に照らし真実性の証明に足りると評価できる場合であっても、後日、発見された証拠資料等によって真実性が失われる場合のあることに鑑み、これを故意又は過失を阻却することで救済し、正当な表現の自由を保障しようとしたものである。真実性の根拠となる証拠資料が、時間の推移によって変わりうることに配慮したものであるということができる。

名誉毀損行為が口頭弁論終結時まで継続している本件では、真実性の判断基準時も真実相当性の判断基準時も口頭弁論終結時となり、従って根拠資料も同一であることになる(本件訴訟において提出された全ての証拠がそれである)。根拠資料が全く同一ということであれば、客観的な真実性と主観的な真実相当性の判断は原則として異ならないはずである。

 更に噛み砕いての論述を試みよう。

  真実性と真実相当性の判断要素の違いは、事後的に真実であったかどうかという客観的判断と、名誉毀損行為時に真実と信じることができたかという主観的判断の違いであるとされる。

  そういう違いが、結局のところ、具体的現実場面でどういう判断枠組の違いに反映されるかというと、「真実と判断するため基礎資料の範囲の相違」というところに帰着するのであり、更に訴訟という場面に即して述べると、真実性を判断する基礎とし得る裁判上の証拠と、真実相当性の判断の基礎とし得る裁判上の証拠の範囲に、違いが生じるということである。

 一方で、真実性と真実相当性の判断要素のうち、「真実」を判断する主観的基準には差がないものと想定されていることには、留意されねばならない。すなわち、真実性も真実相当性も、「個性を捨象した通常一般人が社会通念にしたがって判断する」というのが判断基準であって、特異な感性を有する行為者当人が「一般人は真実と信じられないだろうが、自分だけは真実と信じることができた。だから真実相当性はある」などという論理が通るものではない。

  また、真実相当性の判断の基礎となる資料、根拠についても、行為者が現実に調査、収集した結果にとらわれず、「行為当時、一般的に調査、収集が可能であった資料、根拠」を想定し、「それらによれば、軽々しく真実と誤信することは許されない」などという形で判断がされるというのも確立した判例である(杜撰な調査しかしなかった行為者が「現実に自分が判断の基礎資料としたのはこの範囲だけだ。これらの限定的な資料だけに基づいて判断したら、真実と信じてもやむを得ないはずだ」などと主張しても一顧だにされないであろう)。これは、真実性が、「現時点(口頭弁論終結時)において、一般的に調査、収集が可能である資料、根拠」に基づいて判断されるのと、「一般的な調査、収集の可能性」が問題にされる点で、同一である。

  くどくなったが、要するに、真実性と真実相当性の判断にあたっては、基準時が異なるため基礎とされる資料の範囲は異なるものの、判断基準自体は同一なのである。

  「真実性は客観的判断」とはいっても、裁判においても人間が神の視点をもって絶対的真実を認定することは不可能なのであるから、真実性についても、基礎資料の範囲を確定し、通常一般人の判断基準を設定したうえで、「真実と評価できるかどうか」という主観的判断を(判決においては裁判所が)せざるを得ないという点では、真実相当性の判断と同様である。 そのような検討を経ると、結局、最高裁判例が定立した真実相当性の実質は、「名誉毀損行為がなされた時点において行為者に入手可能な資料と情報を基礎として判断された真実性」、簡潔に言えば、「名誉毀損行為時における真実性の証明」と考えられるのである。 

前記アのように、真実相当性が認められるハードルが非常に高くなるのである。      
 そうした検討を踏まえて、原判決の判断について考えてみる。

前記のとおり、本件での真実性の判断は、口頭弁論終結時までの全資料を基礎としてなされる。

 一方、真実相当性はどうか。その判断基準時は名誉毀損行為時であるが、本件では、最終の名誉毀損行為の時期である口頭弁論終結時までにあらわれた全資料が基礎となり、本件では、真実性判断の基礎資料と、真実相当性判断の基礎資料が、完全に一致するのである。具体的に言えば、当事者が裁判に提出しない証拠は判決の事実認定の基礎とできないという弁論主義の原則とも相まって、「本件訴訟で提出された全証拠」という形で、真実性判断と真実相当性判断の基礎資料が統一される結果となるのである。

 判断の基礎となる資料が同一であり、前記のとおり、「真実」を判断する基準も違わない以上、真実性判断と真実相当性判断の結論が異なるというのは、ありえないはずである。

  ところが、原判決は、真実性は認められないとしつつ、一方で真実相当性は認めることができると結論づけるという本質的な過ちを犯しているのである。

 法律家の論述や下級審裁判例の一部には、原判決同様、最高裁判例の明示している真実性と真実相当性の法的性質の違いを正確に把握することなく漫然と(あるいは、最高裁判例の考え方とはあえて違う見解を採った上で)、「真実性は厳しい判断基準で、真実相当性はそれを緩めた判断基準である」との考えを示している例がある。そのような見解は、真実性だけでなく、真実相当性も違法性阻却事由に位置づけ、その両者の違いを「立証の程度の違い」と考えるところに由来するのであろう(被控訴人らが援用している伊藤眞教授の見解は、正しく真実相当性を優越的蓋然性の証明だと主張するものである)。

 しかし、最高裁判例の一貫した考え方に則った場合、そのように真実相当性を真実性の立証の緩和として考える見解は、前記イで述べたとおり、理論的におかしいのである。

 かような分析を理解するうえで参考になるのは団藤重光の分析である。団藤は、真実性の証明の法的性質について違法性阻却説または構成要件該当性阻却説をとる場合に「何を違法性ないし構成要件該当性の阻却原由とみるべきか」という課題に関し「事実が証明の可能な程度に真実であったことを阻却原由とみるべき」とし、「故意論にこの見解を適用すると、行為者が、証明可能な程度の資料・根拠をもって事実を真実と誤信したときは、―たとい事実の証明がなくても―故意を欠くものとして罪とならない。」(甲C17 p524)とする。

 即ち、団藤によれば、真実性相当性の要件を満たすには、資料、根拠については、「真実性を証明できる程度のものが行為当時にあったかどうか」という判断になる。最高裁判例の立場に即した場合、真実相当性について、「真実性の立証の程度を緩めた概念」としてとらえることが誤りであることは、この団藤の分析を参考にしたとき、一層明らかになる。

2 「隊長の関与」に基づく「公正な論評」であるとの主張について

⑴ はじめに
 被控訴人らは、その控訴審答弁書において、控訴人梅澤に対する名誉毀損に関し、「『本件記述⑵』は、慶良間列島の集団自決について、『この事件の責任者』に言及しているが、慶良間列島の集団自決に日本軍が深くかかわり、守備隊長の関与が十分推認されることは原判決が認定しているとおりであり、これについて『この事件の責任者』の責任に言及することは、真実に基づく公正な論評に該当する」と主張する。即ち、「守備隊長の関与」を基礎として「『この事件の責任者』の責任に言及する」ことは、「公正な論評」だと言うのである。

  以下、この主張に対して反論を加える。

⑵ 事実摘示と意見論評の混同
 まず、かかる主張については、『沖縄ノート』が「『この事件の責任者』の責任に言及」している部分は単なる「論評」とは評価できず、控訴人梅澤の出した隊長命令の「事実摘示」を含むものであるとの反論が可能である。

  改めて「本件記述⑵」(原判決の表示)を引用すると下記のとおりである。

「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自  決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き  延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を  迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげな  いために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれ  る本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、   渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略  体制のもとの今日に、そのままつらなり生き続けているのである。生き延びて本土にかえりわれわれの間に埋没している、この事件の責任  者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個  人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復  しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜ  おれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たち  まちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。」(甲A3p69~)

この記述が意見論評なのか、事実摘示なのかを判断するにあたっては、最高裁判決が両者の区別のために定立した以下の基準に依るべきである。 即ち、最高裁平成9年9月9日判決(甲C6)は、特定の表現が事実の摘示を含むものであるか否かについて、「一般の読者の普通の注意と読み方を基準に、前後の文脈や記事の公表当時に読者が有していた知識ないし経験等を考慮し、右部分が、修辞上の誇張ないし強調を行なうか、比喩的表現方法を用いるか、又は第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式を採用するなどによりつつ、間接的ないし婉曲に前記事項を主張するものと理解されるならば、同部分は、事実を摘示するものと見るのが相当である。また、右のような間接的な言及は欠けるにせよ、当該部分の前後の文脈の事情を総合的に考慮すると、当該部分の叙述の前提として前記事項を黙示的に主張するものと理解されるならば、同部分は、やはり、事実を摘示するものと見るのが相当である」としている。

本件記述⑵を見ると、要するに、「慶良間列島においておこなわれた、700人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』によれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《自決せよ》という命令に発するとされている」旨が述べられており、これは、その後の「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場」という表現とも相まって、座間味村の日本軍の住民に対する自決命令が叙述されていることは明白である。確かに「上地一史著『沖縄戦史』によれば」という「第三者からの伝聞内容の紹介」の形式が採用されているが、それが事実摘示と評価する際の障害にはならないことは前記最高裁判例の判示するところである。

加えて更に、本件記述⑵の「この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」、「この個人」、「かれ」、「おれひとりが自分を」との表現にも鑑みれば、本件記述⑵は、全体として、座間味村集団自決について、命令を出した控訴人梅澤「個人」を「責任者」として糾弾する趣旨を含む叙述となっているといえる。そのことも考え合わせると、その前の部分の「慶良間列島においておこなわれた~という命令に発するとされている。」との一文は、控訴人梅澤が自決命令を発したという《梅澤命令説》を間接的ないし婉曲に、あるいは黙示的に主張するものと理解されるのであり(少なくとも、一般の読者の多くが、控訴人梅澤「個人」が「責任者」として糾弾されている責任の前提となる事実として《梅澤命令説》を読み取ることは否定できないところである)、最高裁判例の基準によれば、当該部分は、明らかに《梅澤命令説》の「事実の摘示」を含むものである。

確かに「梅澤」という固有名詞の使用や「隊長の命令」という直接表現はされていないものの、「一般の読者の普通の注意と読み方を基準に、前後の文脈や記事の公表当時に読者が有していた知識ないし経験等を考慮」した場合、『沖縄ノート』発表当時、座間味村の集団自決事件について《梅澤命令説》が定説とされていたことは「一般の読者の知識」の範疇であったといえるし、本件記述⑵が引いている上地一史著『沖縄戦史』には《梅澤命令説》も明確に記載されているという文脈からして、本件記述⑵が《梅澤命令説》の事実摘示を含むものであることは動かせない(原審原告最終準備書面その1 p13~17ご参照)。

被控訴人らは、慶良間列島の集団自決は「日本軍―沖縄の第32軍―慶良間列島の守備隊というタテの構造の強制力」によってもたらされたもので、「日本軍の命令」によるものではあるが、あえて隊長の命令と書いていないし、また、叙述の趣旨は自己批判であって集団自決の責任者個人を非難しているものでもない旨弁解する(被控訴人ら答弁書p3、4)。

しかし、一般の読者の普通の注意と読み方を基準にしたときに、「日本軍―沖縄の第32軍―慶良間列島の守備隊」、「タテの構造」、「強制力」といった文言での説明も記述中にない以上、本件記述⑵から「タテの構造の強制力」という主旨を読み取ることはとてもできない。

また、当該記述が、本土の日本人の批判ないし自己批判の主旨を含む(あるいは結論とする)表現であるとしても、それを理由に、記述中の「個人に対する名誉毀損の事実摘示」部分の名誉毀損性が失われるものではない。

例えば、もしある作家が「保険金目的で妻を殺したと報道されているロス疑惑の主人公」についてその内面を想像で醜く描いたうえで、「そういう邪悪さと同じものを、戦後の日本人みなが持っているのだ」と論評した場合、その作家の言いたいことの核心がその論評部分であったとしても、その前に述べた「保険金目的」云々の表現の名誉毀損性が否定されるものではないことは論を待たない。

結論として、本件記述⑵が《梅澤命令説》の事実摘示を含まない公正な論評であるとする被控訴人ら主張は失当であること、明らかである。

3 「軍の関与」と同一性のない「隊長命令」の事実摘示は許されない

⑴ はじめに

  控訴人らは、「軍の関与」の認定とそこから推認した「隊長の関与」を基礎として「隊長命令」を摘示することに相当性は認められないと主張している。
これに対し被控訴人らは、原判決は、「隊長命令」の事実の記述の合理的資料若しくは根拠は、かかる「軍の関与」と「隊長の関与」だけではなくそのほかにもあると反論するが(被控訴人準備書面(1)p3、4)、「軍の関与」及び「隊長の関与」が「隊長命令」の事実の真実相当性の主要な理由であること自体は、否定していない。

しかし、「軍の関与」及びそこから推認した「隊長の関与」を「隊長命令」の真実相当性の理由とすることは失当である。この問題点については、最高裁平成11年10月26日判決の判示を正しく理解することが極めて重要である。

⑵ 最高裁平成11年判決の理解
 控訴理由書p11以下でも述べたが、最高裁平成11年10月26日判決は、「刑事第一審の判決において罪となるべき事実として示された犯罪事実、量刑の理由として示された量刑に関する事実その他判決理由中において認定された事実について、行為者が右判決を資料として右認定事実と同一性のある事実を真実と信じて摘示した場合には、右判決の認定に疑いを入れるべき特段の事情がない限り、後に控訴審においてこれと異なる認定判断がなされたとしても、摘示した事実を真実と信ずるについて相当の理由があるというべきである。けだし、刑事判決の理由中に認定された事実は、刑事裁判における慎重な手続きに基づき、裁判官が証拠によって心証を得た事実であるから、行為者が右事実には確実な資料、根拠があるものと受け止め、摘示した事実を真実と信じたとしても無理からぬものがあるといえるからである」とし、控訴された刑事判決は、これをもって真実性の証明ありとは言えないが、真実相当性の根拠とすることはできるとしている。この判決からは、真実相当性の根拠や資料には、かくも厳しい確実性ないし信頼性が要求されるのであり、刑事訴訟の判決において真実と認定された事実と同一性のない事実については、当該判決を真実相当性の根拠とすることができないことも導かれる(甲C15 p661)。

 この控訴人ら主張に対しては、被控訴人らは、この判決は、「『真実と認定された事実と同一性のない事実については、真実相当性の根拠とすることができない』などとは全く述べていない」と反論する(被控訴人準備書面(3)p6)。

  かかる被控訴人らの反論には無理がある。「刑事訴訟の判決において真実と認定された事実については、当該判決を真実相当性の根拠とすることができる」との旨の判示は、「刑事訴訟の判決において真実と認定された事実以外の事実については、当該判決を真実相当性の根拠とすることができない」との趣旨を含意するものと読むのが当然であって、それ以外の解釈はありえない。

  同判決に関する最高裁判例解説も、(真実相当性をもって)「免責されるのは認定事実と同一性のある事実を摘示した場合であり、認定事実の範囲を超えた事実を織り交ぜて記載した場合には、真実と信じるにつき相当の理由があるとはいえない」(甲C15 p661)と明言している。

⑶ 最高裁平成11年判決の射程 ―軍の関与をもって軍命記述は許されない―
 前記最高裁平成11年判決の考え方を本件に引いた場合、教科書検定においても容認されている「軍の関与」という事実と同一性のない「隊長の命令」という事実を記載した場合には、真実相当性は認められないという結論に至る。

  本件の名誉毀損事件は犯罪報道が問題となったものではないから、前記判決にいう「刑事判決」や「捜査当局」や「捜査担当者」が存在するわけではないが、本件では、「集団自決」に関する教科書検定に際して文科省が示した見解が、教科用図書検定調査審議会という国家の専門機関において、多くの専門家の意見を聴取し、慎重に調査、検討をした結果示された認定という意味で、刑事事件における「刑事判決」ないし「捜査当局の公式発表」と同等ないしそれ以上の確実性と信頼性を有していると考えられる。

その観点からすると、本件では、集団自決についての教科書検定において文部科学省の示した判断が真実相当性の認定に大きく影響すると考えられるところであるが、控訴人らがこれまで縷々指摘しているとおり、文科省は、集団自決に関する「軍の関与」の記述は認めるものの、これを超えて「隊長命令」あるいは「軍命令」の記述を認めていないのであり、「軍の関与」が認められていることをもって、それと同一性を有していない「軍命令」あるいは「隊長命令」の事実については、文科省の判断を真実相当性の根拠とすることができないとの結論が導かれるのである。

⑷ 「軍の関与」から隊長命令を合理的に推論し「推論として」記述すること
 被控訴人らは、その控訴審準備書面(1)において「控訴人は、『軍の関与』を基礎事実として隊長命令を推論する意見論評における推論には合理性があるとしており、同主張は、隊長命令について真実であると信じるについて相当の理由があるとした原判決の正当性を裏づけるものというべきである」(p4)と主張する。

しかし、この主張からは、被控訴人らが控訴人らの主張の意図を正解せず、「推論としての意見論評」と「推論に基づく事実摘示」を、そして、「推論の合理性」と「真実相当性」を混同していることがうかがえる。

 控訴人らは、被控訴人らの一つの見解として軍の関与から隊長命令を推論することや、かかる「意見論評」に一定の合理性(但し、ここでいう「合理性」は「意見としてありうる」程度の意味である)があることは、別に否定も問題視もしてしない。

  問題は、かかる「推論に基づく意見論評の内容」が、『沖縄ノート』と『太平洋戦争』においては、「推論に基づく意見論評」として記述されておらず、「確定的な事実摘示」として記述されていることにある。

  事実摘示なのか意見論評なのかの区別については、前記「2」において詳論したところであり、本件各記述が「隊長命令」を事実として摘示したものであることは、結論が出ていると言ってよいであろう(この点は原判決も認めているとおりである)。

  「公正な論評」の法理を巡っては、前提事実から導かれた意見論評に関し、前提事実と意見論評との間に合理的関連性が必要かという論点はある(因みに、最判平成16年7月15日判決・民集58-5-1615は、意見論評については、その内容の正当性や合理性を特に問う必要はない旨判示している)。その論点についての立場はさておき、本件では、意見論評として述べられる限り、「軍の関与」という前提事実と、「隊長命令」という意見論評の間に合理的関連性がないわけではないということを、前記のくだりで控訴人らは主張する一方、かような合理性(合理的関連性)は、本件で焦点となっている真実相当性とは全く別の問題であって、原判決及び被控訴人らは、両者を実質的に混同しているというのが、控訴人らが主張するところである。

⑸ 原判決及び被控訴人らのいう「真実相当性」の正体
  原判決は「軍命令は立証されていない」と言いつつ、立証できた「軍の関与」を根拠にして「隊長命令」を書いても「真実相当性」ありとして適法としているが、それは結局、「軍の関与」から「隊長命令」という事実を推論しても相当というものにほかならない(厳密に言えば、原判決は「軍の関与」から、いったん「隊長の関与」を推認し、更に、その「隊長の関与」から「隊長による自決命令」を推論するという、2段階の強引な推認ないし推論をなしている。控訴審においては、そのような原判決の「判断の飛躍」に十分留意した、事案の再検討や法的評価が加えられねばならない)。しかし、かような考え方は前記の混同があり、失当極まりない。

原審裁判所の行き着いた厳然たる結論として、「軍の関与」までしか「立証」は届いていないのである。それは原判決がはっきりと認めているところである。

  とすれば、「軍命令」は、どう見ても「推論」の領域である。その「推論」を事実として断定した表現で叙述することを相当、適法とする原審の判断は実質的に、「そういう推論をしても構わないではないか」という考えといえる。即ち、「真実相当性」という概念を論理のワンクッションとして誤用して真実性を緩和し、「推論は、合理的で、相当だ。だから許される」と強弁しているというのが、原判決の正体なのではないか。

控訴人らが、原判決は、意見論評としての「推論の合理性」をもって、事実摘示の免責に必要な「真実相当性」、即ち、行為時における立証可能な程度の真実性と混同していると断言する所以である。


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