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準備書面(5)

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準備書面(5)

2008年(平成20年)9月9日

(藤岡意見書及び宮平秀幸証言の信用性)


甲B111~113に記載された宮平秀幸の証言が、母貞子の手記との食い違い、秀幸自身のビデオ証言や本田靖春に対する証言との食い違い、宮平春子証言や宮城初枝証言などとの食い違いなどから、全く信用できないものであることは、被控訴人準備書面(2)に記載したとおりである。

これに対し、控訴人らは、藤岡信勝の意見書(1)(甲B132)及び(2)(甲B145)を提出し、上記の食い違いについて辻褄合わせを試みようとしているが、上記の食い違いはあまりにも重大かつ決定的な食い違いであり、藤岡意見書が勝手な憶測により食い違いの理由をどのように解釈しようとも、秀幸証言は虚偽を述べたものというほかない。

 藤岡意見書も、「秀幸は、場面を描写的に再現する語り方をする証言者で、体験したことでないのに自分の直接体験であるかのように語る人物であり、自分が語りたいと思っていることを文脈抜きで語る傾向があり、あまりにもビビッドに語るので彼がその場にいたのだと錯覚したこともあった」としている(甲B132・17頁)。すなわち、秀幸は、体験していないことを体験した事実であるかのように話してしまう特異な性格の人物であり、秀幸証言は全く信用できないものである(秀幸のこのような性格は地元ではよく知られたことである―乙110)。

したがって、藤岡意見書の分析内容について逐一反論する必要はないが、念のため、いくつかの点について、以下のとおり指摘する。

(1)藤岡意見書(1)8頁は、

「宮平の家族にだけ,伝令役の恵達が伝えなかったなどということは考えにくい」としているが、宮城晴美らが行った聞き取り調査では、忠魂碑前に集まるようにとの伝令を直接聞いていなかった住民も相当数あり(乙117宮城晴美陳述書、甲B5「母の遺したもの」108頁、乙50「座間味村史下巻」70頁など)、非常米の配給の呼びかけがあったとする住民の証言もあった(甲B5・229頁)。

   なお、藤岡意見書(10頁)は、当時6歳であった宮平昌子の証言に言及しているが、6歳の子供が同意見書にあるような事実を具体的に認識し記憶できたとは到底考えられない。

(2)藤岡意見書(1)14頁は、

「田中村長は、…村人に厳重な箝口令を布いていた」「秀幸の姉・宮城初枝も、秀幸の母貞子も」などとしているが、このような箝口令があったとの指摘は、これまで全くなされておらず、根拠のない勝手な憶測にすぎない。そもそも、そのような箝口令があったのなら、宮城初枝が控訴人梅澤に面会して昭和20年3月25日の夜のことについて話すことなどなかったはずである。

(3)藤岡意見書(1)15頁は、

忠魂碑前で村長が解散命令を出したことは約80人の村人が聞いているが、多くは老人、子供だったから生き残りの証言者は少ないなどとしている。しかし、老人や子供を引き連れていたのは成人の女性であり、生き残った人々が戦後多くの証言をしているが(甲B5、乙50「座間味村史下巻」、乙9「沖縄県史10巻」など)、誰も忠魂碑前に村長がきたとか、村長が解散命令を出したなどとは述べていない。秀幸証言が真実を述べているのであれば、生き残りの人々が同様の証言をしているはずであり、秀幸証言が虚偽であることは明白である。

 また、藤岡意見書(1)15頁は、「私は忠魂碑前には行っていない」と災難を避けるかのような語調で村人が語ることから、「忠魂碑前」の話題が禁忌に近いものとされてきたかのように述べるが、そのような事実はない。伝令の訪問を受けていない住民は忠魂碑前に行っていなかったのであり、藤岡の勝手な思い込みに過ぎない。忠魂碑前に行ったとの住民の証言は多数ある(甲B5、乙9、乙50など)。

(4)藤岡意見書(2)3頁は、

乙108の1の秀幸ビデオ証言(1992年)の際に田中登村長の妻が貞子らに圧力をかけ、貞子らが付きっきりで証言をチェックしたとし、秀幸陳述書(甲B142・4頁)にもその旨の記載がある。

 しかし、ビデオ証言のインタビューを行った者はそのような事実はなかったとしており(乙118電話聴取書)、また、当時田中元村長はすでに1990年12月に死亡していた(乙117宮城晴美陳述書、乙119沖縄タイムス記事)。さらに、貞子は慢性呼吸不全の病気治療のため1991年から本島に住んでいたもので、秀幸のビデオ証言に立ち会うはずはなかったものである(乙117宮城晴美陳述書)。

   また、藤岡意見書(2)3頁は、1991年6月に秀幸が読売テレビの取材に対し、忠魂碑前での出来事について証言し、何日か後に秀幸は田中登村長から激しく叱責されたとしているが、田中登元村長はすでに1990年12月11日に死去していたものである(乙119)。田中村長から脅されたためにビデオ証言の際に忠魂碑前の出来事について証言できなかったとの秀幸の供述が虚偽であることは明白である。

秀幸証言なるものが信用できないことは、被控訴人準備書面(2)に記載したとおりであり、かつ、藤岡意見書に関して上述したとおりであるが、さらに以下の点を指摘する。

(1)秀幸証言は、本部壕からの帰り際に、

助役が「あんたの家族も忠魂碑前で自決するといって集まっているんだよ」と言い、助役のあとについて忠魂碑前に行ったところ家族がいたとしている。

 しかし、宮城初枝の手記(甲B5・39頁)によれば、宮里盛秀助役は、本部壕からの帰り際に、宮平恵達に「各壕を回って皆に忠魂碑の前に集合するよう」伝令を命じたのであり、秀幸の家族がすでに集まっているなどと助役が言うはずはない。この点について、甲B111などで紹介された秀幸証言は辻褄合わせをしていなかったが、上記のような指摘がされることを察知するや、秀幸は、2回目の秀幸陳述書(甲B158)に、「本部壕から帰る前に、盛秀は恵達に『まだ個人壕にたくさん人が残っていると思うから、一度忠魂碑の前に呼び出すように』と命じました」と記載し、あたかも二度にわたり忠魂碑前集合の伝令が命じられたかのようにしている。あまりにも不自然かつ意図的な辻褄合わせというべきである。

 また、秀幸ら家族が忠魂碑前に行かなかったことは母貞子の手記から明らかである。仮に、忠魂碑前に行ったとの秀幸証言を前提にしたとしても、秀幸は本田靖春に対し、「宮平家の7人が忠魂碑前に着いたのは、そろそろ午前零時になろうとしていたころであった」と話しており(乙109・164頁)、助役らが本部壕を出た頃に忠魂碑前に集まっているはずもない。また、宮里盛秀助役は、本部壕を出てから、宮里家の壕に行き、家族とともに忠魂碑に向かったが、途中で引き返し、産業組合の壕に行ったのであり(甲B5・218頁、乙104・218頁、乙51宮平春子陳述書)、本部壕から助役らの後について忠魂碑前に行ったとの秀幸証言が虚偽であることも明らかである。

(2)控訴人梅澤は、

昭和20年3月25日夜本部壕に来た村の幹部ら5名は、助役の宮里盛秀、収入役の宮平正次郎、校長の玉城政助、吏員の宮平恵達、女子青年団長の宮平(宮城)初枝であったと述べており(梅澤本人調書4頁、甲B1陳述書2頁)、村長が来たとは述べておらず、その場に宮平秀幸がいたとも述べていない。控訴人梅澤は、秀幸証言に接した後も、藤岡信勝のインタビューに答えて、その場に村長は来ていなかったと強く否定し、秀幸がいた記憶もないと述べている(甲B110藤岡信勝「集団自決『解散命令の深層』」228、231頁)。したがって、秀幸証言は、控訴人梅澤の認識とも決定的な点で相違する。

 また、当夜の助役らに対する梅澤隊長の発言内容についても、秀幸証言は、宮城初枝の手記と全く異なるだけでなく、控訴人梅澤の供述とも相違する。

(3)宮城初枝は、

甲B31の手紙において、「あの悪夢のような二十五日の晩のでき事は五人の中 私一人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。後、一人は生きて欲しかったのでございます。誰と話す事なく一人で悩んでいる訳でございます。私の戦後は終わっていません」と述べている。当夜本部壕に宮平秀幸がいたのであれば、初枝はこのようには決して書かなかったものであり、戦隊長付きの伝令として本部壕で梅澤隊長の近くにいたとの秀幸証言が虚偽であることは明白である。

  なお、秀幸は、甲B111などでは、「私は戦隊長付きの伝令として梅澤隊長の2メートルそばにいました」と述べたとされていたが、梅澤隊長や初枝はその場に秀幸がいたとは述べていないと指摘されるや、今度は、家族のもとへ帰るよう指示され、整備中隊の壕から家族のもとへ帰る途中本部壕の脇にたどり着いたところ、中から人の声が聞こえ、壕の入り口に掛けられていた毛布の陰から助役と梅澤隊長のやりとりを偶然盗み聞きしたので、梅澤隊長や助役らからは見えない位置にいたと述べるに至った(甲B158秀幸陳述書4~5頁)。あまりにも都合よく辻褄合わせをしたもので、到底信用することはできない。壕の入り口近く(入り口に掛けられた毛布から2メートルくらいの位置)で隊長と助役が集団自決をめぐるやりとりをしていたというのも極めて不自然である。また、上記の辻褄合わせにより、秀幸証言は、戦隊長付きの伝令としてその場にいたというものではないことになった。

  なお、中村尚弘が、宮城晴美の質問に対し、秀幸は「伝令ではなかったよ」と答えたことは事実である(乙117宮城晴美陳述書4頁)。

(4)宮平秀幸陳述書(甲B142・3頁)は、

「母の証言で、私の家族が忠魂碑前に行かなかったことにしたのは、村長の解散命令の事実をかくすためであったと思われます」「晴美はさも忠実な記録をしたようによそおっていますが、忠魂碑前での村長の解散命令にふれないようにする点では、村史編纂の当時から、村当局の都合に合わせていたと思います」などと記載しているが、「座間味村史下巻」(乙50)や「沖縄県史10巻」(乙9)は、忠魂碑前に集まるように言われたとの多数の住民の証言を収録しており、宮城晴美著「母の遺したもの」(甲B5)も同様の記載をしており、村長の解散命令をかくすため貞子が忠魂碑前に行かなかったことにしたなどということはない(乙117宮城晴美陳述書2頁)。宮城晴美らの聞き取りをはじめ、忠魂碑前で村長が隊長の自決するなとの命令を伝え、解散を命じたなどという住民の供述は皆無であったものである(乙110宮城晴美陳述書3頁)。

  秀幸陳述書(甲B142・3頁)は、座間味村史の証言の際に、「母はテープに証言を吹き込む時、『そこは、ストップ』『はい、戻って』などとくり返し指示され、終わって帰ってきてから『ああ、疲れ果てた』とこぼしていました」などとしいているが、そのような事実は全くない(乙117宮城晴美陳述書1頁)。秀幸は、秀幸証言が母貞子の村史証言と決定的に食い違うことを指摘され、辻褄合わせのため意図的の上記のように記載したものといわざるを得ない。

(5)宮平秀幸陳述書(甲B142・4~5頁)は、

乙108の1のビデオの取材(1992年)の際には、田中村長に脅されていたので、梅澤隊長が自決を止め、村長が忠魂碑前で村民を解散させたことを話すことができなかったと記載しているが、宮城初枝はすでに1980年に控訴人梅澤に昭和20年3月25日の夜のことを告白しており、田中村長が口止めをしていた事実はなく、宮平秀幸が真実を話せなかったということは考えられない。乙108の1のビデオにおいて秀幸が昭和20年3月25日の夜梅澤隊長のもとにいたことや忠魂碑前で村長が解散を命じたことなどを話していないということは、当夜梅澤隊長のもとにいた事実や忠魂碑前に村長が行った事実がなかったからに他ならない。

  なお、秀幸は、1991年6月に読売テレビの取材に対し忠魂碑前での出来事について証言し、何日か後に田中登村長から激しく叱責されたとし、これをもって忠魂碑前での出来事を話さないよう田中村長から脅されたとしているが(甲B145藤岡意見書(2)3頁)、田中登元村長はすでに1990年12月11日に死去しており(乙119沖縄タイムス記事)、田中村長に脅されていたとの秀幸の供述が虚偽であることは明らかである。

以上


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