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準備書面(4)2/2

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被控訴人準備書面(4)2/2



第2 出版の差止め

1 名誉権に基づく差止請求権の根拠


   前記北方ジャーナル事件最高裁判決は、名誉毀損を理由とする実体法上の差止請求権の存否について、「人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は、損害賠償(民法710条)または名誉回復のための処分(同法723条)を求めることができるほか、人格権としての名誉権に基づき、加害者に対し、現に行われている侵害行為を排除し、又は将来生ずべき侵害を予防するため、侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である。けだし、名誉は生命、身体とともに極めて重大な保護法益であり、人格権としての名誉権は、物権の場合と同様に排他性を有する権利というべきであるからである」としている。


   同判決は、名誉権に基づく差止請求権を認めたもので、人格的利益一般について差止請求権を認めたものではないことは、その判示から明らかである。名誉権については、民法上特に侵害に対する保護が規定され、人格権のなかでもその保護の必要性が特に高いものとされており、これに関連する著作者人格権等について侵害差止請求権が規定されていることなどから、排他的性格を有する権利であると解されているものである(齋藤隆「名誉毀損と差止請求」『新裁判実務体系第9巻』115頁)。

2 敬愛追慕の情侵害による差止


   名誉権侵害は、人の社会的評価を客観的に低下させるもので、社会生活上の現実的不利益をもたらすものであることから、上記のとおり差止請求の可能性が認められているものであるが、これに対して、遺族の敬愛追慕の情は、単なる主観的感情に過ぎず、その被侵害利益としての規範性さえ疑問とされ(前掲竹田論文)、例外的に、前記の厳しい要件のもとで保護されているものにすぎず、物権と同様の排他性を認めなければならない権利とは到底いえない。したがって、名誉感情侵害について差止請求権が否定されると同様(竹田稔「プライバシー侵害と民事責任238頁」)、敬愛追慕の情侵害について差止請求は認められない。

以上のとおり、遺族の敬愛追慕の情侵害があったとしても差止請求は認められず、控訴人赤松が本件書籍(2)「沖縄ノート」の差止めを求めることはできない。

3 名誉毀損による出版差止めの要件


(1)
    前記のとおり、表現の自由は民主主義社会の基礎をなすものであり、表現の自由は他の基本的人権よりも優越的地位を占めるものとして特に強く保障されなければならず、とりわけ「公共的事項に関する表現の自由」は、一層強く保障されなければならない。

    前記北方ジャーナル事件最高裁大法廷判決も、「言論、出版等の表現行為により名誉侵害を来す場合には、人格権としての個人の名誉の保護(憲法13条)と表現の自由の保障(同21条)とが衝突し、その調整を要することとなるので、いかなる場合に侵害行為としてその規制が許されるかについて憲法上慎重な考慮が必要である」としたうえで、「主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもつて自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法21条1項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される」と判示している。

(2)
    このように、「公共的事項に関する表現の自由」は、特に重要な憲法上の権利として保障されなければならないものであるが、出版物の頒布の差し止めは、公共的事項に関する事実や考え方が人々に到達することを禁止し、民主主義社会の基礎である公共的事項についての討論の機会を奪うことになるものであるから、原則として許されないものといわなければならない。アメリカ合衆国連邦最高裁は、名誉毀損による出版物の事前差止めは違憲としている(Near v. Minnesota, 283 U.S. 697。松井茂記「アメリカ憲法入門」159頁)。

    北方ジャーナル事件最高裁大法廷判決は、「表現行為に対する事前抑制は、新聞、雑誌その他の出版物や放送等の表現物がその自由市場に出る前に抑制してその内容を読者ないし聴視者の側に到達させる途を閉ざし又はその到達を遅らせてその意義を失わせ、公の批判の機会を減少させるものであり、また、事前抑制たることの性質上、予測に基づくものとならざるをえないこと等から事後制裁の場合より広汎にわたり易く、濫用の危険があるうえ、実際の抑止効果が事後制裁の場合より大きいと考えられるのであって、表現行為に対する事前抑制は、表現の自由を保障し検閲を禁止する憲法21条の趣旨に照らし、厳格かつ明確な要件のもとにおいてのみ許容されうるものといわなければならない」とし、「出版物の頒布等の事前差止めは、このような事前抑制に該当するものであって、とりわけ、その対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合には、そのこと自体から、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができ、前示のような憲法21条1項の趣旨に照らし、その表現が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み憲法上特に保護されるべきであることにかんがみると、当該表現行為に対する事前差止めは、原則として許されないものといわなければならない」としている。その上で同判決は、「ただ、右のような場合においても、その表現内容が真実でなく、又は専ら公益を図る目的のものでないことが明白であって、かつ、被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、・・・・・・例外的に事前差止めが許されるものというべきである」としている。

    すなわち、出版物の事前差止めが認められるためには、その対象が公共の利害に関する事項である場合、①表現内容が真実でないことが明白であるか、または専ら公益を図る目的のものでないことが明白であること(明白性の要件が両方にかかることにつき、昭和61年度最高裁判所判例解説民事篇305頁参照)、②被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があること、の2要件が満たされなければならない。

    なお、前記北方ジャーナル事件最高裁大法廷判決において、谷口正孝裁判官は、「『自己検閲』を防止し、公的問題に関する討論や意思決定を可能にするためには、真実に反した言論をも許容することが必要になるのである」「誤った言論にも、自由な討論に有益なものとして積極的に是認しうる面があり、真実に反する言論にも、それを保護し、それを表現させる自由を保障する必要性・有益性のあることを肯定しなければならない」とした上で、公的人物に関する公的問題に関する表現の事前規制は、「現実の悪意」をもってなされた場合にのみ許されるとの意見を述べ、伊藤正巳裁判官はこの「現実の悪意」の基準に対し深い敬意を表している。佐藤幸治教授も、すくなくとも表現の事前差止にかかわる場合は「現実の悪意」の法理が適用されるべきであるとしている(佐藤・前掲「憲法[第三版]」526頁)。そして、松井茂記教授は、前記のとおり損害賠償請求についても「現実の悪意」の要件が必要であるとしているが、差止請求についてはさらに厳しい要件がクリアされなければならないとしている(松井・前掲「名誉毀損と表現の自由」107頁)。また、竹田稔元高裁判事は、表現行為の差止請求には、①公共の利害に関する事項を含まないこと、②摘示された事実が真実に反すること、③名誉毀損等の表現行為が故意又は現実的悪意によるものであること、の3要件が必要であるとしている(竹田・前掲「名誉・プライバシー侵害に関する民事責任の研究」214頁)。

    このような見解があることからも、少なくとも、北方ジャーナル事件最高裁大法廷判決が示した前記要件は必須のものといえる。

(3)
    北方ジャーナル事件は、公職の候補者に対する批判的言論が問題となったケースであることから、同事件最高裁判決は、「とりわけ、その対象が公務員又は公職選挙の候補者に対する評価、批判等の表現行為に関するものである場合には」としているが、同判決は、続けて「そのこと自体から、一般にそれが公共の利害に関する事項であるということができ、前示のような憲法21条1項の趣旨に照らし、その表現が私人の名誉権に優先する社会的価値を含み憲法上特に保護されるべきであることにかんがみると」としており、公務員や公職の候補者に対する評価・批判だけでなく、公共的事項に関する表現行為について、上記の要件が必要であるとしたものと解される。

    すなわち、同判決は、民主主義社会における公共的事項に関する表現の自由の重要性に鑑み、公共的事項に関する事実や評価が人々に到達することを保障するため、差止めができる場合をごく例外的な場合に限定したものである。民主主義社会の基礎をなす重要な公共的事項は、公務員や公職の候補者に対する評価・批判に限られず、それよりもはるかに重大な事項が存在することは明らかであり、このことからも同判決は公務員や公職の候補者に対する評価・批判に限定したものとはいえない。

    裁判例の多くは、公務員や公職の候補者に関しない場合においても、公共的事項に関する表現については、北方ジャーナル事件最高裁判決の基準により判断している(和田真一「名誉毀損の特定的救済」『新・現代損害賠償法講座第2巻』133頁、相互銀行及びその代表者の名誉・信用に関する東京地裁昭和63年10月13日判決・判例時報1290号49頁、学校法人の名誉・信用に関する東京地裁平成元年3月24日決定・判例タイムズ713号94頁など)。

(4)
    また、北方ジャーナル事件は、出版前の差止請求の事案であり、本件はすでに出版されている書籍の差止請求の事案であるが、本訴請求は、損害賠償請求や被害回復措置請求などのような事後制裁の請求ではなく、将来にわたり出版を禁止し、公共的事項に関する事実や評価が人々に伝わることを妨げるという点において、出版開始前の差止請求と同様、民主主義社会の基礎を崩壊させる危険のある事前抑制であることに変りはない。

    したがって、本件の場合においても、前記①②の北方ジャーナル事件の要件が必要となる。

    出版後に差止請求がなされた事案に関する裁判例においても、北方ジャーナル事件の上記要件により判断がなされている(和田・前掲133頁、五十嵐清「人格権法概説」278頁、相互銀行及びその代表者の名誉・信用に関する東京地裁昭和63年10月13日判決・判例時報1290号49頁など。なお、甲C20の裁判例は、特異な一般論を述べているが、事案は必ずしも公共的事項に関するものとはいえず、また、差止請求は棄却している。甲C19の裁判例については控訴審で差止請求は棄却されている)。

    このことは、「石に泳ぐ魚」事件最高裁平成14年9月24日判決(判時1802号60頁)においても同様である。同事件は、プライバシー侵害を含んでいるため、前記①の要件は問題とならないものであるが、出版行為がすでに行なわれている場合であっても、差止めが認められるには、前記②の「被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞れがあること」の要件が必要であるとしている。

    すなわち、「石に泳ぐ魚」事件の事案は、同小説の単行本の差止めが求められた事案であるが、同小説はすでに月刊雑誌に掲載されていたものである。最高裁は、原審が、同小説は被上告人の名誉、プライバシー及び名誉感情を侵害しているとしたうえで、その差止めについて、「侵害行為が明らかに予想され、その侵害行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり、かつ、その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難になると認められるときは侵害行為の差止めを肯認すべきである」として、単行本の差止めを認めたことを是認し、「本件小説の出版等により重大で回復困難な損害を被らせるおそれがあるというべきである。したがって、人格権としての名誉権等に基づく被上告人の各請求を認容した判断に違法はな(い)」としている。

    また、「週刊文春」販売差止仮処分事件の東京高裁平成16年3月31日決定(判例時報1865号12頁)も、すでに大多数の部数が販売済みであったが、北方ジャーナル事件基準を適用して判断をしている(プライバシー侵害を理由とするものであるので、前記①の要件は問題にならなかった)。

(5)
    以上の点から、公共的事項に関する事項について、名誉毀損による出版の差止めが認められるためには、出版行為がすでに行われている場合であっても、北方ジャーナル事件の前記①②の要件が必要である。


4 本件書籍に関する差止の要件の不存在

(1)本件各書籍が公共的事項に関する事実や評価を伝えるものであることは明らかである。

    原判決が「原告梅澤及び赤松大尉は日本国憲法下における公務員に相当する地位にあった」と認定しているとおり(原判決98頁)、本件各書籍の内容は、公務員の重大な職務行為についての事実及び評価・批判等を人々に伝達するものであり、多数の住民が死亡した悲惨な集団自決について軍の責任に関する事実や評価を記載したものであり、多くの人々がその事実に触れ、討論の材料としなければならないものであることから、極めて高度な公共的事項に関するものである。

    したがって、本件各書籍について、出版の差し止めが認められるには、少なくとも、前記の2要件(①表現内容が真実でないことが明白であるか、又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であること、②被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞れがあること)が必要である。

(2)「表現内容が真実でないことが明白であるか、又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であること」(前記①)の要件について

    本件各書籍が公益を図る目的のものであることはいうまでもない。また、控訴人らが虚偽であると主張する本件各書籍の記述が真実であること、また、少なくとも真実と信じるについて相当な理由があることは、前記のとおりである。したがって、控訴人らが問題とする本件各記述部分は「真実でないことが明白である」とはいえず、本件各書籍については、前記①の差止の要件が欠けている。(なお、控訴人赤松については、本件書籍(2)が同控訴人の名誉を毀損するものでないことは明白であり、故赤松大尉に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為に該当するものでないこと、敬愛追慕の情侵害について出版物の差止請求が認められないことは前記のとおりであるので、差止の要件について論じる必要は全くないものである。)

(3)「被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞れがあること」(前記②)の要件について


ア 本件書籍(1)「太平洋戦争」について

(ア)本件書籍(1)「太平洋戦争」については、以下のような事実等がある。

(1) 家永三郎著「太平洋戦争」は、歴史研究書であり、太平洋戦争の沖縄戦において1945年(昭和20年)3月に慶良間列島で発生した集団自決について、歴史的事実として、梅澤隊長が住民に対し自決せよと命令したと記述している。同書は、1967年(昭和42年)2月14日に発行され、1986年(昭和61年)11月7日に改訂版「太平洋戦争〔第二版〕」が発行され、本件書籍(1)はこれをそのまま2002年(平成14年)7月16日に文庫化したものであるが、著者は同年11月29日死去した。

      したがって、本件書籍(1)は昭和61年当時までの著者の研究に基づく歴史認識を記述したものであり、読者はそのように受け止めるものである。

(2) また、過去の歴史的事実については、歴史観、根拠となる史料やその評価の相違などによって、歴史家によって認識が異なることがあることは、一般に広く知られていることである。そして、控訴人が主張するように、《梅澤命令説》については、これを否定する見解も、新聞や雑誌などで公表されているものである。

(3) 《梅澤命令説》については、原判決認定のとおり、昭和25年発行の「鉄の暴風」以降、多くの書籍等で公表されてきたものであるが、控訴人梅澤は、昭和63年に沖縄タイムス社に対して「鉄の暴風」の記述の訂正を求めたものの、同社との協議において、「ですから、もう私は、この問題に関して一切やめます。もうタイムスとの間に何のわだかまりも作りたくない」「こんなもん判つかんでも全然ご心配なく」と発言し、《梅澤命令説》の記述について、今後一切訂正・謝罪要求をしないことを明言し(乙43の2・28頁~30頁、乙42)、その後《梅澤命令説》を記述した書籍等について異議を述べることはなく、本件各書籍以外の書籍については、現在においても訂正等の請求をしていない。

(4) 「太平洋戦争」は、上記のとおり1967年(昭和42年)に出版され、今日まで出版が継続されてきたものであるが、控訴人梅澤は、本訴提起に至るまで38年間にわたり何ら異議を述べることがなかったものである。

(5) 控訴人梅澤は、あらかじめ訂正等の申し入れをすることなく、2005年(平成17年)8月に、いきなり本件訴えを提起したが、これは自らの意思によるものではなく、第三者の説得によるものであった。すなわち、控訴人梅澤は、元陸軍大佐の山本明から本件提訴を持ちかけられたが、提訴に消極的であったところ、山本明や松本藤一弁護士が控訴人赤松に面会して働きかけ、同控訴人が提訴を決意したことにより、控訴人梅澤も提訴することになったものである(乙116徳永信一「沖縄集団自決訴訟が光を当てた日本人の真実」137頁、甲B79・6頁)。また、控訴人梅澤は、「沖縄ノート」を読むことなく提訴に及んだものである(梅澤本人調書30頁)。

(6) また、本件提訴は、中学校や高校で使われている歴史教科書に《軍命令による自決命令》が堂々と掲載されるという由々しき事態が進行していた」ことを憂い、集団自決の犠牲者を「国に殉じるという美しい心で死んだ人」としてとらえようとする人たちによって、教科書の記載を変えさせるという政治的目的で支援し、行われたものである(乙116・136、144頁、乙101琉球新報記事)。平成19年3月31日に発表された高校の歴史教科書の教科書検定において軍による集団自決の強制を示す記述を認めない検定結果が出されたことについて、控訴人ら及びその代理人は、目的が達せられたとの「勝利宣言」を行っている(乙77朝日新聞記事、乙76の3沖縄タイムス記事)。

(イ)以上のとおり、控訴人梅澤が問題とする本件書籍(1)「太平洋戦争」の記述は、著者の1986年(昭和61年)当時までの研究による歴史認識を示したものとして読まれるものであること、歴史認識には見解の相違がありうるもので、《梅澤命令説》を否定する見解も公表されていること、控訴人梅澤は沖縄タイムス社に対し今後一切《梅澤命令説》に異議を述べないと表明したこと、「太平洋戦争」は38年間もの長期間出版が継続されてきたものであること、これに対し控訴人梅澤は何ら異議を述べてこなかったこと、控訴人梅澤は本件書籍以外の書籍等の《梅澤命令説》については現在に至るも問題にしていないこと、本件提訴は控訴人梅澤の自発的意思によるものではなく、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治的運動の一環として行われていることが明らかである。

  以上のような事実に鑑みると、本件書籍(1)の今後の頒布により、控訴人梅澤が「重大にして著しく回復困難な損害を被る虞れがある」とは、到底いえない。

イ 本件書籍(2)「沖縄ノート」について

(ア)控訴人梅澤について

ⅰ 本件書籍(2)「沖縄ノート」については、以下のような事情がある。

(1) 控訴人らが、控訴人梅澤の名誉を毀損していると主張する「沖縄ノート」の「本件記述(2)」(原判決の表記)は、「慶良間列島において行われた、7百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が総合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとり自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう」(69~70頁)としているものにすぎない。

      すなわち、本件記述(2)は、座間味村の集団自決について、責任者が沖縄に対してあがなっていないことを指摘し、これをとがめることはわれわれ自身にはね返ってくると論評したものである。また、責任者が座間味島駐留の第一戦隊の隊長であることも、責任者が控訴人梅澤であることも、責任者が自決命令を下したことも記載していない。控訴人梅澤も自分が自決を命じたことは記載されていないと述べている(梅澤本人調書31頁)。(したがって、そもそも控訴人梅澤の名誉を毀損するものではない)。

(2) 「沖縄ノート」は、1970年9月に出版されたもので、同年3月に渡嘉敷島の元日本軍の隊長が慰霊祭出席のため沖縄に赴いたところ、現地の人々から厳しい抗議を受けた事実に関して論評したもので、当時の著者の認識に基づき、著者の感じたことを述べたものであり、そのようなものとして読者もこれを受け止めるものである。

(3) 「沖縄ノート」は、本件提訴に至るまで36年間もの長期間出版が継続されてきたものであるが、これに対し控訴人梅澤は何ら異議を述べてこなかった。

(4) また、前記ア(ア)(2)(3)(5)(6)記載のとおり、歴史認識には見解の相違がありうるもので、《梅澤命令説》を否定する見解も公表されていること、控訴人梅澤は沖縄タイムス社に対し今後一切《梅澤命令説》に異議を述べないと表明したこと、控訴人梅澤は本件書籍以外の書籍等の《梅澤命令説》については現在に至るも問題にしていないこと、本件提訴は控訴人梅澤の自発的意思によるものではなく、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治的運動の一環として行われていることが明らかである。

ⅱ 以上のような事実に鑑みると、本件書籍(2)「沖縄ノート」の今後の頒布により、控訴人梅澤が「重大にして著しく回復困難な損害を被る虞れがある」とは到底いえない。

(イ)控訴人赤松について

ⅰ 本件書籍(2)「沖縄ノート」が控訴人赤松の名誉を毀損するものではないことは明白であり、故赤松大尉に対する敬愛追慕の情侵害の不法行為に該当するものでないことも前述のとおりである。また、敬愛追慕の情侵害による出版物の差し止めが認められないことも前述のとおりである。したがって、控訴人赤松について差し止めの要件について論じる必要は全くない。

ⅱ しかし、ちなみに差し止めの要件(2)について述べると、以下のとおりであり、本件書籍(2)「沖縄ノート」の今後の頒布により、控訴人赤松が「重大にして著しく回復困難な損害を被る虞れがある」とは到底いえない。

(1) 「沖縄ノート」は、1970年9月に出版されたもので、同年3月に渡嘉敷島の元日本軍の隊長が慰霊祭出席のため沖縄に赴いたところ、現地の人々から厳しい抗議を受けた事実に関して論評したもので、当時の著者の認識に基づき、著者の感じたことを述べたものであり、そのようなものとして読者もこれを受け止めるものである。

(2) 「沖縄ノート」は、被控訴人大江が、沖縄が本土のために犠牲にされ続けてきたことを指摘し、その沖縄について「核つき返還」などが議論されていた1970年の時点において、沖縄の民衆の重く鋭い怒りの鉾先が自分たち日本人に向けられていることを述べ、「日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか」との自問を繰り返し、日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものであり、控訴人らが問題にしている各記述も、沖縄戦における集団自決の問題を本土の日本人の問題として捉え返したものである(甲A3、乙97・7頁以下、大江本人調書1~4頁)。すなわち、「おりがきた」として那覇空港に降り立った渡嘉敷島の旧守備隊長の内面を想像によって描き、これが一般的な壮年の日本人全体の内面の意識構造(倫理的想像力)に他ならないのではないかと論評したもので、集団自決の責任者の行動は、いま本土の日本人がそのまま反復していることであるので、咎めはわれわれ自身に向ってくる、と問いかけて自己批判をしているものである。

 また、渡嘉敷島の集団自決は軍の命令によるものであるとし、隊長が自決命令を下したとしたものではなく、隊長の実名も記載していない。

(3) 赤松大尉は、「沖縄ノート」の本件記述について抗議等をしていなか った。控訴人赤松も本件訴訟提起に至るまで長期間異議を述べていなかったものである(赤松本人調書8頁)。また、控訴人赤松は本件書籍以外の書籍等の《赤松命令説》については現在に至るも問題にしていない

(4) 控訴人赤松は「沖縄ノート」を飛ばし読みにしたに過ぎず、「罪の巨塊」を誤読し、「沖縄ノート」が赤松隊長を大悪人としているとの曽野綾子の「ある神話の背景」の記述に影響され、控訴人梅澤と同様、他者の勧誘によって本訴提起に至ったものである。また、本件提訴が、特定の歴史観に基づき歴史教科書を変えようとする政治的運動の一環として行われていることは控訴人梅澤について述べたとおりである。


第3 結論


   以上のとおり、控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないことが明らかであるので、すみやかに本件控訴を棄却すべきである。

以上



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