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準備書面(3)3/3

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被控訴人準備書面(3)3/3



第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について

7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)(84頁)について

(1)同(1)(『ある神話の背景』に対する原判決の評価)について
ア 同ア(曽野は〈赤松命令説〉を否定するのか)について

     控訴人は、原判決が「ある神話の背景」について「曽野綾子自身の見解として赤松命令説を否定する立場を表明したものではない」(原判決179頁)としたことについて、「『ある神話の背景』で赤松隊長の自決命令があったことを証明する証拠はなく赤松隊長の自決命令はなかったというのが曽野の結論である」と主張する。

    しかし、原判決が認定するとおり、曽野は、平成12年10月16日の司法制度改革審議会において、「ある神話の背景」について「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、とは言っていません。ただ、今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。」と答えた旨の発言しており(甲B40の2、「正論」(平成15年9月号)(甲B55)も同旨)、「ある神話の背景」について「客観的な根拠を示して赤松命令説を覆すものとも、渡嘉敷島の集団自決に関して軍の関与を否定するものともいえない」(原判決181頁)との原判決の証拠評価は正当である。

イ 同イ(『ある神話の背景』の住民の供述は詳細でないのか)について

     控訴人は、原判決が「曽野綾子は、『ある神話の背景』において、赤松大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。」(原判決180頁)と認定したことについて、ある神話の背景には関係者の詳細な証言が多数収録されており、「調査の丹念さと内容からして『ある神話の背景』は高い信用性があると評価すべきである」と主張する。

     しかし、原判決が述べていることは、「ある神話の背景」によると、曽野綾子は、住民から赤松大尉による自決命令があったという直接の供述は得ていないが、それに関連して、住民からどのようなことが具体的に供述されたかについて詳細には記述がないという意味であって、関係者の証言が収録されていないなどとは全く指摘していない。

ウ 同ウ(曽野の取材には偏りがあるのか)について

     控訴人は、原判決が、曽野が「ある神話の背景」を執筆した際、富山真順に取材しなかったとされることについて、「取材対象に偏りがなかったか疑問が生じる」(原判決180頁)としたことを、「曽野が意図的に富山氏を取材対象から外したかのように決めつける原審判決こそ限りなく被告側に偏った証拠の評価をしている」と主張する。

     しかし、まず、原判決は、富山(新城)真順兵事主任への取材を行っていないとする曽野綾子の主張が「それが事実であれば」取材対象に偏りがなかったか疑問が生じるとしているのであり、曽野が意図的に取材対象から富山を外したと決めつけたものでは全くない。

     曽野綾子の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が、「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという」(乙11・14頁)と具体的に指摘しているとおり、曽野は、富山に取材を行っている。安仁屋が「兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11・14~15頁)と指摘するとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てており、信用できないものであって、原判決の証拠評価は正当なものである。

エ 同エ(大城将保の『ある神話の背景』に対する評価の変遷)について

     控訴人は、原判決が、大城将保は「全体として集団自決に関して軍の関与自体は肯定する見解を主張している」と判示した点について、「大城の主張は度々変遷し、しかも意味不明に、政治的な目的で変わる」などと主張する。

     しかし、大城の集団自決に関する主張は全く変遷していない。大城は、原判決が指摘するように、「青い海」(昭和52年)においては、「私自身は、今のところ戦争責任の追及の問題に言及する用意はないし、自決命令があったかどうかについてはさして興味がない」としたうえで、星雅彦が指摘する集団自決の様々な原因のなかに事実はほとんど網羅され、その要因の中でも旧日本軍が常に発散させていた国民への圧力を重視すべきであるとしており、当初から、集団自決への軍の関与を肯定している。その後、大城は、「沖縄戦を考える」(昭和58年)において、「ある神話の背景」に対する星雅彦らの反論が曽野の論証を覆していないとし、「鉄の暴風」の誤記等に関する指摘についての反証が出てきていないとするが、これは議論の状況についての大城の見解を述べたものにすぎず、赤松隊長の自決命令がなかったとの見解を示すものでは全くなく、大城の主張に変遷はない。

オ 同オ(命令の伝達経路の不明確)について

     控訴人は、「命令の伝達経路が明らかになっていないことは、命令がなかったことを示すものであり、自決に失敗した負傷者を赤松部隊が治療した事実と併せ(甲B18p121、122、141、142)、自決命令がなかったことを物語っている」と主張する。

     しかし、富山真順兵事主任の証言から明らかなように、赤松隊の兵器軍曹が米軍上陸前に、村役場にて17歳未満の少年と役場職員を集めて手榴弾を2個ずつ配布し、「敵に遭遇したら1個は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」と訓示しており、重要な武器である手榴弾が隊長の命令なしに住民に配布されることは考えられない。また、軍の命令で西山に集結した住民は、軍の自決命令によって自決したと認識している。したがって、戦時下の混乱状況での命令の伝達経路が明らかでないからといって、赤松隊長の自決命令がなかったということにはならない。

     また、自決命令にしたがって自決を図り、負傷して現に苦しんでいる住民を治療することは、自決命令を出したことと矛盾するものではなく、赤松隊が自決に失敗した住民を治療したからといって、自決命令がなかったことにならず、赤松隊長による自決命令を否定するものではない。

カ 同カ(古波蔵蓉子のエピソードが物語る《赤松命令説》の不存在)について

     控訴人は、「ある神話の背景」に記載されている、斬込みに行くことを願い出た古波蔵蓉子が赤松隊長に引き留められたとする話が、赤松隊長が自決命令を出していない決定的な証拠であると主張する。

しかし、古波蔵蓉子が斬込みに行くことを願い出たとされているのは集団自決の3か月半後の7月12日のことである(甲B18・236頁)。これは、米軍上陸後、住民が軍とともに避難し、軍が米軍に対して散発的に攻撃を行っていた時点での話であり、米軍上陸を目前にしていた集団自決直前とは全く状況が異なるのであって、古波蔵蓉子を赤松隊長が引き留めたという話は、何ら隊長による自決命令を否定する根拠とはならない。

(2)同(2)住民の体験談)について

ア 同ア(徳平秀雄郵便局長の体験)について

(ア)控訴人は、徳平秀雄の手記(乙9)について、「赤松隊長が途方に暮れ、統率力を失っていた状態を明らかにし、村民に自決命令を出す余裕もなく、また命令を村長に届けさせることもできなかったこと言わんとしている」と主張するが、これは控訴人独自の偏った解釈である。

   徳平秀雄の手記は、「このようなことは一体誰の責任でしょうか。あの時特攻舟艇を自沈させ、うつろなまま上陸を迎えて途方に暮れ、統率力を失っていた赤松隊長の責任か、また、村民の責任なのか、私はこれから更に、この問題を考え続けていかなければならないだろうか」とあるように、赤松隊長による自決命令を否定するものではないことが明らかであり、徳平の手記に記載された事実が赤松命令説を覆すものではないことは、原判決が認定したとおりである(原判決184頁)。

(イ)また、控訴人は、徳平の手記が「防衛隊が現れてから協議が始まって自決と決まったことを明らかにしているが、命令があったのならば、協議をする必要もないのであり、村長ら村の幹部の協議の結果、自決が決まったというのであるから、自然発生的に自決したのであり、赤松隊長の命令で自決したものでないことを徳平は語っている」と主張する。

   しかし、徳平の手記は赤松隊長の命令で自決したのではないなどとはしていない。日本軍の陣地の中から出てきた防衛隊員の伝令が古波蔵村長に伝達事項を伝えた後、古波蔵村長は徳平郵便局長と話をし、その後、古波蔵村長の呼び掛けで「天皇陛下万歳」を三唱し、「発火用意」という村長の号令のあとに手榴弾による集団自決が行われたことは、吉川勇助の陳述書(乙67)記載のとおりである。防衛隊を通じて軍から自決命令が伝えられ、徳平と村長らは具体的な自決の手順等を協議したことは十分に考えられるのであって、村の有力者の協議によって自然発生的に自決が行われたのではなく、軍の指示、命令により集団自決が行われたものである。

(ウ)なお、控訴人は、秦郁彦が徳平の手記を「信頼性のある私的記録と高く評価していることに留意すべきである」と主張するが、秦の意見書(甲B104)は、徳平の手記が信頼性のある私的記録であるとする根拠を明らかにしておらず、控訴人の主張は根拠のないものである。

イ 同イ(大城良平の体験)について

     控訴人は、大城良平は一貫して赤松隊長を擁護し、《赤松命令説》を否定しており、大城の証言が《赤松命令説》が虚偽であることを明らかにしている旨主張する。

     しかし、原判決が、「『沖縄県史第10巻』(乙9・781頁)に記載された大城良平の体験談も、赤松大尉が部下を指揮できなかったという事情について具体性はなく(大城良平の体験談以外に、赤松大尉が部下を指揮できなくなっていたと語るものは、本訴で提出された書証等の中には存しない。)、多くは大城良平の観測を述べるものにとどまっている」(原判決184頁)と認定しているとおり、大城の体験談は赤松隊長による自決命令がなかったことの具体的根拠を示しておらず、観測を述べるものにすぎないことから、大城の証言は、赤松隊長による自決命令がなかったとするものではない。

(3)同(3)(『秘録沖縄戦記』復刻版で《赤松命令説》は訂正されたか)について

    控訴人は、「秘録沖縄戦記」の復刻版(甲B53)について、原判決が「赤松命令説に反対する見解の存在又は沖縄戦の認識をめぐる紛争の存在を考慮して、復刻版を出版した遺族である山川一郎が慎重な態度をとったにすぎない」、「『秘録 沖縄戦史』及び『秘録 沖縄戦記』の資料的価値に変更を認めることはできない」(原判決185頁)したことについて、「遺族山川一郎が慎重な態度をとったと判断するに無理があり、判決の著しい偏りといえる」と主張する。

    しかし、原判決が認定しているとおり、「秘録 沖縄戦記」復刻版は、山川泰邦の死後に復刻され、慶良間列島の集団自決等に関する記述の一部を削除した理由について、「集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい」としており、復刻版の出版者である山川一郎が集団自決に関するさまざまな見解の存在を考慮して慎重な態度を示していることは明らかであり、同復刻版は、集団自決について隊長命令があったことを否定するものではなく、原判決の認定は何ら偏ったものではない。

(4)同(4)(その他資料の評価)について

ア 同ア(『陣中日誌』の転載の正確性)について

     控訴人は、原判決が「陣中日誌」について「その転載の正確性を確認できない」(原判決186頁)としていることについて、「根拠もなしに、不正確かのように評価するのは恐ろしく乱暴な証拠評価といわざるをえない」と主張する。

     しかし、原判決は、「赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり、そのことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7)、『陣中日誌』は、このような報道後、同年8月15日に発行されたものであるし、その元となった資料は書証として提出されておらず、その転載の正確性を確認できない」とし、抗議行動を受けて、赤松隊長に不利な集団自決の経緯に関する記述をしていない可能性が疑われることや、「陣中日誌」作成の根拠となった資料の内容が不明である点を指摘して、その記載の正確性が確認できないとする根拠を具体的に示しており、原判決の証拠評価は正当である。

イ 同イ(大江志乃夫の判断について)について

     控訴人は、大江志乃夫が「花綵の海辺から」(甲B36)に「赤松嘉次隊長が『自決命令』を出さなかったのはたぶん事実であろう」と記載したことについて、「『沖縄県史第10巻』(p778~p783)、『沖縄戦ショーダウン』(甲B44p3)で取り上げられる大城良平の取材を基にしたものであり、赤松隊長が自決命令を出さなかったという記述は、文科省の平成18年度教科書用教材検定における専門委員の意見書が、いずれも赤松隊長の自決命令を認めていないことからしても客観的事実に合致する」とし、「集団自決の本質をとらえており、その指摘は評価に値する」と主張する。

     しかし、「沖縄県史第10巻」の大城良平の手記の内容は、原判決が認定したとおり、大城の観測を述べるものにすぎず(本準備書面43頁)、「沖縄戦ショウダウン」、「花綵の海辺から」における大城の証言は「沖縄県史第10巻」の大城の手記と同じ内容であって、これも大城の観測にとどまるものであり、赤松隊長の自決命令がなかったとするものではない。また、前記第3、2のとおり、平成18年度の教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会が意見聴取した専門家のうち、赤松隊長の自決命令がなかったとしているのは、秦郁彦と原剛のみであり、その他の専門家は隊長による自決命令を否定していない(甲B104)。したがって、「赤松嘉次隊長が『自決命令』を出さなかったのはたぶん事実であろう」とした大江志乃夫の見解は大江の感想を述べたものにすぎず、本訴における資料価値は低いとした原判決の判断は正当である。

(5)同(5)(知念証言について)について

ア 控訴人は、原判決が、知念証人が陳述書(甲B67)に、常に赤松隊長の傍らにいたと記載しているにもかかわらず、西山陣地への住民に対する集結指示は知らない旨証言し(知念証人調書12頁)、住民が西山に集結した事実を知らなかった旨陳述書に記載していることを、「知念証人の証言の信用性に疑問を生じさせるか、知念証人が赤松大尉の言動をすべて把握できる立場にはなかったことを窺わせるもので、いずれにしても赤松大尉の自決命令を『聞いていない』『知らない』という知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である」(原判決188頁)としたことについて、「知念少尉が、事実上の副官であったとしても、軍の問題でもない部落民の避難場所の相談に対し、そのすべてに関与することはあり得ない」「住民の避難の相談について知念少尉が知らなくても不思議ではない」などと主張する。

     しかし、知念証人は、陳述書(甲B67)において「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松隊長の傍におり、私を素通りしていかなる赤松隊長による下令もあるはずがありません。私は、赤松隊長が自決命令を出したことは、見たことも聞いたこともありません。赤松隊長の傍には私が常にひかえていたのですから、自決命令がなかったことは間違いありません」と記載しながら、赤松隊長自身が認めている住民に対する西山への避難命令(集結指示)について、知らなかったと証言しており(知念証人調書12頁、甲B67)、知念証人が赤松隊長の出した命令・指示のすべてを把握してはいなかったことが明らかであり、赤松隊長による自決命令がなかったと証言できる立場にない。

イ また、控訴人は、原判決が「手榴弾を配布したことを副官を自称する知念証人が知らないというのは、極めて不合理であるというほかない」(原判決189頁)としたことについて、「手榴弾は勤務隊の兵器係が管理していたものであり(甲B36p27)、防衛隊に渡された手榴弾も勤務隊を通じて配布されたものである」「勤務隊から直接防衛隊に配布された場合には、第3戦隊の赤松隊長や副官の知念少尉がその事実を知らないことになる」と主張する。

  しかし、補給路を断たれた第三戦隊において貴重な武器であり厳重に管理されるべき手榴弾が、勤務隊も含めた渡嘉敷島の日本軍の最高責任者であった赤松隊長の命令・許可なく住民に配布されるとは考えられず、原判決の認定は正当である(赤松隊の中隊長であった皆本証人は、防衛隊員による手榴弾交付について「恐らく戦隊長の了解なしで勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言している(皆本証人調書25頁))。

ウ さらに、控訴人は、原判決が、知念証言について、「原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない表現をしている」(原判決190頁)と判示した点について、「裁判所の偏見にみちた認定という他はない」と主張する。

  しかし、知念証人は、原告代理人に対しては「沖縄県史第10巻」の「副官の証言」の記載は事前に確認して間違いがない旨証言したのにもかかわらず、一審被告代理人の質問に対しては、米軍に保護された少年2名を日本軍が処刑したことについて、「正直いってそれは分かりません」「私は直接会っていませんし、このことについて今初めて聞くんですから、ちょっと分かりません」と証言し、また、伊江島の女性等の処刑について、「伊江島のこの処刑については、私はぜんぜん知らないんです」などと証言しているのであり、「原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない表現をしている」との原判決の認定は正当である。

  知念証人は、原審証人尋問において、「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」と赤松隊長が住民に対して伝言したことがあるかとの一審原告代理人の質問に対し、「これはあります」と答え(知念証人調書5頁)、一審被告代理人の質問に対しては、そのように一審原告代理人の主尋問に答えたことについて記憶にない旨証言するなど(知念証人調書11頁)、隊長の自決命令に関する証言が一貫しておらず、赤松隊長が住民に対する自決命令を出したことはないとする証言自体信用できない。

  そして、知念証人は、赤松隊長が、捕虜になることを許さないとして、伊江島の女性、朝鮮人軍夫、大城訓導の処刑を口頭で命じたと証言しており(知念証人調書15頁)、昭和20年3月28日当時においても、赤松隊長は、住民が捕虜になることがないよう、住民に自決命令を発したと考えられる。

エ なお、控訴人は、母親を殺したという姉弟に赤松隊長の命令で乾麺麩を与え財布を渡したとする知念証人の行動から、「隊長あるいは部隊が自決命令を出していないことは容易に推測できる」と主張するが、米軍上陸直前に住民に対する自決命令を出すことと、その後生き残った幼い姉弟に乾麺麩等を与えることとは何ら矛盾するものではなく、赤松隊長が自決命令を出していないことは推測できるとはいえない。

オ 以上述べたとおり、知念証言に対する原判決の判断は全く正当である。

(6)同(6)(皆本証言について)について

ア 控訴人は、皆本証人が「現実には赤松隊長に戦況報告にいった際には、赤松隊長は、手榴弾配布のことも、自決命令のことも何もいっていない(甲B66p17)。そうであれば、自決命令はもちろん、自決のための手榴弾配布もされなかったというのが自然な解釈というべきである」と主張し、原判決が、皆本証人が赤松隊長の言動を把握できる立場にないと認定したこと、及び手榴弾に関する陳述書(甲B66)の記載及び証言が信用できないとしたことを論難するようである。

    しかし、皆本証人が赤松隊の本体に合流したのは3月28日午前10時であり(皆本証人は、赤松隊の本体に合流したのは3月28日午前10時であるとの「沖縄方面陸軍作戦」の記載について、防衛研究所戦史室の調査にもそのように答えたと認めている(皆本証人調書16~18頁))、また、皆本証人が中隊長であった第三中隊は本部とは別の場所に配置されていたのであるから(皆本証人調書21頁)、皆本証人が陣地内の状況をすべて把握していたわけではない(皆本証人調書27頁)。したがって、皆本証人は常に赤松隊長のそばにいたのではなく、赤松隊長の言動を把握しておらず、赤松隊長の自決命令がなかったと証言できる立場にないことが明らかである。

    そして、渡嘉敷島の集団自決において、住民は、富山の証言等にあるように、軍や防衛隊員から配られた手榴弾で自決を図ったのであるが、手榴弾は軍の重要な武器であり、皆本証人も軍の最高責任者である赤松隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない旨証言しており(皆本証人調書25頁)、手榴弾の交付が赤松隊長の指示・了解なしに行えないことを認めている。

イ なお、控訴人は、「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)と皆本証人の陳述書(甲B66)の本隊への合流時間の齟齬について、「資料のごく一部と証言の食い違いに特段の意味を見出すのは合理的な証拠評価といえない」と主張するが、原判決は、合流時間の齟齬のみを理由に皆本証人の証言を信用できないとしたものではない。

ウ 以上述べたとおり、皆本証言についての原判決の認定は正当である。

(7)同(7)(赤松大尉手記)について

    控訴人は、原判決が、「潮」に掲載された赤松隊長の手記(甲B2)の記載と「週刊新潮」の取材に応じた記録(甲B73)の記載を比較して、「潮」の「赤松手記の記載内容には疑問があり、それを直ちに措信することはできない」(原判決196頁)としたことについて、「週刊新潮」の記事は、「赤松隊長に取材したなら、起こるはずのない虚偽を記載しており、その余の記載にも信用性がない」とし、「『週刊新潮』の記事を『赤松隊長の手記』と比較するのは、前提において誤っている」と主張する。

    しかし、「週刊新潮」の赤松隊長に対する取材記事(甲B73)は、一審原告によって赤松隊長の自決命令を否定する証拠として提出されたものであり、その記載内容に信用性がないとする控訴人の主張は、不可解というほかない。

    原判決は、赤松隊長の手記(甲B2)、赤松隊長に対する「週刊新潮」(甲B73)、「琉球新報」(乙26)の取材記事の記載内容を比較して赤松隊長の手記(甲B2)は「自己弁護の傾向が強く、手記、取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できず、全面的に信用することは困難である」として「ただちに措信することはできない」とするもので、その判断は正当である。

(8)同(8)(被控訴人大江は十分な取材をしたのか)について

    控訴人は、被控訴人大江の「沖縄ノート」執筆の際の取材について、「牧港ら、被控訴人大江が親交を結んだメンバーは、牧港が『鉄の暴風』共著者であることを除けば、渡嘉敷島、座間味島の集団自決とは関係のない、社会活動家、政治活動家であり、被控訴人大江が渡嘉敷島、座間味島の集団自決の具体的情報を得るだけの体験も資料も持っていた兆候はない」と主張する。

    しかし、被控訴人大江が取材した当時、牧港篤三は沖縄タイムス社の記者であり、「鉄の暴風」を執筆し、新川明は八重山地方で沖縄タイムス社の記者を務めており(後に沖縄タイムス社の編集局長、社長を務めた)、外間守善は沖縄の文化・伝統の研究の第一人者であり、大田昌秀は自ら鉄血勤皇隊の一員として沖縄戦を戦った経験者として沖縄戦及び沖縄の民衆意識を研究し(後に沖縄県知事を務めた)、いずれも沖縄の歴史・文化に対して十分な見識を有する知識人であり、これらの知識人について「集団自決の具体的情報を得るだけの体験も資料も持っていた兆候はない」という控訴人の主張は、誤った憶測にすぎない。また、「鉄の暴風」が伝聞に基づくものではなく、集団自決の体験者からの直接の聞き取りをもとにしていることは前記第3、4(1)のとおりである。

    被控訴人大江は、自ら渡嘉敷島、座間味島に赴いて現地で調査することはしていないが、集団自決の直接体験者からの聞き取りに基づいて執筆された「鉄の暴風」や「沖縄戦記」(乙3)等の書籍を収集、検討し、体験者の証言を集めた本を中心に読み、「鉄の暴風」の執筆者である牧港ら知識人らから話を聞き、何度も牧港の元を訪れて取材し、牧港から沖縄タイムス社にある資料を見せてもらうなどし、これらに基づいて「沖縄ノート」を執筆したのである(乙97、被告大江本人調書8頁)。

このように、「沖縄ノート」は十分な取材に基づいて執筆されたものであり、原判決が被控訴人大江の沖縄ノート執筆の際の取材状況を、赤松隊長の自決命令があったことが真実であると信じるについて相当の理由があったとする判断の一要素として考慮したことは、全く正当な判断である。

(9)同(9)(富山真順の証言の評価)について

ア 控訴人は、昭和20年3月20日に、兵器軍曹が村役場で、17歳未満の村民に手榴弾を2発ずつ配ったという富山真順の証言について、原判決が「『自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する』と述べているが(原判決p206)、当該証言に内容の変遷があるという重大な事実を全く考慮しておらず、あまりに杜撰な証拠評価を行っている」などと主張する。

    しかし、原判決の認定は正当であって、控訴人の主張は全く理由がない。

富山真順の証言は、

「(1) 1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。富山氏は、軍の指示に従って『17歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。

(2) そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、『米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ』と訓示した。

(3) 3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任の富山氏に対して軍の命令が伝えられた。その内容は『住民を軍の西山陣地近くに集結させよ』というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。

(4) 3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の『集団死』事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の『自殺』を促した」

    というものであるが(乙11・158頁、乙12、乙67)、この手榴弾配布に関する証言は詳細であるうえ、朝日新聞記事(乙12)において「この位置に並んだ少年たちに兵器軍曹が自決命令を下した」と、実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど、非常に具体的である(乙12写真説明)。そして証言をした理由を問われた富山が、「いや、玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」としているとおり、富山は、軍(赤松隊長)による自決命令があったことについての渡嘉敷村における住民の認識を改めて明らかにしたものであり、同証言がなされた経緯は何ら不自然ではない。富山証言を「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」とした原判決の判断は全く正当である。

イ 控訴人は、第三次家永訴訟における証人尋問において、初めて富山証言がなされたことが不自然であるとし、安仁屋政昭が金城重明に働きかけて工作したのではないかとの疑いすら生じると主張するが、富山証言がなされた経緯は上記のとおりであって何ら不自然ではない。

   また、金城重明は、富山証言について、「本人から直接聞きました」「きっかけは、私が家永訴訟の体験者、証人として証言をするということを富山さんも知ったわけですよ。だから、実はあなたのおやじさんとは親しい、身近な関係だったと。あんたが出るならこういう事実があったんだよと言って、手榴弾を配った話をじかにしてくれました」「会ったわけですよ。渡嘉敷に行って」「証人は複数いますから、連絡を取り合ってます。例えば沖縄国際大学の教授をしておられた安仁屋さんとか、連絡を取り合っていますから、彼の方が情報が先だっただろうかなと思います。富山さんがこういう情報を持っているよと。多分そういう経緯で、私が後からかけたと思います」(金城証人調書24~25頁)と証言している。金城証人は、第三次家永訴訟で証言するにあたり、安仁屋政昭から、富山が渡嘉敷島での手榴弾交付の事実を知っている旨を知らされ、自ら渡嘉敷島へ赴いて、昭和20年3月20日の村役場における兵器軍曹による手榴弾交付の事実を、金城証人の父親と親しかった富山本人から直接聞いたものであり、安仁屋が金城に働きかけて工作したなどということは全くなく、富山証言が真実であることは疑いがない。

   なお、控訴人は、渡嘉敷島の住民からの聞き取りからなる「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)に富山証言にある手榴弾交付の事実が記載されていないことについて、「当時《手榴弾交付説》が住民のだれも知らないものであったことの証左である」と主張するが、「渡嘉敷村史資料編」における富山の手記は昭和19年10月10日の空襲時の状況を内容とするもので、集団自決について述べたものではない。また、安仁屋政昭が執筆した同書籍の第四章、第一節「慶良間諸島の戦争(解説)」の「渡嘉敷島の戦闘と住民」の項に、「すでに上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、『いざという時』にはこれで自決をするように指示されていたといわれる」(甲B39・366頁)と記載されているように、富山証言にある手榴弾交付の事実が記載されている。

ウ 控訴人は、吉川勇助の陳述書(乙67)において、昭和20年3月20日の村役場における日本軍による手榴弾配布の事実が記載されていないことについて、「吉川の記憶にそれがなかったことを証明している」と主張する。

   しかし、吉川は、陳述書において、自身が所持していた手榴弾の入手先について、1個は3月23日の空襲のあとに敵に捕まった時の自決用にもらったもの、もう1個は、3月28日に軍から伝令が古波蔵村長のもとに来た後、村長が号令をかける前に村長からもらったとの事実を記載しているのであり、富山証言にある3月20日の手榴弾交付の事実の記憶がなかったのではない。吉川が3月20日に兵器軍曹から手榴弾の交付を受けていないからといって、渡嘉敷村の17歳未満の少年と役場職員の全員が役場に呼ばれたわけではなく、富山証言が虚偽であるということはない。

(10)同(10)(金城重明の証言の評価)について

ア 控訴人は、原判決が、金城重明の証言を「自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」と判示したことについて、「証拠の吟味を最初から放棄したかのような、極めて杜撰な、偏ったものである」と主張するが、以下に述べるとおり、原判決の判断は正当である。

イ 控訴人は、昭和20年3月20日に兵器軍曹が住民に対して手榴弾を交付したとの富山証言が真実ならば、「命令の一貫性から考えて、一部の部落だけに手榴弾を交付したり、『自決せよ』と言ったりすることはあり得ないし、周囲20㎞の狭い島の中で『手榴弾の交付を受けたという話を誰からも聞いていない』などということはあり得ない」と主張する。

     しかし、金城は、軍の本部があった渡嘉敷島の渡嘉敷部落ではなく、渡嘉敷部落から離れた字阿波連の住民であったことから、富山証言の手榴弾の交付の対象ではなく、当時のことは知らないのであって、富山証言にある手榴弾の交付の事実を、第三次家永訴訟時点まで知らなかったとしても何ら不自然ではない。

ウ また、控訴人は、《万歳三唱説》なるものが、「潮」11月号(甲B21)、「ある神話の背景」に記載されておらず、家永訴訟における証人尋問においても証言されておらず、平成19年6月8日付沖縄タイムス紙上において《万歳三唱説》を唱えるに至ったとし、金城が最近になって無理やり《万歳三唱説》を作出したなどと主張する。

     しかし、金城重明は、第三次家永訴訟の証人尋問においても、本訴原審における証人尋問においても、自身の記憶に基づいて、詳細かつ誠実に、集団自決の際の事実関係について証言している。渡嘉敷島における集団自決の際に、古波蔵村長の号令により「天皇陛下万歳」を三唱して自決が始まったことは、金城の「集団自決を心に刻んで」(甲B42・52頁)に記載されているほか、「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)の小嶺幸信の手記(386~387頁)にも記載されており、金城によって近年突然語られるようになったものではない。金城は、本訴原審における証人尋問において、悲惨な集団自決の状況を、誠実かつ詳細に証言したのであり、「無理やり《万歳三唱説》を作出した」などということは全くない。

     なお、控訴人は、「集団自決を心に刻んで」(甲B42)の「軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられました(この事実関係については議論がある)」との記載について、金城が「軍による自決命令について自ら疑問を抱いていたと」しているが、これは、軍による自決命令があったとの立場である金城が、自己の立場を前提に、軍命令を否定する見解がある事実を客観的に記載したものにすぎない。

エ さらに、控訴人は、金城が、集団自決後に負傷した部位を治療するために軍の医療班のもとへ通ったと証言したことについて、「真に軍から自決命令が出ており、それが被控訴人らの主張するように『島民を死に追いやる程に意思を拘束していた』というのであれば、金城が負傷した部位を治療するために軍の医療班のところまで何度も通うということはあり得ないし、そもそも治療してもらって生き延びようという発想自体生じるはずがない。また、赤松隊長が自決命令の対象である島民にわざわざ薬のありかを教えるはずもない」とし、上記金城の証言が赤松命令を否定する重要な事実であり、これを金城が語ることが大きな矛盾であるなどと主張する。

     しかし、金城が軍の医療班のもとへ通っていたのは、米軍が上陸し、米軍の攻撃から生き延びた軍・民ともに避難生活を送っていた時点でのことであり、集団自決が行われたその時とは、全く事情が異なるのであって、治療のために医療班のもとへ通うことは何らおかしなことではなく、このことは赤松隊長の自決命令の存在を否定するものではない。

(11)同(11)(吉川勇助の証言の評価)について

    控訴人は、「そもそも『伝令』なるものの存在が疑わしい」「吉川証言は『手榴弾の交付』という本件の重要な問題点について相矛盾しており、その信用性は疑わしい」として、原判決が、吉川勇助の陳述書(乙67)、吉川の証言を掲載した沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)について「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」としたことについて、「明らかに証拠の吟味を欠いた、極めて杜撰な、偏った認定である」と主張する。

    しかし、吉川勇助は、軍陣地から出てきた40歳過ぎの中年男性である防衛隊員が「伝令」と叫びながら古波蔵村長の隣まで来ると、村長の耳元で何かを伝え、村長は何度も頷いていたこと、伝令の話を聞き終えた村長が郵便局長と話をし、しばらくたって住民に呼び掛けて「天皇陛下万歳」を三唱し、村長の「発火用意」との号令によって集団自決が始まったことを述べており、その供述は具体的かつ詳細であり、吉川勇助の陳述書(乙67)、沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)について「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」とした原判決の認定は正当である。

    控訴人は、沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)に米軍上陸前に2発の手榴弾が交付された事実が記載されていることをもって、陳述書(乙67)と相矛盾すると主張するが、米軍上陸前に日本軍が2発の手榴弾を交付した事実(富山証言によって明らかになった事実)と、陳述書に記載した吉川自身が手榴弾を受け取った経過とは何ら矛盾するものではない。

(12)同(12)(金城武徳の証言の評価)について

    控訴人は、原判決が金城武徳の証言について存在を指摘するのみで何ら評価を加えておらず、「意図的ともいえる判断の遺脱であり、証拠評価に不均衡があることを如実に物語るものである」と主張する。

    しかし、金城武徳の「正論」(甲B38)、DVD(甲B52の1ないし2)における証言は、単に集団自決が軍の命令ではないとするのみで、隊長命令がなかったことを具体的に指摘するものではなく、金城は隊長命令がなかったことを指摘できる立場にない。

    したがって、原判決に証拠評価の不均衡は存在しない。

第4 同第4(宮平秀幸証言)について


   被控訴人準備書面(2)で反論したとおり、控訴人主張の宮平秀幸の新証言は、母宮平貞子の証言や宮城初枝の証言、宮平春子の証言に照らし、また、従前の宮平秀幸の供述などに照らし、全く信用できない。

第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について


1 同1(原判決の判示)(120頁)について


「沖縄ノート」について両隊長に対する名誉毀損性が認められないことは、当審答弁書記載のとおりである。

2 同2(究極の故人攻撃)(121頁)について


   控訴人指摘の「沖縄ノート」の論評部分が違法性を有しないことは、原判決が丁寧に判示しているとおりである。

以上


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