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準備書面(3)2/3

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被控訴人準備書面(3)2/3

2008年(平成20年)8月22日
(平成20年6月16日付控訴人ら「控訴理由書」に対する反論等)


第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について

4 同4(《隊長命令》と援護法の適用との関係にかかる認定の誤り)(33頁)について

(7)同(7)(宮村幸延の『証言』書面及び梅澤陳述書の評価について)について

   宮村幸延の「証言」書面(甲B8)が真意を表したものでないこと、及びこれに関する控訴人梅澤の陳述書(甲B33)が信用できないことについては、原判決(164頁以下)が、幸延から直接経緯を聴取した宮城晴美の証言、「母の遺したもの」(甲B5)、「仕組まれた『詫び状』」(乙18)、幸延の妻宮村文子の陳述書(乙41)、控訴人梅澤と新川明の会談録音(乙43の1、2)、甲B85(下書き)などに基づき判示するとおりである。

   控訴人は、「家内に見せるためだけ」と控訴人梅澤が述べたというのは、幸延の苦しい弁明に過ぎないと主張するが、控訴人梅澤は、新川明との会談において、これに近い趣旨の発言をしている(乙43の2・5頁)。

   また、控訴人は、「証言」の書きぶりから泥酔状態で書かせたとはいえないと主張するが、控訴人梅澤は、幸延が毎日朝起きてから寝るまで酒を飲み続け、当時も酒に酔っていたことを認めており(乙43の2・5~6頁)、幸延の妻文子は、当時幸延が酒に酔って見境がない状態だったと述べている(乙41)。控訴人梅澤は、新川明との会談で、幸延が当日飲んでいたのはビールだったから正気は失っていないなどと述べているが(乙43の2・6頁)、幸延は日頃からビールは一滴も飲まず、当日は前夜の酒が残った状態で朝から泡盛を飲まされ、何も覚えていないほど酔っていたものである(宮城晴美に対する宮村幸延夫妻の証言。乙18・117頁)。

座間味村も、昭和63年の沖縄タイムス及び沖縄県援護課あて公式回答(乙21の1、2)において、「集団自決が村の助役の命令で行われたとの記事等は事実無根である。宮村幸延氏は酩酊状態で梅澤氏に強要されて捺印した模様である。同氏は戦争当時山口県で軍務にあり、座間味村にはいなかったものである」「新聞記事にA氏(宮村幸延氏)の証言が記載されているが、同氏は飲酒中に梅澤氏から強要されたもので、妻子に肩身の狭い思いを一生させたくない、家族だけに見せるもので絶対に公表しないからと言われ、何の証拠にもならないことを申し添えていたもので、信憑性がないものである」としている。

控訴人は、集団自決があった当時宮村幸延は座間味村にいなかったから「証言」(甲B8)の内容を語れる立場になかったとの原判決の判示はあたらないと主張する。しかし、戦争を体験した座間味島の多くの住民が軍(梅澤隊長)の命令によって集団自決したと述べており、これらの住民の証言に基づき座間味村が作成した「座間味戦記」にも梅澤隊長が自決を命じたと記載されており、また、このような認識に基づき多数の住民が集団自決について援護法の申請をし、その適用を受けていたもので、戦争当時座間味島にいなかった宮村幸延が、体験者の認識を覆す事実認識を抱くことができたとは到底考えられない。したがって、「証言」が幸延が書いたものであるとしても、「証言」に記載された事項(①集団自決は梅澤隊長の命令ではなく助役の命令で行われた。②援護法適用のためやむを得ず隊長命令として申請した)は、酒に酔わされた幸延が、控訴人梅澤が懇願・強要するがままに、事実に反することを書かされたものというほかないものである。

(8)同(8)(『母の遺したもの』が示す援護用適用のための《梅澤命令説》作出)について

   控訴人は、「真実は、梅澤隊長は自決命令は出していないから、私は虚偽の証言はしたくない」と初枝が述べたのに対し、「島のために虚偽の証言をせよ」と長老が強いたというやりとりがあったと主張するが、根拠のない憶測にすぎない。

すなわち、座間味島の多くの住民は梅澤隊長が自決命令を下したと認識し、その旨証言していたもので(宮城晴美証人調書2~3、8、11、23~24、27頁)、座間味村は、このような証言をもとに梅澤隊長が自決命令を下したと「座間味戦記」(乙3収録)に記していたものである。長老が隊長の自決命令が虚偽だと認識していた事実は全くない。また、初枝は、昭和20年3月25日夜の梅澤隊長と助役らとのやり取りから、梅澤隊長は自決命令を出していないと思い込んでいたものであるが、実際には、そのとき以外の日時・場所で、梅澤隊長が助役ら村の幹部らに対しどのような指示・命令を下していたのかについては知り得る立場になかったものである。そして、初枝は、上記のように思い込んでいたことを外部に表明することはなく、昭和37年の「家の光」への投稿(乙19)においても、自ら積極的に「座間味戦記」にしたがって梅澤隊長が自決命令を下したと記載していたもので、隊長命令がなかったとの告白は、昭和52年3月に初めて娘である宮城晴美に対し行ったものである(B5「母の遺したもの」及び乙104同書新版260頁)。

5 同5(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その1)―座間味島・渡嘉敷島共通部分―)(46頁)について


(1)同(1)(『鉄の暴風』(甲B6、乙2))について

   控訴人は、「鉄の暴風」について、原判決が「民間からみた資料として、その資料的価値は否定し難い」(原判決171頁)としていることについて、同書に誤記があること、取材対象の人数・氏名について触れていないことなどを理由に、資料価値を有しないと主張する。

しかし、「鉄の暴風」は、太田良博著「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、沖縄タイムス社が、集団自決の直接体験者を集めて、実際に集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材して、その証言を記録したものである。渡嘉敷島に関する記述についても、沖縄タイムス社の専務であった座安盛徳が那覇市内の旅館に、渡嘉敷村村長であった古波蔵惟好ら体験者を集め、取材を行ったものである(乙23「『鉄の暴風』周辺」223~224頁)。また、「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は、戦争当時国民学校校長であった宇久真成からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を執筆しており(乙23・226~227頁)、「鉄の暴風」は直接体験者からの取材に基づいて執筆されたものである。沖縄タイムス社の編集局長、代表取締役社長、同会長を務めた新川明も、「鉄の暴風」は、1950年当時に、沖縄タイムス社の記者が直接多数の体験者から聞き取りをしてまとめたものであることを当時の担当者から確認したことを明らかにしている(乙22陳述書1頁)。

原判決は、「『鉄の暴風』は、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であり、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたものであ」り、「牧港篤三が記載した『五十年後のあとがき』によれば、体験者らの供述をもとに執筆されたこと、可及的に正確な資料を収集したことが窺われる上、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたこともあり、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたことも窺われる」とし、執筆者である太田良博は、「『鉄の暴風』の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと、『鉄の暴風』が証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、詳言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった」(原判決169頁以下)としている。また、原判決は、このような「鉄の暴風」について、一部の誤記があることを認めたうえで、「『鉄の暴風』は、前記のとおり、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であるために生じた誤記であるとも考えられ、こうした誤記の存在が『鉄の暴風』それ自体の資料的価値、とりわけ戦時中の住民の動き、非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる」(原判決170頁)としている。

原判決の判断は正当であり、「鉄の暴風」に資料的価値がないなどといえないことは明らかである。

(2)同(2)(米軍の『慶良間列島作戦報告書』(乙35の1、2))について

ア 控訴人は、原判決が、米軍の「慶良間列島作戦報告書」(乙35の1、2)の「明らかに、民間人たちは捕らわれないように自決するよう指導されていた」との記述について、「慶良間列島に駐留する日本軍が米軍が上陸した場合には住民が捕虜になり、日本軍の情報が漏れることを懸念したとも考えることができ、沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いていたに通じる」と判示したことについて、上記記述は慶伊瀬島に関するものであり、座間味島との関係が不明であり、また、原文(英文)が明らかでないと主張する。

    しかし、上記の「明らかに、民間人たちは捕らわれないように自決するよう指導されていた」との記述は、「歩兵第77師団作戦報告 アイスバーグ 段階1 慶良間列島・慶伊瀬島」(乙114の1、2)に、座間味島の集団自決の生存者について記載されているものであり、座間味島の集団自決に関する記述である。なお、慶伊瀬島は、慶良間列島より沖縄本島寄りに存在する島であるが、渡嘉敷村に属しており、日本軍は駐留していなかったものであり(乙55沖縄方面陸軍作戦224~227頁)、上記記述が慶伊瀬島に関するものではないことはこのことからも明らかである。

  また、控訴人は、「(米軍に)尋問された民間人たちは、3月31日に、日本兵が、慶留間島の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたと繰り返し語っている」との同作戦報告書の記述は、慶留間島のものであり、座間味島に関するものではなく、また、同作戦報告書には渡嘉敷島のことは記載されていないと主張するが、上記作戦報告書記載の慶留間島住民の証言や座間味島住民の証言は、慶良間列島(座間味島、渡嘉敷島、阿嘉島、慶留間島など)の日本軍が、住民に対し、捕虜となることを禁止し、米軍が上陸したときは捕虜とならぬよう玉砕することを命じていたことを裏付けるものにほかならない。

  すなわち、原審被告最終準備書面(25~34頁)に詳述したとおり、沖縄の第32軍司令部は、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと、防諜体制を強化し、住民に対し捕虜となることを許さず、玉砕を強いていたものであり、秘密部隊である船舶特攻隊が配備されていた慶良間諸島においては、特に厳しく捕虜となることを禁止し、玉砕(自決)を強いていたものであり、この点については、大詔奉戴日での日本軍の言動(甲B5「母が遺したもの」97~98頁、宮城証人調書18~19頁、皆本証人調書22頁、甲B66皆本陳述書19頁)、慶留間島での野田隊長や座間味島での小沢基地隊長の訓示(乙48與儀九英回答書、乙9・730頁大城昌子手記、乙105垣花武一陳述書、乙41宮村文子陳述書、宮城証人調書20~22頁、乙74図)、渡嘉敷村役場前庭での兵器軍曹の手榴弾交付と自決指示(乙11、乙12)、手榴弾を交付するなどしての日本兵からの自決指示(甲B5・97~98頁、乙13・199頁、宮城証人調書18~23頁、乙9「沖縄県史」746頁宮平初子手記、738頁以下宮里とめ手記、甲B5「母の遺したもの」46頁宮城初枝手記、乙50「座間味村史」下巻61頁宮里育江手記、乙62・宮里育江陳述書、乙51宮平春子陳述書、乙52上洲幸子陳述書、乙53・2007年5月14日付朝日新聞朝刊記事、乙98沖縄タイムス記事での宮川スミ子の証言)など、多数の証拠がある。

イ また、控訴人は、林博史教授が「沖縄戦と民衆」(甲B37)で《赤松命令説》を虚偽であることをはっきり認めていたと主張するが、同教授は、上記著書で、「3月20日、村の兵事主任を通じて非常呼集がかけられ、役場の職員と17歳以下の青年あわせて20数人が集められた。ここで兵器軍曹が手榴弾を2個ずつ配り、いざというときはこれで『自決』するように指示した」「軍による事前の徹底した宣伝によって死を当然と考えさせられていたこと、軍が手榴弾を事前に与え、『自決』を命じていたこと、島民を1か所に集めその犠牲を大きくしたこと、防衛隊員が手榴弾の使い方を教え、『自決』を主導したこと、島民が『自決』を決意したきっかけが『軍命令』だったこと、日本軍による住民虐殺にみられるように投降を許さない体質があったことなどが指摘できる」とした上で、「花綵の海辺から」(甲B36)の大江志乃夫の感想を引用し、「なお、赤松隊長から自決せよという形の自決命令は出されていないと考えられる」(160、161頁)としているものである(「花綵の海辺から」の記述は、特段の根拠なく「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。」「挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであった赤松隊長がくばることを命じたのかどうか、疑問がのこる」と記述しているのみで、単に大江志乃夫の感想を述べたものにすぎない)。

 すなわち、林博史教授は、渡嘉敷島の「集団自決」が日本軍の指示・命令によるものであるとの明確な認識に到達していたもので、渡嘉敷島の「集団自決」が現地の日本軍の最高責任者である赤松隊長の意思に基づくものであることを否定したものではない(なお、控訴人指摘の甲B37の「15歳の少年の話」は、慶留間島の住民の話であり、渡嘉敷島の赤松隊長の自決命令の有無にかかわるものではない)。

6 同6(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その2)―座間味島―)(51頁)について


(1)同(1)(『母の遺したもの』に対する評価)について

ア 同ア(梅澤は住民の自決申し出に対し逡巡していただけなのか)について

    昭和20年3月25日夜、助役らが集団自決を申し出、弾薬の提供を求めた際に、「決して自決するでない。共に頑張りましょう」などと言ったとの控訴人梅澤の供述が信用できず、宮城初枝が述べるとおり「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と言ったにすぎないことは、初枝のノート(甲B32)や証人宮城晴美の証言などにもとづき原判決(173頁以下)が詳細に認定しているとおりである。

    控訴人は、原判決(174頁以下)が、「母の遺したもの」収録の初枝の手記に、助役らと控訴人梅澤との面会後の記述として、「唐突に盛秀助役が宮平恵達に伝令を命じた部分があること」などから、「今晩は一応お帰りください。お帰りください」との発言は控訴人梅澤の逡巡を示すものにすぎないとみることも可能であると判示しているのは趣旨不明であると主張するが、座間味島の日本軍の最高指揮官であった控訴人梅澤が、その支配下にある助役らに対し「決して自決するでない」と自決の中止を命じたのであれば、面会直後に助役が、隊長の命令に反し、住民を自決させるため忠魂碑前に集まるよう宮平恵達に伝令を指示することはありえないことであり、助役がこのような伝令を指示したということは、すなわち控訴人梅澤から自決を中止するようにとの指示・命令がなかったことを意味し、「今晩は一応お帰りください。お帰りください」との発言は、せいぜい控訴人梅澤の逡巡を示すものにすぎないものということになる。

イ 同イ(宮城初枝が直接に自決命令の有無を語る立場にあること)について

     控訴人は、原判決が「初枝は、座間味島の集団自決の際、現場である忠魂碑前にいなかったことになり、原告梅澤と面談した以後、原告梅澤はもちろん、集団自決に参加した者との接触も断たれていたのであるから、直接的には原告梅澤の集団自決命令の有無を語ることのできる立場になかったこととなる」と判示したことについて、控訴人梅澤が自決命令を村民側に発した可能性がある場面は、唯一、宮里盛秀助役や初枝が本部壕を訪ねた3月25日の夜のことだけであると主張する。

     しかし、初枝は控訴人梅澤との面談後、助役らや自決をした村民らとは離れて行動していたもので、面談後に隊長の自決命令が村幹部や村民にどのように伝えられたかを知る立場になかったことが明らかである。また、3月25日の面談以前においても、助役ら村の幹部は、軍からの指示を受けるため本部壕の控訴人梅澤のもとをしばしば訪れていたものと考えられるが(乙62宮里育江陳述書)、初枝は助役ら村幹部とともに控訴人梅澤のもとに赴く立場になかったもので、このような機会に同控訴人などから助役らに対し住民の自決について指示・命令がなされたことを知りうる立場になかったものである。

     なお、宮里盛秀助役(防衛隊長、兵事主任を兼任)は、妹の宮平春子や宮村トキ子に対し、「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」(乙51宮平春子陳述書、乙98沖縄タイムス記事での宮村トキ子の証言)と述べており、かねてより日本軍から住民の自決を命じられていたことが明らかである。当時座間味村の郵便局長であった石川重徳も、座間味村幹部から「米軍が上陸した場合は住民を玉砕させるよう軍から命令されている」と打ち明けられていた(当審における新証言・乙105垣花武一陳述書)。

ウ 同ウ(唯一の証人による《梅澤命令》の完全否定)について

     控訴人は、「母の遺したもの」(甲B5)において、著者宮城晴美が《梅澤命令》はなかったと判断を下したと主張するが、そのような事実はない。著者は、集団自決で未遂に終わった人たちのほとんどが「隊長から玉砕(自決)命令があった」と述べていることを話題にした際、初枝から「直接隊長からの命令を聞いたのか、もう一度確認してから書きなさい」と言われたので、確認したところ、直接隊長から命令を聞いたという明確な答えがなかったので、記録から削除したもので、隊長命令はなかったと判断したものではない(宮城晴美証人調書27頁、甲B5・259頁、乙104新版259~260頁)。

     また、控訴人は、宮城初枝が《梅澤命令》の唯一の直接証人であり、初枝の告白を収録した「母の遺したもの」(甲B5)によって《梅澤命令》は完全に否定されたと主張する。

     しかし、座間味村が住民の証言をもとに作成したと考えられる「座間味戦記」(乙3収録)には、「夕刻に至って梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い、又、老人、子供は村の忠魂碑の前に於いて玉砕するようにとの事であった」(7頁)と記載されている。乙3自体には、作成年月日は記載されていないが、乙3に収録されている「渡嘉敷島の戦闘の様相」はその記載内容から、乙10収録の「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(昭和28年3月)より以前のものと推定され(乙25伊敷清太郎論文)、乙3収録の「座間味戦記」も昭和28年3月以前に作成されたものと推定される。また、昭和30年12月発行の「地方自治7周年記念誌」(乙29)にも「座間味戦記」に依拠したと思われる同様の記載がなされている。

    このように、宮城初枝が厚生省引揚援護局職員から事情聴取を受けた昭和31年12月8日(乙104・255~256頁)以前に、多くの住民が梅澤隊長から自決が命じられたと語っていたものであり、宮城初枝もそのような住民の証言を多数聞いていたものである(宮城晴美証人調書8頁、甲B31初枝手紙)。座間味村当局も、沖縄タイムス社等からの照会に対し、そのように証言する多数の住民がいることをその氏名を明示して回答している(乙21の1、2)。また、宮城晴美が座間味村の集団自決の体験者から聞取り調査を行った際にも、ほとんどの人が「隊長から玉砕(自決)命令があった」と述べていたことは前記のとおりである(宮城晴美証人調書2~3、8、11、23~24、27頁)。大城将保も、直接座間味で調査した結果として、「部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである」としている(甲B25)。

     以上のとおり、初枝が唯一の証人だったことはなく、また、初枝の告白が、《梅澤命令》を否定することにならないことは前記イ記載のとおりである。

     なお、初枝は厚生省引揚援護局職員から聴取された際には、自ら語ることはせず、「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」との質問に「はい」と答えただけであった(甲B5・252頁、乙104・256頁)。初枝が、昭和20年3月25日夜助役らと梅澤隊長のもとに赴いた際に隊長が自決を命じたと証言していた事実はなく、「家の光」への投稿(乙19)でも、「夕刻、梅澤部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべし、という命令があった」と、「座間味戦記」と同様の記述をしていたにすぎない。また、村の長老は、他の多数の住民と同様、隊長の自決命令があったと認識していたもので、初枝に対し虚偽の証言をするよう求めたものでは全くない。

エ 同エ(梅澤との面談前後の初枝の体験事実)について

     控訴人は、初枝らが梅澤隊長と面談する以前から自決の覚悟を固めつつあったと主張するが、前記のとおり、慶良間列島の日本軍は、住民が捕虜となり軍の秘密が漏れることを防ぐため、米軍に捕まったら虐殺・虐待されると脅し、米軍上陸の際には捕虜となることなく自決をするよう住民に指示し、自決用の手榴弾を交付するなどしていたものであり、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものである。

また、控訴人は、初枝らが兵隊から食糧をもらっており、自決を迫るような言動がなかったことを理由に、《梅澤命令》はなかったと主張するが、軍の任務に従事していた初枝らが兵隊から食糧をもらうのはおかしなことでなく、また、日本軍は、米軍が上陸した際には、捕虜とならぬよう自決せよと指示・命令していたのであり、捕虜となりそうな状況にないときに自決を迫らなかったからといって、自決命令がなかったことにはならない。

オ 同オ(初枝の語る木崎軍曹らとの間のエピソード)について

     控訴人は、「母の遺したもの」に、内藤中尉から弾薬の運搬を指示され、木崎軍曹から自決用の手榴弾を渡された宮城初枝が、その後部隊に帰還した際に梅澤隊長や内藤中尉から「無事でなによりだった」などと労をねぎらわれたと記載されていることについて、《梅澤命令》を否定する根拠となると主張する。

しかし、初枝は女子青年団員として、梅澤隊長が指揮する軍と行動を共にし、弾薬運搬などの任務に従事していたもので、任務を終えて部隊に合流した初枝の無事を喜ぶのは当然のことである。木崎軍曹は、弾薬運搬の任務に出かける初枝に対し、「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさい」と言って、米軍の捕虜とならぬよう自決用に手榴弾を渡したもので(甲B5・46頁)、梅澤隊(梅澤隊長)が自決を命じたことは明らかである。無事を喜ぶことと、万一のときに捕虜にならぬよう自決を命じたこととは、なんら矛盾するものではない。

カ 同カ(住民側において自決命令を否定すべき根拠となるエピソード)について

(ア)同①(宮村文子の場合)について

      控訴人は、宮村文子が目撃した自決には《梅澤命令》の影響はうかがえないと主張するが、その根拠は不明である。

前記5(2)ア(25~26頁)記載のとおり、沖縄の第32軍司令部は、軍官民共生共死の一体化の総動員体制のもと、防諜体制を強化し、住民に対し捕虜となることを許さず、玉砕を強いていたもので、秘密部隊である船舶特攻隊が配備されていた慶良間諸島においては、特に厳しく捕虜となることを禁止し、住民に玉砕(自決)を強いていたものであり、慶良間列島の集団自決は日本軍の隊長の指示・命令によるものである。

      また、控訴人は、座間味、渡嘉敷の集団自決は、手榴弾で自決を遂げた者は極めて少ないなどと主張するが、事実に反する。座間味島でも、渡嘉敷島でも、自決用に手榴弾が配布された事実が多数ある(前記5(2)ア26頁)。

      なお、原判決129頁7行目に「宮村文子は」とあるのは、「宮里育江は」の誤記である(乙50座間味村史下巻61頁参照)。

   (イ)同②(宮平春子の場合)について

      控訴人は、「母の遺したもの」(甲B5・219頁)に、宮里盛秀の自決について「住民を敵の『魔の手』から守るために」と記載されていることを指摘し、米軍に殺されるという恐怖から自決したと主張するかのようである。しかし、日本軍はまさに敵の「魔の手」を強調し、捕虜となることなく自決するよう指示・命令していたのである。なお、上記部分は、宮平春子の証言によって軍の命令が明確になったことから、「新版・母の遺したもの」(乙104・220頁)では削除されている。

(ウ)同③(宮里美恵子の場合)について

      控訴人は、宮里美恵子の手記に「玉砕命令がくだった」とあり、「軍の命令」であるとはされていないこと、住民が自決の覚悟を固めていく様子が記載されていると主張するが、日本軍が全権を事実上掌握していた座間味島で、「玉砕命令がくだった」といえば、軍の命令を指す以外ありえないことである。また、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものであることは、前記のとおりである。

(2)同(2)(『沖縄史料編集所紀要』(甲B14)についての評価)について

   控訴人は、原判決が「沖縄史料編集所紀要」、末尾の6行部分を控訴人梅澤が執筆したものであると認定したことは明らかな誤認であると主張する。

しかし、「紀要」末尾6行部分は、控訴人梅澤の手記の後半部分が主観的記述であったため、大城将保が控訴人梅澤と電話や手紙で調整し、手記の後半部分をカットし、その代わりに、電話で控訴人梅澤から聞き取った結論的見解を大城が加筆し付加したものである(乙45大城将保陳述書)。(なお、甲B10の神戸新聞掲載の大城の談話は本人への取材によるものではなく、事実に反するものである。)

控訴人は、甲B115号証の末尾に、「紀要」にある「以上により」以下の部分が記載されていないことから、「紀要」の「(戦記終わり)」との記載は場所的な誤植であると主張するが、「紀要」の末尾6行部分が加筆されたのは上記の経緯によるものであり、同部分は控訴人梅澤の結論的見解であって、「(戦記終わり)」は場所的な誤植ではない。控訴人は、控訴審において新たに甲B115、128、129、130を提出しているが、いずれも大城が陳述書で述べている「紀要」末尾6行部分の作成経緯についての主張を否定するものではない。

したがって、「紀要」末尾の6行部分を控訴人梅澤が執筆したものであるとした原判決の認定は正当である。

(3)同(3)(梅澤供述の信用性について―手榴弾の交付について―)について

   控訴人は、原判決が、梅澤隊の木崎軍曹が宮城初枝に自決用の手榴弾を交付したこと、日本兵が住民に自決用の手榴弾を交付したことについて、戦隊長である控訴人梅澤の了解なしに交付したというのは不自然であるなどと判示したことについて、個人的配慮として分けてやったのであると主張するが、なんら根拠のない主張である。

   原判決が指摘するとおり、手榴弾は座間味島、渡嘉敷島に駐留する日本軍の重要な武器であり(乙55沖縄方面陸軍作戦・232、244頁、甲B5・203~204頁)、部隊において厳重に管理されていたもので、戦隊長の了解なしに住民に交付するなどということはありえなかったものである。控訴人梅澤は、米軍上陸の際には住民を捕虜にされ軍の秘密が米軍に漏れるのを防止するため、住民を自決させることにしていたからこそ、手榴弾を住民に交付することを認めたものである。

控訴人は、赤松隊の中隊長であった皆本証人が、手榴弾の住民への交付について、「戦隊長の了解なしにやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言したことについて、渡嘉敷島での手榴弾交付はすべて戦隊長の了解のもとで行われたことを認めたが、渡嘉敷島と座間味島とでは事情が異なると主張する。しかし、皆本証人の証言は、座間味島の日本軍を含む当時の日本軍の武器管理の状況を明瞭に物語るものというべきである。

(4)同(4)(本田靖春『第一戦隊長の証言』(甲B26)(1987年)の評価)について

   控訴人は、原判決において、本田靖春「第一戦隊長の証言」(甲B26)の検討・評価がほとんど欠落していると非難する。

   しかし、同書証は、宮村盛永の「自叙伝」(乙28)、宮村幸延の「証言」(甲B8)、宮城初枝の証言などについての本田靖春の検討・評価が記載されているものであり、裁判所が判決において本田の評価について言及しなければならない性質のものでないことは明らかである。

(5)同(5)(宮村盛永『自叙伝』(乙28)の評価)について

   控訴人は、宮村盛永「自叙伝」(乙28)には、自決の意思を自ら徐々に固めていくことが記載されていると主張するが、仮にそうであるとしても、前述したとおり、軍が捕虜となることを禁止し、自決を指示・命令していたからこそ、住民は自決を覚悟するしかなかったものである。

(6)同(6)(宮平春子の証言の評価)について

   控訴人は、原判決が宮平春子の証言(乙51陳述書)の検討・評価をほとんど脱漏していると非難するが、原判決は、131頁で春子の証言内容を詳細に紹介した上で、203頁において「自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有する」と述べ、これを評価している。

なお、宮里盛秀助役の妹である宮平春子及び宮村トキ子の証言(乙51、乙98)は、宮里盛秀助役ら座間味村幹部が、日本軍(梅澤隊長)から、米軍上陸時には敵の捕虜とならぬよう住民を自決させるよう指示・命令されていたことを示す極めて重要な証言である。

(7)同(7)(上洲幸子の証言の評価)について

   控訴人は、上洲幸子証言(乙52)は、筒井中尉から「もし敵に見つかったら、(中略)捕まらないように、舌を噛みきってでも死になさい」と、仮定的な条件をつけているので、《梅澤命令》を否定するエピソードであると主張するが、日本軍は、捕虜とならぬよう自決を指示・命令していたのであり、筒井中尉が「もし敵にみつかったら」と述べたことは、自決命令を否定するものとは到底言えない。

   控訴人は、神戸新聞に掲載された上洲幸子の話に言及しているが、神戸新聞の記事は、控訴人梅澤の意向にしたがい、その主張に沿って恣意的に記述したものといわざるをえず、信用できない(原審被告準備書面(7)11~13頁参照)。

(8)同(8)(宮里育江の証言の評価)について

   控訴人は、宮里育江の手記(乙50座間味村史下巻)に、部隊長の命令であるとして、伝令が、女性の軍属のみなさんは、食糧の持てるだけのものを持って移ってくださいと伝えたと記載されていることをもって、控訴人梅澤が自決命令を出していたのなら考えられない行動であると主張するが、育江は軍属であり、軍と行動する必要があり、また、前述のとおり、日本軍は、米軍の捕虜とならぬよう自決を指示・命令していたのであり、未だ米軍に遭遇しておらず、捕虜になるおそれが現実化していない段階で、軍属に対し食糧を持って移動するよう指示したことは、自決の指示・命令と矛盾するものではない。長谷川少尉が育江たちのことを気遣ったことも同様である。

(9)同(9)(『潮だまりの魚たち』(甲B59))について

   控訴人は、「潮だまりの魚たち」掲載の住民の証言に、住民が自ら自決を決断したこと、米軍に対する恐怖感を抱いていたこと、怪我をした水産学校2年生が隊を離れ家族のもとに行くことを認められたこと、兵士から食糧を分けてもらったことなどが記載されていることを理由に、住民は隊長命令とは無関係に自決したのだと主張するが、前記のとおり、日本軍は、米軍に対する恐怖心を煽り、捕虜となることを禁じ、米軍が上陸し捕虜になりそうなときは自決するよう指示・命令していたものであり、上記の事実は軍の自決命令を否定するものではない。

(以下、準備書面(3)3/3


7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)について

第4 同第4(宮平秀幸証言)について

第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について

1 同1(原判決の判示)について

2 同2(究極の故人攻撃)について



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