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準備書面(1)

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被控訴人準備書面(1)

2008年(平成20年)6月16日

(平成20年5月22日付控訴人らの「控訴理由の骨子」に対する反論等)


第1 「控訴理由の骨子」第1(訴えの変更)について


1 同1(請求の趣旨第3項の変更)について


   変更の申立てがなされた際に答弁する。

2 同2(変更の理由)について


(1)同(1)について

    控訴人は、原判決が隊長命令の真実性を肯定しなかったから、本件各書籍の出版等は違法ということになると主張するが、原判決は隊長命令について真実相当性を認め、本件各書籍の出版は不法行為に該当しないとしており、控訴人の主張が誤りであることは明らかである。

(2)同(2)及び(3)について

    控訴人は、昨年12月26日に発表された教科書検定についての文部科学省の立場及び原判決が隊長命令の真実性を肯定しなかったことを理由に、本件各書籍の販売継続の違法性がより高度なものになったなどと主張する。

   しかし、文部科学省は、本件訴えの提起及び控訴人梅澤の陳述書などによって隊長命令があったとする従来の通説が覆されたとして行った平成18年3月30日発表の教科書検定を事実上撤回し、「日本軍によって『集団自決』においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自決と殺し合いに追い込まれた」などの記述を認める立場に戻ったものである(乙103琉球新報記事)。また、原判決は、控訴人梅澤の供述は信用できないと判示し、本件各書籍の出版継続は違法でないとしたものである。したがって、控訴人の上記主張が失当であることは明らかである。

第2 同第2(原判決の最高裁判例解釈上の問題)について


1 同1(真実相当性について)について


(1)
控訴人が引用する最高裁判例の存在は認めるが、控訴人の「原判決の真実相当性に関する判断は単に真実性の立証要件を緩和したものに過ぎないと言え、これを違法性阻却事由ではなく故意又は過失の阻却事由とした最高裁判例の立場に違背する」との主張は、趣旨が不明というほかない。

   原判決は、原告梅澤及び赤松大尉が座間味島及び渡嘉敷島の住民に対し自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、この事実については合理的資料又は根拠があると評価できるから、本件各書籍の各発行時及び本訴口頭弁論終結時において、被告らが真実と信じるについて相当の理由があったものと認められると判断したもので、最高裁の判例の立場に違背するなどということは全くない。

(2)
控訴人は、「原判決は、関係証拠から集団自決における『軍の関与』を認め、そこから隊長の関与を『推認』できるとし、もって隊長命令につき合理的資料若しくは根拠があるとする。しかし、それらの資料等は、結局、真実性の立証に至れないものである以上、せいぜい『軍の関与』を基礎事実として隊長命令を推論する意見論評における推論の合理性を担保するものに過ぎないものといえよう」と主張する。

   しかし、原判決は、関係証拠から集団自決における「軍の関与」を認め、そこから隊長の関与を「推認」できるとしているが、それだけをもって隊長命令につき合理的資料若しくは根拠がある、としているわけではない。

   原判決は、座間味島については、「原告梅澤が座間味島における集団自決に関与したものと推認できることに加え、第4・5(6)イのように、少なくとも平成17年度の教科書検定までは、高校の教科書にまで日本軍によって集団自決に追い込まれた住民がいたと記載され、布村審議官は座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言していたこと、第4・5(8)ア記載の学説の状況、第4・5(2)ア(ア)記載の諸文献の存在、そうした諸文献等についての信用性に関する第4・5(4)の認定、判断、第4・5(7)記載の家永三郎及び被告大江の本件各書籍の取材状況等を踏まえると、原告梅澤が座間味島の住民に対し本件書籍(1)記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、この事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できる」(原判決205頁)と認定しており、渡嘉敷島についても、「赤松大尉が渡嘉敷島における集団自決に関与したものと推認できることに加え、第4・5(6)イのように、少なくとも平成17年度の教科書検定までは、高校の教科書にまで日本軍によって集団自決に追い込まれた住民がいたと記載され、布村審議官は座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言していたこと、第4・5(8)ア記載の学説の状況、第4・5(2)イ(ア)記載の諸文献の存在、そうした諸文献等についての信用性に関する第4・5(4)の認定、判断、第4・5(7)イ記載の被告大江の沖縄ノートの取材状況等を踏まえると、赤松大尉が渡嘉敷島の住民に対し本件書籍(2)にあるような内容の自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、この事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できる」(原判決208頁)と認定しているのである。

   したがって、原判決は隊長の関与の「推認」をもって隊長命令につき合理的資料若しくは根拠があるとする、という控訴人の主張は、原判決を正解せず、その前提において誤っているものである。

   なお、控訴人は、「軍の関与」を基礎事実として隊長命令を推論する意見論評における推論には合理性があるとしており、同主張は、隊長命令について真実であると信じるについて相当の理由があるとした原判決の正当性を裏づけるものというべきである。


2 同2(出版差止めの要件について)について


(1)
控訴人は、原判決が出版差止めの基準について、「その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものではないことが明白であって、かつ、被害者が重大な損害を被っているときに認められると解するのが相当である」(原判決98頁)としたことについて、北方ジャーナル事件最高裁判決によれば、「訴訟手続において出版の差止めを求める本件では、真実性の証明責任は、あくまで名誉毀損者の側にある」と主張する。

   しかし、北方ジャーナル事件最高裁判決は、出版物の事前差止めは、当該表現行為が公共の利害に関する事項である場合には原則として許されないが、表現内容が真実ではなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であって、かつ被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があるときは、例外的に事前差止めが許されるとしたうえで、その「事前差止めを仮処分手続によって求める場合」でも「債権者の提出した資料によって、その表現内容が真実でなく、又はそれが専ら公益を図る目的のものでないことが明白であり、かつ、債権者が重大にして著しく回復困難な損害を被る虞があると認められるときは、口頭弁論又は債務者の審尋を経ないで差止めの仮処分命令を発したとしても、憲法21条の前示の趣旨に反するものということはできない」とし、出版物の事前差止めについて、請求者の側が表現内容が真実でないことの証明責任を負うことを明らかにしている。

  同判決の中には「公共の利害に関する事項についての表現行為に対し、その事前差止めを仮処分手続によって求める場合に、・・・・・・表現行為者側の主たる防禦方法は、その目的が専ら公益を図るものであることと当該事実が真実であることの立証にあるのであるから、事前差止めを命ずる仮処分命令を発するについては、口頭弁論又は債務者の審尋を行い、表現内容の真実性等の主張立証の機会を与えることを原則とすべきものと解するのが相当である」との部分があるが、同部分は表現行為者側の防禦方法を述べているだけであり、口頭弁論又は債務者の審尋を行う場合に表現内容の真実性の証明責任を転換するとしているわけではない。

  したがって、訴訟手続において出版の差止めを求める本件でも、表現内容が真実でないことの証明責任は請求者の側にあり、控訴人の主張は失当である。

(2)
また、控訴人は、北方ジャーナル事件最高裁判決は、出版差止めの基準につき真実相当性を考慮していない、などとも主張するが、誤りである。

  表現内容に真実相当性が認められる場合には、損害賠償請求であっても認められないのであるから、より表現者(表現の自由)に対する制約が強い差止めが認められないのは当然のことである(したがって北方ジャーナル最高裁判決は事前差止めの要件として、真実でないことが明白であること(単に真実でないだけでなく真実相当性もない)を求めているのである)。

  北方ジャーナル最高裁判決の事前差止めの要件に照らせば、表現の内容に真実相当性が認められる場合に差止めが認められないことは明らかである。


第3 同第3(真実相当性を認定した原判決の事実認定上の問題点)について


1 同2(文科省の立場について)について


(1)
控訴人は、平成19年4月の教育再生特別委員会における銭谷初等中等教育局長の答弁や、平成12年に宮城晴美著「母の遺したもの」が出版され、平成13年に林博史著「沖縄戦と民衆」が出版されていたことに照らせば、「平成17年度検定の段階において《隊長命令説》が通説であるとするのが無理であることは余りにも明らかである」と主張する。

   しかし、原判決が、

     「(イ)銭谷眞美文部科学省初等中等教育局長(以下「銭谷初等中等教育局長」という。)は、平成19年4月11日、衆議院文部科学委員会において、座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが従来の通説であった、前記検定意見は、この通説について当時の関係者から色々な供述、意見が出ていることを踏まえて、軍の命令の有無についてはいずれとも断定できないとの趣旨で付したものであり、日本軍の関与を否定するものではない旨の発言をした。

       また、伊吹文明文部科学大臣は、同日、前記委員会において、前記検定意見について、日本軍の強制があった部分もあるかもしれない、当然あったかもしれない、なかったとは言っていない、日本軍の強制がなかったという記述をするよう要求するものではない旨発言した。

     (ウ)布村幸彦文部科学省大臣官房審議官(以下「布村審議官」という。)は、同月24日の決算行政監視委員会第一分科会において、座間味島及び渡嘉敷島の集団自決について、日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが通説であった旨発言した。

     (エ)銭谷初等中等教育局長は、翌25日の教育再生特別委員会においても、前記(イ)と同様の発言をした。」(原判決198頁)

   と認定しているとおり、平成17年度検定の段階で文科省が、隊長が自決命令を出したとするのが通説であると認識していたことは明らかである。

(2)
文部科学省は、平成19年3月30日発表の平成18年度高校教科書の検定結果では、本件訴訟における梅澤元隊長の意見陳述などを理由に、「日本軍によって…自決に追い込まれた」「日本軍に集団自決を強制された人もいた」などの教科書の記述について、「日本軍の関与」を示す部分を削除するよう修正させたが(乙75の1、2琉球新報記事ほか)、その無謀な措置に対する世論の厳しい批判を受け(乙75~93新聞記事)、その立場を改め、同年12月、出版社からの訂正申請に対し、「日本軍によって『集団自決』においこまれたり、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった」「日本軍は、住民に対して米軍への恐怖心をあおり、米軍の捕虜となることを許さないなどと指導したうえ、手榴弾を住民にくばるなどした。このような強制的な状況のもとで、住民は、集団自決と殺し合いに追い込まれた」(乙103琉球新報記事)などの記述を認めるに至った。すなわち、文部科学省は、平成18年度教科書検定の最終結論では、平成17年度検定の立場に戻ったものである。

(3)
控訴人引用の平成19年12月26日公表の教科用図書検定審議会日本史小委員会の「基本的とらえ方」は、「集団自決は、太平洋戦争末期の沖縄において、住民が戦闘に巻き込まれるという異常な状況の中で起こったものであり、その背景には、当時の教育・訓練や感情の植え付けなど複雑なものがある。また、集団自決が起こった状況を作り出した要因にも様々なものがあると考えられる。18年度検定で許容された記述に示される、軍による手榴弾の配布や壕からの追い出しなど、軍の関与はその主要なものととらえることができる。一方、それぞれの集団自決が、住民に対する直接的な軍の命令により行われたことを示す根拠は、現時点では確認できていない。他方で、住民の側から見れば、当時の様々な背景要因によって自決せざるを得ないような状況に追い込まれたとも考えられる。」(乙103琉球新報記事)としており、「直接的な軍の命令」を示す根拠は現時点では確認できないとしているだけで、軍による手榴弾の配布や壕からの追い出しなどの「軍の関与」を、集団自決の主要な要因として明確に認めている(日本軍の隊長が住民に対し自決命令を出したとするのが従来からの通説であったことも否定していない)。

  したがって、同意見は、原判決が、日本軍及び座間味島及び渡嘉敷島の隊長が集団自決に関与しており、隊長が自決命令を発したことについて合理的資料若しくは根拠があり、隊長が自決命令を発したことが真実であると信じるについて相当の理由があると認定したことの裏づけにこそなれ、同認定を覆す根拠となるものでは全くない。

(4)
なお、控訴人は、「平成18年度検定意見をめぐる問題については結論が出ていない」との原判決の認定は誤りであると主張するが、第1審口頭弁論終結時(平成19年12月21日)には、結論は出ていなかったものである。


2 同3(「軍の関与」について)について


(1)同(2)について

    控訴人は、「母の遺したもの」に、内藤中尉から弾薬の運搬を指示され、木崎軍曹から自決用の手榴弾を渡された宮城初枝氏が、その後部隊に合流帰還した際に梅澤隊長や内藤中尉から「無事でなによりだった」などと労をねぎらわれたと記載されていることについて、「自決命令がなかったことを雄弁に語るものである」と主張する。しかし、初枝氏は女子青年団員として、梅澤隊長が指揮する軍と行動を共にし、弾薬運搬などの任務に従事していたもので、任務を終えて部隊に合流した初枝氏の無事を喜ぶのは当然のことである。木崎軍曹は、弾薬運搬の任務に出かける初枝に対し、「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさい」と言って、米軍の捕虜とならぬよう自決用に手榴弾を渡したもので(甲B5・46頁)、梅澤隊(=梅澤隊長)が自決を命じたことは明らかである。無事を喜ぶことと、万一のときに捕虜にならぬよう自決を命じたこととは、なんら矛盾するものではない。

(2)同(3)について

    控訴人は、原判決が「集団自決が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことを考えると、集団自決については日本軍が深く関わったものと認めるのが相当」と判示したことについて、日本軍が駐屯する場所に米軍が攻撃を加えたからこそ、追いつめられた住民が集団自決を行ったのであり、屋嘉比島では日本軍がいなかったが米軍が上陸したことによって集団自決が発生していると主張する。

  確かに、渡嘉敷島、座間味島、慶留間島では、米軍が上陸を開始し、攻撃を加えた際に集団自決が発生している。しかし、集団自決の原因は、日本軍が、秘密保持のため、米軍の捕虜となった場合の恐ろしさを住民に植え付け、米軍の捕虜となることを禁じ、米軍が上陸した場合は玉砕するよう命じていたからにほかならない。

  すなわち、座間味村の座間味島では、1942年(昭和17年)1月から太平洋戦争開始記念日である毎月8日の大詔奉戴日に、忠魂碑前に村民が集められ、「君が代」を歌い、開戦の詔勅を読み上げ、戦死者の英霊を讃える儀式を行ったが、日本軍が駐留するようになった1944年(昭和19年)9月以降、村民は、日本軍や村長・助役(防衛隊長兼兵事主任)らから戦時下の日本国民としての「あるべき心得」を教えられ、「鬼畜である米兵に捕まると、女は強姦され、男は八つ裂きにされて殺される。その前に玉砕すべし」と指示された(甲B5「母の遺したもの」97~98頁、宮城証人調書18~19頁)。渡嘉敷村の渡嘉敷島でも、毎月の大詔奉戴日に、日本軍の戦隊長やその代理が出席し、「日本人の魂として、いざとなったら米兵に残酷な殺し方をされたり蹂躙される前に自決するのだ」という考え方を住民に浸透させるような儀式が行われていた(皆本証人調書22頁、甲B66皆本陳述書19頁)。

  また、座間味島では、昭和19年9月に日本軍が駐留するようになった直後に、基地大隊の小沢隊長が、島の青年団を集め、アメリカ軍が上陸したら耳や鼻を切られ、女は乱暴されるから、玉砕するよう指示しており(乙41宮村文子陳述書、宮城証人調書20~22頁、乙74図)、同じ座間味村の慶留間島でも、第2戦隊の野田義彦隊長が、1945年(昭和20年)2月8日の「大詔奉戴日」に、阿嘉国民学校慶留間分教場の校庭に住民を集め、「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と厳しい口調で訓示していた(乙48與儀九英氏回答書、乙9・730頁大城昌子手記)。

    慶良間列島の渡嘉敷島、座間味島、慶留間島での住民の集団自決は、捕虜となることなく玉砕するようにとの日本軍の上記の指示・命令があったところに、米軍の上陸攻撃が加えられ、捕虜となることを避けるため発生したものである。第2戦隊(野田隊長)が駐屯していた座間味村の阿嘉島では集団自決は発生しなかったが、日本軍は同様の指示・命令を行っており、住民は山中の谷間(杉山)に集まり、軍が配布した手榴弾の周りに円陣を組み、集団で自決しようとしたが、米軍の攻撃が及んで来なかったため、中止され、その後も攻撃がなかったため自決に至らなかったものである。

    控訴人指摘の屋嘉比島には、軍需産業である銅鉱山があり、鉱業所の職員と家族1,000人余が居住していた。日本軍は駐屯していなかったが、1945年(昭和20年)3月、屋嘉比島の17歳から45歳までの多数の住民が防衛隊として召集され、第1戦隊(梅澤隊長)及び第2戦隊(野田隊長)の指揮下に置かれていた(乙49「座間味村史上巻」344頁、乙9沖縄県史703頁中村仁勇手記)。また、同島は座間味村に属しており、直接あるいは座間味村の兵事主任を通じて日本軍の指揮命令を受ける立場にあり、防衛隊員は兵事主任を通じて召集されており、座間味島及び阿嘉島、慶留間島などの住民と同様、米軍が上陸したときは捕虜となることなく玉砕するようにとの日本軍の指示・命令は、屋嘉比島の住民にも当然伝えられていたと考えられる。そして、米軍上陸時に、鉱業所の職員と家族は坑内で自決を準備したが、2家族のみが自決し、その他の住民は米軍の捕虜となり自決に至らなかった(乙49「座間味村史上巻」364頁)。

    以上のとおり、屋嘉比島で米軍上陸時に住民の一部(2家族)が自決したからといって、慶良間列島の集団自決への日本軍の関与を否定することにはならない。


3 同4(原判決における証拠評価の誤り)について


(1)同(1)(『鉄の暴風』について)について

    控訴人は、「鉄の暴風」について「『資料的価値』がないことは明らかである」などと主張する。

    しかし、原判決が認定するとおり、「『鉄の暴風』は、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であり、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたものであ」り、「牧港篤三が記載した『五十年後のあとがき』によれば、体験者らの供述をもとに執筆されたこと、可及的に正確な資料を収集したことが窺われる上、戦後5年しか経過していない昭和25年に出版されたこともあり、集団自決の体験者の生々しい記憶に基づく取材ができたことも窺われる」、そして執筆者である太田良博は、「『鉄の暴風』の執筆に当たっては多くの体験者の供述を得たこと、『鉄の暴風』が証言集ではなく、沖縄戦の全容の概略を伝えようとしたため、詳言者の名前を克明に記録するという方法をとらなかった」(原判決169頁以下)ものである。

    原判決は、このような「鉄の暴風」について、一部の誤記があることを認めたうえで、「『鉄の暴風』は、前記のとおり、軍の作戦上の動きをとらえることを目的とせず、あくまでも、住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記であるために生じた誤記であるとも考えられ、こうした誤記の存在が『鉄の暴風』それ自体の資料的価値、とりわけ戦時中の住民の動き、非戦闘員の動きに関する資料的価値は否定し得ないものと思われる」(原判決170頁)と認定しているのであり、同認定は正当であり、「鉄の暴風」に「資料的価値」がないなどといえないことは明らかである。

(2)同(2)(梅澤供述と『母の遺したもの』について)について

    控訴人は、梅澤供述は、隊長の自決命令がなかった点において、初枝氏の告白と完全に一致するから、その信用性は高いなどと主張する。しかし、原判決(174~176頁)が判示するように、一致する部分は、梅澤隊長が「今晩は一応お帰りください。お帰りください」と述べた点のみで、この点は梅澤隊長の逡巡を示すものにすぎず、自決命令を否定するものではないと見ることが可能であり、「決して自決するでないと言った」など、初枝氏の記憶と相違する部分はとうてい信用できないものである(宮城証人調書6、7頁)。

    また、控訴人は、『母の遺したもの』は宮城晴美氏が《梅澤命令説》を完全に否定できることを実証した労作であると主張するが、同書がそのようなものでないことは、原判決(173~177頁)が判示しているとおりである。また、原審において宮城晴美証人は、初枝氏の手記が梅澤隊長の自決命令を否定することにはならないと証言し、座間味島の集団自決は軍の命令によるものであると明確に証言している(宮城証人調書15~23頁)。さらに、宮城晴美氏は、原審口頭弁論終結後の2008年1月に、「沖縄・座間味島『集団自決』の新しい事実」との副題を付して、『新版 母の遺したもの』(書証として提出予定)を出版し、生き残りの住民の新たな証言などをもとに、集団自決が軍の命令によるものであることを詳しく論証している。

(3)同(3)(『ある神話の背景』について)について

    控訴人は、原判決が「曽野綾子は、『ある神話の背景』において、赤松大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。」(原判決180頁)と認定したことについて、ある神話の背景には関係者の詳細な証言が多数収録されており、原判決の証拠評価は誤っていると主張する。

    しかし、原判決が述べていることは、「ある神話の背景」によると、曽野綾子は、住民から赤松大尉による自決命令があったという直接の供述は得ていないが、それに関連して、住民からどのようなことが具体的に供述されたかについて、詳細には記述がないという意味であって、関係者の証言が収録されていないなどとは全く指摘していない。

    原判決は、曽野綾子が富山兵事主任に対する取材を行っていないとすると取材対象に偏りがなかったか疑問が生じること、「ある神話の背景」が「沖縄県史第8巻」や「沖縄県史第10巻」について特に反論していないこと、「ある神話の背景」を評価している大城将保が全体として集団自決に対する軍の関与自体を肯定する見解を主張していること等を検討したうえで、「『ある神話の背景』は、命令の伝達経路が明らかになっていないなど、赤松命令説を確かに認める証拠がないとしている点で赤松命令説を否定する見解の有力な根拠となり得るものの、客観的な根拠を示して赤松命令説を覆すものとも、渡嘉敷島の集団自決に関して軍の関与を否定するものともいえない」(原判決181頁)と認定しており、原判決の証拠評価は正当である。

(4)同(4)(知念証言について)について

    控訴人は、原判決が、「赤松大尉の自決命令を『聞いていない』『知らない』という知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である」と認定したことを、「決めつけ」としている。

    しかし、原判決は「知念証人は、陳述書(甲B67)に『私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松体長の傍にいた』と記載しているにもかかわらず、西山陣地への集結指示については、聞いていない、知らない旨証言し、陳述書(甲B67)にも『住民が西山陣地近くに集まっていたことも知りませんでした。』と記載している。この食い違いは、知念証人の証言の信用性に疑問を生じさせるか、知念証人が赤松大尉の言動をすべて把握できる立場にはなかったことを窺わせるもので、いずれにしても赤松大尉の自決命令を『聞いていない』『知らない』という知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難であるということになる。」(原判決188頁)と証拠に基づいて正当な認定をしているのであり、「決めつけ」などでは全くない。

    知念証人は、赤松隊長が住民に対する伝言として、「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」と伝言したことがあるかとの一審原告代理人の質問に対し、「これはあります」と答え(知念証人調書5頁)、一審被告代理人の質問に対しては、そのように一審原告代理人の主尋問に答えたことについて記憶にない旨証言するなど(知念証言調書11頁)、隊長の自決命令に関する証言について、証言が一貫しておらず、赤松隊長が住民に対する自決命令を出したことはないとする証言は信用できない。

    また、原判決が認定するとおり、知念証人は、陳述書(甲B67)において「事実上の副官として常に赤松隊長の傍にいた」と記載しながら、赤松隊長自身が認めている住民に対する西山への避難命令(集結指示)について、知らなかったと証言しており(知念証人調書12頁、甲B67)、知念証人が赤松隊長の出した命令・指示のすべてを把握してはいなかったことが明らかであり、赤松隊長による自決命令がなかったと証言できる立場にない。

    そして、知念証人は、赤松隊長が、捕虜になることを許さないとして、伊江島の女性、朝鮮人軍夫、大城訓導の処刑を口頭で命じたと証言しており(知念証人調書15頁)、昭和20年3月28日当時においても、住民が捕虜になることがないよう、赤松隊長が自決命令を発したということは十分に考えられる。

(5)同(5)(照屋証言について)について

ア 控訴人らは、原判決が「昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄に関する産経新聞の記事や正論の記事」には「疑問がある」としたことについて、全く恣意的な評価であり、「照屋の経歴に関し提出された証拠の検討すらしていない」と主張する。

  しかし、原判決は、「証拠(乙56の1及び2、57の1及び2、58並びに59)によれば、照屋昇雄は、昭和30年12月に三級民生管理職として琉球政府に採用され、中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し、昭和31年10月1日に南部福祉事務所に配置換えとなり、昭和33年2月15日に社会局福祉課に配置換えとなっていること、照屋昇雄が社会局援護課に在籍していたのは昭和33年10月であったことが認められ、これらの事実に照らすと、照屋昇雄がこれに先立ち昭和29年10月19日以降援護事務の嘱託職員となっていたことを示す証拠(甲B63ないし65)を踏まえても、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄に関する産経新聞の記事や正論の記事(甲B35及び38)には疑問がある。」(原判決163頁)と認定しており、原告ら提出の証拠等を踏まえても、照屋証言には「疑問がある」としているのであり、恣意的な証拠評価では全くなく、照屋の経歴に関して提出された証拠の検討をしていることも明らかである。

イ そもそも照屋証言とは、「照屋昇雄が昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をした者であるとした上で、同人が渡嘉敷島での聞き取り調査について、『1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた』ものの、『軍命令とする住民は一人もいなかった』と語ったとし、赤松大尉に『命令を出したことにしてほしい』と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出した」(原判決157頁)というものである。

     しかし、まず照屋氏が仮に甲B63のとおり、昭和29年10月19日に援護事務嘱託となったとしても、昭和30年12月に、中部社会福祉事務所の社会福祉主事となり(乙56)、援護課には属さず、その後社会局援護課に在籍したのは昭和33年10月であり(乙59)、あたかも「昭和20年代後半から」ずっと社会局援護課に勤務して、援護法に基づく手続に関与していたかのような証言は虚偽である。

ウ そして、照屋証言の内容についてであるが、元大本営船舶参謀であった馬淵新治氏は、復員後厚生事務官となり、昭和30年3月から昭和33年7月まで総理府事務官として日本政府沖縄南方連絡事務所に勤務し(乙37・4頁)、沖縄において援護業務に従事しており、昭和30年に赴任して以来、座間味島や渡嘉敷島を訪問し、調査していたものであるが(乙36・4~31頁)、戦闘協力者(戦闘参加者)として住民を遺族援護法の適用対象とすることについて、「今年(引用者注;昭和32年)は沖縄戦の13周年忌を迎えることになった為、これが早急の処理が強く叫ばれ、近く厚生省から担当事務官3名が長期に亘って現地に派遣せられる段階となった。この所謂戦斗協力なるものの実態調査によって、国内戦の一様相が想察せられると思われるので、以下現在迄に調査した主要事項について述べることとする」(乙36・41頁)としたうえで、「戦闘協力者」(戦闘参加者)に該当するものとして、「慶良間群島の集団自決 軍によって作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例は、特殊の[ケース]であるが、沖縄における離島の悲劇である。 自決者 座間味村155名 渡嘉敷村103名」を挙げている(乙36・43頁)。また、馬淵氏は、「慶良間群島の渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)の集団自決につきましては、今も島民の悲嘆の対象となり強く当時の部隊長に対する反感が秘められております」と述べている(乙37・4-31頁)。すなわち馬淵氏の調査に、両島の住民は部隊長から自決命令があったと証言していたもので、日本政府(沖縄南方連絡事務所)も当初から、座間味村及び渡嘉敷村の集団自決は日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていたものであることが明らかである。

     渡嘉敷島において自決命令があったとする住民の証言は多数存在し(乙11・279頁~287頁、乙9・768頁~769頁)、昭和31年に琉球政府援護課に奉職し慶良間諸島の状況を調査した金城見好氏も、「『集団自決』が軍によって命令されたことや、住民の苦悩などが当時伝わっていた援護業務開始に当たって、『集団自決』で悲惨な体験をしたこと、最初に地上戦が始まった慶良間諸島を特別に調査した」「調査を行った人々から、われわれにも(軍命があったことを)聞かされた」と証言しており(乙47の2)、慶良間列島における住民に対する調査で、住民が軍による集団自決命令があったと証言していたことは明らかである。

     したがって、渡嘉敷島における住民に対する調査において、「軍命令とする住民は一人もいなかった」とする照屋証言は到底信用できない。

エ さらに、原判決が認定するとおり、「本訴の被告ら代理人である近藤卓史弁護士は、平成18年12月27日付け行政文書開示請求書により、厚生労働大臣に、前記産経新聞に掲載された『沖縄県渡嘉敷村の集団自決について、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために、照屋昇雄氏らが作成して厚生省に提出したとする故赤松嘉次元大尉が自決を命じたとする書類』の開示を求めたが、厚生労働大臣は、平成19年1月24日付け行政文書不開示決定通知書で『開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした。』との理由で、当該文書の不開示の通知をしたことが認められる。」(原判決164頁)のであり、「赤松大尉に『命令を出したことにしてほしい』と依頼して同意を得た上で、遺族たちに援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作り、その書類を当時の厚生省に提出した」との照屋証言には全く信用性がない。

オ 以上の点から、照屋証言を疑問とする原判決の認定は正当である。

(6)同(6)(富山真順証言と≪3月20日手榴弾交付説≫の破綻)について

    控訴人は、「原判決は、富山証言の核心である《3月20日手榴弾交付命令説》が証言された経緯、金城重明証言において同人をはじめ交付の対象となるべき少年の誰一人として手榴弾交付を受けていない事実が確認されたこと、役場の職員であった吉川勇助の陳述書に、村役場で手榴弾交付の事実が記載されていないことにより、《3月20日手榴弾交付命令説》が完全に破綻したにもかかわらず、これらに関する証拠評価も事実認定も一切行っていない」と主張している。

 富山真順氏の証言は、

   「(1) 1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。富山氏は、軍の指示に従って『17歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。

   (2) そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、『米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ』と訓示した。

  (3) 3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任の富山氏に対して軍の命令が伝えられた。その内容は『住民を軍の西山陣地近くに集結させよ』というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。

  (4) 3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の『集団死』事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の『自殺』を促した。」

   というものであるが(乙11・158頁、乙12、乙67)、この昭和20年3月20日ころ、渡嘉敷村役場で15歳以下の少年に対して手榴弾が交付された事実に関する富山真順氏の証言は詳細であるうえ、朝日新聞記事(乙12)において「この位置に並んだ少年たちに兵器軍曹が自決命令を下した」と、実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど、非常に具体的である(乙12写真説明)。そして証言をした理由を問われた富山氏が、「いや、玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」としているとおり、富山氏は、軍(赤松隊長)による自決命令があったことについての渡嘉敷村における住民の認識を改めて明らかにしたものであり、同証言がなされた経緯は何ら不自然ではない。

  また、金城証人は、渡嘉敷部落ではなく阿波連の住民であったことから、富山証言による手榴弾交付の対象の少年ではなく、当時のことは知らないのであるから、金城証言によって、交付の対象となるべき少年に手榴弾が交付されていなかった事実が確認されたなどということは全くない。そして、吉川勇助氏は、富山証言による役場における手榴弾の交付を受けたとはしていないが、吉川氏自身自決用の手榴弾をもらっており(乙67・4頁)、富山証言による手榴弾交付の事実がなかったことの根拠にはならない。

  したがって、「《3月20日手榴弾交付命令説》が完全に破綻した」などということは全くない。


第4 同第4(宮平秀幸の新証言について)について


   控訴人主張の宮平秀幸の新証言については、その証言内容について控訴人の主張がなされた後に詳しく反論することとするが、従前の宮平秀幸氏の供述などに照らし、まったく信用できないものである。


第5 同第5(『沖縄ノート』の本件各記述について)について


1 同1について


    『沖縄ノート』について両隊長に対する名誉毀損性が認められないことは、当審答弁書記載のとおりである。

2 同2について


    控訴人指摘の『沖縄ノート』の論評部分が違法性を有しないことは、原判決が丁寧に判示しているとおりである。

    また、控訴人は、真実と信じるについて相当な理由があるといえる事実にもとづいて論評を行うことは許されないと主張するかのようであるが、控訴人引用の最高裁判所の確立された判例に反する独自の議論にすぎない。

以上


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