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藤岡意見書2(大阪高裁提出資料)2/2

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藤岡先生意見書2(大阪高裁提出資料)2/2 

意見書(2)2/2



第六 被告側準備書面(2)への批判

2 宮平秀幸のビデオ証言との食い違い


 記録社制作の「戦争を教えて下さい・沖縄編」(1992年)に出演した宮平秀幸の証言について、被告書面は、次のように述べています。

 「このビデオにおいて、宮平秀幸は、昭和20年3月23日の晩から家族7名(祖父母、母、姉、妹、弟、自分)で自分たちの壕に入って、24日、25日も過ごし、25日午後8時半か、9時頃になり、忠魂碑前で自決するから集まれとの伝令が来たので忠魂碑前に行ったが、艦砲射撃の集中砲火を浴び、各自の壕で自決せよということになり、家族で、整備中隊の壕の前、第二中隊の壕の前を経由し、夜明けに自分たちの壕にたどりついたと話している。」

「忠魂碑前で自決するから忠魂碑前に集まれとの伝令が来たので忠魂碑前に行ったとのビデオ証言は母貞子の手記に反し信用できないものであるが、宮平秀幸が3月25日の夜に宮里助役らが梅澤隊長に面会した際に本部伝令として隊長の傍にいたとの甲B111~113の記載や、梅澤隊長が自決するなと命じたので解散すると野村村長が忠魂碑前で演説したとの甲B111などの記載は、秀幸のビデオ証言と相違し、いずれも虚偽であることが明らかである。」

 この議論が成立しないことを以下に述べます。

(1)
宮平秀幸の8月7日付け陳述書は、(1)集団自決の真相を語ることについて村人に厳重な口止めをしていた田中登村長の夫人が、撮影の前にわざわざ貞子に秀幸が真相を語らないよう口止めをしていたこと、(2)それを受けて貞子は家中の電気を消し、秀幸がうっかり本当のことを語ることがないよう、貞子と秀幸の妻・照子が撮影に立ち会い、秀幸の発言をチェックしていたこと、(3)秀幸自身もかつて、田中村長から「集団自決の本当のことを話したら村に居られないようにしてやる」と脅かされていたこと、(4)こうした中での撮影であったため、大変緊張し、苦しい思いの撮影であったこと、を証言しています。

 これに付け加えて、(5)その前年、読売テレビの取材の際、忠魂碑前でうっかり村長の解散命令をテレビカメラの前で話してしまったため、田中村長から厳しくとがめられたことがあった、という事情を考慮すれば、ビデオ取材が到底本当の体験を語ることのできる状態で行われたものではなく、従ってその内容を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできないことは明白です。

(2)
こうした条件のもとで撮影されたビデオであるために、極めて不自然な箇所や、経験則上あり得ない内在的矛盾がビデオ作品には生じています。

 その一つは、「3月23日の晩から壕に入って、24日、25日も過ごして」と、さらりと述べているところに現れています。米軍の空襲は23日から始まっており、軍の伝令役をしていた秀幸は、いろいろな経験をこの間にしているはずですが、23日から25日の夜まで、自家の壕の中にじっと隠れていて、何も語ることがなかったかのように描かれていることは極めて不自然で、ほとんどあり得ない話であると言えます。秀幸は上記の発言についての背景を、「本部壕で梅澤隊長が「死んではいけない」と自決を止め、それを受けて村長が忠魂碑前に集まった村民を解散させた現場を私は見ていたのに、それをビデオの取材では話すことができなかったため、誤魔化した」と述べています。

 もう一つは、家族が、足の悪い祖父母を連れて、忠魂碑前から、自家の壕の反対側の遠方にある整備中隊の壕に行き、また戻って、第二中隊の壕を経て、シンジュの自家の壕に帰ったという、その深夜の徘徊の意味が全く分からなくなっているという点です。日本軍の兵士と秀幸の家族との人間的な交流や、兵隊さんに「死んではいけない」と諭されたことなどを語ることができなかったため、家族の立ち回り先を外形的にのみ言及したので、人間の行動としてあり得ない不合理な話ができあがってしまったと説明できるものです。

 このことからも、真実を語れなかったビデオの証言と食い違うことを根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできないことが明らかです。

(3)
ただし、上記のような厳重な監視体制のもとで撮影されたビデオであるにもかかわらず、被告書面も指摘するように、ビデオには秀幸の「各自の壕で自決せよということになり」という証言が残ってしまいました。これは村長の解散命令のあと、上記のような受け止め方をして忠魂碑前を去っていった人がいた(例えば、知念久次郎。甲B110,233ページ)というあらわれであり、村長の解散命令を前提としているという点で、解散命令の片鱗が表現されたものにほかならず、上手の手から水が漏れたような状況になっています。

3 本田靖春に対する宮平秀幸の話との食い違い


 被告書面は、本田靖春著「座間味島一九四五」(『小説新潮』1987年12月号所収)に関して、次のように書いています。

 「これによると、宮平秀幸は、昭和20年3月25日の夜、祖父母、母、姉、妹、弟、とともに7名で宮平家の壕にいたもので、そこに「午後十時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前に集合するように」との命令が伝えられ、家族7名で時間をかけていろいろと話し合った末、午後零時ころ上記7名が忠魂碑の前についたが、物凄い艦砲射撃が始まり、その場から逃げ出し、その夜から26日にかけて島内の各所で集団自決が次々に起きたと話している。」

 被告書面は、本田ルポを上記のように要約し、それを根拠に、本部前での梅澤隊長と村幹部との面会の際に隊長の傍にいなかったこと、梅澤隊長が自決するなと命じたので解散すると野村村長が忠魂碑前で告げたことを秀幸は聞いていないこと、が明らかであると主張しています。しかし、この主張は成り立ちません。

(1)
7月28日付けの私の意見書で詳細に分析したとおり、(1)宮平秀幸は自家の壕に恵達らの伝令が来た時、そこに居合わせたわけではないが、家族から聞いた話をもとにビビッドに語ったため、本田がてっきり秀幸がその場に居合わせたかのように錯覚したこと、(2)忠魂碑前で村長の解散命令があったあと、その後どうするかを家族で相談したことが、伝令が来た後の家族の壕での話し合いに置き換わってしまったこと、(3)本田は一回きりの取材であったため、秀幸の話を十分に確認することが出来なかったこと、(4)原稿を書いたあと、秀幸のチェックを求めるなどの措置もとられなかったこと、(5)この時点では秀幸は村長の解散命令を語ることが出来なかったこと、(6)以上のようなやむを得ない諸事情により、本田の話の構成に混乱が生じたこと、を解明しました。従って、本田ルポの存在を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定することはできません。

(2)
被告書面は、『小説新潮』の次号(1988年1月号)の記事で、本田が宮城初枝や梅澤隊長の話を記載しているのだから、「宮平秀幸との話においてもこのことが話題になっていなかったはずはない」と指摘しています。しかし、被告には、本田の取材日程の前後関係について、その認識に混乱があります。

 『小説新潮』の1988年1月号の記事「第一戦隊長の証言」には、1987年10月下旬に、本田が座間味・阿嘉両島を「再訪した」と書かれており(291ページ)、「実をいうと、このたびの座間味島再訪の主たる目的の一つは、初枝さんに会って「集団自決命令」をめぐる証言を得るところにあった。「高月」の宮平秀幸さんは彼女の弟である。そこで秀幸さんを通じて初枝さんにインタビューを申し込んだのだが、「戦争の話だったらしません」と拒否された」(303ページ)と述べています。

 ここからわかるとおり、本田が秀幸から集団自決の話を聞かされたのは最初の訪問時であり、再訪した時に、秀幸を介して初枝に取材を申し込んだ本田は、取材を断られているのです。本田は肉と魚介類の冷凍物を販売する初枝の店まで直接訪ねますが、やはり断りの言葉は同じでした。ところが、初枝との会見は、本田が島を離れる最後の日に急遽実現するのです。本田はそのいきさつを次のように書いています。

 「それから中一日を置いた座間味島を離れる日、「高月」の食堂で朝食を摂っていると、思いもかけず初枝さんから電話が入った。店の筋向かいにある喫茶店で午前十時に会ってくれるという。」(303ページ)

 こうして、昭和20年3月25日の夜、梅澤隊長が村の幹部に弾薬の提供を断った事実を、初枝は本田に初めて語ったのです。このように本田の取材日程を整理すれば、本田が秀幸から集団自決の話を初めて聞かされた時には、本田は本部壕での梅澤隊長と村の幹部の会見に関する初枝証言についてはまだ何も知らなかったことがわかります。従って、本田と「宮平秀幸との話においてもこのことが話題になっていなかったはずはない」と被告が主張するのは全くの的外れです。

 宮平秀幸にこの点の事情を確かめたところ、実は秀幸は本田に、梅澤隊長が村の幹部と会った時、自決用の武器弾薬の提供を断っていたことをそれとなくほのめかしていたとのことです。しかし、当時、秀幸は村営の連絡船の機関長であり、身分は役場の職員(地方公務員)でしたから、役場の方針に反して自分の口から真実を話せば職を失う危険性がありました。本田が座間味島を離れる日の前夜、秀幸は初枝に電話して、本田に会って証言するよう説得していました。秀幸は自営業の初枝のほうが証言しやすいと思っていたのです。こうして本田は初枝に喫茶店で会うことができました。

 被告書面は、援護法の適用を受けていた村がどれほど厳しい箝口令のもとにあったかを全く無視して脳天気な議論を展開し、それを前提に「宮平証言」の信憑性を否定しようとしているのですが、そこには二重の欺瞞が隠されているというべきです。いずれにせよ、重大な真実の一端を世間に知らしめた画期的な文献である本田ルポの背景には、本田の取材に対する秀幸の誘導があったことがこれでわかります。

4 宮平春子証言などとの食い違い

(1)
被告書面は、「甲B111などには、秀幸の話として、3月25日午後11時頃、野村村長が忠魂碑前で、村民に対し「部隊長から自決するな、避難させなさいと命令されたので解散する」と告げるのを家族とともに聞いたと記載されているが、そのようなことがあったとの証言は、これまで住民の誰からも一切出ていない」という宮城晴美の陳述書を根拠に、「宮平証言」の信憑性を否定しています。

 しかし、私が『正論』4月号の拙論などで触れているように、(1)忠魂碑前に集められたのは、ほとんどが年寄りと子供で、証言者となるべき年寄りは死に絶え、子供は小さすぎて事態の意味がわからなかったこと、(2)60人以上の人が産業組合の壕で集団自決を遂げているが、この中には忠魂碑前にいた人々が多数含まれていること、(3)村当局による厳しい箝口令が存在し、秀幸自身、勇気をもって語り出しのはごく最近であること、(4)そもそも晴美は、村当局の意向を受けて、真実を覆い隠すことに何らかの形で関わっていたのではないかと思われること、などの事情から十分に説明がつくことです。

(2)
被告書面は、「宮平春子の証言によれば、3月25日の夜、宮里盛秀助役の一家は、盛秀を先頭に忠魂碑に向かったが、数メートル前に照明弾が落下し、前に進むことができず、来た道を引き返したところ、村長と収入役の一家が忠魂碑方向に向かって歩いて来るのに遭遇し、忠魂碑前にいくことをやめ、全員産業組合の壕に向かって歩いたものである」と述べ、「すなわち、村長は忠魂碑前に行っていないことが明らかであり、甲111などに記載された秀幸の話は虚偽であることが明らかである」としています。

 しかし、村長も助役も収入役も、要するに村の三役が誰も忠魂碑前に行かなかったという春子の証言こそ、社会常識から考えて到底受け入れることのできない荒唐無稽なつくり話です。村の三役は、伝令を派遣して忠魂碑前に村人を集合させた張本人です。自分で村人を集合させておきながら、自らは何の指示も与えずに現地に行くことをやめ、自分たちだけで勝手に別の場所に避難するなどという無責任な行動はあり得ないことです。照明弾が落ちたことは理由になりません。まして、盛秀は人一倍責任感の強い、意志強固な人物でした。どんな危険を冒しても、忠魂碑前に行き、自らの責任を果たしたはずです。春子の証言は、兄の人間性を限りなくおとしめるものであることに気付くべきです。秀幸は、忠魂碑前に村の三役の家族が来ていたことを目撃していますが、それは村の指導者として当然のことです。晴美の『母の遺したもの』は初枝証言を世に知らしめた功績がある反面、村当局に都合のよいつくり話が含まれた作品であることに留意しなければなりません。

5 宮城初枝の証言との食い違い


(1)
3月25日の夜、本部壕に梅澤隊長を訪ねた村の幹部の中に村長がいなかったという初枝証言を引いて、その場に村長がいたとする「宮平証言」は虚偽である、と被告書面は主張しています。これについては、私は『正論』4月号掲載の拙論(甲B110)ですでに検証しました。通信隊の長島義男の手記に、「国民学校校長と村の三役が青年有志二、三名と連れだって本部に来た」という一節があることから、村長はその場に来ていた可能性が高いと私は判断します。従って、この点に関して初枝の証言は虚偽を含み、秀幸の証言が正しいと考えます。

(2)
秀幸は、本部壕に村の三役が来ていたことを、今回に限らず、以前から証言していました。(1)2001年6月28日付け毎日新聞「びんご版」に、清水凡平は、「本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた」という秀幸の証言を書いています。(2)専修大学で災害社会学を専攻する大矢根淳ゼミナールの学生8人は、2003年9月、座間味島で夏合宿し、宮平秀幸の案内で集団自決の調査を行いました。その報告書が同年10月29日付けで『ゼミナール報告書シリーズ(1)2003夏・ちゅら海の語るもの~宮平秀幸氏と歩く座間味島』と題して発行されました。その中で、次のように、2箇所にわたって3月25日夜の本部壕前の出来事についての秀幸の証言が記録されています。

 <17ページ>
3つの展望台から眺める座間味
 ~宮平さんの視点を感じ取る~
2003/09/08 晴れ 11:00~13:30くらい ポイントをバスでめぐる(参加者8名)

【宮平さん-当時15歳】
梅沢部隊長(注1)と行動を共にしていた。
●集団自決の相談(3月25日の夜)
 村長-野村正次郎
 助役-宮里盛秀、
 収入役-宮平正次郎
以上の三役(注2)が部隊長に集団自決の相談に来る(注3)。

部隊長「村長、助役。何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族、一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」
三人は壕を追い出された。

<22ページ>
歴史年表からは見えなかった、もう一つの歴史
 ~座間味・日本の歴史と宮平秀幸さんの自分史との比較~
【宮平秀幸さん-当時15歳】
梅沢部隊長と行動を共にしていた。
●3月25日の夜<集団自決の相談>
 村長-野村正次郎
 助役-宮里盛秀、
 収入役-宮平正次郎
以上の3人が部隊長に集団自決の相談にくる。この部隊長の側に宮平さんはいたといいます。

部隊長「村長、助役、何をおっしゃいますか。軍としては何もできない。軍は、国土、国民、財産を守る。民間人を助ける。米軍上陸前に民間人を殺すことは、天皇に申し訳が立たない。家族一人でも生き残れ。犬死するな。米軍が上陸したら、そのとき考えろ。」
3人は壕を追い出された。

 上記で(注)が施されているところがありますが、その注の記述は、ほとんどが宮城晴美『母の遺したもの』(2000年、高文研)からの引用からなっています。晴美の著書では、村長はいなかったことになっているのですが、秀幸は、村の「三役」がいたことを学生たちに語っています。注目すべきことは、清水凡平と専修大学の学生に対する秀幸の証言は、晴美の著書が出版されたあとであるにもかかわらず、それに一切影響されておらず、終始一貫していることです。それが秀幸が直接経験した事実だったからです。

(3)
そもそも、部隊長に集団自決用の弾薬をもらいに行くというのに、その場に村長がいないということは極めて不自然です。村長がいなかったとしたら、その時間、村長はどこで何をしていたのでしょうか。何か村長が来ることのできない、よんどころない事情でもあったのでしょうか。村長がいないことについて、今まで全く何の説明も与えられていなかったことは奇妙です。村長の存在を消去することは、忠魂碑前での村長の解散命令を隠すための一環であると一応考えられますが、今のところ、それ以上の即断は避けたいと思います。

(4)
被告書面は、当夜の梅澤隊長と助役とのやりとりの内容について、初枝が聞いたことと秀幸が聞いたこととが食い違っているとして、「宮平証言」に信憑性のない根拠としています。しかし、前掲『正論』4月号に書いたとおり、30分も梅澤が何も語らず考え込んでいたかのような初枝の記述は明らかに不自然です。実際は、たくさんの言葉を費やして梅澤は村の幹部を説得したに違いなく、その点でも宮平証言のほうにはるかにリアリティーがあります。

(5)
被告書面はまた、梅澤隊長の陳述書に書かれた内容と宮平証言との間にも相違があることを指摘しています。それはそのとおりですが、前掲『正論』4月号で考証したとおり、村長がいなかったという点については、梅澤は初枝に教示・誘導された可能性が高いと私は見ています。あとで得た知識が、自ら体験した事として定着してしまうという現象はありふれたことです。

 なお、前掲『正論』の拙論では、秀幸が証言した梅澤の発言のうち、「天皇陛下の赤子」発言については、梅澤は自分の発想ではないとコメントしたことを紹介しましたが、再度秀幸にぶつけたところ、梅澤は確かに「天皇陛下の赤子」発言をしたのであり、それを梅澤はすっかり忘れているのだろう、とのことです。

6 伝令ではなかった


 宮平秀幸が軍の伝令であったことについては、宮平秀幸の陳述書、中村尚弘の陳述書、梅澤と関根清の現認証明書で完全に論証されています。

7 宮平秀幸の信用性


 この項で被告書面は、1~6の理由を総括して、宮平秀幸の新証言が信用できないとしていますが、以上見てきたとおり、結論は正反対で、被告書面の議論はどれ一つとして成り立たない謬論であることが証明されました。

 被告書面は、最後に次のように書いています。

 「なお、宮平秀幸は、昭和61年頃、宮城晴美に対し「昭和20年3月25日の夜、忠魂碑前で村長から、隊長が来たら玉砕すると言われたが、来ないので解散した」と述べたが、当時宮城晴美が宮平貞子をはじめとする何人もの戦争体験者に聞いてみたが、秀幸の話を認める人は誰一人いなかった(乙110宮城晴美陳述書1~2ページ)。秀幸の新証言は、この秀幸の宮城晴美に対する話とも大きく食い違っている。」

 乙110では、晴美は「昭和63年1月頃」と書いているので、上記被告書面に「昭和61年頃」とあるのは誤りです。それは別にしても、被告書面の論旨は、今一つ不明確です。被告は何を問題にしているのでしょうか。それが明示されていないので、当方で推測するしかありません。

(1) 「隊長が来たら玉砕する」という部分が間違いだというのかも知れません。しかし、晴美の母である宮城初枝は、『家の光』昭和38年4月号に書いた手記の中で、「玉砕は、部隊長と村長の到着を待って、決行されることになっていたが」と書いています。初枝がそのことを否定するはずがありません。

(2) 「忠魂碑前で村長から」秀幸が「言われた」、という意味に解釈した上で、それは間違いだというのでしょうか。それならば、その通りです。秀幸は、村長が解散命令する場にいたのであって、それ以前の段階で忠魂碑前にいた訳ではないからです。もし秀幸が晴美にそう言ったとすれば、他の人から聞いた話を秀幸は自分の言葉で再構成して語ったのでしょう。

(3) 「解散」の部分が村長の「解散命令」を指すとして、それが間違いであるというのでしょうか。それならば、それは今回の争点そのものです。

 晴美は問題の焦点を示すことなく、曖昧な記述をして漠然と秀幸の発言が信用するに足りないものであるという印象を広めようとしているようですが、非論理的な文章です。被告側代理人も晴美陳述書の論旨がよくつかめず、最後の付けたりの形で扱ったのかも知れませんが、そうだとしたら、「秀幸の新証言は、この秀幸の宮城晴美に対する話とも大きく食い違っています」と締めくくっているのは不誠実です。被告側準備書面を書いた被告代理人も、何と何が「大きく食い違」うのか、そのポイントを示さないままに「宮平証言」を論難しているからです。

第七 証言者としての宮平秀幸の人物像


最後に、被告書面末尾の「7 宮平秀幸の信用性」という論点にもかかわって、「宮平証言」の位置づけと、証言者としての宮平秀幸の人物像について、私見を述べておきます。
今回、被告側が「宮平証言」を否定するために持ち出した3つの材料は、次のように整理できる内容をもっています。「宮平証言」と対比して一覧表にし、それぞれについて、被告の評価と私の評価を対照させてみます。

忠魂碑前に行ったか? 村長の解散命令はあったか? 被告の評価 藤岡の評価
(1)村史の貞子証言 1988 NO  言及せず X
(2)本田靖春ルポ  1986 YES 言及せず X X
(3)記録社ビデオ  1992 YES 言及せず X X
「秀幸証言」   2008  YES YES  X 

 被告側準備書面(2)では、貞子証言だけが正しく、あとは「忠魂碑前に秀幸の家族が行った」という証言に関して、すべて誤りであるという立場をとっています。しかし、すでに述べたとおり、これは極めて脆弱な議論で、維持することの不可能なものです。貞子証言は、すでに私が前回の意見書で分析したとおりの重大な矛盾を抱えているだけでなく、当時6歳の宮平昌子の8月14日付け陳述書によって完全に反証されています。

なぜ、このようなことになったのでしょうか。それは援護法の適用を受けるため、村ぐるみで真実を隠蔽する必要があったからです。秀幸によれば、村史の自分の証言について不自然な編集がされていることへの不満は、他の証言者、長田一彦も漏らしていたとのことです。そもそも、誰が見ても重要な証言者であるはずの宮平秀幸を村史の証言者から外していることに村当局の作為があります。

座間味島の戦後史は、真実を語る住民の受難の歴史でした。援護法の適用を受けるため、村の長老の強要によって心ならずもウソの証言をさせられた宮城初枝は、長い間良心の呵責に苦しみぬきました。盛秀の弟の宮村幸延は、梅澤の無実を証明する証文を書いたばかりに、遺族会の会長の職をはずされました。晴美自身、「座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった」(沖縄タイムス、1995年6月23日付け)と書いています。

さらに晴美は、母の初枝が、晩年、病状が進んで、「家族の呼びかけにさえ応じなくなったというのに、時折、「XXさんがドアの前にいるので帰ってもらいなさい」とうわ言をいうようになりました。「XXさん」とは母の“新たな証言”に怒り、母を厳しく追い込んだ人です。その人が戸口に来ているわけはなく、死を目前にしてまでなお“戦争”にまとわりつかれる母が私にはあわれでなりませんでした」と書いています(『母の遺したもの』2000年、279ページ)。その晴美が、今度は真実を覆い隠す抑圧者の側に回っていることになります。

 ここで、宮平秀幸の記憶力について述べておきます。秀幸が特異な記憶力の持ち主であることは間違いありません。私が体験したエピソードを紹介します。先日、那覇のホテルのロビーで、私は秀幸とともにある人を待つために長い時間待機していたことがあります。ちょうど向かい側のソファーに、初老のご婦人の二人連れが座っておりました。秀幸は声をかけて、「お二人さんは、20年ほど前、座間味に来たことがありますね」と話しかけたのです。二人はびっくりして、確かに1回だけ座間味島に渡ったことがあると言いました。秀幸は、「ボクは連絡船の機関長だった。あなた方は船に二人連れで座っていた。ボクはお顔を覚えていましたよ」と言いました。

たった一回出会っただけの人でも顔を覚えてしまうというのは驚異的な記憶力です。特に、秀幸の映像的な記憶力は標準的な人々のそれを遙かに超えています。比喩的に言えば、秀幸の頭の中には、何百万枚という映像がストックされていて、きっかけがあれば活性化するのだろうと思われます。この間、私が接した秀幸の証言は極めて一貫しており、全く破綻がありません。宮平秀幸は、今後座間味島における集団自決の真相を究明する上で、かけがえのない人物と言えます。

しかし、宮平秀幸は、この度の証言をしたことで、村社会の中ですさまじい圧力にさらされています。座間味島における厳しい状況については、『WILL』5月号掲載の藤岡信勝・鴨野守「沖縄タイムスの『不都合な真実』」に書きました。その末尾に、今後、秀幸に対して加えられると考えられる攻撃の類型として、

(1) 宮平の証言内容に対する攻撃――①宮平の過去の証言との矛盾をつくもの、②宮平の他の家族の証言との矛盾をつくもの、③他の住民の証言との矛盾をつくもの
(2) 宮平への個人攻撃
(3) 宮平の家族や家業への圧力

の3つを指摘しておきましたが、そのすべてが今や盛大に始まっています。宮平の次世代の家族からは、ペンションの営業に差し障ることを心配して、証言をやめてほしいと懇願されています。しかし、秀幸は妻・照子と毎日のように話し合い、「本当は村の人にとって命の恩人である梅澤さんを、悪者にするわけにはいかない」と、勇気を奮い起こして証言を続けています。秀幸は自分の枕元にノートを置いて、当時のことを思い出す度に忘れないようにメモをとっています。1月26日の初対面の日に、秀幸から彼の証言を社会に公表する役目を指名された形になった私は、村の厳しい事情から法廷に出ることのできない秀幸の証言を、忠実に、客観的に伝え、必要な批判的検討を加えつつ、真実に到達したいと考えております。

(以上)


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