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藤岡意見書2(大阪高裁提出資料)1/2

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藤岡先生意見書2(大阪高裁提出資料)1/2

意 見 書(2)1/2

平成20年8月28日
藤岡 信勝


初めに、この意見書(2)に至るまでの経過をまとめておきます。


私は、原告側弁護団の依頼を受け、7月28日付けの意見書を提出しました。その中で、座間味島在住の宮平秀幸(78歳)が今年の1月~3月に、私(藤岡)や鴨野守、産経新聞、チャンネル桜などに対して行った一連の証言(以下、カギ括弧付きで「宮平証言」と略称する)を紹介しました。「宮平証言」のポイントは、(1)昭和20年3月25日夜、本部壕前で梅澤隊長と村の幹部が会見した際、梅澤が「自決するな」と制止し、自決するために集められた村民の解散を求めていたこと、(2)それを受けて村長が忠魂碑前で村民に解散を命令していたこと、の2点に要約されます。

また、私は上記意見書の中で、沖縄タイムスの記者たちから指摘された、宮平の証言の信憑性を揺るがすと記者たちが考える二つの資料、すなわち、①『座間味村史(下巻)』(1989年)に掲載された宮平秀幸の母・貞子の証言、②『小説新潮』1987年12月号に掲載された本田靖春のルポ「座間味島一九四五」、の両者について詳細な検討を加え、それらの文献に記載された内容と、「宮平証言」とが食い違う理由を分析しました。

 その分析によって、貞子証言は虚偽を含み、本田ルポは話の構成に錯誤があること、そうなった根本原因は、忠魂碑前で村長が解散命令を出していたことが村当局の厳重な箝口令の対象となり、村民が真実を自由に語れないという状況にあったためであることを明らかにしました。こうして、二つの文献の存在によっても「宮平証言」の信憑性は少しも損なわれないことを論証しました。

 その後、私の意見書が原告側代理人から貴裁判所に提出される前に、7月31日、被告側代理人から乙号証108~110と、準備書面(2)が提出されました。乙号証の中には、宮平秀幸が出演した市販ビデオ「戦争を教えて下さい」(1992年、記録社制作)のDVDとその反訳、上記本田ルポ、宮城晴美の陳述書などが含まれていました。被告側の主張の骨子は、(1)『座間味村史』の貞子証言、(2)『小説新潮』の本田ルポ、(3)「戦争を教えて下さい」のビデオ、が今回の「宮平証言」と食い違うから「宮平証言」は信用できない、とするものでした。

しかし、このうちの(1)と(2)については、7月28日付けの私の意見書ですでに分析を終えておりました。私の意見書は被告側の論点をあらかじめ反論していたことになります。沖縄タイムスの記者たちが指摘した論点は、いずれ法廷に持ち込まれるであろうとの想定のもとに私は意見書をまとめたのですが、まさにその通りの展開となりました。

そこで、この意見書(2)では、まず、最初の意見書でふれていない、(3)の「戦争を教えて下さい」のビデオと「宮平証言」との食い違いの理由を分析し、次に宮城晴美の陳述書の誤りを示したあと、被告側準備書面(2)が提示している論点について全面的に批判・反論することとします。この部分がこの意見書(2)の主要な内容を構成します。最後に、証言者としての宮平秀幸の人物像について私見を述べ、結びとします。この意見書(2)は、7月28日の意見書の続編であるので、小見出しのナンバリング(「第一」、「第二」など)は通し番号としました。

第四 記録社ビデオ証言との食い違いについての分析


記録社が1992年に制作したビデオは「戦争を教えて下さい・沖縄編」というタイトルで、その中に渡嘉敷島の金城重明と座間味島の宮平秀幸が60分ずつ登場します。私はこのビデオの存在を、宮平秀幸と今年の1月26日に偶然出会ってから1週間後、秀幸本人から電話で教えられました。そこで早速市販のビデオを購入し、視聴しました。

私は、2月10-12日、座間味島に裏付け調査に出かける予定を立てましたが、宮平秀幸が果たして証人として真実を語っているのか十分慎重に取り扱わなければならないと考えておりました。1月26日に出会ってから、彼の証言を私は直ちに百パーセント信じたわけではありません。人間の記憶には思い違いや記憶の変容ということがあります。それで、できるだけ彼の既存の証言記録を事前に検討しておこうとしました。そして、到底信用できない人物であると判断できるなら、裏付け調査を取りやめることも視野に入れていました。

そうした姿勢で上記ビデオを検討した結果、1月26日に語ったこととの食い違いの理由は証言時の状況などによって十分合理的に説明できるものであると判断しました。もちろん、ビデオの中で秀幸は今回の「宮平証言」の重要なポイントには全くふれておりません。それは当然のことです。また、盛んに「皇民化教育」が集団自決の原因であると力説していましたが、それは解釈に属することで事実の証言とは位相を異にし、問題とする必要はないことでした。ちなみに、今でも秀幸は「皇民化教育」の影響についてはビデオ出演当時とあまり変わらない認識を持っているようですが、「皇民化教育がなくなったから、戦後は道徳が滅びた」とも述懐しています。

今回、被告側がこのビデオを証拠として、反訳まで添えて提出したのは、ビデオで語られていることと食い違う「宮平証言」は虚偽であると主張するためです。反対に私は、ビデオの証言こそが真実を語れない制約のなかでなされたもので、虚偽を含み、この度の「宮平証言」は勇気をもって真実を語ったものであると主張します。以下、それを論証します。

第一に、ビデオ収録が村の当局の監視下で行われた事情は、秀幸の8月7日付け陳述書に詳細に述べられています。村長の妻が母・貞子に集団自決の真実を語ることのないように圧力をかけ、それを受けて貞子と秀幸の妻の照子が付きっきりで撮影が行われた状況がつぶさにのべられています。私はそれに付け加えて、次のような事情もあったことを明らかにしておきたいと思います。

記録社の撮影が行われたのは1992年の夏と推定されますが、その前年の1991年6月23日夕刻、大阪の読売テレビの取材陣が秀幸の家にやってきて、集団自決に関わる忠魂碑前の出来事についての証言を求めました。すでに日没後で、民宿を経営していた秀幸は泊まり客から細長い筒状の水中用懐中電灯を借りて忠魂碑前に取材陣を案内し、そこで電灯を付けながら証言しました。その中で、秀幸はうっかり、しゃべってはいけないことをテレビカメラに向かって話してしまいました。それは、忠魂碑前で村長が解散命令を出したという事実です。階段の上から二段目に立って村長が解散命令を出したことを、現地に立った秀幸は、話すつもりはなかったのに、つい口をすべらせて語ってしまったのです。

この取材後、何日か経ってから、秀幸は田中登村長に激しく叱責されました。「あんなことをしゃべっちゃいかん」というわけです。なお、私は、放送を録画した古いビデオが秀幸の自宅の倉庫にあったのを送ってもらいチェックしました。「戦後なき死」というタイトルで放映された番組の中に、忠魂碑前での秀幸の短いコメントが入っていましたが、村長の解散命令の部分はカットされていました。テレビ取材陣が裏付け取材をする過程で村当局がカットすることを求めたためかもしれず、その経緯の詳細は不明です。

いずれにせよ、そういうことがあった後ですから、再度の失敗は許されないことでした。記録社のビデオ出演で秀幸が極度に緊張して語っているのは、そういう重圧のなかで撮影が行われたからです。しかし、真実を隠して話したことによって、ビデオの内容は矛盾を含んだものになっています。その典型的な事例が、秀幸も陳述書で述べている、整備中隊の壕を回って自家の壕にたどり着くまで、秀幸の家族7人が、歩行が困難な祖父母をかかえながら一晩中村の中を徘徊したことになるという点です。

忠魂碑前で村長の解散命令が出て、さてこれからどうしようかという時、秀幸の家族が結果として、自家に寄宿していた気心の知れた兵隊さんたちを頼って整備中隊を訪ねたことは前回の意見書で述べました。この時の家族の心理について付け加えて言えば、タテマエは貞子や千代の主張どおり「どうせ米兵に殺されるのだから、親しい日本の兵隊さんに殺してもらったほうがよい」ということだったとしても、ホンネとしては、訪ねていけば家族はそこで保護されるだろうという期待があったはずです。甘えの心理です。整備中隊に着いてみると、「ここは米軍が上陸し、戦場になるから逃げなさい」と諭され、どこまでも生き抜くようにと励まされ、ひと月は家族が食いつなげると思われる食料まで与えられました。

日本兵と住民とのこのような心理的なつながりと愛情に満ちた人間関係を理解しなければ、家族がなぜ困難を押して整備中隊を訪ねたか、到底理解できるものではありません。しかし、記録社のビデオ作品は、村の箝口令のもとで撮影され、「日本軍悪玉説」に基づいて制作されたものですから、日本兵に「生きのびなさい」と励まされたとか、日本兵に食料をもらったなどの、軍に好意的な発言はできない状況でした。そこで、外形的にのみ秀幸の家族の行動が語られたため、忠魂碑の西方にあるシンジュの自家の壕に帰るのに、わざわざその反対の東方2.5キロメートルの距離にある整備中隊の壕を迂回して帰還したことになってしまうのです。これは絶対に説明のつかない非合理的な行動であり、記録社のビデオ作品が真実を語ったものではないことの動かぬ証拠です。被告側の、ビデオ証言と食い違うから「宮平証言」が虚偽であるとの主張は、以上のような事情に照らしてみれば完全に崩壊します。

第五 宮城晴美陳述書の問題点


宮城晴美は母・初枝の遺言を実行して『母の遺したもの』を2000年に出版し、初枝との約束をはたしました。同書の最大のポイントは、梅澤隊長が自決命令を出さなかったという事実の暴露にありました。ただし、そのポイントは、『座間味村史(下巻)』(1989年)に掲載された初枝の証言の中ですでに述べられていたものです。晴美はそのことを、村史という入手しにくい形ではなく、単行本という形で世に知らしめた功績があることになります。

ところが、梅澤を原告とする訴訟が始まると、晴美は梅澤の無実を証言するのではなく、反対側の証人に立ち、さらには、前著と正反対の結論を導く目的で、「新版」を2008年に出版するにいたりました。晴美は、こうして母を裏切っただけでなく、今度は、叔父を誹謗する陳述書を提出しました。晴美にここまでさせる背後の勢力に対し、私は怒りを禁じ得ません。

晴美の陳述書の問題点については、秀幸の陳述書で十分明らかになっています。特に、秀幸が軍の伝令ではなかったという発言についても、完璧な反論がなされています。それに付け加えて、2点ほど補足をしておきます。

第一は、昭和20年3月25日夜の本部壕での村の幹部と梅澤隊長との会見に関する争点です。
晴美は
、「村長がいなかったことは母の話ではっきりしていますし、梅澤さんも村長がいたとは言っていません」とのべ、秀幸証言が虚偽である根拠の一つとしています。この点についての考察は、雑誌『正論』4月号の拙論「集団自決『解散命令』の深層」(甲B110号証)で述べたので繰り返しません。私の結論は、村長がそこにいた可能性が極めて高く、そのことは通信隊の長島義男の手記によっても裏付けられる、というものです。

次いで晴美は、「この夜の助役と梅澤隊長とのやりとりについては、母から繰り返し話しを聞いていますが、母の異母弟である秀幸がその場にいたという話はまったくありませんでした。秀幸がその場にいたのなら、母は当然彼がいることはわかったはずですし、そのことを自分の手記に書くか、あるいは私に話すなどしたはずです。何よりも秀幸自身が、重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めていられるような性格ではありません。彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」と書いています。これはまったく成り立たない議論です。

秀幸がその場にいたことを初枝が知らなかったのは当り前です。秀幸の立ち位置は、初枝からは死角になっていたからです。その事情を、秀幸からの聞き取り調査をもとに、以下に再現します。

3月25日夜、整備中隊にいた秀幸は、艦砲射撃が激しくなる中、兵隊たちに説得されて、いったん自家の壕に帰ることにしました。ひとりで高月山の頂上近くまで登ってきたところ、折しもものすごい艦砲射撃が始まり、前に進むことができません。そこで、高月山の稜線を南に進み、本部壕のわきに転がり込むようにしてたどり着いたのです。本部壕は外からそれと分からないような偽装がほどこされていました。入口は、琉球マツの枝で覆われています。見ると、そこに乾パンが一袋、引っかかっていました。秀幸は急に空腹を覚えて、その乾パンを食べ始めました。すると、壕の入口の方から、人の声が聞こえて来ます。何事かとマツの枝をそっと広げてみると、宮里盛秀助役が梅澤隊長に盛んに何かをお願いしているところでした。秀幸は、そっと近づいて聞き耳を立てました。入口には水に濡らした毛布が何枚も掛けられています。艦砲弾や火炎放射器で壕が火事にならないよう、防火のために掛けていたものでした。秀幸はその毛布の陰に身を潜めました。秀幸と梅澤隊長との距離はわずか2メートル程度しか離れていません。しかし、毛布がちょうど遮蔽物となって、秀幸の姿は、梅澤隊長からも盛秀助役からも見えません。こうして秀幸は、その場の話の一部始終を聞いてしまったのです。

戦後2年ほど経ったころ、初枝を含む村の女子青年たちが畑仕事の合間に、戦争体験の自慢話のようなことをしていました。初枝は25日の夜、本部壕に行った時のことを話しました。そばにいた秀幸が、「姉さん、僕もその場にいたんだよ」と言いますと、初枝は驚いて信じられないような顔をしますので、秀幸はその場にどんなものがあったか、どんな植物が生えていたかなどを具体的に語りました。初枝は、「やっぱり、あんたもいたんだ」と納得していました。

以上の通り、初枝は秀幸がその場にいたことを事後的に知っていました。初枝がそのことを晴美に話さなかったとして、そのことに特に理由があるのかどうかわかりません。しかし、初枝が知り得たすべてのことを晴美に話したという前提も成り立たないでしょう。
晴美は、「何よりも秀幸自身が、重要なできごとを戦後60年余りも胸に秘めていられるような性格ではありません。彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」とも書いています。晴美の人間観察は極めて浅薄です。秀幸が口の堅い人物であることを私はこの間、実感しています。

一例をあげます。1月26日の野外での会見の際、秀幸は、座間味の人が集団自決を推進したと言い、これは村の者は皆知っていることだが、その人物の子供が数人、今も那覇で重要な社会的地位にあるので名前は言えない、と言っていました。

つい最近、秀幸はその実名を明かしました。昭和20年3月26日の早朝、第二中隊の壕から出てシンジュの壕に向かって歩き出した秀幸の家族は、軍服を着て刀を振り回す、兵隊らしき人物に出会いました。「玉砕命令が出ているのに、お前たちはまだ死ねないのか。殺してやるからこっちに来い」といって、家族を皆殺しにしようとします。この人物が、国民学校の教頭・山城安次郎であることを、秀幸はごく最近、私に伝えたのです。長い間隠していてすまなかったという趣旨の謝罪の言葉も添えられていました。

このとき、祖父が山城教頭に口答えして、「先生、夕べ、自決するからといって忠魂碑の前に集まったら、軍が弾薬をくれないから自決はしない、解散だといわれてきたのに、また、先生はここで玉砕せよという。それは誰の命令ですか」と質問しました。すると、山城は、「玉砕命令は梅澤隊長の命令ではない。昨日(3月25日)の昼過ぎ、村長、三役で決め、郷土防衛隊長(宮里盛秀)の命令として出させたものだ。各自、個人個人の壕を回って、軍の命令だと言って忠魂碑の前の広場に集合させなさいと伝達させたのだ」と答えました。秀幸の家族の壕などに「軍の命令である」と言って住民を集めたのは、軍の名前を騙ったものであることを、秀幸はこのとき、はっきり知ったのです。

この一事を見ても、秀幸が、晴美の観察とは異なって秘密を守ることのできる人物であることがわかります。しかし、梅澤隊長に無実の罪をなすりつけることと比較して、迷った末に山城の名前を公表するつもりになったものと思われます。

晴美は、「彼の話し好き、マスコミ好きは島でも定評があります」と書いていますが、外部のジャーナリストや研究者に親切に対応することで人格的に非難されるとしたら、晴美の母・初枝は、その百倍も非難に値することは晴美もよく知っていることです。いずれにせよ、このような無意味な人格攻撃までしなければ秀幸証言の信憑性を否定できないところまで、被告は「宮平証言」によって追い詰められているのでしょう。

第二は、「自決」という用語の問題です。

晴美は、秀幸が「自決」ということばを使っていることについて、「「自決」は戦後使われるようになった用語で、あの夜のできごとを話す住民証言はすべて「玉砕」です」と述べています。晴美は、「自決」と「集団自決」とを混同しているようです。「集団自決」は確かに戦後使われるようになった用語のようですが、「自決」は当時も使われていました。盛秀の妹の宮平春子は、被告側が提出した陳述書の中で、「いさぎよく一緒に自決しましょう」と盛秀が言ったと証言して、「自決」の語を使っています。晴美は、ほかならぬ春子の新証言に接して自分の見解を変えたと述べていますが、「宮平証言」が信用できない理由に「自決」の語を使っていることをあげた晴美は、同じ「自決」の語を使った春子証言の信憑性をも否定しなければならないハメになりました。私は、3月7日、春子に面会しましたが、その際、確認のために、「自決」ということばを盛秀が本当に使ったかどうかを尋ねました。盛秀は子供に向かって「みんなで自決しましょうね」と言っていたとのことです。晴美の陳述書は、「自決」の語について一知半解の議論を振り回しているにすぎません。

以上の通り、晴美の陳述書は、全く説得力のない、証拠価値ゼロの証言に過ぎません。


第六 被告側準備書面(2)への批判


 被告側が7月31日付けで提出した準備書面(2)(以下、「被告書面」と略称する)では、原告側控訴理由書の「第4 宮平秀幸証言」について、7点の理由を挙げ、「まったく信用できない」としています。しかし、これら7点はことごとく成立しない理由であり、反対に「宮平証言」の信憑性をかえって裏付けるものとなっています。以下、被告書面が挙げた論点ごとに反論します。

1 宮平秀幸の母の手記との食い違い


 被告書面は、秀幸の母・貞子の行動として、次のように述べています。

 「昭和20年3月25日は、70歳前後の夫の父母、23歳の長女、15歳の三男(秀幸)、5歳の娘、3歳の息子をひきつれて自分の壕に隠れており、夜になって米軍の艦砲射撃が激しくなり、前の壕の人が、「お米の配給を取りにくるように伝令が来たので、行こう」と合図に来たので、家族全員で壕を出て移動し、整備中隊の壕、御真影避難壕、第三中隊の壕などを逃げ回り、3月26日の夜明けに自分の壕に戻ったものである。この間、三男(秀幸)は祖父母の手を引くようにして歩いた。貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない。」
 これは被告による貞子証言の要約とみることができます。貞子証言については、7月28日付け意見書で詳細に分析しましたので、その成果を前提として、被告による上記引用部分を対象に、その記述の内在的矛盾(人間の行動として現実には絶対にあり得ないことが書かれていること)を明らかにします。

(1)
被告書面は、お米の配給を取りに行こうと前の壕の人から合図があって、「家族全員で壕を出」たと読み取っています。秀幸は、今年の3月10日、那覇の県庁記者クラブで記者会見し、「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について」という3ページの文書を公表しましたが、その後、村史の貞子証言を読み、その間違いを指摘するため、3月14日、「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について(補足)」という文書を、「新しい歴史教科書をつくる会」を通じて公表しました。その「補足」文書の中で、秀幸も同じ読み取りをしており、貞子証言の文脈では、そう読むのは自然なことです。しかし、この行動こそ、当時の実情に即すると極めて不自然で、絶対にあり得ない行動なのであり、貞子証言が明白な虚偽を含んでいることの何よりの証拠です。

 村当局が備蓄していた米は、産業組合の壕に保管してありました。ジンジュの宮平家の壕と産業組合の壕との位置関係については、甲B110号証、229ページの航空写真にプロットした地図を参照していただきたい(宮平家の壕は⑬、産業組合壕は⑥)。配給の米を取りに行くということは、シンジュにある宮平家の壕から産業組合の壕に行き、配給の米を受け取って、またシンジュの壕に戻ることを意味します。その目的のために「家族全員」で出かける必要はまったくありません。誰か大人が一人行けばよいのです。被告書面は、壕の中に家族7人がいたとしています。このうち、秀幸は実際は壕にはいなかったのですが、かりに秀幸が壕にいたと仮定しても、米をとりに行くべき人物は、貞子、千代、秀幸の誰か一人であるべきです。昌子と秀頼はまだ小さすぎて、この任務を課すには無理であり、70歳前後の祖父母は、単に高齢というだけでなく、二人とも足が悪く、容易に歩けない状態にありました。被告がこの度提出した本田靖春のルポにも、祖父の次良について「リュウマチを患っていて、両脚を前へ投げ出した形でしか坐れず、歩行に困難が伴っていた」(「座間味島一九四五」163ページ)と書いています。このような祖父母を含む、「家族全員」で弾雨の中を配給の米を取りにいかなければならない理由などあり得ません。被告書面は、こうした矛盾を含んでいることにすら気付かずに、貞子証言を絶対化しています。

(2)
それでは、米を取りに行った家族は、その後、どうしたのかと続きを読むと、産業組合の壕に行ったことが全く書かれていません。これは奇妙なことです。この矛盾にも、被告書面は全く気付いていません。実際は、秀幸が忠魂碑前で家族と再会したあと、家族から詳細に聞き取ったとおり、米は取りに行かなかったと考えられます。秀幸は、3月14日に発表した「証言・座間味島集団自決の『隊長命令』について(補足)」の中で、この間の事情を次のように書いています。

 「夕方、村の役場の職員が伝令で来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことは出来ません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしましたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰ってこれなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。」

 実際は、千代が米をとりに行こうとしたのを、祖父が止めていたのです。だから、産業組合の壕に米をとりに行った者は宮平家にはいません。貞子証言に産業組合の壕に行ったことが書かれていないのは当然のことです。以上のことからだけでも、貞子証言と「宮平証言」のどちらが真実を語っているか、あまりにも明らかです。貞子証言には決定的な虚偽が含まれています。

(3)
被告書面は、「貞子たちの壕は奥まっていたため、伝令は来ず、忠魂碑前に集まれという指示は知らなかったので、忠魂碑前には行っていない」とのべています。貞子は壕が奥まっていたから伝令は来なかったとし、それを家族が忠魂碑前に行かなかったことの理由にしています。

 しかし、第一に、宮平家の壕が奥まっていたから伝令が来なかったというのは、極めて考えにくいことです。伝令の恵達は、60あまりもある各家の壕を回るのに急いでいたことは確かですが、だからといって特定の家を省略するとは考えられません。まして、伝令の内容は部落全員で自決しようという村当局からの重大な呼びかけですから、ますます考えにくいことです。

第二に、「私の壕はシンジュの上のほうにあって、奥まっていた」(貞子証言)ということは、恵達たち伝令が秀幸の壕に来なかったとか、伝令が来たことに家族が気付かなかったとかいう言い訳にはならないことを指摘しなければなりません。シンジュの壕の配置について筆者(藤岡)が秀幸から聴取したところによれば、畑に沿った土手に宮平初枝(結婚後、宮城初枝)の家の壕があり、そのすぐ上の段、初枝の壕から2メートルの高さのところに秀幸の壕がつくられていました。初枝の壕から秀幸の壕まで、歩くと5~6メートルの距離がありましたが、下の家の壕を訪ねた人の声は上の壕にも筒抜けに聞こえていましたし、その逆も成り立っていました。

 秀幸の壕は幅1.5メートル、奥行き3メートルほどの広さで、たいていは入口に貞子と千代が布団をかぶって寝ており、中間に祖父母、奥に小さな子供二人が置かれていました。恵達が来た時のことを秀幸が祖父から聞いたところによれば、恵達は秀幸の壕の入口までやってきました。壕の扉は、養蚕に用いる「まぶし」に木の枝を差した簡単なもので、恵達が外から扉をガタガタ揺すったので、内側から止めていたひもをはずし、祖父が顔を出して恵達と話をしました。

 貞子は忠魂碑前に行かなかったことの口実として、シンジュの壕の配置に言及しましたが、それは実態に照らすと全く説得力のないものであることが、以上の2つの理由から明らかになりました。

(4)
貞子の、忠魂碑前に行かなかったという証言は、8月14日付けで提出された秀幸の妹・昌子の陳述書によって、直接反証されています。昌子陳述書は次のように述べています。

 「暗くなってから、私たちが入っている防空壕の前へ大人二人が来て、一人はおじさん、もう一人は女の人でした。「マカー(忠魂碑のある地名)の前へきれいな着物を着て早く来なさい」と呼んでいました。おじいさんも、おばあさんも、私も弟も、きれいな着物を着けて、お母さん、お姉さんも着けて、マカーの前に行きました。マカーの前には人がいっぱい集まっていました。私と弟を、母と姉がおんぶして連れて行きました。おじいさんとおばあさんは杖をついて行きました。私たちはマカーの広場のそばの小さなみぞに座っていました。秀幸兄さんが来ました。「千代姉さん」と呼んでいました。兄さんはおじいさんとお母さんに話をしていました。少したってから、大人の人たちが集まるように大声でみんなを呼びました。大人が「解散、解散」と言っておりました。」

 ここで、(1)家族の壕に伝令が来たこと、(2)家族が全員正装して出かけたこと、(3)忠魂碑の前で秀幸と家族が落ち合ったこと、(4)大人が集まるように呼びかけられたあと、「解散、解散」と言っていたこと、が証言されていますが、このうち④は村長の解散命令に対応することは明らかで、ここで表現されている出来事の骨格は秀幸証言と完全に一致しています。

(5)
貞子の証言が、(1)(2)のような内在的矛盾を含み、伝令が来なかったから忠魂碑前に行かなかったという言い訳は壕の配置の実態から見て成り立たず、昌子の陳述書の証言とも食い違う虚偽を含んでいるのは、村史編集の過程で、集団自決が軍命によるものであったという余地を残すため、軍命によるという説を明確に否定することになる、「忠魂碑前での村長の解散命令」を何としても隠蔽しておかなければならなかった村当局の意向によるものだと考える他はありません。

 この点について、秀幸の陳述書では、「母はテープに証言を吹き込むとき、「そこはストップ」、「はい、戻って」などと繰り返し指示され、終わって帰ってきてから、「ああ、疲れ果てた」とこぼしていました。母の証言で私の家族が忠魂碑前に行かなかったことにしたのは、村長の解散命令をかくすためであったと思われます」と述べています。被告書面によれば、村史を編集する際に、「宮平貞子から戦争体験を聴取したのは宮城晴美であった」とのことですから、晴美は村当局の意向を受けて貞子の証言を操作したのかもしれないという疑いを生じるところであり、この点からも晴美陳述書が信憑性を失うのは明らかです。

(6)
以上のような虚偽の内容を含む貞子証言を根拠に、本部壕で梅澤隊長と村の幹部の話を聞いたとする「宮平証言」を否定することはできません。


意見書(2)2/2

第六 被告側準備書面(2)への批判

2 宮平秀幸のビデオ証言との食い違い

3 本田靖春に対する宮平秀幸の話との食い違い

4 宮平春子証言などとの食い違い

5 宮城初枝の証言との食い違い

6 伝令ではなかった

7 宮平秀幸の信用性

第七 証言者としての宮平秀幸の人物像




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