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5止 いい恋愛をするために

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平和をたずねて:快楽としての戦争/5止 いい恋愛をするために



 昭和7(1932)年の上海事変の際、鉄道機関庫を手当たり次第に壊したことを陣中日誌につづった通信兵は、その行為に快感を覚えたことを率直に記しながらも、さらなる破壊や殺戮(さつりく)に突き進むことはなかった。

 5年後に日中戦争に従軍した際、捕虜を斬(き)るなら軍刀を貸すと先輩に促されても「一寸(ちょっと)切ル氣ニナレナカツタ」と断っており、捕虜の斬首(ざんしゅ)があるたびに「見タクモナイ」などと嫌悪感を吐露している。

 数百名の兵隊がいる駐屯地に慰安婦が配置された時は「5名位ツレテ来テハ残酷ダ。連続ノ奉仕ニテ女ハクタ〓ラシイ」と同情し、街に散乱する死体を片付けさせられている中国人には「ドンナ気持ダロウカ」とその胸の内を忖度(そんたく)している。日本軍による集落の焼き払いにも「荒レ果テタル吾家ヲ見テ、住民ハ如何ニ思フカ」と慮(おもんばか)り、命令で「中止出来ルト思フガ」とまで書いている。周りの日本兵が力に酔い、残虐行為におぼれる中、通信兵は最後まで相手の気持ちに対する想像力を手放していない。

 彼は「トテモ今ノ兵隊サントハ話ガ合ワナイ」と日記にこぼすなど、軍隊内で浮いていた。そのため全く出世せず、2度の出征を経て昭和14年6月に召集解除される前日まで、初回の出征前と同じ上等兵のままだった。

 精神病理学者の野田正彰さん(64)が関西学院大で平和学の講座を開いて5年になる。4月8日にあった今年の初講義で、野田さんはドイツのこの30年の変化を語った。

 学生運動が盛り上がった1960年代後半、西ドイツでは若者たちが親の世代に問い始めた。「あなたたちはナチがやったと言ってきたが、ナチと国民は一体だったはず。いったい戦争中に何をしていたのか」と。

 ただ、若者の反乱は日本同様に抑え込まれ、野田さんが過ごした70年代前半までの西ドイツは、極めて権威主義的で男尊女卑の気風が強く、「日本と同じだ」との印象しか受けなかったという。

 しかしドイツでは、学生運動の挫折後も若い世代が完全に体制側に取り込まれず、各分野で粘り強い問い直しを続けた。その結果、戦中の過ちが清算されずに社会や文化に影を落としている現実があぶり出され、国内の空気が変わっていった。

 例えば、障害者の「安楽死」や戦争のための人体実験にかかわった医学の戦争責任が70年代末から問われ出し、戦後の医学教育の中で継承されてきたものの洗い直しが行われた。フォルクスワーゲンやシーメンスなどの企業でも、多くのユダヤ人らを強制労働させた事実を公表し、社史や企業ミュージアムなどに明示していった。国内各地の戦争時の収容所は保存・整備され、教育施設として無料で公開された。

 「それはユダヤ人らと和解するためではないんです。非人間的なことをした過去を直視し、被害者の悲しみを心に刻むことで自分たちの人間性を回復し、社会を作り変える。自分たちが本当に充実した生を送れる社会を作る営みなんです」

 4年前の開講式で、野田さんは学生たちに「戦争と平和の問題を考えることは、皆さんが本当に生き生きとした恋愛ができるようになるということです」と語りかけた。

 「みんなキョトンとしてました。でも、自分をちゃんと表現し、相手のことも聞いて、感情の交流ができて初めて生き生きとした恋愛はできる。それは他者の悲しみを十分想像できるようになることと同じですから」

 他者の痛みや悲しみに無頓着なまま、ひたすら自己実現を目指す。そんな「平和」では、疎外された人々が高揚感や生き甲斐(がい)や力の感覚を求めて、再び戦争へと導かれかねない。目指すべきは他者を踏み台にするのではなく、他者との感情の交流によって得られるしみじみとした幸福感を大切にする文化だ。そのためにこそ、過去を省み、傷つけた被害者の悲しみに心を寄せながら、今を問い直す勇気が必要なのだ。【福岡賢正】=この項おわり<次回は9日に掲載予定>

毎日新聞 2008年7月2日 西部朝刊


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