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「沖縄集団自決を現場検証する」AERA 08.2.25

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AERA 08.2.25 No.9 p37
63年前の惨事といま向き合う

沖縄集団自決を現場検証する

沖縄の怒りは、集団自決をめぐる教科書検定問題でも爆発した。
改め現地を歩き、63年前の惨事と対峙した。

ライター 長谷川(はせがわ)煕(ひろし)(写真も)


(1、リード)


断崖の迫る座間味島の海辺に、雑木が繁る渡嘉敷島の山中に、この初冬立っていた。

沖縄県都の那覇市から西に30~40キロの慶良間列島のなかに隣り合う島で、前者は沖縄県島尻郡座問味村に、後者は同じく渡嘉敷村に含まれる。2008年1月末現在の人口は座間味村が1023人(1940年の統計で2348人)、渡嘉敷村が744人(同1377人)だ。

慶良間列島水域を沖縄本島攻略の一つの足場にしようとしてか、本島へ侵攻する直前の1945年3月26日に米軍は座間味島などに、27日に渡嘉敷島に上陸した(本島へは4月1日)。諸資料や存命の当時の体験者などによれば、座間味島ではその前日の25日から、渡嘉敷島では28日を中心に後述の住民集団自決が発生し、座間味島で177人、渡嘉敷島で330人前後が犠牲になったと推定されている。

取材者は、座間味島と渡嘉敷島のいずれにも丸1日ほどしか過ごせなかったが、両島に詳しいジャーナリスト鴨野守氏らから事前に勉強させてもらっていたので、そのころ10歳代から20歳代だった両島合わせて9人と、それ以降に生まれた同じ5人から、それぞれ別箇に話を聞けた。集団自決のあった幾つかの場所で黙祷もできた。

米軍上陸の前後の狂乱の中で斧(おの)、鉈(なた)、鎌(かま)、鍬(くわ)、剃刀(かみそり)、縄、手榴弾(しゅりゅうだん)などによる夫婦、親子、きょうだい、その他の人々の殺し合いやその結果の光景を生存者が記憶を辿りながら口にしてくれた。

※両島のいずれも1日しか過ごせなかった駆け足ツアーで、残忍にも話を聞きかじって去って行く。「馬鹿ライター」の不遜なふるまい。 

2、こんなに大きく育てたのに自ら手に掛けるのか


事の発生が一両日早かった座間味島から振り返る。

召集関係を担当する兵事主任も兼ねて村役場を実質的に取り仕切っていたとみられる宮里盛秀助役の夫婦は、7歳の長男、6歳の長女、1歳未満の三女と産業組合壕で他の数十人とともに自決した。盛秀氏の妹で当時18歳の宮平春子さん(81)による。春子さんらが遺体の収容に行ったのはだいぶ後だったので、それぞれの顔かたちはもはやなく、衣服、履物でやっと識別できた。一家の死に方は皆目不明だった。

春子さんによると、自決より前に盛秀氏は自宅の防空壕で子供たちを抱え、
「こんなに大きく育てたのに自分で手に掛けるのか。許してくれ。父さんも一緒だから怖がらないで」
と語りかけ、子らに握り飯を食べさせた。3,4歳だった盛秀氏の次女は、たまたま別行動を取る結果になった春子さん、つまり叔母が背負っていたので助かり、いまも那覇市で健在だ。


※どうやら鴨野守氏らからの事前の勉強は、だいじな部分が印象に残らない尻ぱしょりのもののようだった。大阪地裁判決文が紹介した宮平春子さんの陳述書を示すと、

「昭和20年3月25日の夜のことでしたが,盛秀が外から宮里家の壕に帰ってきて,父盛永に向かって,『軍からの命令で,敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから,いさぎよく一緒に自決しましょう。敵の手にとられるより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている』と言いました。そして,皆で玉砕しようねということになり,私が最後のおにぎりを作って,皆で食べ,晴れ着に着替え,身支度を整えました。」 

「座間味島の住民の集団自決は,私の兄の盛秀が命令したものではなく,軍が命令したものであることは間違いありません。盛秀は,『軍の命令で玉砕するように言われている』と,はっきり言っていました。軍の命令がなければ大変可愛がっていた幼い子どもたちを死なせるようなことは決してなかったはずです。」 

「なお,私は,昭和20年3月23日の空襲のあと,外を歩いていたところ飛行機による爆撃があったので,爆撃から逃れるため,たまたま近くにあった民間の壕に避難しましたが,その壕にいた日本の兵隊から,『アメリカ軍が上陸しても絶対に捕まることなく,いさぎよく死になさい。捕まったら日本の恥だから,日本人らしく,日本の魂を忘れないように』『捕まったら強姦され,残酷に殺されるから,自分で死になさい』と言われました。日本軍の人たちは,米軍が上陸したら,私たち住民を絶対に捕虜にさせないため,自決させなければならないと思っていたようです。」 

3、過去には触れず共存続けてきた加害者と被害者


家族と逃げるうちに一人はぐれた20歳の宮村文子(みやむらふみこ)さん(82)は、たまたま飛び込んだ防空壕で、天井の丸太に掛けられた紐に男性が白分の首を吊るし、別の高齢者がそれを引っ張って絞めているのを見た。男性は垂れ下がって死んだ。その壕は、各家族の遺体で両側がいっぱいだった。

※どうも長谷川さんは、住民たちが勝手に残酷な殺し合いを始めた、というポイントに絞って鴨野氏から事前教授を受けたようだ。これも第1審判決から引用してみよう。
宮村文子は,「座間味村史下巻」に
「三月二五日のこと,伝令が,敵の艦隊が安室島に上陸したことを伝えてきたのです。そしていよいよ,特幹兵が出撃することになりました。それで『私たちも武装しますから,皆さんの洋服を貸してください。それを着ますので,一緒に連れていって下さい』とせがんだのですが,『あなた方は民間人だし,足手まといになるから連れて行くわけにはいかない』と断られました。そして,『これをあげるから,万一のことがあったら自決しなさい』と,手榴弾を渡されました。」
との体験談を寄せている。

23歳だった上洲幸子(うえずさちこ)さん(85)の母は、避難行の途中で周りの兵士や住民に、
「この錐で殺してちょうだい」
と、喚(わめ)いた。

※上洲幸子さんの証言。これも第1審判決から引用してみよう。
上洲幸子は、その陳述書の中に,
赤崎のため池「に筒井という日本軍の中尉がやってきて,私たち島民に集まるように言いました。私たちを含め10人くらいが筒井中尉のところに集まると,筒井中尉は,私たちに『アメリカ軍が上陸しているが,もし見つかったら,捕まるのは日本人として恥だ。捕まらないように,舌を噛みきってでも死になさい。』と指示しました。知恵の遅れた男の人が死にたくないと泣き出したのを覚えています。」
と記載している(乙52)。

渡嘉敷島の金城武徳(きんじょうたけのり)さん(76)によると、武徳さんの妻は体に三十何力所も切り傷があるという。6歳の時に妻は案団自決に遭ったが、致命傷を受けずに、死亡した母親のそばにいたところを米兵に救出ざれた。6歳のこの子は、死んだ母の乳房を1歳の弟の口に必死にあてがっていて、その甲斐があってか弟も命を繋ぎ留めた、という。

※沖縄県史第10巻に金城武徳氏の証言がある。集団自決の前には彼も「自決命令が出た」ということを聞いている

当時を知る人から渡嘉敷島内で聞かされた話の一つはこうである。
「死に切れないある女の人は、10歳代前半の少年が後ろから支え、10歳代後半の2人が前から銑剣で左の胸を刺して殺した。その3人とも島内、県内でまだ存命だが、あれらを責めることはできない」

いずれの島かは伏せるが、ある日の夕刻に80歳代の男性を訪ねた。村内で聞いた通りのなお矍鑠(かくしゃく)とした人だったが、
「儂(わし)もこういうものを見て……」
と、いいかけて後は、
「知らん。分からん」
と、口を閉ざしてしまった。実は、あの時二十歳代だったこの老人は遺体の跡片付けもしたことを取材者は島内で教えられていたのだが、この間題への部外者の立ち入りを一切拒絶する激しい意思がこの人の顔に浮かんでいた。

いまも2島には、殺害の加害者も、負傷するか家族を失った被害者も、そして加害者でも被害者でもあった人が共存する。互いに疑心暗鬼のまま、この63年間、狭い島内で過去には触れずに暮らしてきた。

この慶良間列島方面は、そこへの上陸に先立つ3月23日から艦載機による激しい空爆、次いで艦砲射撃を米側から無差別に受け狂乱状態に陥ったが、沖縄本島に侵攻する前にこれらの小島嶼にまで米軍がくるとはそもそも日本側は予想もしておらず、島自体を防備する部隊、陣地は存在もしていなかった。

※秦郁彦の請け売り


4、集団自決による死者数の6割を「2島」が占める


07年3月30日に、文部科学省は08年度から新しく高等学校で使われる教科書の検定結果を発表した。その中で、沖縄戦での住民集団自決を軍の強制とする趣旨の5社7冊の日本史教科書の表現に修正を求める検定意見が付けられ、その部分の記述が関係出版社によって変更されたことが明らかにされた。

慶良間列島で自決を住民に命令したとされてきた元軍人や元軍人の遺族が名誉毀損の訴訟を起こしていることや、集団自決の原因、背景については諸説あることなどが修正を求めた理由と文科省側から説明されたが、沖縄県内では検定意見の撤回、元の記述の復活を文科省に要求する組織的大運動が、沖縄県高等学校障害児学校教職員組合などが推進力となって始まる。仲井眞弘多(なかいまひろかず)知事も県職員らに参加を呼び掛け、9月29日には「9・29教科書検定意見撤回を求める県民大会」が沖縄県宜野湾市の海浜公園で万単位の人を集めて開かれ、

「日本軍による命令・強制・誘導等の表現を削除・修正させている(略)ことは体験者による数多くの証言を否定し歪曲しようとするものである」
などとする大会決議文を採択した。

沖縄戦に詳しい林博史関東学院大学教授の『沖縄戦と民衆』(01年大月書店刊)によると、住民集団自決とみなし得るようなものは沖縄戦で7、8件起きているが、その象徴的代表例として知られ、注目されてきたと思われるのが座間味、渡嘉敷両島の場合だった。

合わせて800~900人前後に達する模様のその7、8件の死者数の約6割がこの2島で占められているという点も見逃せないが、やはり両島に限って従来から集団自決は隊長命令ないし軍命令だったと幾多の文献に書かれてきたことが影響した結果、と思われる。

沖縄戦当時、大本営は航空特攻のみならず、爆薬2個を付けた小舟艇を使っての陸軍の海上特攻まで考え、44年9月に、梅沢裕少佐(階級は戦閾当時)指揮の海上挺進第一戦隊が座間味島に、野田義彦少佐(同)の第2戦隊がやはり座間味村の阿嘉島と慶留間島に、赤松嘉次大尉(同)の第3戦隊が渡嘉敷島に、それぞれ特攻艇100隻、隊員104名で展開した。従って、隊長命令ないし軍命令とは、座間味島の惨事に関しては梅沢海上挺進第一戦隊長(当時27歳)が、渡嘉敷島は赤松第3戦隊長(同25歳)が発したことになる。

しかし、渡嘉敷島での長期にわたる現地調査などにより作家の曽野綾子氏は、『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実(06年ワック刊。原著作は73年文芸春秋刊の『ある神話の背景』)を書き、少なくとも渡嘉敷島に関しては赤松大尉の集団自決命令はいかなる証拠もない「神話」と結論づけた。

05年8月5日、梅沢氏(90)と故赤松氏の弟は、梅沢氏と故赤松氏を著書『沖縄ノート』(70年岩波書店刊)で集団自決命令者と特定できる書き方をし、とくに故赤松氏をユダヤ人虐殺を推進したアドルフ・アイヒマン(ナチス・ドイツ国家保安本部第4局ユダヤ人課課長)になぞらえるなどした作家大江健三郎氏と発行元の岩波書店を大阪地方裁判所に名誉毀損で提訴し、損害賠償などを請求した。文科省が高校教科書の記述に検定意見を付けた根拠の一つに挙げた訴訟とはこのことである。


【写真】渡嘉敷島にもあちこちに集団自決を悼む碑の類がある。ここに刻まれているのは集団自決者を含む島関係の戦没者の名前だ


5、軍命令の存在を否定する数々の証言と「詫び状」


取材者は東京都内、沖縄本島、両島で計38人と問答を繰り返した。その結果、粗っぼい分け方ではあろうが、人々の、とりわけ沖縄本島での認識は、集団自決の軍命令を否定する側と軍命令によるとする側の二つの流れに大きく分裂していると感じられた。前者は、当時そして戦後の梅沢氏、赤桧氏、両島住民の言動、関係記録を重視するいわば実証派で、その代表的な一人は現代史家の秦郁彦氏だ。後者は、第2次世界大戦期の日本、とりわけ沖縄県の戦時体制を問題とする立場で、9月29日の県民大会を実現させた沖縄県高教組その他にほぽ共通する。その理論的指導者の一人は沖縄国際大学名誉教授の安仁屋政昭氏と
いわれる。

まず前者から検討する。

集団自決を軍の強制とする教科書記述を文科省が修正させてから、逆に軍命令の存在を証言し、しきりと報道されている人が座間味島の前述の宮平春子さんだ。春子さんは、これも前出で兄の宮里盛秀助役が宮里一家の壕まできて自決の軍命令を告げたという時のことをこう語る。

「盛秀は夕方きて『艦砲射撃が激しく(米軍の)上陸は免れない。軍からの命令で自決しなさいといわれているから一緒に死にましょうと。私ははっきり聞いたから、それをお話ししているのです」

しかし、秦氏は、座間味島に関しては、宮城晴美那覇市市民文化部歴史博物館主査の著作『母の遺したもの』(00年高文研刊)と座間味村遺族会長宮村幸延氏(故人)が梅沢氏に対して記した87年3月28日付の詫び状が決定的で、集団自決梅沢隊長命令説はこれらにより否定された、とみる。

宮城晴美主査の著作は、集団自決当時の村役場職員・女子青年団員だった母の初枝さん(故人)からノートー冊を託されていたことが執筆の動機となったという事情の説明から始まり、初枝さんを含む宮里盛秀助役ら村代表5人が梅沢隊長の所に行き、助役が住民を玉砕させたいので弾薬を出すよう梅沢隊長に要請したが断られたことや、52年に施行され、53年には琉球諸島なども対象にされた戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用してもらうために、集団自決は隊長命令によることを当時の生き証人として肯定する虚偽の証言を初枝さんが旧厚生省側にした経緯が綴られている。

宮城初枝が調査を受けたのは1956年12月28日

宮城さんは08年1月、前記の宮平春子さんらの話をもとに軍命令があった可能性を指摘したり、援護法の適用も国側が軍命令の存在を独自に認識してのことと匂わせたりする、旧版とは正反対に近い著作新版を出したが、旧版のような証拠力に欠けると秦氏はみる。

宮村幸延氏の詫び状とは、集団自決は梅沢隊長ではなく、幸延氏の兄の宮里盛秀助役の命令によるもので、戦後に村役場援護係をした弟の幸延氏が集団自決の遺族に援護法を適用するためにやむをえず隊長命令としたという趣旨を記したものである。

座間味島については軍命令を否定する一層の新証拠が研究者の間でさらに発掘されつつあるようだが、渡嘉敷島に関しても秦氏は、『沖縄県史』第10巻や『沖縄県警察史』第2巻に村の幹部が集団自決を決定した経過が具体的に記録されていることを指摘する。

秦氏が依拠した諸記録に加えて、戦後の米統治時代の琉球政府で旧軍人軍属資格審査委員を務め、援護法適用作業にかかわった照屋昇雄氏(84)の記憶も鮮明だ。援護法適用資格者を洗い出す作業が行われた琉球政府で、たまたま渡嘉敷村を担当したのが照屋氏だった。照屋氏は、渡嘉敷島の集団自決者の遺族をこの法律で救済するために、56年ごろに時の玉井喜八村長が偽の自決命令書を作るのを助けたことを取材者にも明言した。

そのころの渡嘉敷村居住者500~600人のうち何らかの形で援護法の対象になりそうな人は百数十人いた。援護法適用のための職務として照屋氏はその人たちから戦時中の軍とのかかわりなどを聞き取り調査したが、隊長命令のことは誰ひとりからも聞かれなかった、という。

また、妻だけでなく自身も集団自決の生き残りで当時は13歳だった前記の金城武徳氏はこう語る。

「自決がうまく行かない人たちが機関銃で殺してもらおうと部隊に行ったが、赤松隊長はきっぱり断り、部下の将校が抜刀し、実力で住民を追い返した」

13歳の時のことなので、後年の知識も加わって記憶が整理されているということもあるだろうが、この時に赤松大尉が発した言葉は、

「戦は軍人がする。住民は生きられる限り生きるのが当たり前なのに、なんで早まったことをしたか」※

※これは後年赤松氏が雑誌に書いた手記の文言です。

という意味のことだったという。赤松大尉は衛生兵まで出して自決未遂の負傷者を手当てさせたという当時の関係者の証言も残っている。



6、「戒厳令下」では村助役の指示も軍命令との見方


では、集団自決を軍命令とする後者の論を見てみる。

この見解を強く唱える安仁屋沖縄国際大学名誉教授は当時の慶良間列島を戒厳令が敷かれたに等しい状態とみなし、そこでの行政担当者の対応は一切軍命令と考えなければならない、という。

「あそこは周囲を敵(米艦隊)に完全に包囲され、本来なら戒厳令が出るべき『合囲地境(ごういちきょう)』の一帯だった。戒厳令下では行政、司法の全部が現地司令官(この場合は梅沢、赤松両隊長とみなす)に委ねられることが陸軍士官学校の『軍制学教程』(第2篇第9章第6節「戒厳」)にも明記されている。梅沢、赤松とも陸士卒(梅沢隊長は52期、赤松隊長は53期)なので、このことは十分に承知していたはずだ。その場合は村長、助役の指示も軍命令となる。地方リーダーが『もうおしまい。死にましょう』といえば、それは軍命令である。梅沢、赤松個人が命令したか否かの問題ではなく、両人はそこの司令官としてそこで発されたことの一切の責任、責めを負う」

しかし、現実には戒厳令は宣言されていないので、これを補強するように安仁屋氏は、『長崎平和研究』(第24号)という媒体に、こう書く。

「沖縄戦における『住民の集団死』の背景には、天皇のために死ぬことを最高の皇民道徳としてきた皇民化教育がありました。沖縄戦においては、『軍官民共生共死の一体化』ということが強調され、『死の連帯感』が醸成されていました。その際、在郷軍人会・翼賛壮年団・警察官・市町村の兵事主任など地元沖縄の支配者層の役割は重大でした」

加えて、元沖縄県知事で、沖縄戦では鉄血勤皇隊という義勇学徒隊の一員だった大田昌秀氏も次のように考える。

「(沖縄県の)集団自決は、そこだけを見ていると問題が矮小化されてしまう。あの時は、日本そのものがー億総玉砕体制だった。廃藩置県が他より8年遅れた沖縄県ではとくに、いわば試験管の中で皇民化教育の純粋培養が行われてきていた。沖縄県議会は天皇への忠誠心を誓つ決議を繰り返しやっている」

安仁屋氏もそうだが大田氏も、集団自決を当時の日本、そして沖縄県の皇民化全体主義体制が引き起こしたものと考える。

そうでなければ、隊長命令ないし軍命令の存在が否定された場合の2島を含めて7、8件にのぼる沖縄県の集団自決は、絶体絶命のなかの自然発生的パニック死とみなすほかなくなる。


7、サイパン島での自決を称揚した新聞報道の影響


それにしても、この取材の中で見落とせなかったのは、隊長命令ないし軍命令の存在を否定、肯定するいずれの側からも、集団自決の背景に新聞などの媒体による鬼畜米英宣伝の影響も強くあったと指摘されたことだ。とくに沖縄県でそう聞かされた。座間味、渡嘉敷両島民も含めて多数の沖縄県民が日本の国際連盟委任統治領だったサイパン、テニアンその他の南洋諸島などに出稼ぎで在留していた。従ってサイパンなどの失陥の際に、沖縄県出身が多い邦人が次々と断崖から海に身投げしたり、集団自決の惨事が各所で発生している状況を座間味、渡嘉敷両島民らも注視していた。

※島民らが注視したのは戦後である。サイパンなどの失陥のときの情報源は唯一大本営である。

新聞は例えばサイパンでの集団自決を「非戦闘員たる婦女子も亦生きて鬼畜の如き米軍に捕はれの恥辱を受くるよりは」(44年8月19日付朝日新聞1面)などと称揚していた。

※戦況報道は、大本営陸軍報道部もしくは大本営海軍報道部が書いた文章を、各新聞社が引き写したにすぎない。サイパンの場合も当然そうで、内閣情報局発行の『週報』昭和19年7月19日号には、陸海軍報道部長談話が載っている。http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/415673

一国が村社会のようだったところが西洋列強の近代世界史と遭遇しておよそ80年後に、人々はそれぞれの極限状態のなかで08年の時点では想像を絶する行為をした。それをあれこれ論じる能力も資格も取材者にはありそうにない。ただ一つ、かつての切腹や、何事につけ鉄拳制裁のようなことを当然視してきたこの国の風潮と63年前のあの事態とは深い所で繋がりがあるのか否かを沈思するのみである。

件の集団自決を軍強制とする教科書記述の修正を求めた文科省の検定意見は、景終的に撤回されないことが07年12月26日に同省から発表されたが、軍の強制と思った住民もいたとの趣旨の記述は認められた。この際、取材者は文科省に提案する。日本史教科書なら日本史教科書でいい。いかなる憶測も排し、あの時の、確認し得る限りの日本人の集団自決の事実そのものをすべて、避けることなく直視し、淡々と記述してほしい。論評は要らない。


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