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毎日新聞備後版(2001・5~10)

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毎日新聞備後版(2001・5~10)

路傍の詩

「筆者プロフィール」を読むと、連載は毎日新聞備後版で全国版では読めないもののようです。沖縄戦座間味のルポは2001年5月から10月の連載です。WEB掲載第133回から141回の相当し、毎日新聞備後版では第440章から465章に相当します。転載元のWEBページには書き起こし時の誤字や字句の脱落があるようですが、そのまま転載し資料としました。ここでは宮平秀幸氏の証言部分を太字で示し、証言がある章には★印をつけました。


WEB第133回


440章「座間味島」~ 断崖多い複雑な地形



写真~上空から見る座間味島の風景(2000・12・15)

  沖縄へは時間が許す限り船とプロペラ機。行程を楽しむ「旅」の醍醐味がある。この旅も9人乗り双発のオッター機で、那覇空港から役40㎞先の慶良間諸島外地島(座間味村)慶良間空港へ、25分のフライト。かつての日・米両空軍機と同じくね僕も慶良間の島々を空から見たかったのだ。

 この季節、乗客は僕一人。「座間味島を写したい」と言ったら、「少し回り道をして、座間味上空を通りましょう」とパイロット。

 東から西へ渡嘉敷島山地と慶良間海峡を飛び越え座間味島北辺で 左旋回、島の海岸線沿いに空港めざし東へUタウーン。

 眼下手前は阿真の集落、その向こうに座間味港突堤。約500㍍の低空から俯瞰する小型機ならではの展望・・・。年甲斐もなく飛行兵のヒヨコだった血が騒ぐ。

 1945年春、死を賭してこの空を飛んだ日本の特攻隊員や米空軍搭乗員の若い眼差しが、一瞬、僕の視線と重なりあったような感に打たれた。

外地島の空港から橋伝いに慶留間島を経て阿嘉島港までバス。阿嘉港から座間味港へは、連絡船で約10分。阿嘉島と慶留間島を結ぶ架橋の向こうの海上に、牙のような巨岩が幾つも突っ立っている。昔、中国の交易船は慶良間諸島の奇岩巨岩を見て馬歯山と呼んでいた。

 ちなみに座間味島は周囲約23㌔、面積約6平方㌔で標高200㍍未満の山々が連なる。備後で言えば沼隈郡内海町の田島か横島の大きさだろう。

 谷や断崖の多い複雑な地形で、人家や田畑や濱などの平地は少ない。

 予約していた民宿「高月」は座間味小・中学校のそばにあり、塀にクジラの絵が躍って躍っていた。                                    

毎日新聞 2001.5.3



441章「悲の序幕」~ 記憶に激戦の光景 ★



写真~戦争悲劇の語り部、宮平秀幸さん=座間味で

 現在の座間味島は冬に回遊してくるザトウクジラ、初夏の海亀産卵、夏は遊泳やダイビングに釣りなどの観光客で賑わう。

 いつ戦いがあったのか、どこで住民集団惨死があったのか、その気配すら感じさせぬ豊かな自然と穏やかな時間がある。

 民宿「高月」の主人、宮平秀幸さん(71)は船の機関士だったと言うがっしりした体格。だが、その背中と大腿部には砲弾破片による傷痕、記憶には激戦と住民惨死の光景が焼き付いといる。

「僕が初めてグラマン戦闘機を見たのは1944年10月10日。島に来ていた陸軍の特攻舟艇部隊慰問会準備のため島民や兵隊が浜にいた。

10時すぎだったか、向かいの渡嘉敷島上空から3機の飛行機が飛んできた。皆は日本軍だと思ってバンザイしたり手を振っていたが、松の木に登った僕の目の前には翼の星のマ―ク。「アメリカーだ」の叫んだら[何を言うか、引きずりおろせ]と兵隊が走って来た。とたんにダダダダと機銃掃射。皆はクモの子を散らすように逃げたが、港にいた船数隻は炎上したり沈没。沖縄本島との連絡船も・・・」。

 米空軍1600機による沖縄初空襲の余波である。孤立した特攻秘密基地の島は軍の厳重な支配下におかれた。

 だが、生活の自由を奪われた島民たちのの思惑はどうであれ、これらの出来事は地獄への悲劇の序幕にすぎなかったのだ。かっていた。 

毎日新聞 2001.5.10



442章「マルレ」~ 体当たり特攻と覚悟



写真~体当たり攻撃の舟艇「マルレ」 (高橋文雄さん提供)

 大和町(加茂郡)出身の上田朝人さんらが陸軍船舶兵特別幹部候補生第一期生で入隊したのは1944年4月10日。だが、大本営の特攻舟艇採用決定は4月下旬。特攻艇試作開始6月27日。大本営の特攻艇使用指令11月5日。知る由もない候補生達は生還できぬ特攻に否応なく取り組まれた。

「大学進学を考えていたが文科に徴兵延期はないので応募。一年半で下士官にして除隊との条件だった」とは千葉県在住の高橋文雄さん(76)>当時は19歳だったが、戦争や軍隊は甘くないと知った座間味島で九死に一生を得ている。軍隊生活と舟艇など初歩的訓練をわずか4ヶ月で終了した候補生たちは、9月5日に広島駅から鹿児島へ移動。輸送船で座間味島到着は10日。

 250㌔爆雷を積むベニヤ板製の舟艇(マルレ)は自動車エンジンで敵艦船に接近して反転、艇尾から爆雷を投下して退避するのだが、海上挺進隊に組み込まれた時から隊員たちは体当たり特攻と覚悟していたようだ。しかし、島では特攻舟艇による攻撃態勢はあったが防備の備えはなかった。大本営など作戦本部は慶良間諸島への米軍攻撃を全く予想だにしていなかったという。地上戦の歩兵部隊配置がないのは当然のことでもあった。

 あらためて、旧海軍で得た鉄則の一つを僕は思い出す。[無能な指揮官(リーダー)に従う者には死あるのみ」                                                  
毎日新聞 2001.5.17

WEB第134回


443章「沖縄攻略」~ 14歳で郷土防衛隊 ★



慶良間諸島略図


  特攻舟艇隊は座間味島(第一戦隊104名 100隻)、阿嘉島・慶留間島(第2戦隊・同数)、度嘉敷島(第3戦隊・同数)配備。

 座間味島では古座間味海岸近くの断崖に舟艇秘匿洞窟を掘った。11月中旬、各島に朝鮮人慰安婦7人ずつ配属。

 1945年1月20日大本営(天皇直属の最高司令部)は沖縄を皇土防衛の捨石とする作戦決定。

 同時に沖縄守備第32軍は「軍官民共生共死ノ一体化」を布告。軍命令絶対優先の専守防衛体制である。

 沖縄住民への「死の強制」であり集団惨死の要因ともなった。

 3月17日に硫黄島占領の米軍は艦船約1500隻、航空機約1700機、上陸部隊18万5000名を含む約54万8000名の戦力で沖縄攻略作戦発動。攻撃第一目標は特攻舟艇の存在を確認していた座間味、阿嘉、慶留間、度嘉敷の各島。沖縄本島への上陸以前に背後の敵戦力排除と、艦船や兵員休憩の場及び物資集積所確保が目的であった。

 3月20日頃の座間味島には、第1戦隊に加えて約370名の勤務、整備、通信、工兵隊など兵力約470名。朝鮮人慰安婦7人と朝鮮人軍夫約300人に島民約2300人。特攻隊員平均年齢約19歳で最年小16歳。

 島民も14歳から60歳までの男性は郷土防衛隊に組みこまれた。 「僕は14歳で隊員。戦隊本部付きの伝令(命令伝達役)だった」と宮原秀幸さん。
毎日新聞 2001.5.24



444章「舟艇壊滅」~ 長谷川少尉も死亡 ★



学徒動員で陸軍入隊の長谷川修さん
(長谷川家提供)

 座間味国民学校(現・小学校)卒業式前日の3月23日昼近く、グラマン300機による大空襲。集落がねらわれたのはこの時が最初で、山々は全焼し家々も破壊や焼失。

 24日、朝から夕方まで空襲。舟艇秘匿洞窟と陣地は執ように攻撃された。

 夕方、米軍艦船やく40隻が出現。戦隊本部は焼失した学校から高月山の壕へ移動した。

 25日、早朝からの空襲に加えて数を増した軍艦の艦砲射撃。昼からの砲撃は島を揺るがす凄まじさ。「砲弾が爆発すると身体が宙に跳ね上がるんだ」と宮平さんは座ったまま飛び上がって見せた。

 「舟艇秘匿豪の落盤や砲撃の直撃による使用不能あるいは出撃基地そのものの破壊」(梅沢裕手記・第一戦隊長)で舟艇壊滅。集落も5軒の家が残るのみとなつた。

 双三郡神杉村廻神(現・三次市)出身で第一戦隊第3中隊第3群長(小隊長)の長谷川修少尉が、脚部重傷を受けたのは3月23日から26日にかけてのようだ。僕が調べた限りでは生存の兵士たちや住民の証言に食い違いもあり、負傷と死亡の日時と場所や状況など正否は定め難いが、長谷川少尉の死に至る経過と行程を示す一つの証言がある。但しこの証言にも正確な死亡日時はない。敗戦後、国が生家に贈った遺骨箱の中は一枚の紙切れのみ。

 紙切れに3月26日戦死と記された日付も不確かと言える。


毎日新聞 2001.5.31



445章「証言」~ 生還できぬ特攻と覚悟



長谷川修少尉の遺書部分(長谷川家提供)

 <3月23日>三中隊の壕に行きました。長谷川少尉が動けないということで面倒を見る事にしました。<24・25>私らは二日ほどタカマタ(地名)で過ごし、<26>シンナークシ(地名)のカーラ(川原)に行くことにしました。三、四日たった頃でしょうか、長谷川少尉が破傷風にかかり、首がつるようだと訴えたかと思うと、今度はひきつけを起こして苦しみだしたのです。「自分はもう駄目だから、日本刀で刺し殺してくれ」と上等兵と伍長の二人に頼み、「この娘さんたちは、ちゃんと親元へ届けてやって欲しい」私が死ぬ姿を見せないで欲しい」と言われていました。兵隊さんは持っていた拳銃で長谷川少尉の左胸を撃ち、一発で亡くなった少尉の遺体に、私達は泣きながら土をかぶせました」(宮里育江・当時22歳・座間味村史抜粋。<>内は筆者の日付)。

 長谷川さんの生家は浄土真宗の善徳寺。三次中学(現・高校)卒業後、新京工業大学(旧満州)に入学し技師をめざしていたが、学徒動員で 新京陸軍部隊入隊。1944年1月、士官候補生として広島の宇品西部第87部隊へ。4月、少尉になり海上挺進隊に転属。生還できぬ特攻と覚悟させられていたようだ。8月15日付遺書がそれを物語る。童顔が残る特攻隊員9艇を先頭指揮する群長(小隊長)として、座間味島へ出発24日前の遺筆である。

 死亡日時と場所は不確定だが、享年24歳。                                                      
毎日新聞 2001.6.07


WEB第135回



446章「ドラマ」~ 微妙に揺れ動く心情



孫の彌有ちゃんと長谷川彌生さん
=善徳寺で

  「3月24日に負傷し本部壕に。25日に三中隊が迎えに来た」。「27日戦死」。「第三中隊壕で戦死」「25日夜は決別の宴にいた」(生存兵達)や、「友軍の壕に送り届けた」との地元女性証言など、さまざまな長谷川少尉関係資料を持ち福塩線塩町駅(三次市)へ。長谷川彌生さん(63)の車で善徳寺訪問は5月10日。彌生さんは長谷川修少尉の姪である。「修の母・千里が保存していた写真や遺書」を拝見した。学生時代の写真は若々しい活気に満ちた笑顔、軍隊時代は強張った表情。自由闊達な青春を国家が軍隊の檻に閉じ込めた。新京の舞台から広島に転属した当時、母へあてた手紙がある。「(略)広島はずいぶん暖かくなり勉学にも窓を開く季節と相成りました。

 (略)今日の餅は焦って作られた事と涙を流して戴きました(略)」(1944・2・26)。この手紙には学生時代の面影がしのばれ「死」の切迫感はない。だが、同年8月15日付遺書には人間と青春を切り捨てた悲愴感、硬直した時代相。

 「(略)思はるゝは部下となりし者なり。無能なる小官にしたがひよく訓練に従事するも御家族様の心中察するに餘りあり。厚くお詫び申し伝えられ度(略)」の文章が、微妙に揺れ動く心情を窺わせる。「人それぞれドラマがあるんですねえ」と彌生さん。だが、遺骨すら帰郷できぬ長谷川修という若者のドラマに終わりはない。無能な権力と醜欲が書いたシナリオのどこかに埋もれたまま・・・。

毎日新聞 2001.6.15


447章「戦力差」~ 全員玉砕ヲ期ス ★



玩具のような特攻舟艇と隊員
(高橋文雄さん提供)

 「米軍は座間味攻撃以前に詳細な地図と11回もの偵察対潜入で、舟艇秘匿壕の位置や日本軍陣地と兵員配置場所など知っていた。偵察隊は潜水艦からユヒナ海岸に上陸、日本軍将校1人もスパイだったと、米軍に保護されたとき通訳が教えてくれた。『なぜ敵の砲爆撃が正確なんだ』と梅沢隊長は不思議がっていたがね」と宮平さん。

 慶良間諸島攻撃の米軍は艦船約80隻、上陸舟艇22隻、航空機100機、兵員約2万名。3月23日から作戦終了の28日までに使用した爆弾と砲弾は約20万㌧。座間味島へは水陸両用戦車30台とともに約4000名が上陸。

 応戦する日本軍は、舟艇を失った第1戦隊104名がそれぞれ旧式拳銃と弾丸3~6発に旧騎兵用サーベル(軍刀)。他の勤務隊170名、整備隊60名、工兵隊50名、水上勤務隊40名が重機関銃2挺、軽機関銃4挺、小銃約100挺余に弾丸は1挺につき15~30発。てきだん筒2と各自が手榴弾1~4発。「衛生兵の僕は手榴弾2発しかもらえぬほど武器が少なかった」と関根清さん(福島県在住)。

 25日夕方、座間味の通信隊は各方面へ最後の電報を暗号でなく普通文で打電。

 「敵上陸ノ公算大。全員玉砕ヲ期ス。本部ノ文長久ヲ祈ル。コレヲモッテ通信機ヲ破壊スル。サヨウナラ、サヨウナラ」(長島義男手記より。漢字と句読点は筆者)。                        

毎日新聞 2001.6.21



448章「上陸前夜」~ 自決の手助けを頼む ★



集団自決の場とした忠魂碑前広場

 山々を焦がす猛炎、家々を焼き尽くす業火、耳膜を破る炸裂音、地軸をゆるがす爆発、なぎ倒す爆風、なぎ払う灼熱の破片、着弾予測不能の恐怖・・・。「艦砲射撃ほど恐ろしいものはない」とは旧海軍で聞いた体験談だが、80隻余りの艦船が間断なく打ち込む砲弾の下でなすすべもない光景は、生々しい臨場感を伴って僕の脳裏に展開する。

 3月25日早朝から座間味島は戦争のもっとも苛烈なルツボに投げ込まれた。

 戦争という悲劇のクライマックスの幕が一挙に開いたのだ。夜9時頃、本部壕前で梅沢少佐と村長らの話を聞いた。村長らは『軍の足手まといや捕虜になるより住民一同自決したい。爆弾か手榴弾を』と要求したが、『弾丸一発でも敵を倒すためにある。住民に渡すことはできぬ』と梅沢少佐はきっぱり断った。

 「僕は少佐らの近くに居た」と宮平さん。軍命令のよる住民集団惨死ではなかったとの証言である。

 夜中近く、「忠魂碑前の広場で自決するので集合」と役場から各避難壕に通報。だが集合は少なく、集まった人々も砲弾飛来で逃げ散ったという。死装束として晴れ着を着た住民たちもいたが、「殺される事」への本能的恐怖心が強かったのだろう。

 この通報は座間味集落のみで阿真、阿佐の集落へは届いていない。宮平さんが家族を連れて整備中隊壕へ向かったのは26日未明。自決の手助けを頼むためであった。


毎日新聞 2001.6.28


WEB第136回



449章「眼前の敵」~ 恐怖と緊張感が増幅 ★



うばすての伝説を持つシンジュ(死所)の森

  「その明け方、僕は家族連れで整備中隊壕に行き、自決さすことを頼んで本部壕に帰ろうとしたら、内藤中隊長や幹部らにさんざん怒られた。「軍は住民と国土を守るためにある。住民を殺すことはできぬ。早く安全な所に避難して、必ず誰かが生き残り、亡くなった人々の霊を祭るんだ。それがお前の役目だろう」と言いながら、米、梅干、金平糖、カツオブシ等軍の糧食を袋に入れてくれた。「節約すれば一ヶ月は大丈夫。何としても生きろ」

 僕らはシンジュ(昔、老人の死所)の森の避難壕に向かう途中、日本刀を持つ国民学校の教頭に呼び止められた。「なんでお前らはまだ自分で死ねんのか。自決できぬなら俺が斬ってやる」と日本刀を抜こうとした。「なんでお前に孫やうちらが殺されねばならんのか」と祖父母が必死の形相で反抗したため事なきを得た」と宮平さん。敵は眼前にも居たのだ。のちに、彼は住民二人を斬殺した事が判明し島に住めなくなったという。「彼は跳ね上がりで、硬直した軍国主義的言動で住民に威張っていた。僕は余り信用していなかった。戦後しばらくして訪ねて来たとき、どこかの社長になったが座間味へは帰れなくなったと話していたよ」(梅沢裕さん談)

 住民や兵たちの恐怖と緊張館をますます増幅するかのような艦砲射撃の猛威のなかで、座間味島は3月26日の朝を迎えていた。

毎日新聞 2001.7.5


450章「米軍上陸」~ 海を覆い隠す艦船 ★


座間味島上陸の米軍兵士と水陸両用戦車

(座間味村史より)
 3月26日、早朝から猛砲爆撃。午前9時、水陸両用戦車と共に上陸用舟艇で座間味港と集落と古座間味海岸の3地点に米軍上陸開始。海を覆い隠すほどひしめく艦船からは陽気なジャズが聞こえていたという。古座間味には特攻の第1中隊(31名)、第2中隊(同数)が配置されていたが、特攻舟艇が破滅した状態では隊員になすすべもなかった。米軍上陸で戦隊本部は高月山から島中央部の番所山に移動した。地形複雑な山間部で米軍を迎撃する作戦。その慌しさの中で、25日に負傷した森井芳彦少尉(広島市研屋町出身)は、移動を拒否して本部の壕内で自決。補助看護婦にされていた慰安婦エイコも移動を拒み少尉と共に自決。元衛生兵の関根清さんは移動の直前まで看病していたが、「少尉は瀕死の重傷だしエイコは僕の指示で看護していた。一緒に自決するほどの仲には見えなかったのだが・・・・・・。分らんものだ。」

 女子挺身隊との甘言で慰安婦にされたエイコたちだが、その出身地、本名、年齢すら不明の現在だ。ちなみに、トミヨは負傷した梅沢少佐と共に捕虜。残り5人の慰安婦と約200人の朝鮮人軍夫は梅沢少佐の配慮でいち早く投降したが、これら朝鮮出身者のその後の空白は埋められていない。

 昼近くに梅沢少佐は全員番所山の本部集結の伝令を走らせた。宮平さんの負傷もその時だった。                                

毎日新聞 2001.7.12


451章「負傷前後」~ 米兵の姿が狂気増幅 ★


米軍保護下の住民。白い手製の帽子が宮平秀幸さん
(米軍資料)

「午前11ごろに伝令で整備中隊壕への途中、タカマタ(地名)で砲弾の破片に背中と大腿部をやられた。「動くと出血で死ぬぞ。じっとしておれば米軍が助けるかも」と言って飛び出した比嘉伍長は銃弾を浴び戦死。近くの機関銃陣地では焼けつく銃身に水をかけて冷やす役の朝鮮人軍夫たちが敵の銃撃でバタバタ倒されていた。

「アメリカーが助けてくれるわけがない。どうせ死ぬなら家族のそばで」と覚悟。

 両腕で這いながらシンジュの森の洞穴にいる家族の所にたどりついた。

 母がフトンを裂いて包帯をしてくれた。急に入口が騒がしいと思ったら、目の前に銃を突きつけた大男の黒人兵がいて、入口の方に向かって何か叫んだ。英語の分らない僕は「殺されるのか」と思ったが、2人の米兵が担架で野戦病院へ運んでくれた。

 同じ頃に保護された住民と役場前の川原に集められたのは午後2時すぎだったと思う

 宮平さんが負傷から米軍に保護されるまでの時間帯、座間味集落のそこかしこでは住民惨死の光景が展開していた。「米兵は婦女子を強姦して殺し、男は戦車の下敷き」などと、民家に分宿した兵たちから聞かされていた話が現実となる恐怖・・・・目の色や肌色の違う米兵の姿が狂気をも増幅したのだ。

 日本軍が中国などでやって来て行為を米兵にすり替えた話だったとは、住民が知る由もなかった。                                                    
毎日新聞 2001.7.19


WEB第137回



452章「惨死(1)」~ 座間味集落で200人



集団惨死した家族の遺体 (米軍資料)

  「シンジュの森の壕のある家族は人声で目をさました。壕の前に米兵がずらりと並び銃口を壕に向けて立っているのだ。妻は夫をせかした。カミソリで子供達や妻の首を切りつけた夫は、最後に自分の首を切り、全員が倒れた」。「(ネコイラズを飲んだが)子供達と父親だけが死ねないで苦しんでいた。突然、父親は棒を取り出し一人の子をメッタメッタになぐりつけて殺してしまつた。小さな男の子の片手を捕まえて振り回し、再三、岩壁にぶっつけた後棒で一撃を加えた。グァッという一言で幼い子は息をひきとった。この家族は結局、父親だけが生き残るという最悪の結果となった」(座間味村史抜粋)

 兵からもらった手榴弾で死んだり、放置された銃で家族を射殺したり、棒にロープをかけて家族が一斉に首つりしたりなど凄惨な死の光景が展開したが、座間味集落だけで約200人もが自分や家族の命を絶っている。

 万延元(1860)年生まれの85歳の老人から、昭和19(1944)年誕生の9ヶ月の幼児まで含むこれらの「死」を個人の意思と責任にすり替える言葉だからだ。忠君愛国的死への賛美と、鬼畜米兵と叫ぶ敵への憎悪、偏見、蛮勇は国家権力が手練手管で培養・増殖し、衆愚を利用して浸透・拡張させたにほかならない。住民は「惨死」させられたのだ。


毎日新聞 2001.7.26



453章「惨死(2)」~ 恩納川原周辺で329人



集団惨死の慰霊碑 (渡嘉敷島で)

 座間味島の特攻舟艇第1戦隊と阿嘉島・:慶留間島の第2戦隊は「島民自決命令」を出していないが、渡嘉敷島の第3戦隊は米軍上陸以前の3月20日に役場を通じて「島民自決命令」を出し、自決用手榴弾32発を渡している。

 3月26日、渡嘉敷島に米軍上陸を見るなり第3戦隊長赤松嘉次大尉は、「軍が保護するから西山A高地の陣地壕終結」と全島民に命令。だが、集結した島民を壕内に入れなかったため、島民は近くの恩内川原の谷や山陰に竹と木の仮小屋を造り住むことにした。島民を監視することが目的だったようだ。28日、「全島民は皇国の万歳と日本必勝を祈って自決せよ。軍は最後の兵まで戦い、全員玉砕する」と命令。手榴弾20発を追加して与えた。

 この日、恩納川原周辺で島民329人が集団惨死。これには軍命令のみか、島民で組織した郷土防衛隊員が自決を促した事実も判明いている。

 このほか、いわれのないスパイ容疑で軍に銃殺、斬殺、斬首された人々も多かったという。 「住民の『集団死』は手榴弾だけではなかった。カマやクワで肉親を殴り殺したり、縄で首をしめたり石や棒で叩き殺したりした。」(渡嘉敷村史)島民に対しては傲慢で残酷て玉砕宣言までした赤松大尉が8月19日に降伏して捕虜となるまで、生き残り島民は残存兵約180名との食料戦争に苦しめられていたのである。

毎日新聞 2001.8.2

454章「惨死(3)」~ 差別への反発も拍車 ★



村役場職員と家族の集団惨死の碑。
現在,73名と確認

 「郷土防衛隊員になった時、将校や下士官らが、(お前達沖縄人は2等国民だ。3等国民は朝鮮人と台湾人。本土の1等国民に負けぬ努力をせよ」。悔しかったね。その差別への反発が集団惨死を促したかも。より日本人らしく死のうとね。でも、江戸末期や明治初期に生まれた老人たちの中には孫を助けたのもいる。「見も知らぬ人間のために、大切な孫を殺されてたまるか」と連れて逃げた。天皇制教育に毒されていなかっんだ」と宮平さん。

 明治政府は「富国強兵」を推進した。「富国」とは他国を侵略して人的、物的資源の搾取強奪。そのための軍備拡充と徴兵制による強兵。「八紘一字」、「一死報国」、「大東亜共栄圏」「神国日本」などスローガンを正義の旗印として醜欲を覆い隠していた。更に、皇国史観、教育勅語、君が代、日の丸、軍人勅諭、戦陣訓、靖国神社という国の道標により、国民は誕生から死への一直線の人生を定められた。

 具体的に強制、監視、推進したのは末端の官愚と衆愚である。座間味村の座間味集落では村長や職員など70余人がいち早く集団惨死。住民約200人もこれに続いたが、同村内の阿真と阿佐集落や阿嘉島は皆無。慶留間島は住民の約半数が集団惨死。これらの事実を知る限り、軍人や住民の硬直性観念論者と便乗的跳ね上がりの存在の有無が、素朴な島民たちの生死を分けた子とに間違いはない。  

毎日新聞 2001.8.9


WEB第138回


455章「斬り込み(1)」~ 精鋭な部下三分の二失う



座間味島の地図

  座間味集落での集団惨死や米軍の住民保護と知ってか知らずか、26日午後には特攻舟艇第1.2中隊(3中隊末集結)と他の兵科中隊が番所山に集結。作戦会議では、夜陰にまぎれて第1・2中隊は阿佐への高台にある敵機関銃座を攻撃し番所山の本部帰隊。他中隊は座間味集落の敵陣他攻撃後にイナザギ(地名)集結が決定したという。共に攻撃後の集結地が指示され「玉砕」はない。だが、なぜか攻撃実行は第1・2中隊のみ。関根清(衛生兵)、梅沢裕(戦隊長)両氏の手記がある。

「(月)明るさのため全員突入による効果も危ぶまれる状況であったので、突入命令は下されなかった。その中止にシビレを切らしたのか、はたまた血の気に昴じたのか、無断で集結地をはなれた」(関根)。

 「待機中の戦隊第1・第2中隊が敵の機関銃陣地に独断で斬り込んだ。丁度、十時頃我々主力が位置した番所山西方稜線から遥か東方に猛烈な敵の機関銃音が起こった。そして数分にして終わった。この若武者等は出撃不能の無念、機関銃陣地が及ぼす影響を判断して叩こうとした。

 本部を離れ、敵が各処に侵入したので連絡困難、斯くして連絡とらざるまま独断斬り込んだ。最も精鋭な部下の三分の二を失い落胆の極みに達した。状況把握が遅かった。連絡報告さえあれば止められたものをと残念の至である」(梅沢)。第1中尉31名全員戦死。第2中尉24名戦死、生存7名。    

毎日新聞 2001.7.16



456章「斬り込み(2)」~ 国家への不振と絶望



座間味戦を語る日置英男さん(左)と長倉捷治さん

 焼津(静岡)駅近くの毎日新聞販売の長倉新聞店で日置英雄さん(76)と合った。

 第1戦隊第2中隊員だった日置さんは3月26日の夜の斬り込みで生き残った7名のうち一人。

 沖縄戦の話と知って長倉捷治さん(59)は身を乗り出した。「母の兄も沖縄で戦死。自決だった。母を呼びます」

 伯父の石原正廣中佐が沖縄本島の仲間(地名)洞窟で自決したのは5月16日。享年33歳。「米軍の追撃を避けて部下と隠れた洞窟に住民たちも居た。兄は「この戦争は負けだ。皆は洞窟を出て米軍に降伏しなさい。抵抗せねば大丈夫」と、全員を立ち去らせての自決だったそうで、兄らしい最後だと思った。住民たちは自決後の洞窟入り口をふさぎ、兄の遺体を守ってくれたお陰で遺骨と遺品がそっくりかえれたのですよ」と妹はるさん(84)。

 孤独無授の戦場で自決という死に向かいあう石原中尉の心情は、特攻基地で敗戦の衝撃を受けたときの僕の心情に重なる。国家への不信とその未来への深い絶望。・・・・・

 日置さんも話始めた。「26日の朝、伝令が米軍上陸の報と番所山に移動した本部への集結命令を伝えた。25日の砲弾撃で弾薬庫が吹っ飛んだから戦える武器弾薬はない。僕らは擧銃と弾丸3発、手榴弾1発に軍刀と鉄兜、、乾パン一袋の軽装備で2中隊壕を出発した」。

だが、早くも至近距離に米兵の姿・・・・・。


毎日新聞 2001.8.23



457章「斬り込み(3)」~ 意気盛んな将校斥候



戦死の地に特攻舟艇隊員の碑を建てた
生存の戦友たち(関根清さん提供)

 「2中隊壕を最後に出て座間味集落の方を見たら、ほんの50㍍先に黒人兵がしゃがんでいた。目と目が合ったが、拳銃と自動小銃じゃ勝負にならんから、僕はひたすら隊列の後から歩いた。襲ってこなかった。助かったよ。

 番所山で各隊は分散して待機。しばらくして将校斥候(偵察)に安部2中隊長(少尉)と2群長江口少尉と隊員の(候補生)の僕が出ることになつた。安部中隊長は陸士出身で意気盛んな22歳。「敵に出会ったら俺は真っ先に斬り込む。貴様らも遅れるな」と訓示した。これで戦死かと思ったとたん、死んだ僕が家に帰り、「ただいま帰りました」といったら「まあ、英ちゃん、どうしてた?帰ってきたのかね」という母の声がきこえたよ」。目前に迫った死への実感が白日夢となったのでろうか。だが、15時の出発直前に将校斥侯中止。

 「あとから思うと、斥侯が報告に帰らず、斬り込んで戦死するなど考えられん事。敵の状況を調べて正確な情報を報告するのが本務なんだ。

 あの時に偵察していれば、むざむざ斬り込んで死なずに済んだのではと思う。若い将校らは「米軍が持久戦にしたら、こっちの戦意戦力が消耗した時をねらって狩り立てられ、惨めな死にざまになる。ならば一気に」との思い込みが強かった。また、本部命令を僕ら隊員が直接に聞く事などできなかった」。

毎日新聞 2001.8.30


WEB第139回



458章「斬り込み(4)」~ 満月の輝きに虚しさ



反戦平和の誓いを刻んだ慰霊碑文(関根清さん提供)

  「中隊長の「阿佐への高台にある敵機銃座攻撃」命令で、19時に1・2中隊は出発した。玉砕だと感じていたが、心の隅では「どうにかなるだろう」と思っていた。戦闘末経験だったからな。

 攻撃中止を僕らは知らない。中隊長は死っていたかどうか・・・・。1中隊は谷間を、2中隊は尾根道を選んだが、月はなくて暗闇の中を迷い時間がかかった。合言葉は「山」と「川」。ふいに敵機銃が吼えて弾丸雨あられ。僕は崖斜面にへばりついたものの、乱射音の中で誰が、どこで、どうなっているのか全然判らん。僕ら数名が突入した敵機銃座では既に安部中隊長と江口群長が斬り込んで戦死。黒人兵3名もワイヤで銃座につながれ死んでいた。

 中隊長らの攻撃で米軍はこの銃座を放棄したんだ。後方の敵機銃座では1中隊が突入したらしい乱射音。1中隊全滅はその時のようだ。僕がその方向に敵機関銃を回して引き金を引いたらダダダダと弾丸が飛び出し、向こうの射撃が一瞬、沈黙。更に撃ち続けようとしたとたん、右腰の拳銃の柄に弾丸命中。砕け散った木片や鉄片で右腕負傷。やむなく戦隊本部へ帰る途中に重症の佐伯少尉と出会ってたがどうすることもできず、10メートルも離れぬうちにパンと擧銃音。山中をさまよい歩いて、ふと、周囲が明るいなと空を見上げたら、満月が凄いほど輝いていたよ」。  

毎日新聞 2001.9.6


459章「作戦終了」~ 自決、餓死、降伏の道


高地で特攻機を狙う米軍高射銃座。向こうは渡嘉敷島
(米軍資料)

 「夜半から未明にかけて敵(日本軍)は小銃、ピストル、軍刀で米軍部隊に来襲した。迫撃砲や機関銃の射手を数回も替えるほどの猛攻で格闘も激しかった。敵100名以上を殺し、米軍は死者7名負傷者12」(米軍資料)

 米軍が100名以上と敵死者数を誤認するほど肉弾戦だったようだ。とはいえ、最高指揮官の梅沢戦隊長が知らぬ斬り込みは、下級指揮官らの方に一つの勝ち目もない暴勇。貧弱な武装と戦闘末経験のまま、命令に絶対服従と叩きこまれた少年兵たちの最後は余りにもいたましい。

 3月28日、「座間味70%占領、作戦終了」と発表した米軍は軍政を敷き、4月1日からの沖縄本島進攻の拠点にした。約100名の残存日本兵に米軍の脅威となる大和魂や戦力はなく、自決か餓死か降伏かの道しかなかつた。

 4月20日、梅沢戦隊長は部下解散を決断。軍の命令系統と規律が消滅し、自由を得た残存兵たちは降伏し捕虜になった。

 5月、米軍は島内の集団惨死や兵たちの遺体収容を住民に許した。

 「特幹隊(舟艇隊)の斬り込み場所では、兵隊達の白骨化した頭に日の丸の鉢巻がしめられたまま亡くなっていた。胴体は軍服に包まれているため肉はそのままで、胸の中からは、まだ見たこともない大きなウジ虫がゾロリゾロリ出てきた」(座間味村史) 

 6月8日、梅沢戦隊長も米軍の捕虜となった。                                        

毎日新聞 2001.9.13



460章「修羅場」~ 「血」と「死」大地に埋まる ★



大城澄江さん(左)と宮原さんが立つ畑は米軍の
遺体仮埋葬地だった(座間味島で)

 座間味小・中学校体育館横の畑で宮平秀幸さんの従妹、大城澄江さん(81)と合った。斬り込みの夜、再集結地のイナザキへ弾薬箱を運んでおくよう命じられた女子挺身隊員の一人。「重い弾薬箱を5人で運んだ。暗く急な山道だったが何とかイナザキに持っていった。でもいくら待っても兵隊は来ない。全滅したのかもと思って手榴弾自決の覚悟を決め、5人は頭を寄せ合って手榴弾を何度も石に叩きつけたが爆発しなかった。海に飛び込んで死のうと断崖に行ったら海上はアメリカーの船がずらり。死にそこねて捕虜になったらとまた山中へ。咽喉が渇いて小川の水を呑んだら、少し上流に子供の死体があって水面は血で染まっていた。「うちらは何を飲んでも食べても、腹こわさねぇ。」と泣き笑いしたよ」。

 大城さんのいる耕作地と学校敷地は沖縄本島で戦死した米兵の遺体仮埋葬地だったという。「若い母親が赤ん坊に乳を含ませながら死顔に手ぬぐいをかぶせて自分の胸を刺したのを僕はしっている。僕の家の入り口にも斬りこみで刺殺された5人の日本兵が埋められていた。この島は、住民と日本兵の集惨死の宮平さん。

 その修羅場を替わり抜けて敗戦を知らぬまま1年7カ月もの間、断崖上の茂みや、小洞穴で生延びた2名の特攻舟艇隊員がいた。                   


毎日新聞 2001.9.20

WEB第140回



461章「逃避行(1)」~ かすかな郷愁 心奥に



陸軍特別幹部候補生時代の高橋文雄さん

 千葉県舟橋市在住の高橋文雄さん(76)は当時の戦隊本部付隊員で、斬り込んだ1・2同期生。特攻舟艇出撃時には総指揮官の梅沢戦隊長と乗艇する。だが舟艇を破壊されてからは本部と共に山中へ。4月5日夜。本部選抜の5名で米軍基地へ斬り込みに行くが失敗。数日後に砲弾破片で胸と右足負傷、梅沢戦隊長も膝関節の片方を負傷した。4月20日、梅沢戦隊長の「軍としての統一行動は本日を持って打ち切り、今後は各自、分散して生き延びて欲しい」との口頭命令で、兵たちはグループや単独による行動を始めた。いち早く捕虜になった者たちが米軍のタバコやチョコレートなど持ち、「日本敗戦は近いので降伏を」と残存兵に呼びかけていた。

 高橋さんの属するグループは降伏を決意したが「生きて虜囚の辱めを受けず((注・戦陣訓)という心境よりも、寧ろこれ(捕虜)によって郷里の親兄弟が周囲の人達の謗りを受けること必定との思惑から高橋さんは幸福を拒否。あの時代、捕虜になった兵の家族親類は隣組のみか社会的にきびしい差別を受けるほど、戦陣訓の狂気は民間へも強く浸透していたのだ。それだけに、捕虜となることへの兵達の苦悩は暗く重かったに違いない。だが、「生きてさえいれば」とのかすかな郷愁も心奥で揺れていたのではないか。高橋さんが踏み出した逃壁行へとその一歩にも・・・・・。 

毎日新聞 2001.9.27



462章「逃避行(2)」~ 前途絶望の中「生」求め


逃避行を語る高橋文雄さん
(船橋市の自宅で)

 降伏よりも逃避行を選んだ高橋さんは2名の同期隊員と共に山中へ。「我々3人の潜伏した場所はね後が裏海岸に面した断崖絶壁で前方数メートルは草藪が続き、その先は赤土の斜面が露出しており、左側は遥か岬方面までこれ叉草藪が一面に続く地形」(手記)。発見されにくい夕暮れの海岸で米艦船が捨てた食料品を拾った。ビスケットの梱包、乾燥野菜、果物、バター、チーズなど多種多様な豊富さに助けられている。ときに「ウインナー(ソーセイジ)と思ったのが人糞であったり、大きなハムだと喜んで拾おうとしたら、水死体の腕や足であったり」(手記)。だが危機も迫っていた。沖縄本島占領の米軍は小規模なら座間味島の残存兵狩りをやめていなかったのである。

7月19日、米軍に発見されて2名の戦友を失い途方に暮れた高橋さんが出会ったのは日置英雄さん。「斬り込みで奇跡的に生還した二中隊の日置候補生とばったり会い、「一緒に行こう」と再三同行を求めたが、彼は「もう駄目だよ。俺は出て行くんだ」と答えながら、振り返りもせず悄然として去って行った」(手記)。斬り込みで生延びた二人だが逃避行と降伏の道にわかれた。

共通なのは、二度と斬り込みをしなかったこと、前途に絶望を抱きながらも「生」への可能性を求めたことである。

 高橋さんが「孤独」の逃避行をしなかった心情もそこにあるようだ。         

毎日新聞 2001.10.4


463章「逃避行(3)」~ 日本に再び帰れる


1年以上も潜伏していた小さな岬(中央)
(座間味島・チシ海岸)

 捕虜はまず殺されないが、敗残の逃避行は生死ぎりぎりの境界をさ迷う。

 高橋さんが仲間を求めたのは、希望のない日々を生き抜くための支えが欲しかったに違いない。日置さんと別れたのち、高橋さんは本部付隊員の砂川候補生と逃避行に入った。

「私達が辿り着いて結局最後まで潜伏し通した場所は、島の裏側に当たるチシ海岸に突出した長さ約50メートル、幅20メートルほどの岩山」(手記)。宮平さんとチシ海岸の展望台へ。湾曲する海岸線からそそり立つ断崖はそのまま険しい山々となる。人跡未踏を思わせる風景だ。「ぼろぼろになった衣服に住みついた虱とりで退屈を紛らわしながら、故郷の思い出話を語りあっていたが目新しい変化もないので話の種も尽き、望郷の念にかられて無口になる日も増え、言葉さえも忘れかけて行くような気がして・・・・・」(手記)8月末、漂着のビラで敗戦を知るが信じられず。米軍の贅沢な漂着食料も少なくなって来たある日、禁を破って昼間の食料探しに出た浜で島人と出会い、逃避行に1年7ヶ月もの時が経過していたことを知る。1946年10月28日であった。「ついに生き抜いた!。懐かしい日本に再び帰りつき、故郷の土を踏みしめることが出来る」(手記)。当時の陸軍高級参謀(作戦計画担当)の言がある。

「(特攻隊)花札で言えば役のつかなぬ捨て札だ」。

毎日新聞 2001.10.11


WEB第141回


464章「鎮魂歌」~ 素朴な情感に希望

465章「礼状」~ 喜び『生』あればこそ




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