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3 熱狂という名の落とし穴

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平和をたずねて:快楽としての戦争/3 熱狂という名の落とし穴


 福岡県宗像市の承福寺という禅寺に、10冊の陣中日誌がある。昭和7(1932)年の上海事変と、5年後に始まった日中戦争に従軍した歩兵連隊の通信兵が残したものだ。本人は昭和37年4月に52歳で亡くなり、遺族から2000冊近い蔵書とともに預かったという。その1冊目に、上海事変で出征する際、駅で人々の万歳の声に送られる場面が出てくる。

 《女、若き女の熱狂振りには驚いた。向こうからしがみついて来るのだもの。日本人はかくまで熱狂するのかと酔眼をみはる。日本人の強い反面と弱い反面をこの目ではっきりと見る。案外、心は冷静だったらしい》

 日記を昨年から1年がかりで判読し、ワープロ起こしした同市の岩井英司さん(77)によると、通信兵は現在の熊本大工学部を卒業したエンジニアで、英語を解し、出征前にチェーホフやモーパッサン、ドストエフスキーやツルゲーネフらの作品を読破している。戦場では敵が流す放送を傍受して書き留めており、戦況の記述も複眼的で正確だ。日本軍の振る舞いに対する批判的な記述も随所に出てくる。引用したのは、そんな彼の面目躍如たる部分だが、その後で日記はこう続く。

 《プラットホームは見送人に埋められ旗の波だ。軍歌の律動だ。戦友の歌の何んと悲壮にひびく事よ。車中に在りて銃背嚢(はいのう)を整理して窓より〓(いよいよ)最後の別を告ぐ。天地にひびいて万才の声と共に出発の汽笛はなる。汽車はしずかにホームをすべり出した。盛大なりし見送り、柄にもなく死んでも心残りはないと思ふ》

 客観的で醒(さ)めた目を持つ彼にさえ、ついには「死んでも心残りはない」と思わせてしまった国民の熱狂。国中が一つの目標に向かって突き進む高揚感や、その国民のために命を賭して戦う使命感と燃焼感。それもまた、間違いなく「戦争の快楽」の一つである。

 「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳、フリーター。希望は戦争。」

 そんな挑発的なタイトルの論考を月刊誌「論座」の昨年1月号に寄せたのは、バブル崩壊後の就職氷河期に社会人となり、アルバイトしながら親に寄生して暮らしているという赤木智弘さんだ。

 持つ者と持たざる者がはっきり分かれて入れ替わらない格差社会では、自分のような弱者は平和が続く限り屈辱的な地位から抜け出せない。それよりも国民全体に公平に降り注ぐ生と死のギャンブルであり、社会に流動性をもたらす戦争の方が望ましい。そんな彼の主張は大きな反響を呼んだ。左派の論客7人の批判への彼の反論では、壊れるまで働かされて捨てられ、死んでも「負け犬」と軽蔑(けいべつ)されるだけの現状と対比させ、右翼的な思想に惹(ひ)かれる若者の心情を次のように代弁する。

 《「お国の為に」と戦地で戦ったのならば、運悪く死んだとしても、他の兵士たちとともに靖国なり、慰霊所なりに奉られ、英霊として尊敬される。同じ「死」という結果であっても、経済弱者として惨めに死ぬよりも、お国の為に戦って死ぬほうが、よほど自尊心を満足させてくれる》

 これを受けて児童文学者の清水眞砂子さんは同誌の昨年8月号で、10年ほど前に死んだ近所のおじさんの通夜の枕辺に、若き日の出征祝いの幟(のぼり)が飾られていたことを挙げてこう書いていた。

 《お国の役に立てる。それは他人に誇れる何ものも持たず、社会的名誉とまったく無縁にきたおじさんにとって、そしてまた家族にとっても、誇りを覚えることのできた唯一の時だったのではないか。私はおじさんの幟を、おじさんの通夜の枕辺にその幟を立てた家族を、けっして嘲笑(あざわら)うまい、と自分に言い聞かせてきた。……あの幟はおじさんに「『丸山眞男』をひっぱた」く機会をほんの一時であれ、くれたのではなかったか》

 人々が普遍的に持つ生き甲斐(がい)を求める衝動が、権力と共鳴しながら高揚した時、戦争は始まる。もう同じ轍(てつ)は踏まぬと、私たちは言い切れるのか。【福岡賢正】

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平和をたずねて:快楽としての戦争
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