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藤岡信勝の座間味島レポート

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座間味島集団自決の証言者宮平秀幸さんとの出会い

藤岡信勝(自由主義史観研究会代表・拓殖大学教授)

◆偶然の運命的な出逢い


その人、宮平秀幸さんとの運命的な出逢いは、偶然の形をとってやってきた。何の打ち合わせもなしに、地球上の一点で二人の人物が出会う確率は限りなく小さい。あらゆる出来事は偶然と必然の織りなす網の目の中から紡ぎ出されてくる。だから、この邂逅にも必然の要素はあるが、それは事実の分析を介して後に明らかになることだ。  

1月25日午後4時、私は沖縄集団自決の地・座間味島の土を踏んだ。日本エアービジョンという東京の旅行会社が企画した38人参加のツアーの一員だった。翌日26日の朝から、一行はホテルのミニバスで島内の集団自決に関わりのある施設や壕の跡地を回り、午前11時半頃、二本松と呼ばれるところを訪れた。ここは日本軍守備隊が米軍陣地に対し決死の切り込みを敢行して玉砕した記念碑「昭和白鯱隊之碑」のあるところだ。「鯱」は「しゃち」のことだが音読みは「コ」だから「びゃっこたい」と読むことが出来、幕末会津の白虎隊に掛けたのである。浄水場の施設のそばでバスを留め、急な坂道を徒歩で百メートルほど下りて左手に入ったところに碑はあった。その碑の隣の田村少尉の墓を掃除していた宮平夫妻に一行は出逢ったのだ。  

今回の座間味島訪問は、私にとっては二度目であった。一度目は3年前の2005年5月で、集団自決のあった座間味島と渡嘉敷島を、自由主義史観研究会のメンバー10人が2泊3日でフィールドワークする駆け足の旅行だった。私はその旅行で、渡嘉敷島の集団自決に関する決定的な証言者・照屋昇雄氏に巡り会った。それが一因となり、昨年3月、文科省が高校日本史教科書の検定で、隊長命令説を前提とした「強制」を意味する言葉を削除するよう行政指導した。これに反発した沖縄を中心とする左翼勢力は昨年一大騒動を演出し、検定申請時よりももっとひどい「日本軍悪玉説」を教科書に書き込むことに成功した。  


◆住民と日本軍との関係は「最高」


そんな騒ぎのあとだったから、私は集団自決の真実を改めて調べる必要があると考えていた。ツアーに参加したのは、その調査のためのよい機会だったからだ。本当は村人からインタビューをしたかったし、その対象者リストの中には宮平さんの名前もあった。だが、ツアーの一員である以上、勝手な行動はとれない。私は今回は村人とのインタビューを諦めていた。  

一行に参加していたチャンネル桜の井上和彦キャスターが現地でいち早く作業服姿の宮平さんを認め、声をかけた。集団自決をよく知っている村人であることがわかり、林の中で即席のテレビ現地インタビューが始まった。このツアーにチャンネル桜はカメラマンを派遣していた。私はテープレコーダーを回した。話は30分あまりに及んだ。  

座間味が特攻の秘密基地になったこと、10・10空襲で那覇がやられて武器弾薬の補給も途絶えたこと、3月23日に空襲が始まり激しい攻撃を受けたこと、などの話が続いた後、井上キャスターが尋ねた。

井上:今日、いろいろな所を見て参りましたが、住民の方とここに駐留しておりました日本軍の兵隊さんとの関係は非常に良かったと…  

宮平:ああ、もう最高ですよ。年寄りが古座間味という山を越したところにイモやイモの葉っぱを担いで運んでいるとき、隊長と兵隊さんがそれを見まして、(梅澤隊長が)「手伝ってあげないとかわいそうだよ。あんなに働いているのも、みんな国のためだよ。私たちと同じだよ。担いであげなさい」と言いました。それで兵隊さんが鉄砲を同僚に預けて重い物を担いでやったんです。それからまた、兵隊さんは全部民宿ですから、朝晩の食事一緒なんです。おいしい物があればあげて、まずいものでも一緒に食べて、家族同様の生活をしていました 。  


◆梅澤隊長は「解散」命令を出していた


さて、衝撃の新証言はこのさきである。

井上:最近、日本の兵隊が何か鬼のようだったみたいな書き方をしているものもあるのですが…  

宮平:ああ、とんでもない。みなさん、耳をよくほじくって聞いてください。人は誰が何と言おうが、3月25日の晩に、村長、助役、収入役の村の3役、それと校長が本部の壕まで来まして、戦隊長、いわゆる部隊長の梅澤さんが対応されたのです。「もう、明日はいよいよ米軍が上陸だと思いますので、私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい。それでお願いに来ました」と言って来たんですよ。そうしたら、隊長は、「何をおっしゃいますか。戦う武器弾薬もないのに、あなた方に自決させるようなものはありません。絶対ありません」と・・・

井上:ということは、軍命令があったとかなかったとかいろいろ言われていますが、それは全くなかったと… 

宮平:ないです。それで逆に部隊長が目を皿にして、軍刀を持って立って出した命令が、「俺の言うことが聞こえないのか。よく聞けよ。私たちは国土を守り、国民の生命・財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるために来たんじゃない。だから、あなた方が武器弾薬毒薬を下さいと来ても、絶対渡すことは出来ません」と…

井上:これ、梅沢隊長がおっしゃった?  

宮平:隊長がですよ。直の話です。僕、証人です。  

参加者:その場におられたんですか。  

宮平:はい。隊長とは2メートルぐらいしか離れていません。村長、助役、収入役、学校の校長とおられるんですがね。敬語は使わないです。「俺の命令が聞こえないのか。われわれ軍隊は国土を守り、皆さん方の生命財産を守るためにいるんだ。あなた方が自決させて下さいとお願いに来ても、自決の命令なんか出せるか。あなた方は畏れおおくも天皇陛下の赤子である。そんな命令は絶対出来ないから、全部解散させろ」と命令されたんです。

なんと、宮平さんは梅澤隊長の2メートルの距離にいて、直接、その話を聞いていたのである。

話の途中で、宮平さんは「藤岡さん居ますか?」と尋ねた。あとでわかったことだが、宮平さんは西宮在住の梅澤裕・元守備隊長から電話で私が座間味島を訪問することを聞いており、私からの連絡を心待ちにしていたのだ。  


◆宮平証言3つのポイント


宮平証言はあまりにも重大な内容を含んでいた。私は、一行に加わっていた秦郁彦、中村粲らの諸氏と打ち合わせて、ツアーの本隊とは別行動を取り、急遽ホテルで更に詳しい証言を聞くことにした。その日は午後1時にチャーター便で渡嘉敷島に渡る予定が組まれていた。そこで、宮平証言を聞く残留部隊12名と予定通り渡嘉敷に行く本隊とに分かれることになった。ホテルでのインタビューは1時間半に及んだ。

記念碑のある林の中での宮平証言には、3つの重要なポイントがある。

第一のポイントは、梅澤隊長が武器弾薬の提供を断ったばかりでなく、住民の自決を明瞭に阻止しようとして言葉を尽くしていたことである。住民は夕刻から忠魂碑前に集められていた。そこへ、軍の所持する弾薬を運んで爆発させ集団自決するという心算であった。それを、梅澤隊長は「解散させろ」と命じたというのである。

第二のポイントは、本部壕の前に要請に来た村の幹部の中に、村長が入っていることである。梅澤手記でも宮城初枝の手記でも、本部壕にやってきたのは、助役・宮里盛秀、収入役・宮平正次郎、校長・玉城盛助(ただし、梅澤手記では「政助」となっている)、吏員・宮平恵達、女子青年団長・宮平初枝(のち宮城姓)で一致し、これが定説となっていた。ところが、宮平秀幸さんによれば、野村正次郎村長が本部壕を訪れた村の幹部の中に入っていたのである。  

第三のポイントは、梅澤隊長の「解散」命令を受けて、野村村長が忠魂碑前に集まった村人を「解散」させていたということである。

宮平さんから指名された形の私は、引っ込みがつかなくなった。とことん調べる他はない。私は宮平証言と突き合わせるため、2月6日、兵庫県西宮市のホテルで梅澤さんから3時間にわたるインタビューを行った。さらに、2月10日から三日間、座間味島にて宮平さんに追加のインタビューを行い、資料提供を受けた。同時に、3日間の間に、島民10人からの聞き取り調査を行った。

これらの追加調査で、3つのポイントがどのように解決したか、詳細に書く紙幅がない。これについては、雑誌『正論』4月号(3月1日発売)に書いたので参照していただきたい。  


◆宮平さんはなぜ証言を決意したか


宮平秀幸さんは昭和五年1月10日、座間味島で父・宮平秀松と母・貞子の間に生まれた。梅澤隊長は軍命令を出していなかったことを後に証言した宮城初枝は腹違いの姉、秀幸さんは初枝の弟にあたる。秀幸さんのきょうだいは姉の初枝と、母を同じくする6人の兄弟姉妹からなる。ただし、初枝は母に連れられて実家に帰っていたから、秀幸さんと初枝は同じ家に住んで育ったわけではない。ただ、秀幸さんの家と初枝の家は隣同士だった。初枝の手記に登場する美恵子は、初枝とは父が異なる同腹の姉妹である。このあたり初枝の家庭事情は複雑だが、本筋に関係ないからこれ以上立ち入らない。

秀幸さんの父・秀松は秀幸さんの生後10ヶ月の時、南洋のトラック島に鰹漁に出かけた。秀幸さんが物心ついたころ、母も父のもとに行くことになったので、秀幸さんは主に祖父母に育てられたといってもよかった。祖父母の愛情を受け、たいそうかわいがられた。秀幸さんは間違ったことを嫌うまっすぐな性格に育った。

秀幸さんが14歳の昭和20年1月1日、座間味で郷土防衛隊が組織され、秀幸さんもその一員となった。同月10日には15歳になる。彼はいつしか梅澤隊長の本部付きの伝令員をつとめるようになった。といっても、防衛隊は法的根拠のないもので正規の日本軍の一部ではないから、伝令員としての正式の辞令が出たわけではない。ただ、機敏で現地の地理に詳しい少年が重宝がられたことは確かであろう。

こういう立場の伝令員の少年は秀幸さんの他にも数名いた。同年配の村の少年たちにとって日本軍はあこがれの存在であり、軍の壕に出入りし、軍から与えられた任務を張り切って果たすべく村中をはだしで飛び回っていた。梅澤隊長は秀幸さんを「あんちゃん」と呼んでいた。戦後30数年ぶりに二人は再会したが、当時那覇泊港と座間味島を結ぶ連絡船の機関長をしていた秀幸さんをすぐに認めて、梅澤さんは「あんちゃん」と呼びかけたという。  

初枝の証言をもとに晴美が書いた著書には、秀幸さんの証言と矛盾する箇所がたくさんある。秀幸さんは初枝に、「姉さん、本当のことを言わなければ駄目だよ」と繰り返し意見していた。

宮平さんは、大阪の名誉毀損訴訟の証人になることを2年前には固辞していた。なぜ、心境が変わったのか。それは昨年の教科書騒動で、嘘が歴史になることに耐えられなかったからだという。

25日、ツアーの一行が高速艇で座間味港に着いた時、二人の島民が私に抗議文めいたものを突きつけた。それを同じ高速艇に乗り込んでいた沖縄タイムスの吉田啓記者が横から写真に撮った。島民の一人は宮里芳和という人で、夜、彼の経営するパブに行って真意を聞いた。私達の到着時刻は沖縄タイムスの編集委員・謝花直美からの連絡で知った。彼は昭和23年生まれで、隊長命令のことはわからないと弁解した。ところが、翌日の沖縄タイムスの記事には、座間味島民が藤岡に抗議文を突きつけ、隊長命令があったと彼が語ったことになっていた。地元紙による歴史偽造の現場に立ち会った私は、彼等が最も恐れていた人物にめぐりあったことになる。


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