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ビデオ「戦争を教えてください」における宮平証言

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ビデオ「戦争を教えてください」における宮平証言

毒蛇日記掲示板より

新証言は本人の過去の証言によって否定されました - 阪神

2008/03/21 (Fri) 17:47:22

1992年制作のビデオ「戦争を教えて下さい・沖縄編」を視聴しましたので御報告致します。最も重要な証言部分である3月23日から26日にかけての証言は下記の通りです。

(3月23日)
役場からの命令で生徒を引率して食糧増産の為に畑に行った。米軍の飛行機は子供を見ても攻撃をしてこなかった。子供とわかっていたようだ。

(3月24日)
23日の晩からずっと壕の中に家族だけでいた。奥行き3メートル位の壕に7名の家族がいた。72歳のじいさん、ばあさん、母、姉、本人、4歳の弟、6歳の妹だった。

(3月25日)
20時30分から21時頃、「軍は玉砕命令出ているから、民間人もこれから自決するから遅れる者は死に損ねるから早めに集まるように」との指示があった。それで忠魂碑の前に裸足で行った。皆、裸足だった。忠魂碑の前では皆すすり泣きしていた。みんなお母さん達だった。軍と共に自決するのだと覚悟したそのお母さん達は、どの様にして子供達を殺せばよいのだろうか、死んでお父さんに会えるだろうかと悩んでいた。わめく人はいなかった。そのうちセスナが飛んで来て照明弾が落とされ、5分もしないうちに艦砲が落ち始めたので、ここでは自決出来ないから各自分散して各壕で死ぬようにという命令だった。

(3月26日)
4時30分から5時は凄い艦砲だった。自分の壕に辿り着いたのは夜が明けた頃だった。その時は艦砲で体に傷を受けていた。米軍に見つからない様にここから逃げようと家族と話し合った。母に「お前は歩く事は無理だろう」と言われた。12時30分頃に米軍が壕の前に来た。「デテコイ」と言われた。米兵に囲まれて着剣を突き付けられた。手を上げて家族全員で壕を出て行った。背中と足に傷があったが歩けた。

これで新証言と言われている内容は当人の過去の証言で否定されました。「各壕で死ぬようにという命令だった」と本人が証言しているのですから。これで決着です。やりましたね先生!!

このビデオでは宮平氏は「慶良間での捕虜第一号」とテロップが流されていました。色々と本を探していたら、「隠された沖縄戦記(富村順一)」に沖縄戦捕虜第一号として岩橋一徳氏の手記が出ておりました。それによると彼は3月28日に座間味島で捕虜になったが、収容先には撃墜された特攻隊員2名(渡辺曹長、福田兵曹)が先客としていたそうです。よって宮平氏、特攻隊員2名、計3名の内の誰かが座間味島捕虜第一号なのだと思われます。でも阿嘉島では26日早朝に染谷氏が捕虜になっているので沖縄戦捕虜第一号=慶良間での捕虜第一号は染谷氏か特攻隊員2名、計3名の内の誰かなのでしょう。結局、阿嘉島での捕虜第一号が染谷氏という事だけが確定しています。特攻隊員が捕虜になった日時が不明なのでややこしいですね。

あと、気になる資料として「沖縄戦記(座間味村、渡嘉敷村戦況報告)/宮古島戦史資料 山砲兵第28連隊(昭和20.12)」がありました。防衛研究所に原本があります。この報告書の中に「梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い、又、老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」と記述された部分がありました。

新発見かと思いましたが「新版 母の遺したもの」p252でふれておりました。私の早とちりでした、申し訳ございません。(追加)

私がこの掲示板にビデオ発見の書き込みをしたのが17日17時34分ですから、つくる会があわててこのビデオを注文したとして18日発送、19日入手とすれば、つくる会ニュース第230号出した直後ですね。どうするんでしょうかねw


Re: 新証言は本人の過去の証言によって否定されました - 山崎行太郎

2008/04/05 (Sat) 05:11:19

山崎行太郎です。返事が遅くなり失礼しました。ブログの記事に、このまま引用して紹介しました。今後ともよろしく。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/


Re: 新証言は本人の過去の証言によって否定されました - サクラ

2008/04/05 (Sat) 12:02:59

これで新証言と言われている内容は当人の過去の証言で否定されました。「各壕で死ぬようにという命令だった」と本人が証言しているのですから。これで決着です。やりましたね先生!!

はやとちりはいけませんよ。
「軍」からの命令という証言ではありません。
先生に恥をかかせないように。

忠魂碑前での集団自決が米軍の艦砲射撃で不可能となり解散命令がでて各自で死ぬようにと言う事です。「軍は玉砕命令」がでているというのは兵士に対してですよね。だから民間人の私たちもということですよね。 


Re: 新証言は本人の過去の証言によって否定されました - 山崎行太郎

2008/04/05 (Sat) 12:24:20

サクラ様。

山崎行太郎です。
貴兄は、小生等の論理をまったく理解していませんね。小生等は、「宮平新証言」の≪信憑性≫と≪実証的根拠≫を問題にしているので、「玉砕命令」や「自決命令」を、誰が誰に対しして行ったか、行わなかったかは、残念ですが、ここでは問題にしていません。

もう少し、理詰めで物を考えてください。
この『沖縄集団自決裁判』に関する貴兄の立ち位置は、よくわかりました。

この掲示板や小生のブログの書き込みを読み直すまでもなく、貴兄とは根本的な立ち位置が異なっているようですから、小生等と議論の遣り取りを、ここでしても無駄です。
アラシのつもりなら構いませんが……。

したがって、以後、
この掲示板での書き込みは、ご遠慮ください。
自分に適した掲示板やブログ等を見つけて投稿してはいかがでしょうか。
悪しからず……。



つくる会は宮平氏を利用しないで欲しい - 阪神

2008/04/05 (Sat) 18:04:24

山崎行太郎様

前回、先生が宮平氏の母の証言を取り上げた後につくる会が即座に反応したように、このビデオの件でも何かしらの声明を出すのでしょうね。ビデオを入手してから声明を出すでしょうから数日を要するでしょう。或いは、曽野綾子、小林よしのりに続いて「逃げ」るかもしれません。私は逃げることを期待しています。病気で弱っている宮平氏を酷使するのはやめて欲しいからです。

余談ですが、92年当時の宮平氏は髪の毛を真っ黒に染めていて若々しく、戦跡周辺に生い茂る草を元気に刈っていました。このビデオの収録でも彼は数時間も話し続けたそうです。やはり多弁な方なのでしょう。ビデオでは捕虜になってからの出来事も語っていました。一番印象に残っているのは、秋になって米軍が本島に行ってしまい食料が無くなってしまったので、ソテツのでんぷんを食べるようになってしまったということです。とても食えるようなものではないと辛い頃を思い出した様な表情で話しておりました。
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