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四 残虐行為の総体

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南京大虐殺の真相

四 残虐行為の総体

南京攻賂戦と南京占領時において、日本軍が中国軍民に対して行なった残虐行為の総体は、その内容により以下のA-Cにわけて整理できる(このことについては、岡部牧夫「書評―『南京大虐殺の証明』『南京事件』『天皇の軍隊と南京事件』」、『日本史研究』第三〇二号、よりヒントをえた)。
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A 生命・身体の侵害

(1)中国兵の殺害
戦争法規に違反する兵士の殺害・傷害。南京事件における被虐殺者数でもっとも多かったのは、「陸戦ノ法規慣例二関スル条約」(一九〇七年ハーグ平和会議で締結、日本は一九一一年に批准)で禁止された「兵器を捨て又は自衡の手段尽き降を乞える敵を殺傷すること」に反して殺害された中国兵である。敗残兵(厳密には敗残兵のうち武器を捨てたたかう意思を放棄した)、負傷兵、投降兵、捕虜の状態で殺害された。武器・軍服を放棄して南京国際難民区(当時は安全区と坪称された)内に「投降」した中国兵が「便衣兵狩り」の名目で殺害されたものも多かった〔中国兵の殺害については拙稿「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄・藤原彰・本多勝一編『南京大虐殺の研究』晩聲社)で詳細に記したので参照されたい〕。

(2)民間人の殺害

日本軍機による南京空襲で早くから市民の生命が犠牲になった。一九三七(昭和一二)年八月一五日の海軍航空隊の南京渡洋爆撃にはじまった南京空襲は、首都の陥落まで数十回行なわれる。中国の抗戦態勢をたたくために、その首都に対してくわえられた都市無差別爆撃であった。「南京大虐殺と並ぷ大空襲」と前田哲男氏はその著書『戦略爆撃の思想』(朝日新聞社)に書いている。南京空襲の犠牲者も南京事件の被虐殺者にふくめて考えるべきであろう。

民間人の犠牲で数量的に多かったのは、南京から避難・脱出しようとしているところを敗残兵とともに殺害されたり、日本軍の「残敵掃討戦」によって集団的に虐殺された市民である。なかでも元兵土と疑われた成年男子の犠牲者数が突出している。
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民間人は民衆の知恵にもとづいて判断した避難先・残留地においてそれぞれ犠牲になっている。避難のタイプの典型は、老人が家を守るため留守番役で残留し、女性・幼女が付近か難民区があればそこに避難し、男性.男子が食糧と身の回り用具をもって比較的遠くへ避難する、というものだった。なお南京付近にとどまった民間人は、安全な遠隔地に移動・避難するツテと財力を有しない貧しい階層の人びとが圧倒的であった。

南京近県の農村で殺害された女性四三八○人のうち、八三%以上が四五歳以上の帰人であった(そのうち約半分が六〇歳以上)。彼女らは、従来残忍な攻撃から安全であると考えられていたので、なけなしの家・財産を守るために残っていて殺害されたのである。南京城内の南部の人口密集区でも、多くの老人(とくに女性)が留守を守って残留し、攻め込んできた日本兵に虐殺された。城内では、六〇歳以上の男性の二八%と女性の三九%が殺されたことになるという(煩雑になるので、引用資料の出典はいちいち注記しないが、ことわりがないものはすべて洞富雄前掲資料集か本稿にあげた参考文献によっている)。

南京占領にともなう民間人の虐殺は、当初「敗残兵狩り」、「便衣兵狩り」のかたちで進行したが、やがて強姦殺害がふえ、「残敵掃討戦」が山をこえた一九三八年一月中旬以降は、略奪にともなう殺害(平常時の強盗殺人)や「女狩り」にともなう殺害、日本兵の「憂さ晴らし」、「慰みもの」、「見せしめ」などのための殺害がめだつようになった。それは同年の二、三月までつづいた。南京国際難民区の鼓楼病院のアメリカ人医師、ロバート・O・ウィルソンがのちにはじめて上海にでられたとき、「上海に来てなによりも嬉しいのは、中国人が頭をつけて街を歩けるのを見られることだ」とその感
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慨を述べているのは(『チャイナ・インフォメイシヨン・サービス』12号、一九三八年一〇月)、そうした状況の一端をものがたっている。

(3)強姦および強姦殺害

強姦は南京攻略戦および南京占領の全期間にわたって行なわれた。多くの軍隊が日常的に、しかも戦闘中以外はほとんどどこにおいても行なっていたことにおいて、まさに日本軍の組織的行為であった。強姦は女性の身体を傷つけただけでなく、心にも深い傷を与えた。

南京攻略戦段階では、南京近郊の農村で強姦が行なわれた。農村の場合、強姦殺害が多いのが特徴である。さきにあげた南京近県の農村における多数の女性死者の多くはこの種の犠牲者であった。

南京占領後は一二月一六日頃から強姦事件が激発するようになり、南京安全区国際委員会の計算では一日一〇〇〇人もの女性が強姦されている。同委員のベイツは、占領初期には控え目にみても八○○○人の女性が強姦され、翌年の二、三月までに何万という女性が強姦されたと記している(「アメリカのキリスト者へのベイツの回状」一九三八年一一月二九日付、前掲『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』に収録)。前記国際委員会が日本当局に報告した日本兵士による暴行事件四四四件(ほとんど洞富雄前掲資料集に所収)のうち、大半が強姦・輪姦およびそれにともなう傷害.殺害の内容で占められている。

南京における「残敵掃討戦」も峠をこえた一月中旬以降は、日本軍の「慰安」のための「女狩り」としての強姦が日常化していく。強姦殺害は減少するが、炊事婦・洗濯婦として拉致し、軟禁状態にして連日強姦するケースやもっぱら少女を拉致して強姦するいわゆる「処女狩り」、さらに性的変質行為(たとえば中国人男子に老婆との性交を強要したり、少年を獣姦するなど)がめだつようになる。さ
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きの教科書裁判では国側弁護士が、憲兵の存在をあげて残虐行為が組織的犯行であることを否定しようとしたが、当の憲兵自身が役職を利用して強姦を行なうしまつであった。

一月末から二月初旬には、日本軍当局から難民区をでて自宅にもどることを強制された婦人たちが、帰った家で強姦される事件が頻発している。

このように日本軍による中国女性の強姦は南京事件の全期間にわたって行なわれ、その件数の膨大さと内容の残虐性からして、教科書調査官のように「世界共通の現象」とはいい切れない特異性がある。なお強姦が日常化して多くの女性が長期にわたって被害をうけたために、悪性の性病をうつされ
て廃人同様になってしまった者や、望まぬ子をみごもってしまった者、また、そのために無理な堕胎をこころみて身体をこわしてしまった者などもでて、あとあとまで残虐な悲劇はつづいた。

B 財産権の侵害

日本軍は南京において戦闘行為とは直接関係のない略奪・放火を長期にわたって行なった。南京に残留していた市民はがいして貧困な階層であったが、これらの貧しい残留家族の財産が損害をうけた。南京大学のルイス・S・C・スマイスやM・S・ベイツら南京国際救済委員会(南京安全区国際委員会が改称)の調査によれば、南京城内の建物の七三%が略奪の被害をうけた。中心的なビジネス街では多くの店が兵隊によるときおりの略奪をうけたのち、軍用トラックを使用した本格的略奪をうけ、最後には放火されて焼失した。

放火は日本軍の南京入城一週間後にはじまって二月初めまで行なわれ、市全体で建物の二四%が焼
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失した。そして、焼け残った家の家具や衣料、食糧、現金などがはぎ取られるように、日本軍に略奪された。南京近郊の農村では広い地域にわたって、四〇%の農家が焼かれ、家畜や農具の半分近くが失われ、七家族に一人の割合で家族が殺された。

日本軍の略奪はあらゆる物におよんだが、とりわけ食糧品、防寒のための寝具、衣料、手袋、および戦利品としての現金、宝石、装飾品、時計などが多かった。日本兵は難民収容所の難民からも、なけなしの現金、時計類をうばったし、通りゆく市民からも同様におどし取った。日本への凱旋・帰還みやげのつもりで明故宮の古物保存所(現在南京博物院)から文化財を組織的に略奪した部隊(第一六師団所轄の福知山第二〇連隊)もあった。

このように略奪・放火が多かった根本的な原因は、日本軍が食糧や装備の補給を軽視ないし無視した作戦を展開し、それらの「現地調達」を各部隊に課していたことにある。その意味で略奪・放火も日本軍の計画的・組織的な犯行ということができる。

C 生存権・生活権の侵害

日本軍の残虐行為による無数の住宅の破壊や生活手段・生産手段の破壊は、かろうじて日本軍の暴行の手をのがれた一般市民の生活に重大な障害と苦痛をもたらした。日本軍の占領が長期にわたっただけにその被害も深刻であった。

さきの南京国際救済委員会の調査によれば、夫や父親を失って家庭を破壌されたものは南京市内にとどまった家族の七分の一におよぷ。また救済を希望した一万三五〇〇家族のうち一六歳以上の婦人
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全体の一四%が働くささえの夫を失った未亡人であった。金陵女子文理学院に収容された難民五五〇〇人のうち、四二〇人の掃人が生活の助けをうけていた男性を日本軍によって殺されている。全体の死傷者のうち男子の割合は、全年齢をつうじて六四%で、三〇歳から四四歳の者では七六%という高
い数字に達した。かれらは、元兵士の疑いをかけられた働きざかりの男たちであった。親が殺されたり、父親が拉致されたり、あるいは家族離散によって家庭を破壊された子どもたちはさらにいたましかった。

家庭破壊をのがれても多くの市民は、商売や製造、労働などの生産手段をうばわれたまま、また衣食住の生活手段を破壌されたまま、餓死、凍死、病死の恐怖におびやかされ、生存権・生活権を侵害されつづけた。

南京の近郊農村の場合、生存権・生活権の侵害はさらに深刻であった。農家の建物の四〇%が失われ、役畜・主要農具・貯蔵穀物・作物などが甚大な被害をうけた。畑の小麦は兵隊が馬の飼料にし、野莱は兵隊がこのんでかっぱらい(江寧県と句容県では野菜畑の作物のほぽ半分が損害をうけた)、食糧・種用の貯蔵穀物は「調達」、「徴発」の名で略奪された。南京の近県五県の推定人口一二一万一二〇〇人のうち、春耕の準備のはじまる三月になっても移動したまま現地にもどってこなかったのは四九万六五九〇人(四一%)に達すると推定された。

こうした農民の再生産活動の破壊は、やがて作物不足となり穀物不足となって、都市住民の生活をおびやかすことになる性質のものだった。
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