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第一章 「英霊」たちを祀る空間

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pipopipo555jp

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坪内祐三『靖国』
1999年1月30日発行 新潮社

第一章 「英霊」たちを祀る空間


※「招魂斎庭」に関する記述がないことを示すために引用します。

  現代を生きるごく普通の日本人にとって、靖国神社とは一体どのような存在なのであろうか。靖国神社という言葉を耳にした時、人は、いかなるイメージを思い起すのだろうか。

  私自身の場合を語りたい。

  昭和三十三年生まれの私は、たいていの同世代の人びと同様、物心つくまで、いや物心ついてからも、靖国神社に対して何の関心も持たずに暮らしてきた。毎年、夏の風物詩のように、終戦の日が近づくころに話題となる総理大臣や閣僚たちの靖国神社公式参拝問題も、私にとっては、まるで他人ごとだった。

  もっとも、私は、普通の人と比べて、靖国神社という空間には少し馴染んでいたかもしれない。なぜなら、大学時代友人たちと語らって三年続けて大晦日、靖国神社に初詣に出かけたことがあったから。

  しかし動機は不純だった。貧乏性だった私は、大晦日の晩の電車の終夜運転を使い回さないのは損だと考えた。年に一度その日だけ、夜が深けても電車は走り続ける。そのお祭り気分は人を興奮させる。こんな夜に若者は家でじっとしていられない。街に繰り出そう。初詣を口実に。

  というミーハーでありながら、人混みが嫌いな私は、明治神宮は一度で懲りた。そこで次の年に目をつけたのが靖国神社だった。あそこならたぶん、都心でありながら、大晦日の晩もさほど混んでいないだろう。この狙いは当った。大晦日の(いや元日未明の)靖国神社は、たくさんの屋台や夜店が並び、初詣気分をしっかりと満喫させてくれるのに、その人出は明治神宮とは比較にならなかった。

  都市東京の中に近代になって新たに作り上げられた神社という点では共通しながら、初詣の、明治神宮の人気と、靖国神社の不人気は、対照的だった。もちろん、明治神宮の場合、それはロケーションのせい―深い緑、若者の街渋谷から続くお酒落な原宿・表参道もあっただろう。しかしそれ以上に、両者を対照的にしていたのは、神社としての、その意味合いの違いだろう。と言うより、明治神宮が、戦後、それが実際に意味するものとは無関係に、都市の人びとの生活の中で馴染みある空間となっていったのに対し、靖国神社の方は、そのイデオロギー的側面のみが強調されることによって、本来持っていた空間としての面白さや、近代(モダン)東京の都市発展史の上でその場所が意味していた重要性が、等閑(なおざり)にされるにいたったのである。

  「イデオロギー的側面」。例えば現在もっとも手軽に参照できる靖国神社関係の文献に大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書・一九八四年)があるが、その本の終章「おわりに」で大江氏は、靖国神社の存在を、端的に、こう書いている。

  靖国神社は、国家の宗教施設であり、国家の軍事施設であり、そのゆえに国民統合のための政治的・イデオロギー的手段であった。戦争による犠牲者を国民にたいして悲劇であるとも悲惨であるとも感じさせることなく、むしろ逆に栄光であり名誉であると考えさせるようにしむけた存在が靖国神社であった。

  やはり岩波新書に、「靖国の思想」と副題のついた村上重良『慰霊と招魂』があるが、こちらは靖国神社法案が一九七四年五月、衆議院本会議で可決された直後に執筆されたものだけに、そのトーンは、さらに激しい。「まえがき」に、こうある。

  戦後三〇年を迎えるこんにちの日本において、戦後最大の思想的対決として、靖国神社国営化の是否が、活発に論議されている。さる一九七四(昭和四九)年五月二五日、靖国神社法案が衆議院本会議で可決されたことは、戦後民主主義の前途を暗くする象徴的な出来事であった。

  靖国神社の国営化が意味するものは、かつての帝国陸海軍の宗教施設の公的復権という現象面のみにとどまらない。それは、良心の自由を国が管理することによって、憲法がさだめる信教の自由、政教分離の原則を否定し、憲法そのものを空洞化するねらいをもっている。靖国問題で問われているものは、たんに一神社の問題ではなく、日本の民主主義を葬り去ろうとする近代天皇制国家の支配原理なのである。

  靖国の思想は、幕末維新の政争のなかで生まれた国事殉難者の招魂の思想に発している。招魂の思想は、あらゆる価値を天皇に一元化する近代天皇制の成立とともに、天皇のために忠死した戦没者を神として祀り顕彰する靖国の思想に展開した。招魂社から靖国神社への歩みは、戦没者個々の招魂が、「英霊」とよばれる没個性的な祭神集団にたいする、国の手による慰霊顕彰へと変質していく過程にほかならなかった。

  確かに、これはこれで、一つの正しい意見ではあるのだろう。しかし、「『英霊』とよばれる没個性的な祭神集団」と批判している割に、「あらゆる価値を天皇に一元化する近代天皇制」という表現は、それ自身もまた、まったく没個性的である。

  「自由」、「民主主義」、「個性」といった言葉に対して、まるで一種の信仰のように、強い思い入れを持つ人びとがいる。彼らにとって、「没個性的な祭神集団」を祭った靖国神社は、否定すべきナショナリズムの空間である。ナショナリズムの対極に、例えば彼らは平和主義というものを置き、その主義を信奉しているのだろうけれど、共産主義や反ユダヤ主義、政治的カトリシズムと並べて平和主義も一種のナショナリズムであると喝破したのはイギリスの作家ジョージ・オーウエルである(「ナショナリズム覚え書き」)。「靖国の思想」の「没個性」を言うのなら、「日本の民主主義」だって、その発露のし方の多くは、「没個性」である。

  「靖国思想の成立と変容」という表題の講演録(橋川文三対談・講演集『時代と予見』伝統と現代社・一九七五年に収録)で、評論家の橋川文三は、雑誌『主婦之友』一九三九年六月号に載った、ある座談会を紹介している。出席者は同年春の靖国神社臨時大祭に参列した遺族(一九三七年の日中戦争で戦死した兵士の年老いた母親たち)五名である。橋川氏が引用している部分の三分の一ほどを、ここに孫引きする。

斎藤 うちの兄貴は、動員がかかってきたら、お天子様へ命をお上げ申しとうて申しとうてね、早う早うと思うとりましたね。今度は望みがかなって名誉のお戦死をさしてもらいましてね。

森川 あの白い御輿が、靖国神社へ入りなはった晩は、ありがとうて、ありがとうてたまりませなんだ。間に合わん子をなあ、こないに間にあわしてつかあさってなあ、結構でござります。

村井 お天子様のおかげだわな、もったいないことでございます。

中村 みな泣きましたわいな。

高井 よろこび涙だわね、泣くということは、うれしゅうても泣くんだしな。

中村 私らがような者に、陛下に使ってもらえる子を持たしていただいてな、ほんとうにありがたいことでござりますわいな。
 まあ、ラッパが鳴りますなあ、兵隊さんやろか、あのお羽車のとき鳴ったラッパの音は、もうなんともかんともいえませなんだ、ありがとうて、ありがとうて。

森川 なんともいえんいい音でしたなあ、あんな結構な御輿に入れていただいて、うちの子はほんとうにしあわせ者だ、つねでは、ああいう風に祀ってもらえません。

※坪川氏は「白い御輿」=「お羽車」の中に何が入っていて、何処から何処へむかっているのか、には興味がなかったのでしょうか? 不思議です。「白い御輿」=「お羽車」には、坪川さんのモチーフである「招魂斎庭」にいくで招魂された霊璽簿が入っていて、本殿に向かっているのですけど。

  全文を引用した後で、橋川氏は、「私はこれほどにみごとな靖国信仰の表現をあまり読んだことがありません。それはなにか古代原始の妖気をさえたたえた表現となっております」と語っている。引用しきれなかった部分を含めて、ここで橋川氏の言う「靖国信仰」とは、「お天子様」信仰のことである。つまり先の村上氏の引用文中の、「招魂の思想は、あらゆる価値を天皇に一元化する近代天皇制の成立とともに、天皇のために忠死した戦没者を神として祀り顕彰する靖国の思想に展開した」という表現と対になっている。一見すると、この「靖国信仰」は、明治二年(一八六九)六月の東京招魂社(靖国神社の前身)創建以来ずっと、靖国神社を訪れる人たちを貫いている信仰に思える。つまり明治、大正を通して、太平洋戦争に至るまでずっと、靖国神社に対して人びとが抱き続けていた思いは変らないものであるかのように。

  果して、そうであろうか。

  明治四年生まれの作家田山花袋の白伝『東京の三十年』(講談社文芸文庫・一九九八年)に「九段の公園」という一章があり、その章を田山花袋は、こう書き出している。「九段の招魂社は、私に取つて忘れられない印象の多いところである。上野公園もかなりに印象が深いが、それよりも一層九段の方が深い」。花袋の父親は、彼が六歳の時西南戦争に従軍し戦死していた。だから彼にとって招魂社は「忘れられない」場所なのである。

  私は朝に夕にその境内を抜けて行つた。考へると細かい気分が浮み出して来る。正面社殿に向つて四方を取巻いた塀、その左の塀の下の石の上を、若い私は毎日毎日伝つて歩いて行った。或は弟と共に……。或はひとりぼつちで…-。

  「今に豪(えら)くなるぞ、豪くならずには置かないぞ」かういふ声が常に私の内部から起つた。私はその石階を伝つて歩きながら、いつも英雄や豪傑のことを思つた。国の為めに身を捨てた父親の魂は、其処を通ると、近く私に迫つて来るやうな気がした。

  田山花袋がこう書く靖国神社の光景は、明治二十五、六年、つまり日清戦争の直前の頃のことだ。ここで注意しておきたいのは、花袋が、「国の為めに身を捨てた父親の魂」とは書いているものの、「天皇のために身を捨てた」とは書いていない点である。『主婦之友』の座談会に出席した母親たちは、先に引用出来なかった部分で、「お国のために死んで、天子様にほめていただいとると思うと、何もかも忘れるほどうれしゅうて元気が出ますあんばいどすわいな」と語っているが、彼女たちの信仰の中心は、「天子様に」、つまり、「お国のために死んで、天子様にほめていただいとると思う」(傍点引用者)ことにある。それに対して花袋は、招魂社で、もっと直接的に、「父親の魂」と関係を結んでいる。招魂社は彼にとって、西南の役で亡くなった父親の記憶を呼び戻すための場なのである。機会あるごとに自身で語っているように、花袋は人一倍明治天皇に対して強い尊敬の気持ちを持っていた人物だったが、「今に豪くなるぞ、豪くならずには置かないぞ」という花袋ならではの素直を言葉は、天皇崇拝とは直接結びつかないし、彼がここで感応している「父親の魂」は、村上氏の言う「『英霊』とよばれる没個性的な祭神」ではない。

  つまり次章以下で詳しく述べるように、明治から大正、そして昭和にかけて、「天皇」という、きわめて多面的な意味を持っ「機能」が、ある種の人びとによって利用されて行くにつれ、靖国神社も、その初期から少なくとも明治末年ぐらいまで持っていた、様々な可能性、空間としての可能性が狭められて行ったのである。そしてそれは、現在にまで至っている。今、靖国神社を問題にする人は、賛否両陣営共に、イデオロギー的なことしか問題にしない。靖国神社が、近代日本の中で、どのような空間であった(ある)のかは、彼らの関心にない。

  けれど『主婦之友』の座談会が開かれた当時にあっても、靖国神社に祭られている戦死者の霊に「英霊」以外のものを感じ取った人もいる。いや正確に書けば、「英霊」と見なしながらも、その「英霊」が、靖国神社のある空間の中で、もっと日常的な霊に変わって行くのを感じた人がいる。

  内田百閒である。靖国神社の近くに長く暮らし、法政大学で教鞭をとっていた百間には、靖国神社が舞台に登場してくる小説や随筆が数多くある。もっとも有名なのは、昭和九年に刊行された第二創作集『旅順入城式』に収められた幻想的短篇「遊就館」だろう。

  その百閒が、ちょうど『主婦之友』に例の座談会が載った同じ時、昭和十四年六月、「東京朝日新聞」に「鬼苑随筆」という四回連載を発表し、その内の一回に「鼻」と題された作品がある(のち『鬼苑横談」に収録)。

  単行本で僅か二頁ほどの随筆である。

  百閒のかつての教え子に伊藤長一郎という人物がいた。成績は優秀なのだが、「直情径行の青年で」、「憤慨すると鼻の先を動かした」から、そのたびに、同級生たちは面白がって、「長さんが鼻を動かした」といって騒ぎ立てた。そのころ教室内で、他人の弁当を盗み食いをするのがはやった。「伊藤の長さんもその被害者の一人であつて、白分の弁当箱の鯵の向きが変はってゐる、きつと何人かが蓋を開けて見て、不味さうだから食はなかつたに違ひない、食ふなら食ふでよろしい、食ひもしない物をいぢくり廻すのは怪しからんぢやないですかと云って、先生の私に鼻を振るつて訴へた」。ある時、学生の会に付き合った百閒は、夕方近く、伊藤ともう一人平井という学生と三人で帰路についた。理由は忘れてしまったけれど、三人で靖国神社の裏門から境内に入り込んで、その辺をぶらぶらと歩きまわっている内に、社殿の後にある相撲場に出た。「もう辺りが薄暗くなりかかってゐた中に、谷底の様な所にある土俵の表だけがほのかに白く見えた。そこへ伊藤と平井の二人は馳け下りて行つて、制服を着た儘で角力を取るらしい」。百閒は人っ気のない観覧席の中段に腰を下ろして、二人の取り組みを眺めた。しかし始まってすぐ、伊藤が鼻血を出し、相撲はお終いになった。「起ち上がった拍子に長さんの動く鼻が平井のどこかにぶつかつたのださうである」。百閒のこの短い随筆は、こう結ばれている。

  伊藤は卒業してから姓が変はり、大橋と云つた。大橋長一郎少尉の戦死の報を聞いて、十五六年昔の靖国神社のたそがれを思ひ出した。護国の鬼となつて靖国神社に帰つて来た長さんの霊が、たまには社殿の裏の相撲場へ遊びに出て、少年時代の夢の破片を探してゐやしないかと云ふ気がする。

  イデオロギーだけを問題にする人なら、まず「護国の鬼」という言葉に目が行くだろう。「護国の鬼」は「英霊」と等価である。しかし軍国主義のマインド・コントロールを受けていない百閒は、先の婦人たちとは違って、「長さんの霊」をただの「英霊」とは見なさない。何より百閒にとって靖国神社は、その社殿だけが靖国神社であるのではなく、かつて大風の吹く日に遊就館でまぼろしを見た(「遊就館」)彼は、社殿裏の相撲場に、「少年時代の夢の破片を探し」に「遊びに」来ているかもしれない、「長さんの霊」を思う。靖国神社はそのような連想を喚起する広がりを持った空間だった。

  何度も繰り返すように、明治、大正、昭和と時代を経るごとに、その広がりが縮小して行った。

  さらに靖国神社の空間の豊かさを象徴するものの一つにサーカスがある。

  靖国神社(招魂社)の境内では早くも明治四年十月にフランスのスリエ曲馬団が興行している。この来日公演は、三代広重が錦絵にも描いているが、「見物少し。面白からずして価貴く、日は短くなり寒気にも向ひし」と斎藤月岑の『武江年表』にもある通り、失敗に終わった。第三章で述べるように、当時は、靖国神社(招魂社)そのものが、人びとから馴染みの薄い存在だった。サーカスが靖国神社の境内に再び登場するのは、明治二十年一月十五日から二月五日にかけてのイタリアのチャリネ曲馬団来日興行だった。そして明治三、四十年代に入ると、サーカスは、日本チャリネや大竹娘曲馬団などの日本人一座によって、靖国神社の例大祭の名物となってゆく。中でもその最大手が益井喜蔵ひきいる益井商会だった。昭和四年ごろになると、柴田国際大曲馬川、帝都長楽娘曲馬団というニ大曲馬団が、「全国随一の見世物興行地であった靖国神社の春季大祭」で「気勢をあげる」(この辺の靖国神社とサーカスの関わりについては、阿久根巌『サーカスの歴史』西田書店・一九七七年による)。

  靖国神社の祭礼のサーカスを描いた文学作品は、思いつくだけでも、川端康成「招魂祭一景」(大正十年)、吉行淳之介「祭礼の日」(昭和二十八年)など何篇もあるが、私が一番好きなのは安岡章太郎の「サアカスの馬」(昭和三十年)だ。中学や高校の国語の教科書にもとりあげられているから、比較的広く知られている作品だろう。中学生にもわかるシンプルな作品だが、安岡章太郎の作家としての歩みを知った上で読み直してみると、さらに感慨深い佳篇である。

  「僕の行っていた中学校は九段の靖国神社のとなりにある」と書き始められるこの短篇は、靖国神社と隣りあった旧制市立一中(現都立九段高校)に通っていた安岡章太郎の実体験に基づく私小説である。安岡は大正九年(一九二〇)生まれだから、先の橋川文三が紹介した座談会や百閒のエッセイのほぼ同時代の出来事である。

  陸軍獣医の息子である「僕」は、成績が悪く、運動も苦手で、絵や作文、模型作り、ラッパ吹き、何一つ取り柄のない生徒で、しょっちゅう廊下に一人立たされていた。立たされている窓の向こうに靖国神社の木立が見える。「僕」は春と秋の祭りを楽しみにしていた。その時が来ると、「あたりの様子は一変する」。そんな祭りのある日、例によって廊下に立たされ窓の外を眺めていると、「サアカス団のテントのかげに、一匹の赤茶色い馬がつながれているのを眼にとめた」。それは醜く痩せおとろえた馬で、よく見ると背中が大きく凹んでいた。「僕」は、その馬と自分を二重映しにして、その心中を察した。学校が休みになり、「気のきいた連中は日比谷か新宿ヘレヴィウか映画を見に行っ」たのに、「僕」の足は何故か「サアカス小屋」の方へと向かった。ちょうど小屋に入った時、あの馬が見物席の真ん中に引っぱり出されて来た。「僕」は「サアカスの団長」を憎んだ。わざわざさらしものにしなくてもよいのに。ところが次の瞬問、楽隊の音が大きく鳴り出した時、馬は見事なギャロップを始め、曲芸師が馬の背中の凹みに飛びついた。馬は一座の花形だったのだ。大歓声の中で、「僕はわれにかえって一牛懸命手を叩いている自分に気がついた」。

  周知のようにこの少年は、作家となったのちに、幕末に海を渡った曲芸師高野伝八を主人公に『大世紀末サーカス』という大著をものすることになる。

  靖国神社のサーカスが、その精神形成に決定的影響を与えた陸軍軍医のダメ息子を、安岡に続いて、さらにもう一人紹介したい。

  明治四十年、父親の赴任地である大津で生まれた彼は、すぐに、当時陸軍の軍人が多く住む東京の二番町に移り、少年時代をその地で過ごした。病弱だった彼は、しばしば学校を休んだが、そんな彼の最大の楽しみは、学校の近くの靖国神社で春秋二回開かれる祭礼のサーカスだった。後に自伝(『私の半自叙伝』新宿書房・一九八三年)の中で「私をサーカス狂にした靖国神社の招魂祭」と書くように、サーカスの研究家として世界的に知られることになる彼、盧原英了が、サーカス研究を自分のライフワークの一つとして心に決めたのも、招魂社のサーカスがきっかけだった。

  なるほど「英霊」や「軍神」たちを祀った靖国神社は、戦前の軍国主義を推し進めて行く上で、大きな役割を果たしたかもしれない。しかしその一方で、その種のイデオロギーから落ちこぼれていった、安岡や盧原などの「大日本帝国陸軍軍人のダメ息子」たちを救済する「逃げ場所」もその空間の中に抱え持っていたのである。


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