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プロローグ 招魂斎庭が駐車場に変わる時

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坪内祐三『靖国』
1999年1月30日発行 新潮社

プロローグ 招魂斎庭が駐車場に変わる時


  その案内板に気付いたのは今から六年前(プロローグとなるこの章を私が執筆したのは一九九五年夏のことであり 、この章に関して、私はあえて時制を変えていない)、ちょうど時代が昭和から平成へと変わったころ、私がある月刊誌の編集者をしていた時のことだ。※1995年は平成7年

  私の在籍していた月刊誌の編集室は、九段下と飯田橋のほぼ中間部分、その辺の地理に詳しい人にさらに説明するならばルーテル教会や東京大神宮のすぐ近く、にあった。東京の話題を中心に特集を作る雑誌であったし、拘束のゆるやかな編集部だったので、私はよく、仕事半分息抜き半分で、平日の昼問、東京散策に出かけた。

  その東京散策の一番身近かなコースが、九段下から坂(九段坂あるいは九段中坂)を登り靖国神社の境内を逍遥する、そういうコースだった。

  靖国神社はいつもすいている。特別の日を除いては人の姿にわずらわされない。だから、何か考えごとをしながら散策するには持ってこいだ。私のコースは決まっていた。大鳥居を抜け、大村益次郎の銅像を、その左手に持つ双眼鏡に注意しながら通過し、第二鳥居と神門をくぐる。参拝者ならそのまま直進するが、私はすぐに北側(右)に折れ、能楽堂にちらっと目をやり、さらに北に進むと遊就館の白い建物が目に入ってくる。遊就館が近づいて来たら、今度は西(左)に向う。そしてずんずん歩いて行くと靖国神社の最深部に突き当る。右手に相撲場、左手には神池と名付けられた池がある。池の傍にベンチが二つ。私は、この何のへんてつもない池が好きだった。よくこのベンチに座りながら池を眺めた。池には信じられないくらい大きな鯉がいた。

  その日も池に向って境内を歩いていた。池に行く途中、遊就館の西側に靖国会館という休憩所がある。さらにその西側には駐車場がある。別に何の不思議もない光景だ。

  駐車場の前に案内板が立っていた。いつも見過していた。

  強い気持ちも持たず、その案内板を目にし、そこに書き記されてあった言葉を追っていった私は、驚いた。案内板は「招魂斎庭跡」と題されていた。昭和六十年十二月二十五日、ちょうど今から十年前のクリスマスの日の日付けのある、その全文を以下に引用する。

  招魂斎庭は、

  神霊を本殿へ奉祀するに先立って、予め御魂を招き奉る斎場である。

  斎庭の設定は、明治七年八月、第二回の合祀祭にはじまり、その場所は概ね現社務所所在地にあたっていたが、同三十六年拝殿の南側に移し、同三十八年五月の臨時大祭からその地を斎庭とした。

  しかるにこの斎庭は、支那事変の勃発に伴い、規模狭小、参列者並びに合祀祭神遺族の激増により、種々支障を来たすようになったので、昭和十三年四月、此の地に斎庭を遷し、大東亜戦争中及び戦後合祀の際の斎場とした。

  その面積は七百坪(約二三〇〇平米)正面に鳥居を設け、庭内には清砂を敷きつめ、中央一段高い所に縦三間(約五・五米)横四間(約七・三米)の浄域を定め、招魂祭にあたっては、此所に黒木造りの仮殿が設けられた。

  斎場の鳥居、燈籠、標柱、植樹等一切は、東京市連合女子青年団員の奉納により、標柱の『招魂斎庭』は、第三代宮司賀茂百樹の揮毫によるものである。

 昭和二十年十一月二十日、この斎庭に天皇陛下の行幸を仰ぎ奉り当神社史上最大の臨時大招魂祭が斎行された。

  昭和六十年、右斎庭のうち浄域のみを縮小保存し、その大部分を駐車場として使用するにあたり、当神社史蹟の一環としてその変遷を記し、後世に伝えるものである。

  「招魂斎庭」という言葉を私は文字通り受け止めた。つまり死者たちの魂を招き寄せる庭であると。それが駐車場になっている。私は酷いと思った。まったく反射的に。

  あらためて強調しておきたいのだが、あとでまた述べるように、私はそれまで、靖国神社に、というか靖国神社的なものに、ほとんど興味を持たずに育ってきた。私の勤めていた編集室が仮に表参道にあったなら、私の散策コースは靖国神社でなく明治神宮であり、その案内板に出会うこともなかっただろう。

  問題意識を持たずに偶然それを目にしたから、かえって衝撃を受けたのだろうか。何万、何十万、いや何百万人もの戦死者たちの「御魂」が招き寄せられた庭が、土地の有効利用のため、駐車場となっている。それはきわめて戦後的な光景だ。

  ゲニウス・ロキ、「地霊」という言葉がある。その土地に宿る記憶のことだ。土地の経済効率を最優先し、再開発を繰り返し続ける戦後の都市東京の歴史は、個々の土地に対する記憶喪失の歴史でもある。特にそれが激しかったのは、この案内板が立てられてしばらくしたのち、いわゆるバブルのころである。バブル景気の「街殺し」と共に、私たちは、近代東京の、さらには近代日本の、歴史を知る手がかりのほとんどを失なっていった。

  誰もが気がつかない内に、招魂斎庭が駐車場へと変わっていた。しかも、少なくとも私の知るかぎり、進歩派(といわれた人びと)はもちろん、保守派(といわれた人びと)も、そのことを問題にしない。とても不思議な気がする。閣僚たちの公式参拝問題よりもずっと重要な問題だと思うのに。

  もっとも、この事実は、靖国神社の側にとっても、あまり触れられたくないことなのかもしれない。靖国神社の第二鳥居の手前北側に靖国神社境内の「略図」が掲げてある。この「略図」には、靖国会館の南西に招魂斎庭というスポットが表示されている。「略図」によれば、駐車場は会館の北東にある。招魂斎庭が駐車場になったのを知ったのち、この「略図」を目にした時、地図を見ることのあまり得意でない私は、一瞬、招魂斎庭が場所を別の所に移して健在なのかと誤解し、それを自分の目で確かめるべく境内の奥を歩いて行った。しかし、そこにあったのは、やはり駐車場だった。「略図」に表記されている駐車場は、元から(つまり昭和六十年十二月以前から)あった駐車場である。要するにこの「略図」は、単にルーズであるに過ぎないのかもしれないが、昭和六十年十二月二十五日以前の「略図」なのである。

  確かに、新しい駐車場の突き当たりには、かつての招魂斎庭の神座のなごりである鳥居が残されている。しかしそれ以外の部分はアスファルトで固められている。今でも日本が戦争に参加する可能性を(期待をこめて、あるいは断固反対の立場から)説く人たちがいる。彼らは、固められたそのアスファルトを打ち砕き、白砂がまかれ、再び招魂斎庭が機能するイメージを、ありありと思い浮かべることができるのだろうか。

  いずれにせよ、私は初めて、その駐車場を見た時、招魂斎庭が駐車場になったのを知った時、静かなる衝撃を受けた。私は、その衝撃の由って来たる源を知りたいと思った。昭和三十三年生まれの私にとってそれが個別的なことなのか、普遍的なことなのか。私より年下の世代にとっては何の感慨もわかないことなのか。私より年上の人たちにとって、その衝撃は、さらに大きいものなのか。それとも、その衝撃は、世代論では語れないものなのか。

  世代論、と書いたが、駐車場に変わった招魂斎庭に静かなる衝撃を受けた私は、また、こういう世代の人間でもある。

  昭和四十一年六月、私が小学校二年だった時、ビートルズが来日した。コンサート会場は、九段坂上を挟んで靖国神社と向き合う日本武道館。そのコンサートは今や伝説、一つの神話として後の世代にも語り継がれている。平成七年の今日にあっては外国人ミュージシャンの来日公演は、それがどんな大物であっても、珍しくも何ともないが、ビートルズの最初にして最後の来日公演は、彼らのファンはもちろん、それまで彼らに少しの興味も持っていなかった年輩者たちも含めて、日本中の話題となった。まさにビートルズは一種の黒船だった。彼らの来日と共に明らかに時代は変わっていった。

  ところで、そのビートルズという黒船が来日する際にちょっとした出来事が起きた。噂が生まれた。東京世田谷に住んでいた私も、その噂を誰かが口にするのを耳にした、ような気がするが、当時私はまだ八歳だったから、たぶん後から知った知識を同時代的記憶として誤まってインプットされているのだろう。その噂とは、右翼が彼らのコンサートを中止させるため、襲撃のチャンスをねらっている。それから、コンサートの主催者読売新聞の社主であり、日本武道館の創設者でもある正力松太郎が、彼らに伝統ある日本武道館の場所を貸しあたえることに難色を示している。この二つである。

  のちに竹中労の名作『ザ・ビートルズレポート』の復刻版(白夜書房・昭和五十七年)やビートルズ来日に関するテレビ・ドキュメンタリーを目にした私は、その噂が本当だったことを知った。しかし右翼や正力が、そこまでビートルズの武道館公演に反応したのは何故だったのだろう。『ザ・ビートルズレポート』によれば、「ビートルズというのは何者か。あんなものを武道館に入れるわけにはいかない」という正力発言がなされたのは昭和四十一年五月二十六日。その四日前のテレビ番組「時事放談」で評論家の細川隆元と小汀利得が、「エレキ・モンキーというものは騒々しいばかりで、人類進歩のジャマになる」、「そのようなものを貴重な外貨を使って呼ぶとは何事であるか。しかも天下の大新聞であり、公器である読売がそれを主催するのは、どういうわけか」と語っていたという。

  正力はそういう声に影響を受けたのだろうか。

  ここで一っの仮説を考えてみたい。今でこそビッグ・エッグや西武球場を始めとしてスタジアムでのコンサートは珍しくない。しかし当時の日本にあって、そのような前例はない。だがビートルズはその前年、ニューヨーク、シェイ・スタジアムでのコンサートを成功させている。その時のノウ・ハウをもとに、来日公演のコンサート会場が、やはり正力の持つ後楽園スタヂアムに予定されていたとしたら、正力は、「あんなものを後楽園スタヂアムに入れるわけにはいかない」と言い放つことがあっただろうか。右翼も、単に若者たちへの悪影響ということだけで、彼らを攻撃することが出来ただろうか。

  正力の、そして右翼の、ビートルズ来日公演批判は、逆説めくが、日本武道館という場所の磁場を有してこそ初めて説得力を持つのではないだろうか。先に私は「地霊」という言葉を使ったが、靖国神社と向かい合う牛ケ淵・田安門・日本武道館の「地霊」が、ビートルズという黒船によって汚されることを彼らは強く恐れたのではないか。

  もっともこれは、あくまで推測の域を出ない。なぜなら昭和三十三年生まれの私は、正力の言葉に、まったくとは言わないまでも、ほとんど感情移入することが出来ないから。だから正力が、かたくなにビートルズを拒んだ理由も、最終的にはわからない。

  ここまで書いて私は、日ごろ通い慣れている早稲田大学中央図書館に、『サンデー毎日』のバック・ナンバーを調べに行った。『ザ・ビートルズレポート』によると、正力の、ビートルズ武道館公演反対の発言は、同誌昭和四十一年六月十二日号でスクープされたという。「ペートルスというのは何者だ!」という、今読むと大爆笑もののタイトルのその記事を一読して私は、私の推測がほぼ正しかったことを知った。正力の発言部分だけをいくつか抜き書きしてみる。

  そもそも武道館はぼくが造ったようなものなんだ。日本古来の武道振興がぼくの念願で、あれができてからずっと会長をつとめている。……

  そりゃ宣伝にはなるし、読者をふやすためにはいいかもしれんが、武道館の精神に反するようなものは困るんだ。商売がヘタで損するかもしれんが、読売の正力という私情は別として、武道館会長としての筋を通したいんだよ。だから他の場所を捜せといってある。アメリカではヤンキース・スタジアムでやったんだから、後楽園球場でもいいし、なんなら読売ランドの谷間の音楽堂でやったっていいだろう。とにかく武道館ではやらせないということだけは明言しておくよ。

  警察官僚としての将来が約束されていながら、摂政宮裕仁(のちの昭和天皇)の暗殺未遂事件、いわゆる虎の門事件(大正十二年)の警備責任を取り、新聞ジャーナリズムに転身したのち、戦後はA級戦犯に問われることにもなった「タカ派」的正力がこう語るのは、ある意味で筋が通っている。しかし、政治的見解において正力とは対極にあると思える人物も、実は、これに近い感想を、ふともらしているのだ。

  明治四十二年生まれの作家大岡昇平である。三十歳を過ぎてから応召し、フィリピンのミンドロ島で数え切れないほどの死を目の当りにし、自身も何度か死線をさ迷い、戦争文学の傑作といわれる『俘虜記』や『野火』を生み山していった大岡は、晩年、雑誌『文学界』に連載された「成城日記」で、しばしば、靖国神社国家護持の法案化や閣僚たちの靖国神社公式参拝問題を強い口調で批判した。

  「成城日記」にも見られるように晩年まで旺盛な好奇心を失なうことのなかった大岡は、ビートルズが来日した時すでに五十七歳だったけれど、武道館公演に足を運び、「ビートルズとデモの間にて」と題して、その体験記を執筆している。

  武道館は敗戦間際に私が一兵卒として入営したもと近衛連隊の敷地、将校集会所の位置にある。その時は田安門を前線に送られる恐怖、旧軍隊の兵営生活の恐怖におののきながらくぐった。その櫓と石垣が、観光的照明で照し出され、もと陰気な将校集会所があった位置に、巨大な武道館のアンフィテアトルが建って、狂躁的音楽が流れ出している時世の変遷に、ちょっと感慨を催した。

  そして大岡は、この小文の終わり近くで、「武道館を使うことに右翼が騒いだという」と書いたあと、「この感覚に私はちょっぴり賛成である」と冗談めかして注釈をつけている。

  この正力や大岡の、こだわりや感慨は、昭和三十三年生まれの私に、わかるような気がするけれど、わかると書いてしまったら、それは、ウソになってしまう。

  私はビートルズの武道館公演を体験するには幼すぎたけれど、その後、数え切れないほどの外国人アーティストたちの武道館公演を見に行った。中学の時、級友がレッド・ツェッペリンの来日公演に行き、演奏が三時間以上にも及び、彼らが武道館のステージで火を焚き、消防車までが駆けつけたことを聞き、興奮した。私自身の武道館来日コンサート初体験は、一九七八年二月、私が二十歳になる年の、ボブ・ディランの来日公演だ。この時のディランの来日公演はライブ・レコーディングされ、のちに『アット・ブドーカン』というタイトルのもと二枚組で発売され、アメリカのヒットチャートでもかなり上位に上り、「ブドーカン」というコンサート・ホールの名は、いちやくアメリカの多くの人びとが知る所となった。ウソか本当かわからないけれど、アメリカのバンドやアーティストたちの間でも、「ブドーカン」でコンサートを行なうことは、一種のステイタスになったという。

  ボブ・ディランを皮切りに、私は、武道館で、様々な来日アーティストたちの公演を体験した。もちろん、何の違和感も感じずに。

  だが私がここで「違和感」という言葉を使うこと自体、私より若い世代の人たちにとって不思議に聞えるかもしれない。異様に思えるかもしれない。彼らが物心ついた時には、いや、物心つく前にすでに、武道館で外国人アーティストたちが、しかも一流のミュージシャンだけでなく、二流や時には三流の人たちまでもが、コンサートを開くのは少しも珍しい光景ではなくなっている。彼らにとって武道館は今や、ビッグ・エッグや代々木のオリンピックプールに比べてかなり収容人数の劣る、ただのコンサート・ホール、ハコにすぎない。人気アイドル・グループ、TOKIOがデビュー四十二日で武道館公演を行なうという最短記録を作ったと最近の週刊誌は伝えたが、それも、ごく一部の、彼らのファン以外の若者にとって、何の興味もない話である。

  武道館の持つ「地霊」は彼らにとって無に等しい。

  そういう彼らは、武道館と道を挟んだ向いにある靖国神社の招魂斎庭が駐車場に変わった姿を見て、その案内板を見て、何を思うだろうか。何も感じないのだろうか。

  正力松太郎の言葉に感情移入できず、武道館の外国人アーティストたちのコンサートに何の違和感も感じないで参加できる私は、しかし、その駐車場を目にした時、静かなる衝撃を受けた。

  再び述べれば、私は、その衝撃の由って来たる源を知りたいと思う。その感情は特殊なものなのだろうか普遍的なものなのだろうか。

  そのことを知るためには、靖国神社とその界隈が持つ土地の記憶を、単なるイデオロギーによる裁断を越えて、改めて掘り起して見ることが必要である。

  私はこれからその作業を始める。


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