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靖国の言い分、英霊たちの声(全文)

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「正論」2005年8月号
緊急インタビュー 

靖国の言い分、英霊たちの声(全文)

前靖国神社宮司 湯澤卓
聞き手 産経新聞論説委員 石川水穂
湯澤貞氏 昭和四年(一九二九年)栃木県生まれ。三十二年に国学院大学文学部宗教学科卒業後、明治神宮に奉職。五十四年に明治神宮彌宜。国学院大学文学部兼任講師、同神宮祭儀部長、総務部長兼役員室長などを歴任し、平成二年から靖国神社爾宜。責任役員・権宮司を経て九年、代表役員・宮司に就任。十六年九月に退任。日本会議代表委員なども務める。


記事全文
靖国神社の御神体は「刀」もしくは「太刀」であることを前宮司が語っている。

(「正論」2005年8月号 p48)


「A級戦犯」合祀の経緯


 石川 五月二十三日に中国の呉儀副首相が小泉純一郎首相との会談を直前にキャンセルして帰国したのをきっかけに、靖国神社問題が再燃しています。中国が会談キャンセルの理由を首相の靖国神社参拝だと表明したとたん、野党だけではなく自民党の政治家からも参拝批判の大合唱が起きました。いわゆる「A級戦犯」の分祀問題や国立追悼施設建設間題も一時は沈静化していたのに息を吹き返しました。まず、この一連の最近の騒ぎに対する率直な感想をお聞きしたいと思います。
 湯澤 中国の靖国神社参拝批判は、内政干渉、文化干渉の最たるものだと思っています。それに呼応して、まるで敵に塩を送るかのように、政界や経済界、マスコミが靖国神社の首相参拝に反対の声を上げている。その多くは、いわゆる(以下「いわゆる」を省略)「A級戦犯」として裁かれた経緯や合祀された経緯を詳しく知りもせず、またよく考えもしないで中国や韓国から批判されている現状だけを捉えて分祀しろと発言しているようです。
  靖国神社は、明治維新以来、国のために殉じた二百四十六万六千人余という大変な数の方々の慰霊をし、鎮魂をして将来にわたって静かな雰囲気でお祀りするのが謹(つと)めです。にもかかわらず外交カードにされてしまって静かな雰囲気どころではありません。政治家、あるいは財界の人たちには毅然として中国・韓国に対して塞言をしていただきたいと思っております。
 石川 「A級戦犯」とされる人たちが合祀された経緯を教えていただけますか。
 湯澤 戦没者の合祀はかつて、厚生省から、「祭神名票(さいしんめいひよう)」が送られてきた人たちについて行っていました。祭神名票とは、合祀者の身上が記された書類です。
  「A級戦犯」の人たちの祭神名票は、昭和四十一年に厚生省(当時)から送られてきています。神社は重要な問題については崇敬者総代会に諮って決めており、当時の筑波藤麿宮司は何度も総代会に諮り、合祀を決定していました。四十五年の総代会でも、「A級戦犯だけ合祀しないのは極東裁判(東京裁判)を認めたことになる。戦争責任者として合祀しないのならば、決定をした神社の責任が重くなる」という意見もあって合祀は了承していましたが、靖国神社国家護持法案の問題もあって時期を見ることになりました。法案は自民党から五回提出されたものの四十九年には最終的に廃案になり、改めて第六代松平永芳宮司が五十三年十月に総代会に諮って再度了承を得て、合祀祭(霊璽奉安祭)を行いました。
 石川 なぜ靖国法案のために一旦は見送りになったのでしよう。
 湯澤 法案に反対する勢力に口実を与えてしまうという配慮だったようです。法案は昭和三十年代から計画されましたが、四十四年にようやく国会に初提出されました。総代会に合祀が諮られたのは、その直後です。法案成立の可能性がなくなったことで、逆に「A級戦犯」合祀の環境が整ったわけです。
 石川 靖国神杜が勝手に「A級戦犯」を合祀したと思い込んでいる人もいるようですが、間違いですね。
 湯澤 祭神名票は、「どなたを合祀しますか」という靖国神社の照会に応じて国から送られてきます。靖国神社の前身である東京招魂杜が創建された明治二年の第一回合祀祭以来の手続きです。戦前は陸・海軍省から、戦後は第一・第二復員省、そして、厚生省から祭神名票が送られてきました。
  しかし戦没者の数があまりにも膨大で合祀がなかなか進まなかったため、昭和三十一年には、厚生省引揚援護局が「靖国神社合祀事務協力について」という通知を都道府県に出します。通知は、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下遺族援護法)と恩給法の適用を受ける戦没者を合祀の候補者とするという基準を設け、都道府県が合祀者を選考して祭神名票を記入、厚生省が取りまとめて神杜に送るという手続きを定めたものでした。


国民合意の政府見解は変わったのか


 石川 「B・C級戦犯」として刑死した、あるいは拘留中に死亡した人たちの合祀はいつから行われたのですか。
 湯澤 昭和二十七年四月のサンフランシスコ講和条約発効後、「戦犯」の名誉回復を求める声が高まります。二十七年十二月から三十年の間に五回にわたり、拘留中の「戦犯」の人たちの赦免・釈放を求める国会決議がなされました。二十八年には遺族援護法が改正され、「戦犯」として亡くなった方、法律で言うところの「法務死」「公務死」された人たちの御遺族にも遺族年金と弔慰金が支給されることになりました。二十九年と三十年には恩給法も改正され、恩給も支給されるようになりました。しかも有期受刑者の場合、その刑期も軍隊に勤めたものとして通算するという内容です。通常の公務員恩給なら三年以上の懲役・禁固刑を受けるだけで受給停止になります。それが逆に受刑期間までも働いた期間に加えられるわけですから、国内では法的にも「戦犯」「戦争犯罪者」という犯罪者はいないということを前提としていたわけです。
  二十八年八月の遺族援護法改正の際には、右派社会党の堤ツルヨさんという女性代議士が、衆院厚生委員会で、「国家の補償を留守家族(遺族)は受け取れない。しかもその英霊は靖国神社の中にさえ入れてもらえないことを遺族達は大変嘆いておられます」と訴え、全会一致で承認されています。そして拘留者についてはその後サンフランシスコ講和条約十一条に基づいて、日本が関係国に釈放要請活動を進め、主権回復時で一千百人余いた拘留者は三士二年までに全員が釈放されました。
  こうした経緯を経て、「B・C級戦犯」も遺族援護法、恩給法の適用対象となって死没者が合祀対象となり、翌三十四年三月十日、厚生省引揚援護局長名の通知「日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)第11条関係合祀者祭神名票送付について」で靖国神社に送付された祭神名票で最初の「戦犯」が合祀されます。「A級戦犯」の祭神名票送付もその延長です。
 石川 赦免決議によって、国民は法的にも道義的にも、「A級」も含めて「戦犯」とされた人たちを許したわけですよね。
 湯澤 そうですね。昭和二十七年四月の主権回復後に行われた「戦犯」釈放を求める署名運動では、四千万人分の賛同が集まっています。当時の人口を考えると、子供も含めた全国民の過半数が署名をしたということです。戦争は国を挙げてやったのだという認識をみんなが持っていました。
  私は終戦当時、旧制中学の生徒でしたけれども、次は自分たちが戦争へ行くんだと考えていました。今でも同期会があると、もう少し戦争が続いていれば我々も靖国神社へ行っていたなと話すものです。当時は全国民が、一部には反対の人もいたかもしれませんけれども、この戦争は国の存亡のための止むにやまれぬものであり、欧米列強に支配されたアジアを解放するため、また国のために命を捧げると考えていた。
  ですから、いまになって戦争に反対だとか、一部の指導者が悪かったというのはあまりに不見識でしょう。散華された英霊の方々への冒漬でもあると考えます。
 石川 森岡正宏厚生労働政務官が五月二十六日の自民党代議士会で、「A級戦犯の遺族に年金をもらっていただいている。国内では罪人ではない」と発言して野党や一部マスコミ、さらには中国から批判の集中砲火を浴びました。
 湯澤 森岡政務官の発言はまったく正しいのです。講和条約締結後の昭和二十六年十一月十三日の参院法務委員会で、大橋武夫法務総裁(現在の法務大臣)は「(戦犯は)国内法におきましては、あくまで犯罪者ではない。従って国内法の適用におきまして、これを犯罪者と扱うことは、如何なる意味においても適当でない」と答弁しています。森岡発言について細田博之官房長官は「政府の見解と大いに異なる」と批判しましたが、細田長官は過去の政府見解を否定したことになります。
 石川 靖国神杜が独自の判断で合祀者を選んだことはなく、「A級戦犯」の人たちも国から祭神名票が送られてきて合祀された。それをいまになって神社に分祀せよというのも無茶な話です。「A級戦犯」の人たちは「犯罪人」ではなく援護法や恩給法の適用対象とされていて、国の援護行政の一環として合祀された。国の見解がいつ変わったのか。分祀論者、あるいは森岡発言を批判した人たちには説明して頂きたいですね。
 湯澤 しかも合祀された「A級戦犯」の十四人の方々は絞首刑で罪を償い、あるいは獄中で非業の最期を遂げられているわけですから、それ以上間題にする必要はないわけですよ。これは「死者に鞭打たず」という日本人の死生観にまつわる問題でもあり、中国の批判は内政干渉以上に重大な文化干渉です。


一年かけて御祭神となる御霊 ★


 石川 合祀祭について教えてください。
 湯澤 御祭神が多かったときは春秋二回行われていましたが、現在は秋だけです。合祀祭は臨時大祭と呼ばれ、例大祭とは別のものですが、例大祭の前夜に行われて、例大祭でも「合祀をいたしましたので、お供えした神饌(しんせん)をご一緒に召し上がっていただきたい」という趣旨の祝詞を奏上しますから、例大祭と組になっているという理解もできると思います。
  合祀祭は夜行われる厳粛なお祭りです。警蹕(けいひつ)の「おお!」という声が響くなか、合祀する御霊(みたま)を戴いた霊璽簿を、相殿という本殿の左側から宮司以下上職神職五、六人が丁重に手渡しで本殿中央に移します。靖国神社の御神体は御太刀で、この合祀祭の時に霊璽簿に戴いている御霊がこの御神体に移り御霊から神霊になります。少々簡単に申しますと魂が神になるわけです。

  普通のお社なら拝殿と本殿だけですけれども、靖国に限ってはさらに霊璽簿奉安殿があります。これは靖国神社御創立百周年を記念して建てられたもので、本来本殿に奉安すべき霊璽簿が大部数になったためここに収められています。霊璽簿は当初巻物でしたが、御祭神の数が増えたため簿冊の形になりました。いまこの霊璽簿奉安殿には明治二年以来の御祭神の名前が奉安されていますが、宮司といえども前日より参籠し、特別な潔斎をした時だけしか入ることができません。
  霊璽簿は一年間、本殿の中に置いておきます。靖国神社の御神体は刀で、一年間本殿でお祀りしている間に御霊がこの御神体に移ります。ですから合祀祭で本殿に持ってきた簿冊には御霊がついているわけですけれども、一年経つともうそれは空(から)になっていて霊璽簿奉安殿に戻しますが、御霊は本殿に残るわけです。

 石川 「A級戦犯」分祀論に対して、靖国神社も神社本庁も、神道の祭儀上、一部政治家がいうような分祀はできないという見解を出していますね。
 湯澤 これは櫻井勝之進・元神杜本庁総長が考え出された説明ですが、蝋燭の火を別の蝋燭に移しても、元の蝋燭の火は消えませんね。それをイメージしてもらえれば分かりやすいのでしょうか。
  分祀は分霊、御霊分けとも言い、これ自体は昔から行われています。たとえば日光東照宮は徳川家康公を祀っていますが、家康公は他の各地にお祀りされています。御霊を分けて祀っているわけですが、どれだけ分けても本社では大きな蝋燭で火が燃え続けているわけです。
 石川 特定の御霊を取り外すという意味での分祀はできないということですね。
 湯澤 ええ。たとえ分祀をしても、二百四十六万余の御霊のすべてを分祀するということになりますし、靖国神社からなくなるものでもありません。
 石川 二百四十六万柱の御霊は、各道府県の護国神社にも県出身の神霊として祀られているのですか。
 湯澤 ほとんどは各地の護国神社が独自にお祀りしています。沖縄県の護国神社に限っては、県出身者と沖縄戦線で亡くなった全国の英霊を祀っています。
 石川 それぞれの家庭の神棚にも祀られていますよね。
 湯澤 私の父の兄は子供を授からず、迎えた養子は戦死いたしました。伯父夫婦が亡くなったあとは私が引き継いで祀っていますが、戦没者には子孫を残さずに亡くなった若い人も多いわけですし、祭祀をしてくれる人がいる家ばかりではありません。しかし、靖国神社に合祀されていれば、未来永劫、慰霊をして戴けると考えている御遺族も多いと思います。
 石川 靖国神社、護国神社が担っている大きな役割ですね。国のために戦って亡くなったのだから、本来は国が責任を持って祀らないといけないのでしょうけれども。


「約束」の参拝に来なかった橋本元首相


 石川 平成十三年から十六年までの過去四回の小泉首相の靖国神社参拝には、湯澤さんが宮司として立ち会われました。
 湯澤 いろいろな紆余曲折はあっても、小泉首相が毎年お参りをされたことには敬意を表したいと思います。中曽根康弘元首相は昭和六十年に参拝しましたが、中国の政治状況に配慮するという理由で、首相としての公式参拝はその一回でやめてしまわれた。そして、その後長く首相参拝は途絶えてしまい、ようやく平成八年七月二十九日、橋本龍太郎元首相がご自分の誕生日に参拝されました。実は橋本元首相はその際、秋の従兄弟が戦死した日にも参拝するとおっしゃったのですが、結局は実現せず、その一回だけでした。靖国神社を崇敬される方のなかには、小泉首相が最初に参拝された際、当初は八月十五日にと言いながら十三日に前倒ししたことを批判する声もありますが、公約通り毎年参拝を続けていることは他の首相に比べれば大いに評価できると重います。
 石川 小泉首相の参拝形式は、二礼二拍手一拝のときもあれば、一拝だけのときもあったといわれています。
 湯澤 その時は、われわれの目が届かないものですから、先導した者だけにしかわからないのですけども、一拝だけでも構いません。原則はお出でいただいたら手水を使って御祓いを受けいただくということだけで、お参りの形式は問いません。拝殿で僧侶が法衣で読経をされることもあります。その上最後には本殿で玉串を上げて神式の参拝をして戴くのです。
  松平元宮司は、手は自宅で洗ってきても構わないとも言っていましたが、神聖な場所であるから身を清めて頂きたいということです。
 石川 中曽根元首相が昭和六十年に参拝した際には手水を使わなかったんですよね。
 湯澤 ええ。御祓いは神杜が陰祓いをしたようです。
 石川 昨年三月、その中曽根元首相の意向を受けた島村宣伸衆院議員(現農水相)から「A級戦犯」分祀を打診されていますね。
 湯澤 島村農水相から会いたいという電話が何回かありましてね。
 石川 「『A級戦犯』分祀の件で会いたい」と。
 湯澤 いえ、それは言っていませんでした。しかし、恐らくそうだろうと考えて、私一人だけではなく両権宮司と三人でお会いしました。
  中曽根元首相がその頃、「昭和六十年の参拝で中国から批判を浴びた際にも分祀を求めたが(松平)宮司が頭が固くてできなかった、今は大丈夫だ」という趣旨の発言をしているのを聞いていましたので、島村議員には、「頭が軟らかいとか固いということに限らず、靖国神社では分祀はできない」と説明いたしました。
  また偶然、その前日のテレビで、落語家でタレントの鶴瓶さんと一緒に中曽根さんがあちこち歩いていろいろな話をするという番組が放送されたのを観ていたこともあり、「(分祀のように)できないことに圧力をかけるよりも、世界各国の元首クラスの要人とも気軽にお話ができるのだから、日本の伝統文化を説明されて、靖国神社参拝にとやかく干渉しないように、少なくとも中国や韓国の要人に進言してもらいたい。国家のために最後の政治生命をかけて是非やって欲しいと、中曽根さんにお伝えください」と申しました。中曽根元首相の現在の発言を聞くと、まったく伝わっていないようですが(笑い)。
 石川 島村農水相自身は靖国神杜を大事にする人ですよね。
 湯澤 ええ。「まあ、無理でしょうけども」という言い方でしたね。


皇室のお心は


 石川 昨年九月に退任された湯澤さんの後継、第九代南部利昭宮司が選ばれた経緯を教えてください。
 湯澤 いつの日か天皇陛下に御親拝いただきたいという皆様の希望を考慮して、宮家に関係のある方に御勤めいただきたいという結論になり、南部さんに白羽の矢が立ちました。
  南部さんは常陸宮殿下と学習院の同級生だそうで皇室と御縁が深くなったような気がいたします。南部さんは神職の経験がなく、当初は返事を保留されたようでした。しかしあるとき、学習院の同窓会で天皇、皇后両陛下から「靖国神社をよろしく」と言われて、「これは引き受けるほかはない」と決断したとおっしゃっていましたね。
  宮司選びに携わった久邇邦昭・霞会館理事長(神社本庁統理)が陛下に南部さんのことを申し上げていたのだと思います。
 石川 陛下が直接、南部さんにお言葉をかけられたということですね。
 湯澤 そうです。私どもの就退任のときには御所をはじめ各宮家に記帳に参ります。ただ名前を書いて帰ってくるだけですけれども、南部さんと一緒に参りました秋篠宮家では、秋篠宮、同妃両殿下が立っておられて驚きました。南部さんが宮司になったということに御心遣いを頂いたのだと思います。
 石川 朝日新聞は、平成十三年の終戦記念日に、昭和天皇が御親拝を中止されたのはA級戦犯が合祀されたのが理由であるという記事を掲載しました。《元侍従長の徳川義寛氏(故人)の手元に、A級戦犯合祀について昭和天皇の思いが率直に表現された未公表の歌が残されている》ことがその根拠となっていますが、この「幻の御製」は確認されていません。にもかかわらず、「A級戦犯合祀が理由で天皇陛下は参拝されない」という説が、これ以降一人歩きします。朝日新聞杜の月刊誌『論座』の今年二月号では、この説に基づいた
論文「小泉首相の倫理的資格を問う」を掲載しました。著書が元防衛庁防衛研究所研究部長で、《保守派が批判》と大々的に銘打っていました。果たしてこの筆者が保守派かどうか、議論が分かれるとは思いますが(笑い)。
  また、靖国神社を否定する立場で書かれて現在三十万部を超すベストセラーになっている『靖国問題』(高橋哲哉著)でも、「いま仮に、A級戦犯が分祀されたとしてみよう。そのとき何が起こるだろうか。…A級戦犯合祀が公になってから今日まで途絶えている天皇の『御親拝』が復活するLと書かれています。
 湯澤 戦前、御祭神は陸海軍省が選定し、勅裁を経て決定していました。その手順は戦後も引き継がれ、合祀に当たっては、合祀者を記した「上奏簿」を宮内庁に提出しています。「A級戦犯」合祀の際も提出されていて、皇室は合祀を御承知だった。それでも、「A級戦犯」が合祀された昭和五十三年十月の例大祭に勅使が来られています。
 石川 勅使は例大祭のときにお出でになるんですね。
 湯澤 春秋の年二回です。伊勢神宮が年三回。勅祭社の中で唯一の別格官幣社である靖国神社が年二回で、それ以外の勅祭杜は年一回。中には七年に一度、十年に一度という神社もあります。
 石川 皇室は、「A級戦犯」合祀を経ても変わらず靖国神社を伊勢神宮の次に大切にしているということですね。
 湯澤 ええ。やはり朝日新聞の記事は理解に苦しみます。そういう記事を掲載するのなら、その「幻の御製」を実際に示してもらわないと混乱を招くだけでしょう。
 石川 今上陛下が護国神社に参拝されるに当たり、宮内庁は「A級戦犯」が祀られていないことを事前に確認しています。しかし、それは陛下のお気持ちではなく、宮内庁の意向だと思いますが。
 湯澤 そうですね。皇居の勤労奉仕に行った靖国神社や護国神社の若手の神職に、陛下は御霊の祀りをよろしく頼むという御言葉を賜るそうです。ですから靖国神社としても、事ある毎に宮内庁に御親拝のお願いはしているんですが、正式な回答はありません。
 石川 数年前に靖国神社崇敬奉賛会の山内豊秋会長が宮内庁に陛下の御親拝をお願いしたところ、「首相の公式参拝が可能になれば検討する」という返事だったと聞いています。陛下は靖国神社のことは大事に思っていらっしゃるから、環境が整えば御親拝が復活すると思います。
 湯澤 そう願っています。


英霊の言葉


 石川 湯澤さんは宮司時代、いくつか大変なお仕事をなされました。ひとつは、遊就館の大改修です。
 湯澤 御創立百三十年(平成十一年)の記念事業です。非常に自虐的な偏向した歴史観が広まってしまった中で、近現代における日本の真実の姿を、靖国神社を訪れる子供たちにも理解してもらえるような施設をつくるべきだということになり、防衛庁の戦史研究室OBの御指導と、正史を研究している識者の監修のもとで展示を企画いたしました。「真実の姿」を端的に言えば、「近代国家成立の為、我国の自存自衛の為、さらに世界的に視れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった戦いがあっ
た」ということです。
  繰り返しになりますが、先の戦争を、国民の大多数はそう信じて戦い、多くの方が亡くなったのです。これは私にとって印象深い特攻隊員の辞世です。

「いざさらば/我は御国の/山桜
    母の身元に/かへり咲かなむ」

  昭和二十年三月二十一日、二十二歳で戦死された熊本県の緒方襄・海軍少佐(第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊桜花隊)が詠まれた歌です。緒方少佐はこれを、部隊まで見舞いに来た母、三和代さんのカバンに忍ばせました。三和代さんの歌も残っています。

「散る花の/いさぎよきをば/めでつつも
    母の心は/悲しかりけり」

  どうやっても断ち切り難い母への想いを抱いたまま、国の為に命をなげうとうとする緒方少佐の心情。また涙に濡れながらも我が子の心情を健気にも思いやって「いさぎよさを愛
でてあげよう」とする三和子さんの複雑な胸中。簡素な言葉遣いから、二人の思いの強さが伝わってきます。
  六月二十日に行われた日韓首脳会談で、盧武鉉大統領は国立追悼施設の建設を小泉首相に迫りました。その国立追悼施設のコンセプトは、「何人もわだかまりなく追悼・平和祈念
を行うことが可能となる」(「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」報告書)です。歴史や過去の「多様な解釈」を保障するためということですが、母を守
るためにこそ母と死別せざるを得なかった緒方少佐を追悼するのに、歴史の「多様な解釈」は必要でしょうか。もし韓国の要求を受け入れて追悼施設を建設すれば、国自らが、亡く
なった方々の思いを冒漬することになると思います。
  おかげさまで来館する子供たちは増えています。修学旅行で東京を訪れる中学校はほとんどがグループ行動で、これまではそのうちの一グループが靖国神杜へ来るというんですけ
ども、最近は全員が靖国神社へ来るという学校が出てきて、うれしく思っています。見学後に「自分たちの学校で習った近現代史と全然違う。もう一回本当に勉強したい」と感想を書いた子供さんもいました。
 石川 特攻隊員の遺書や遺影など生きた教材が並んでいますから。
 湯澤 祭神名票もデータベース化しました。神杜では祭神名票を出身県別に管理していますが、なにしろ二百四十六万柱という大変な数です。例えば東京都の方の名票を調べて、戻す際に誤って神奈川県のところに入れたりすると、もう分からなくなります。御遺族から依頼された調査に一カ月もニカ月もかかることもありました。名票の紙質もインクも粗悪で、近い将来劣化して判読不能になる恐れもありましたんですね。
 石川 現在ではコンピューターですぐに特定の方の名票が出てくる。
 湯澤 申請してからお参りして頂き、お帰りになるときにはお渡しできます。終戦から六十年という長い時間が経ち、戦友や御遺族も大変高齢化したなかで、近親者が亡くなっていて当時のことが分からない、覚えていないという方も多くなりました。階級や戦死された場所といったデータも分かるようになっていて、大変喜んでくださいます。


国立追悼施設は要らない


 石川 外国の要人もたくさん参拝されていますね。武官が大半ですが、湯澤さんが宮司になられた平成九年以降では毎年十人から二十人が訪問しています。これだけ外国の要人や武官が参拝しているわけですから、靖国神社では外国要人が参拝できないから無宗教の国立追悼施設を新たに造れという公明党や社民党の主張は間違っていますね。最近では読売新聞も社説(六月四日付)で国立追悼施設建設論を言い出しましたけれども。
 湯澤 前宮司の時でしたが、平成八年十一月に旧朝鮮王朝王子李玖氏に参拝いただいた際にも御案内しました。
  ただ、残念な噂も聞きます。外国の在日大使館から「明日お参りしたい」と要人参拝の連絡があるのですが、当日になると都合が悪くなったと断りが入ることが何回かありまし
た。真偽のほどは分かりませんが、外務省が「靖国神社参拝は遠慮していただきたい」と"圧力"をかけているというのです。
 石川 平成十四年にアメリカのブツシュ大統領が来日した際も、大統領自身は靖国神社に参拝したかったのに外務省が中国に配慮して明治神宮に変更されたという話もありますね。
 湯澤 そうですね。明治神宮では、大統領が参拝している間、小泉首相は車内で待っていました。
  やはり中国のクレームに対して腰が引けているのでしょうか。政治家も財界も政府の官僚もマスコミも、中国や韓国の言い分の代弁者と化している人たちが多く、国民感情を引き
裂いているようにすら感じます。現実にはあり得ませんが、「A級戦犯」を分祀したとしても、中国の対日批判が全てなくなることにはなりませんでしょう。
 石川 次は「B・C級戦犯」の分祀を言ってきますよ。南京の「百人斬り」で処刑されたのは冤罪だったとして、御遺族が朝日新聞や本多勝一氏らを名誉毀損で訴えている野田毅少尉と向井敏明少尉も靖国神社に祀られていますよね。
 湯澤 ええ。
 石川 旧日本軍が非戦闘員三十万人を殺害したなどという「南京大虐殺」を中国は反日プロパガンダの最大の材料にしようとしています。当時の南京市民よりも多い「三十万人」という数字はさすがに日本では信じる人は少なくなりましたが、その数字を掲げた「南京大虐殺記念館」をユネスコの世界遺産に登録しようと計画しています。中国にとって「百人斬り」は、「大虐殺」の象徴であり、黙ってはいないと思います。
 湯澤 事実ならまだしも、「南京大虐殺」のような虚偽宣伝を繰り広げる中国の言い分になぜ毅然と反論できないのでしょうか。あの時代、そして戦没者たちを直接知り、靖国神社や英霊を熱心にお護りしてきた御遺族や戦友は高齢化して元気な方は残り少なくなりました。このままでは英霊の方々にやすまっていただけなくなるのではないか。そんな危倶を抱いております。

(以上)

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