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靖國神社考(3)

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靖國神社考(3)



靖國神社考14・天皇行幸

投稿者:備中處士 投稿日:11月15日(水)21時16分36秒

●昭和天皇御製


「靖國神社九十年祭」昭和三十四年
  ここのそぢ へたる宮居の 神がみの 國にささげし いさををぞおもふ

「靖國神社百年祭」昭和四十四年
  國のため いのちささげし ひとびとを まつれる宮は ももとせへたり

「八月十五日」昭和六十一年
  この年の この日にもまた 靖國の みやしろのことに うれひはふかし

「全國戰沒者追悼式・八月十五日」昭和六十三年
  やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど

●『増補・皇室事典』

(井原頼明翁著・昭和十七年四月版・冨山房刊。宮内大臣松平恆雄氏の題字・宮内次官白根松介男の序・蘇峰徳富猪一郎正敬大人の紹介あり。井原翁は、今泉定助大人の弟子)「別格官幣社・靖國神社」に曰く、

「 祭神=明治維新前後以降、殉國の英靈

 嘉永六年以來、維新前後、王事に盡瘁して命を隕した勤王烈士を始め、日清・日露・日獨等の戰役、濟南・滿洲・上海・支那事變に至る忠勇義烈の神靈を合祀される。陸海軍將兵はもとより、苟も帝國臣民にして國家に殉じた神靈は、男女の區別なく、また階級の差別なく網羅され、永く護國の神として仰がれるのである。

 皇室の御崇敬、大方ならず、明治天皇には、明治七年一月二十七日、初の行幸に、「わかくにの ためをつくせる 人々の 名をむさしのに とむる玉かき」と、御製を賜うた。別格官幣社に列せられ、靖國神社の社號を賜はつたのは、同十二年のことである。神靈合祀のときは、特に勅使を御差遣、嚴かなる祭典を執行せられ、また毎年二囘の例祭(春四月三十日・秋十月二十三日)には、勅使を立てさせられる。行幸啓を辱うして、御親拜・御直拜を賜はること、實に數十囘に及び、御代拜、皇族各殿下の御參拜は枚擧するに遑がない」と。

 愚案、件にもあるが如く、天照大御神の皇孫たる天皇陛下が、臣民である所の神靈もしくは人靈に、「參拜」されることは、時勢、已むを得ざる言葉遣ひとは申せ、本末轉倒、斷じてあり得ない。陛下の「御親拜(御みづから拜させたまふ)」は、洵に畏れ多く、御親拜(嚴密には御拜)されるのは、宇内唯一、伊勢の神宮(内宮)のみ。其の外の神社へは、「御拜を賜ふ」・「御親拜を賜ふ」・「御直拜を賜ふ」のである。御拜を賜ふ、勅使の參向(勅使は御手代に他ならず、蓋し「(御)下向」の方が宜しからむ)を賜ふのは英靈の方であり、洵に畏れ多く、有り難い事と謂はねばならぬ。天皇陛下ましゝゝての皇國日本であり、亦た靖國神社である。

 なほ勅祭社の中に於て、唯一の別格官幣社・靖國神社に對し、勅使は春秋の例大祭の二囘、之を仰ぎ奉る。因みに伊勢の神宮が年三囘、其の外の勅祭社は年一囘、中には七年ないし十年に一囘の由。


靖國神社考15・幽顯一貫の冥福

投稿者:備中處士 投稿日:11月16日(木)18時31分12秒

磐山友清歡眞大人『靈の世界觀』(昭和十六年十月刊)に曰く、


「 人間の普通の意味における「死」といふものはないのである。私は「死は神變なり」と言うて居るが、つまり生活の環境に對する「むすび」(産靈・結靈)の變化に過ぎないのである。だから死を怖れるとか、死を悲しむとかいふのは意味をなさぬのである。もつともこれは本來のありさまについていふのであつて、人情としては、死は悼み、悲しむのが當然である。人情を無視した神道なるものはない。親しきものに對する所謂死別の悲痛な感情は、尤も千萬のことで、それを嘲る理由は毛頭ない。まことにこれほど同情すべき事件はない。どんな修養のできた人でも、親しきものに對して、所謂死別の悲嘆を感じないものあらば、其れは神姦であり妖怪である。けれども、本來のありさまから申せば、死とは只だ神變のみであり、冬から春になつて綿入をぬぐ位ゐのことである。それにつけても、「善きむすび」こそ望ましいことである。「善きむすび」によつて、より良き環境へと進みたいものであり、それが幽顯一貫の生活の眞意義である。「善きむすび」には、内的なものと外的なものがある。内的なものとは、つまり善い心がけや善い行ひである。外的なものとは、種々の因縁である。

 わたくしは茲においてか、いつも思ふのであるが、靖國神社に合祀せられた御方の遺族の方々の認識や信念についてである。それが無上の光榮であることは、國民一統、みなよく拜感して居るところであるが、これは單に光榮の儀禮に浴せられたといふだけのことではないのであつて、天照大御神の人間世界における顯現であらせられる天皇陛下の大御心にもとづいて、神と齋ひまつられるといふことは、死後の實際生活の上に、これほど幸福なむすびはないのであつて、單に光榮の儀禮に浴せられたと申す位ゐのことでないのである。‥‥

 善惡と禍福との關係についても‥‥、平田篤胤翁が『古史傳』で力説した居られるところから、私の考へは一歩も進んで居らぬ。要するに正しい立派な道徳的な家庭でも、いろゝゝの災害のやうなものがつゞいたり、あまり感心いたしかねる人が、順境で萬事好調といふやうな例は極めて多いが、それは此の人間世界だけを眺めての話で、お互ひの生命は、誰でも無量壽であり、天神地祇の攝理に寸分の狂ひも記帳洩れもないことを斷言しておく。神界の實相と死後の生活の模樣を知り、その萬古不動の信念で、本當の徹底した御奉公も、一層の輝きを生じてくるのである。

 愚案、靖國神社の御祭神は、貴賤上下の差別なく、大臣大將と雖も、戰陣に殉じなければ、合祀の對象となり得ず、一兵卒と雖も、國難に殉じた者は、必ず祀られてゐる。
 飜つて惟ふに、正神界の御經綸に據りて、天皇陛下の大御心のまにゝゝ、神ながら、此の現世地上に靖國神社が應現したのである。神に祀られるか、祀られざるかは、遂に人間の業に非ず、一に天神地祇の攝理に因るのである。其のむすびに「寸分の狂ひも記帳洩れ」も、絶對に無い。何もかも、神ながら、どうすることもいらぬ。疑ふこと勿れ。


靖國神社考16・御門の御位は、いともかしこし

投稿者:備中處士 投稿日:11月16日(木)18時34分35秒

勅使河原大鳳翁『「異境備忘録」釋義・幽神界研究』

(平成十四年十月・山雅房刊)に曰く、

「 日本天皇は、各神社より位が上である。天皇をはじめとし、皇族やその代理の神拜方式は、一般人の參拜所作とは、全く異なる。

 今上陛下が皇太子のころに外遊したことがある。その歸朝報告の儀として、名代(使者)が伊勢神宮に詣でた時、たまゝゝ私(大鳳翁)は外宮參拜の途中だつた。衞視の注意で參道わきに控へ、私は外宮の御饌殿に神拜をさゝげる使者の一行を目にする光榮に浴した。お使ひの人の參拜を見て驚く。人間界の方式では無く、神界の玉串奉奠の禮式だつたからである。私の同行者は未熟で、つい、短見を口にした。

 『間違つた作法ではないか。宮内廳の人間が、あれでは困るなあ‥』と。

 『皇室には、皇室の方式があるんだ。みだらな事は言ふなよ』とたしなめたが、承知しない。數年後、その男は、玄道(神道)修行から脱落した。

 具體的な作法を公表することは出來ないが、皇室の神拜方式は、神界の正式作法で行はれる。それには少なくても二とほりある。①内宮に對しては、天皇が下位である。②一方、外宮の祭神に對しては、天皇が上位にある。この時は②の、上位の天皇が、下位の神に參拜する所作だつた。天皇や皇族方は、現界の神社より上位に在ると云ふ、何よりの證明である。但し神宮では、皇室の參拜方式は、内宮・外宮とも同一と説明してゐる。祕儀をやたらに漏らさないと云ふ配慮からか、或は末端の神職は知らないかの、いづれかであらう。天皇や皇族が、現界で下位になるのは、唯一、伊勢の大宮(内宮)だけである。外宮を含めた他の社には、上位の立場にて親拜される」と。

 愚案、「御門(みかど)の御位は、いともかしこし。竹の園生の末葉まで、人間の種ならぬぞ、やんごとなき」(『徒然草』第一段)とは、徒らなる言葉、空理虚論では無いのである。

 一口に「御拜」と申しても、天皇陛下が、天下統御の淵源である所の、皇祖に坐す天照皇大御神を(皇上陛下よりも上位)を拜し奉る「御拜」、と、天皇陛下が、皇祖の勅命翼贊を奉行する所の、下位の神明・英靈を拜する「御拜を賜ふ」御作法あるを、先づは御承知いたゞきたいものである。

【「御參拜」と「御會釋」】

●永積寅彦・掌典長『八十年間お側に仕へて・昭和天皇と私』

(學習研究社・昭和五十七年二月刊)に據れば、宮中に於る祭祀は、鎭魂祭(八枚手=やひらで・八度拍手)以外は拍手は無く、御拜のみの由。亦た曰く、

「 (昭和天皇の)神社御參拜の時などのご樣子をお後ろから拜見してをりますと、いつも非常にご丁寧に、本當に目の前に神樣がいらつしやる、その神樣に對する御拜禮のご態度であると感じてをりました。‥‥

 宮内廳では、お玉串を捧げて御拜禮になるのを「御參拜」と申し、お玉串のない場合を「御會釋」と、昔から申してをりますので、言葉の響きは大變違ひますが、先帝さまはじめ、皇族方皆さま、このやうにあそばしておいでです」と。

 愚案、「天皇樣のご親拜のご作法は、手水をお使ひになり、祓ひをお受けになり、それから本殿にお進みになつて、大きな玉串をおもちになつて、敬虔な祈りをお捧げになる」(松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』)と仄聞する。然らば天皇陛下の行幸を忝ふする所の靖國神社は、大内山に於る「御參拜」の御形式に相當し、思ふだに、實に畏き極みである。


靖國神社考17・所謂保守政治家・評論家への疑念

投稿者:備中處士 投稿日:11月16日(木)18時37分56秒

●小堀桂一郎・渡部昇一兩氏編『決定版・全論點・新世紀の靖國神社』

(平成十七年十月・近代出版社刊)所收の藤波孝生・元内閣官房長官「インタビユー・中曾根政權を支へた元官房長官が明かす靖國參拜の舞臺裏」より、中曾根康弘インタビユー『私が靖國神社公式參拜を斷念した理由』(『正論』平成十三年九月號)に曰く、「(中曾根元首相の曰く、)

 やゝ長時間の默祷と最敬禮を一囘だけ。ちやうど天皇が、さうです。たゞお辭儀をするだけです。賢所で、皇族方が參拜するときも、お辭儀をするだけです。それと同じにやればいいと思ひました」と。

 愚案、やはり、さうでしたか。まさか、とは思つてをりましたが‥‥。無知とは恐ろしいものであります。相談相手に人を得ず、こゝまで來れば、其の識見性根は、洵に御立派と云ふ外はありませぬ。

 然し大勳位閣下ともなれば、やはり、偉い御方なのでせう、小生なんぞは、此の言を見て、唇かみて、血の涙、流れて已みませぬ。中曽根某は、「弓削道鏡にも等しい」(松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』)所以、將に本領發揮と謂ふべきであります。

 亦た蛇足ながら、靖國神社を語る本に於て、其の書題にある「新世紀」とは、何時の時代なのでせうか。杞憂ならば宜しいが、若し日本に於て異國の暦を奉ずることは、異國の時間の統治下に在ると云ふことに他ならず、足利幕府・一部儒者は支那の暦を使用して、我が國を輕んじました。誰も目にし且つ安易に使用して、之を怪しみませぬ。それとも何か、深い御考へがあつての使用でせうか。悲しい哉。

 飜つて惟ふに、日本國總理大臣の靖國神社「訪問」は、現今に於ては、英靈に對し奉り、御寛恕を懇祷するしか無い。神は非禮不淨を享け給はず、其の冥罰は覺悟しておくがよい矣。此の靖國神社「訪問」を、明日の皇國再興の契機とするべく、靖國神社祀職および我々崇敬者の、今後の行動が試されるであらう。

●小堀桂一郎博士『天皇陛下の靖國神社御親拜を』

(『祖國と青年』平成十四年四月號、同十五年三月刊『英靈の遺志を受け繼ぐ日本人として・論文選集Ⅰ』所收)に曰く、

「 靖國神社に對して、天皇陛下御自身が、慰靈の誠を捧げることがおできになれないといふことは、日本人の道徳生活にとつて、非常な疵であります。ですから、特に日本の精神文化の問題として、外國の内政干渉などは、絶對に受け付けてはならないと、政治家に日本の國家主權の尊嚴をはつきりと認識していたゞきたい。‥‥とにかく、天皇陛下には、靖國の英靈たちに對する國民の感謝・慰靈の氣持ちを、國民の代表として行つて表明していたゞきたいのです。それが日本人の道徳の復興に、どれほどのよい影響を與へるか。

 今でも靖國神社の春秋の例大祭には、勅使が參拜なさる。これはほとんど報道されませんが、大變莊重な儀式として行はれるわけです。天皇陛下・皇后陛下がいらつしやれば、なほのこと、兩陛下の尊い御姿が、靖國の社殿に向かつてゐる寫眞が、國民の目に映つたゞけでも、大變よい影響を及ぼすと思ひます。靖國に祀られてゐる神樣は、伊勢の神宮・明治神宮、その他もろゝゝの神々と同じく、天皇陛下でさへも額づいて下さる神として祀られてゐる。國のために命を捧げるといふことは、それだけの大事なのだといふ認識が深められていくと思ひます」と。

 愚案、卒然と之を讀めば、何でも無いやうであるが、小生は慄然として之を懼れる。曰く、「天皇陛下御自身が、慰靈の誠を捧げる」、「とにかく、天皇陛下には、靖國の英靈たちに對する國民の感謝・慰靈の氣持ちを、國民の代表として行つて表明していたゞきたい」、「靖國に祀られてゐる神樣は、伊勢の神宮・明治神宮、その他もろゝゝの神々と同じく、天皇陛下でさへも額づいて下さる神として祀られてゐる」と。

 嗚呼、小堀博士は、畢竟する所、日本を異國竝の國として論じてをられ、其處には「神の如き天皇」・「國家」はあつても、「現人神の天皇」・「皇國」は絶えて無い。此の篤實なる博士には多くを學ばせて戴いたが、所詮「天皇機關説」の表白であつて、主客轉倒、本末錯誤、君臣の義を亂り、神道の堂奧には上つてはをられないのを、小生は遺憾とせざるを得ぬ。抑も靖國神社は、天皇陛下の御爲に在るのであつて、只管ら奉皇護國之神として鎭り坐します。御一新以前に想ひを致せば、如何なる明神大社と雖も、御親拜を賜ることなど、極めて稀有の御事(文久三年四月十一日の岩清水八幡宮行幸を想起せよ)でありました。たゞ行幸を仰ぎ奉ることこそ、恐懼感激の極みなのである。天皇陛下の靖國神社行幸を、我々は熱望はするものゝ、博士の如き發言の趨く所とは、確然として一線を劃するものである。


靖國神社考18・愛語、能く囘天の力あり 投稿者:備中處士 投稿日:11月17日(金)18時11分11秒


 こゝに松平永芳・元宮司の精神が、現在の靖國神社に活かされてゐないと仰られてゐる、元靖國神社祀職の方がをられる。
http://homepage.mac.com/credo99/public_html/8.15/questions.pdf

●棚橋信之・豐國神社權禰宜『大山晉吾靖國神社廣報課長宛・質問状』(平成十七年八月二十一日附)に曰く、


「 『終戰六十年にあたり、天皇陛下、全國の護國神社に、幣帛料を御奉納』と云ふ見出し(『靖國』平成十七年八月號二面)の文言の遣ひ方に疑義があります。靖國神社も護國神社も、尊い一命をもつて國家に殉じられた『臣下』の御靈を、英靈として合祀してゐるのですから、上御一人の天皇陛下からの幣帛料は『下賜』せられるのが、正しい皇室への文言の遣ひ方のはずです。丁度、十年前「終戰五十周年」にも、同じく幣帛料の『御奉納』と云ふ文言で、靖國神社の全護會事務局から、各都道府縣の護國神社にフアツクスが流されました。當時の花田忠正・靖國神社前權宮司にも、小生(棚橋氏)、『下賜』が正しい文言ではないかと問ひ合はせたところ、「英靈は、天皇陛下よりも偉いから、『御奉納』である」とか、「宮内廳でも、『御奉納』が使はれてゐる」と云ふ囘答でした。正直なところ、愕然といたしました。この『下賜』か『御奉納』かの文言の遣ひ分けは、畢竟「英靈祭祀の神格」に關はる、根幹問題の奧義です。併せて「天皇陛下には、‥‥幣帛料を御奉納あらせられることとなつた」と云ふ、本文記事での「二重敬語」が、却つて天皇陛下に對しての慇懃無禮な表現ではないでせうか。松平元宮司は、皇室への言葉遣ひには、細心の注意でもつて、神社職員に御指導をしてをられたことをお忘れでせうか。

 人徳の譽れも高く碩學の雄たる靖國神社の神職が、縷々指摘させて頂いたやうな『皇室と英靈への誤謬を犯すこと』は、到底、信じられません」と。

 愚案、これは、看過默認し難い指摘である。若し本道ならば、宮内廳の役人は、はた靖國神社の祀職は、何うなつてしまつたのか、憂慮に堪へないのは、蓋し小生だけではなからう。「英靈は、○○○○よりも偉い」とは、棚橋氏の聞き間違ひであることを祈るばかりである。失禮放言の段は、何卒ご海容たまはらむことを。

 天皇陛下には「御下賜」、皇族は「御奉納」、とは、『靖國神社誌』に於る筆法である。

●『論語』子路篇に曰く、


「 必ずや也、名を正さんか乎。‥‥君子は其の言に於て、苟くもする所ろ無きのみ而已矣」と。

●北畠親房公『神皇正統記』後醍醐天皇條に曰く、


「 言語は、君子の樞機なり、といへり。‥‥亂臣賊子と云ふものは、その始め、心ことばを愼まざるより出で來るなり。‥‥心の兆して言葉にも出で、表には耻る色のなきを、謀叛の始めと謂ふべき也」と。


靖國神社考19・皇室に對する謹愼の心ばへ

投稿者:備中處士 投稿日:11月17日(金)18時18分36秒

●神宮元少宮司・幡掛正浩大人『神國の道理』

(昭和五十二年三月・日本教文社刊)に曰く、

「 私どもは、つひ不用意に「天皇をお守りする」などと申しますが、嚴密に言へば、守られてをるのは、實はこちらの方でありまして、私どもが出來ることは、唯、その天皇の稜威(靈能力)を強くする爲の祈りと、その祈りと二つならぬ獻身だけであります。‥‥

 從ひまして、私どもが日常的な言ひ方として、「皇室の尊嚴を守る」といふやうなことを申しましても、それは、やはり第一義的には、守られてをるのはこちら側であるといふ自覺と感激の心を、いよゝゝ深くし、さればこそ、倍層倍に謹愼し、身もたな知らず、この大君に仕へまつるのだ、千代田の城の石垣の苔のひとかけらになるのだ、といふことを本義とするものでなければなりません。かつて恩師井上孚麿先生は、「桐野利秋に、『我れ獨り天地を護る』といふ文字があると聞くが、これでは薩摩一國のまもりすらも怪しい。『我れ獨り天地に慙づ』と言はれた和氣清麻呂公にして、はじめて國體を一髮の危機に保つことが出來た」と言はれたことがあります。「出師表」を讀んで泣かざる者は人に非ずと言はれてきましたが、千古、人の涙腺を刺戟するくだりは、讀んで孔明の筆、「先帝、臣が謹愼なるを知り云々」に至る數文字でありました。‥‥忠誠とは、つひに恩に感じて、その身を致すことであり、身の誇りの一毫もあるを許しません。‥‥

 これに對して、嚴しい批評もいたゞいた。その中の一つに、『天皇をお守りするといふ運動を進めてゐるさ中に、「守られてをるのは、こちら側だ」などと言はれたのでは、どうも士氣にかゝはる』といふ趣旨のものがあつた。‥‥私はひそかに思ふ。この私の論理を逆立ちさせねば昂(あが)らぬやうな士氣といふものは、むしろ昂らぬ方がいい、と。多分それは士氣といふ程のものではなく、匹夫の勇といふ程度のものではあるまいかと思ふ。

 もつと本當のことを言へば、今こゝでこんなことを文字に綴つてゐる事すら、私には面映い。私には、天皇をお守りするのだといふやうな言擧げは、到底聲高にできないばかりか、多分これまでさうして來たやうに、さういふ議論の座からは、そうつと身を外して避けるであらう。私は、さういふことを議論してはいけないと言はぬが、さういふこゝろが本當に切迫した場合、ひとはそれを議論にではなく、ひそかに歌にうたひ上げてきた愼しみの傳統を知つてゐる、とだけは言つておかう。‥‥

 忠誠の情とは、つねに含羞の思ひとともにある」と。

●三浦義一翁の哥

○ み濠(ほり)べに 寂(しづ)けき櫻 仰ぎつゝ 心はとほし わが大君に
○ ますらをの かなしき命 積み重ね 積み重ね守る 大和島根を

●松蔭二川相近翁(筑前の處子)の今樣

○ 同じこと言ふ 老の身を
  誰もをかしと おもふらん
  君は千代ませ 千代にませ
  君は千代ませ 八千代ませ


靖國神社考20・雲深き邊りの御配慮

投稿者:備中處士 投稿日:11月18日(土)17時25分59秒

●鈴木正男翁『昭和天皇の御巡幸』

(平成四年九月・展轉社刊)に曰く、

「 伊勢市への空襲は、前後三囘あつた。最初と二囘目は大した被害はなかつたが、三囘目の二十年七月二十八日の空襲は、明らかに伊勢神宮を目標に來襲した、本格的な大空襲であつた。午前一時頃、外宮宮域にB29四十機が來襲、三囘にわたり燒夷彈攻撃を行つた。伊勢の街は紅蓮の?に包まれ、外宮宮域もたちまち火の海になつた。

 この空襲で、伊勢市の三分の二は燒けたが、外宮御垣内(外宮御正殿のあるところ)へは、一發も落ちなかつた。御垣内のまはりの宮域からは、空襲後トラツク三臺分の燒夷彈のカラが運び出されたから、いかに烈しい攻撃であつたか判る。この中で、ぜんゞゝ御被害がなかつたのである。

 外宮の爆撃を終へた四十機は、今度は内宮のある宇治へ來て、三囘燒夷彈攻撃を行つたが、どうしたことか、三囘とも流れて五十鈴川の向ふの山へ落ちてしまつた。内宮の宮域へは、一發も落ちなかつたのである。

 この空襲によつて、大少宮司以下、全神職はもとより伊勢市民全員が、神ましますを心の底から知つたのであつた。

 伊勢市に到着された陛下は、沿道での市民の奉迎を受けられ、内宮行在所に御到着。こゝで御參籠御潔齋の一夜を過ごされ、翌十一月十三日、先づ外宮に御親拜になり、次いで内宮に御親拜になられた。大御前で切々と御奏上遊ばされる御告文の御言葉を拜聽した杉谷房雄禰宜(後に少宮司)は、「生涯忘れることが出來ない」と、この時のことを、後年、筆者(鈴木翁)に語られたが、敗戰を大御神に告げ給ふ陛下の御心中、忖度し奉るも畏き限りである。‥‥

 十一月十九日夜、靖國神社で臨時大招魂祭を行はしめ給ひ、翌二十日、陛下は招魂齋庭へ行幸になり、大東亞戰爭全戰死者の御靈に、大元帥として最後の御親拜をされたのであつた。

 この大招魂祭に參加した飯村繁氏(當時陸軍少佐)は、その時の感懷を、次の如く記してゐる。

 「大招魂祭の時、昭和天皇は天皇服御着用であつたが、昭和十五年の陸士卒業の際、咫尺の間で、天皇を拜し、御體の御具合がお惡いのではないかとの印象をもつてゐた私は、招魂祭の天皇が實に逞しく、力強い玉歩をされたのに衝撃を受けた。敗戰武裝解除で最低の心境にあつた私には、考へられない逞しさであつた」(『偕行』昭和六十一年七月號)」と。

●大原康男氏『「靖國神社への○○」を解く』

(小學館文庫・平成十五年八月刊)に曰く、

「 靖國神社に對する昭和天皇の、各別のお心遣ひである。臨時大招魂祭の御親拜を最後に、占領中は參拜はもとより、勅使の差遣すら認められなかつたけれども、天皇の戰沒者に對する深甚なお氣持ちは、一貫して變はりはなかつた。

 そのことを象徴するエピソードがある。昭和二十一年の春季例大祭にともなふ、戰後初めての合祀祭を前にして、神社で靈璽簿の淨書が進められてゐたときのこと。從來は調製のための專門家が、神職と同樣に身を清めて、社務所内の清淨な一室で作業を進めてきたが、戰後の混亂期にはそれができない。

 そこで勤務を終へた神職が、夜間、交替で淨書作業を續けることになつたが、思ふやうに進まない。このとき、それを手傳はれるといふ趣旨で、前後八囘にわたつて、女性の皇族が淨書作業を奉仕された。奉仕されたのは、秩父宮妃・高松宮妃・三笠宮妃をはじめとする十一方(他に、北白川宮大妃・同妃・朝香宮妃・東久邇宮大妃・同妃・久邇宮妃・賀陽宮妃・李王妃)であるが、このやうなことはまつたく例のなかつたことで、當然、昭和天皇のご意向が反映されてゐると見なければならない。

 このやうな經緯で、占領下の靖國神社は、非常な苦難に滿ちた逆風の時代を耐へしのいだのである。昭和天皇から靖國神社關係者・遺族・戰友、そして多くの國民にいたるまで、心を一つにして靖國神社を守るために、懸命の努力が重ねられた史實を、あらためて想起すべきであらう」と。

 愚案、明治二年六月、初めて東京招魂社を御創建あらせらるゝや、同年八月二十二日附を以て、社領高一萬石を賜つた。永世高一萬石の社領を御下賜の御沙汰があつたのは、たゞ伊勢の神宮と招魂社の兩社あるのみ。然し招魂社側では、新政府の財政が未だ以て甚だ貧しく、豫算頗る逼迫の事情を承知してゐたから、其の年末になつて、御下賜高の半分の五千石を返上することを申し出て受納せられた由。こゝに靖國神社に於る國民護持の精神、一歩進んで官民一體の美しき姿を見ることが出來よう。



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