15年戦争資料 @wiki

靖國神社考(2)

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン

靖國神社考(2)



靖國神社考10・盡忠憂國

投稿者:備中處士 投稿日:11月13日(月)19時30分2秒

【松平永芳大人の經歴・逸話】

一、松平大人は、越前の春嶽松平慶永公の長男で、宮内大臣(戰後は宮内府長官)を拜命した松平慶民子爵を父として、東京に生れた。尾張の徳川家を繼いだ徳川義親侯爵(「靖國會」初代會長)は、叔父に當たる。母幸子は、新田家直系の新田忠純男爵の四女。室は侍從武官・醍醐忠重侯爵(海軍中將、ボルネオ島バリツクパパンに於て法務死)の二女充子。一男二女を擧ぐ。前傾略傳の遺漏を拾へば(詳細は、永江太郎氏『今は亡き松平永芳樣の追憶』參看)

昭和 七年、曉星中學校を卒業。
同 十二年 三月、海軍機關學校(第四十五期)卒業。戰艦陸奧に乘組む。
同 十三年 三月、海軍機關少尉に任官。
同 十四年 六月、中尉に昇進。
同 十五年十 月、支那方面艦隊の旗艦出雲に乘組み、支那事變に參戰。
同 十六年 五月、大尉に昇進。
同 十六年、大東亞戰爭では、第一水雷戰隊隷下の驅逐艦電の機關長として、南方作戰に從軍。
同 十七年 二月、海軍機關學校教官。
同 十九年十 月、少佐に昇進。

一、大正天皇の侍從から宮内大臣まで、一貫して宮内省の要職を歴任し、宮中の機密に關はつた父・松平慶民子爵(最後の宮内大臣)の日記は、遺命に從つて、表紙のみを殘して處分された由(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)。大人の曰く、「父は、皇族方にとつては、一番こはい存在で、殿下方にお小言を申し上げる專門職であつた。父は、皇室は道義の中心でなくてはならないと考へて、殿下方に對しては、その御意見番を以て自ら任じてをりました」(『家庭教育(精神・しつけ教育)について』)と。曰く、「戰後父親の沒後より今日に至るまで、皇室の御在り方、御行く末の御事共を憂慮、懊惱して、事ある毎に側近要路の方々に對し、如何やうに思はれやうとも、意に介すること無く、進言して憚らないのは、兩親が私に對して施した、皇室に對し奉る生涯教育の然らしめる結果でもあらうか」(『我が家の生涯教育』)と。

一、松平慶民大臣は、平泉澄博士を深く信頼し、子である大人の海軍機關學校受驗準備中に、平泉家に預けて、勉學指導を依頼された(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)。大人も、終生、平泉博士を師と仰がれた(松平永芳大人「平泉澄先生仰慕――御家庭における先生御夫妻」(『日本』昭和六十年二月號)參看)。

一、昭和五十三年七月、靖國神社の第六代宮司に就任。十月十七日、既定方針で宮司預りとして保留となつてゐた、『昭和殉難者』(十一月二十三日「宮司通達」の呼稱、大人の命名。東京裁判の呼稱は、A級戰犯またはA種戰犯容疑者)十四柱の合祀を、秋季例大祭前日の靈璽奉安祭にて執行した。曰く、「靖國神社の立場からすれは、昭和二十八年四月一日の時點(「恩給法」・「法務關係遺族に對する戰傷病者戰沒者遺族等援護法」の適用)を以て、『戰犯』として處刑された方々の御靈を合祀申上げなくてはならない責務を負ふに至つたのである」、「むしろ祀らなければ、靖國神社は、僭越にもご祭神の人物評價を行つて、祀つたり祀らなかつたりするのか、となつてしまふ」、「生涯のうちで意義のあることをしたと、私の自負することができるのは、いはゆる『A級戰犯』を合祀したことである」(『東京教育懇話會志・續輯』・『誰が御靈を汚したのか』)と。

一、松平大人の御葬儀は、「大田區の公益社・雪が谷會館において、(平成十七年七月十日午前四時五十五分に歸幽、)十二日に通夜祭、十三日に告別式が齋行されましたが、御遺志に從つて、宮中からの祭祀料をはじめ、生花や玉串料の類ひはすべて辭退された、簡素にして氣品溢れる祭典でした。告別式で唯一つ飾られた三笠宮寛仁親王の生花が、格別の御關係を物語つて印象的」(『今は亡き松平永芳樣の追憶』)であつたと云ふ。

一、皇學舘大學學長・伴五十嗣郎翁の曰く、「松平樣は、その御人格を一言で申し上げるとすれば、『盡忠憂國』といふ語以外に、適切の言葉を思ひ付かない。決して自己の名利を追求されることなく、日常の一擧一動に至るまで、すべての行動の判斷基準を、皇室と國家の護持といふ點に置かれた。御志操あまりに純粹一途にして、他から御眞意を理解されぬことも多かつたと思ふ。福井の博物館長時代には、作業服に着替へて展示ケースのガラス面の清掃や、館庭の草拔きなどを、毎朝の日課とされた。來館者が用務員さんと誤解して、横柄に話し掛け、後で松平樣と知つて恐縮し、大慌てする場面をよく目にした」(『靈魂不滅・松平永芳樣を偲ぶ』)と。


靖國神社考11・昭和殉難者十四柱の合祀

投稿者:備中處士 投稿日:11月14日(火)20時29分6秒

●寒林平泉澄博士『靖國神社總説』

(昭和四十二年十一月『神道史研究』第十五卷第五・第六合併號)に曰く、

「 靖國神社は、終戰後無理に置かれたる變則の地位より、いまだに原態に復歸するに至らず、その爲に種々の論議が試みられつゝある。然るにそれらの論議の中には、現状を悲しむのあまり、一時便宜の策を講ぜむとするものもあるやうである。現状を歎いて、一日もはやく解決を急がうとする心情は、之を諒としなければならないが、問題は極めて重大であり、國家の基本に關する所であるから、一時の彌縫、便宜の妥協によつて、その本質を誤るべきでは無い。

 占領下に於いて、すべてが歪曲せられた事は、今更いふまでもないが、然し眞實をいへば、歪曲せられたるは、ひとり占領下に於いてのみで無くして、占領解除の日に、當然爲すべき修正復原の大事が怠られた爲に、歪曲はそのまゝ沿襲せられて今に至り、今日に至つては、本末の道理を分らず、是非の感覺も鈍つて來た。我等は、何よりもそれを恐れ、それを歎かねばならぬ。‥‥

 從前、國家の爲に一命を捧げたる忠士は、國家によつてこゝに祀られ、以後君國の爲に一命を捧げようとする人々は、死してこゝに祀られむことを期待した。即ち國家護持の精神は、明治二年以來、今に至つて百年、この靖國神社に凝集し、國家の柱石となつてゐるのである。それを看破し、最もあざやかに之を表現してゐるものは、ラフカヂオ・ハーン、即ち小泉八雲である。八雲はいふ、

 『日本の眞の力は、その庶民の道義性のうちに存する。即ちそれは或は農夫であり、或は漁夫であり、或は職人であり、或は勞働者であり、或は田畠に、或は町の片隅に、默々として靜かに働いてゐるが、日本民族のみづから意識せざる英傑の氣象は、實に是等庶民のすばらしい勇氣に存するのである。彼等は生死に無關心であるのでは無いが、しかも死者にさへ位を賜はり、位階をのぼせ給ふ天皇陛下の御みことのりのまにゝゝ、獻身せん事を冀ふのである。今や日露戰爭の爲に召出されたる幾千の若者の誰よりも、戰勝の榮譽を帶びて家へ歸りたいといふ願を聞く事は無い。彼等に共通の願は、唯一つ、招魂社にまつられて、天皇陛下及び祖國の爲に生命を捧げた人々のすべてと一所になるといふ事である。日本を敵とする國の恐れなければならないのは、その精鋭の武器よりも、此の古來の忠誠心である』。

 まことに八雲の洞察したる如く、靖國神社は、國家護持の精神のやどる所である。從つて若し此の崇高にして嚴烈なる本質を誤り、一時便宜の處置によつて、之を左右するとならば、それは國家の基礎を動搖せしむるものなる事を覺悟しなければならぬ」と。

 愚案、昭和殉難者十四柱の合祀は、「占領解除の日に、當然爲すべき」大事であり、松平永芳宮司は、國會の決議・祭神名票を承けた崇敬者總代會の諒承の通りを、宮司一任の責任と權限を以て、極く自然に斷行されたに過ぎない。

 亦た靖國神社『社務日誌』昭和五十三年十月七日條には、池田良八權宮司、宮内廳侍從職と掌典職へ「合祀者名簿」を屆け出るとの記述ある由。


靖國神社考12・參拜か、訪問か

投稿者:備中處士 投稿日:11月14日(火)20時31分36秒

●松平永芳大人『誰が御靈を汚したのか』に曰く、


「 「おれ(中曾根總理)が初めて公式參拜した」と自負したいからか、藤波官房長官の私的諮問機關として「靖國懇」なるものをつくつて、一年間、井戸端會議的會合をやりました。そして手水は使はない、祓ひは受けない、正式の二禮二拍手はやらない、玉串は捧げない、それなら「政教分離の原則」に反しないといふ結論を出したのです。しかし、これは私に言はせれば、「越中褌姿で參拜させろ」といふのと同じで、神樣に對し、非禮きはまりない、私は認めないと言つたんです。‥‥前日の十四日、藤波官房長官が見えたので、目立たないやう、奧の小さい應接間にお通しして、私は言ひたいだけのことを言ひました。天皇樣のご親拜のご作法――手水をお使ひになり、祓ひをお受けになり、それから本殿にお進みになつて、大きな玉串をおもちになつて、敬虔な祈りをお捧げになる――それを全部やらないといふのは、弓削道鏡にも等しい。さう、靖國の宮司が言つてゐたと、おつしやつていたゞきたいと、しかし、これは恐らく言はれなかつたでせうね(笑)。それから、私は明日は總理の應接には出ない、泥靴のまゝ人の家に上がるやうな參拜は、御祭神方のお氣持に反することで、「やうこそいらつしやつた」とは、口が裂けても言へないから、社務所に居て顔を出しません。それも傳へてほしいと。‥‥拜殿から中は、綺麗に玉砂利を掃き、清淨な聖域になつてゐるんです。天皇樣も拜殿で祓ひをお受けになつて、あとは待從長などをお連れになつて參進される。警護はなしです。だから、中曾根總理が、厚生大臣と官房長官を連れていくのは、幕僚だから、それは結構だ。しかしボディガードを四人も、自分を守るために連れていくのは、何たることだと思ふわけです。靖國の御祭神は手足四散して亡くなられた方が大部分です。その聖域で、御身大切、後生大事と、天皇樣でもなさらない警備つきとは何事かと、七年經つた今でも、無念の感情が消え去りません」と。

●湯澤貞・元宮司『靖國の言ひ分、英靈たちの聲』に曰く、


「(石川水穗氏)小泉首相の參拜形式は、二禮二拍手一拜のときもあれば、一拜だけのときもあつたといはれてゐます。
(湯澤氏)その時は、われゝゝの目が屆かないものですから、先導した者だけにしかわからないのですけども、一拜だけでも構いません。原則はお出でいたゞいたら、手水を使つて御祓ひを受けていたゞくといふことだけで、御參りの形式は問ひません」と。

 愚案、「手水(=禊祓)」について、松平永芳大人は、「手水を使はないのは、まあ宜しい。それは前もつて潔齋してくるなら、中曾根さんの心がけ次第」と仰つてをられますが、小生は深く之を悲しむものであります。如何に事前の洗手漱口が、消毒劑を使用して無菌状態にならうとも(水の科學分析にて、たとへ細菌・鹽素だらけとしても)、手水を使はなければ、心身は清まつたことにはならぬと存じます。

 抑も神道は、何より清淨を尊ぶ。穢れある状態で神拜・神迎へしても、神靈は其の不淨を嫌ひ給ひ、祭は成立しない。無論「非禮」參拜と雖も、頑是無い子供、或は無知な者ではあるが至誠あふるゝ參拜、或は已むを得ない場合の參拜については、神靈には、必ずや之を容認し給ふと信じますが‥‥。

 社頭參拜では、昇殿しないのであるから、神道上「公式」參拜では無い。たとへ昇殿參拜と雖も、知りながら「二拜・二拍手・一拜」せず、一拜で濟ますのは「非禮」參拜、「手水」を用ゐないのは「不淨」參拜にして、神は非禮不淨を享け給はざれば、其の祈念は遂に通ぜず、一席のパフオーマンスに畢るのみ。皇族には、皇族としての參拜を賜はるの御所作あり(神格は、英靈より遙かに上位)。首相が之を眞似し奉つたと云ふのであれば、明かに僭上不臣の沙汰と謂ふべく、斷じて之を容認する能はず矣。然らば中曾根氏以降の日本國總理大臣の行動を正しく表現するならば、決して靖國神社「參拜」と云ふべからず、むしろ靖國神社「訪問」と謂ふを至當とする。

 他人の家を訪問すれば、頭くらゐは下げるのは當り前でありませうが、ゆめ神社參拜なぞと云つて戴きたくないのであります。拜殿前に「參拜のしかた」の板が、確かに在りました。文字が讀めないのでせうか。人の家に立ち寄つたら、普通は其の家の家風に從ふ筈ですがね。無禮千萬、不快至極でありました。小生なら、鄭重にお引取り願ふ所であります。


靖國神社考13・みゆき

投稿者:備中處士 投稿日:11月15日(水)21時13分50秒

 「忠魂を慰むる爲に神社を建てゝ、永く祭祀せむ、益々忠節を抽んでよ」との、優渥なる叡慮によりて、靖國神社を御創建、御歴代の御殊遇を賜ひ、又た天皇陛下の行幸を拜し奉ること、左の如し。

【御歴代の靖國神社行幸】

【明治天皇】都合、八囘(内、御名代一囘)。

明治  七年 一月二十七日午前十時
同   八年 二月二十二日午前十時
同  十 年十一月 十四日午前十時
同 二十八年十二月 十七日午前十時三十分
同 三十一年十一月  五日午前十時三十分
同 三十八年 五月  四日(御名代として伏見宮貞愛親王を御差遣)
同 三十九年 五月  三日午前十時
同 四十 年 五月  三日午前十時

【大正天皇】都合、四囘(内、御名代二囘)。

大正■年■月■日
同 ■年■月■日
同 ■年■月■日
同 ■年■月■日

【昭和天皇】都合、二十八囘(御名代は無し)。

昭和  四年 四月二十六日・臨時大祭
同   七年 四月二十七日・臨時大祭
同   八年 四月二十七日・臨時大祭
同   九年 四月二十七日・臨時大祭
同  十二年 四月二十七日・臨時大祭
同  十三年 四月二十六日・臨時大祭
同  十三年十 月 十九日・臨時大祭
同  十四年 四月二十五日・臨時大祭
同  十四年十 月二十 日・臨時大祭
同  十五年 四月二十五日・臨時大祭
同  十五年十 月 十八日・臨時大祭
同  十六年 四月二十五日・臨時大祭
同  十六年十 月 十八日・臨時大祭
同  十七年 四月二十五日・臨時大祭
同  十七年十 月 十六日・臨時大祭
同  十八年 四月二十四日・臨時大祭
同  十八年十 月 十六日・臨時大祭
同  十九年 四月二十五日・臨時大祭
同  十九年十 月二十六日・臨時大祭
同 二十 年 四月二十八日
同 二十 年十一月二十 日・臨時大招魂祭
同 二十七年十 月 十六日
同 二十九年十 月 十九日・秋例大祭
同 三十二年 四月二十三日・春例大祭
同 三十四年 四月  八日・鎭座九十年臨時大祭
同 四十 年十 月 十九日・終戰二十年臨時大祭
同 四十四年十 月二十 日・御創立百周年記念大祭
同 五十 年十一月二十一日・終戰三十年臨時大祭

【今上陛下】平成十八年十月現在、行幸を拜し奉らず。


●賀茂百樹大人『靖國神社誌』の「行幸・行啓」に曰く、


「‥‥
 大凡そ行幸の御時は、南行幸門より入らせ給ひ、本殿石階の下に於て下乘あらせられ、皇族・親任官公爵・從一位・勳一等及び各省勅任官總代・□[鹿に射]香間□[祇の右下に一]候總代・錦鷄間□[祇の右下に一]候總代・有爵者總代・各省奏任官總代・有位華族總代・貴衆兩院議員總代等、先着して迎へ奉り、陸海軍兩省大臣・大祭委員長、神殿階上に御先導を奉仕し、それより宮司、更に殿上中陣なる御拜座に御先導し奉り、恐くも玉座に登り給ひて、御立拜あらせ給ふなり。

 御環幸は、北行幸門より出でさせ給ふを例とす。明治七年一月・八年二月及び十年十一月の行幸の御時には、御拜の後、殿上の御椅子に椅らせ給ひて、親しく兵士の參拜を天覽あらせられ、三十九年及び四十年五月に行幸あらせられたる御時には、玉垣内庭松樹の側に設けられたる御休憩所にて、陸海軍兩大臣・臨時大祭委員長及び宮司に拝謁仰せ付けられき。斯く至尊の御身を以て、頻りに御參拜あらせ給へる大御心のほどこそ、畏しとも尊き極みなりけれ」と。

●同上「勅使」に曰く、


「 勅使を立てさせらるゝは、最も重き事なり。本神社へは、草創以來、例大祭并びに臨時祭等には、必ず勅使を差遣せらる。最初より茲(明治四十三年五月)に七十一囘、祭文を納めらるゝこと六十五卷なり。‥‥

 凡そ勅使の參向あるや、招魂社當時は、專ら武官、之を送迎せしが、社格制定以來、祭典掛官と倶に、宮司は拜殿の階下に、陸海軍兩大臣は縁側に迎へ、宮司先導して神殿に昇る。奉送、亦た奉迎の時の如し」と。

【附・戰後に於る歴代首相の參拜】

東久邇宮稔彦王=一囘
幣原喜重郎=二囘
吉田 茂 =五囘
岸  信介=二囘
池田 勇人=五囘
佐藤 榮作=十一囘
田中 角榮=六囘
三木 武夫=三囘(うち八月十五日參拜一囘)
福田 赳夫=四囘(うち同上一囘)
大平 正芳=三囘
鈴木 善幸=八囘(うち同上三囘)
中曾根康弘=十囘(うち同上三囘)
橋本龍太郎=一囘
小泉純一郎=六囘(うち同上一囘)

 平成十八年十月現在、都合、參拜六十七囘(うち八月十五日參拜九囘)。



目安箱バナー