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靖国神社発行リーフレット『靖国神社の概要』

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靖国神社発行リーフレット『靖国神社の概要』


情報元
「市民の目」
http://homepage2.nifty.com/kumando/index2.html

私たちは靖国神社をどう考えるべきか?

 大江志乃夫氏は、靖国神社社務所が出しているリーフレット「靖国神社の概要」を読み、その中にあるA級戦犯の合祀の記述に対して、「・・・A級戦犯もB.C級戦犯も故意に一緒にして一口に『連合国側に一方的に処刑された』としている点に悪意のある作為を感じさせる。・・・」(大江志乃夫著 「靖国神社」-岩波新書-P18からP19)と感想を述べている。なお、このリーフレットはB4サイズの紙に両面印刷されたもので青色の単色印刷となっている。内容を以下に引用します。(なお「靖国」は「靖國」と書かれていますが、ここでは「靖国」という漢字で表記しています)

リーフレット「靖国神社の概要」

靖国神社社務所配布(最新のものとの異同があれば教えてください)

靖国神社の起源と性格


 靖国神社は、我が国が幕府政治体制から近代国家体制に大きく生まれ変わろうとする時に、不幸にして避けられなかった明治維新の内戦(戊辰戦争)において、国のために一命を捧げた人達の霊を慰めようと、明治二年(一八六九)六月、明治天皇が「東京招魂社」として現在の位置に建てられたのが起源で、同十二年(一八七九)には、「靖国神社」と改称されて今日に至っている御社です。

 明治天皇が命名された、この「やすくに」という御社号には、「国を平安(安の字は靖に通ずる字)にし、平和な国をつくり上げる」という御心がこめられ、祀られている神々も、すべてこの天皇の御心のように、祖国永遠の平和とその栄光を願いつつ、日本民族を守るために掛け替えの」ない尊い生命を国に捧げられた同胞たちで、これらの方々は、身分・職業・年齢・性別等にかかわりなく手厚く祀られています。

靖国神社に祀られている御祭神


 明治二年(一八六九)六月に、戊辰戦争で戦死された三千五百余柱の方々をお祀りしたのを始めとし、その後に起こった「佐賀の乱」・「西南戦争」・「日清戦争」・「日露戦争」・「第一次世界大戦」・満州事変」・「支那事変」・「大東亜戦争」等の事変・戦争で戦死された方々、さらに嘉永六年(一八五三年、いわゆる黒船が浦賀沖沖に来航した年)以来明治改元までの十五年間の幕末多難時代に、「安政の大獄」や「禁門の変」等による犠牲者を始め、国事に盡してたおれられた方々(吉田寅次郎(松陰)・橋本左内・坂本龍馬・高杉晋作・頼木樹三郎・真木和泉守・清川八郎・中岡慎太郎等々、歴史上に著名ないわゆる幕末の志士、並びに平田捨四郎・仁位馬寿ら生後六ヶ月の無名の志士家族ら数千柱の方々)をも明治二十年(一八八七)ごろから合せ祀り、現在の御祭神総数は二百四十六萬六千余柱に及んでいます。

 靖国神社というと、戦死した軍人ばかりを祀っている神社のように思われがちですが、決してそうではなく、五萬七千余柱の女性の御祭神も含まれ、これらの中には、従軍看護婦を始め、主婦、小・中学校の児童・生徒、それに二歳にも満たぬ童女さえも含まれています。

 一、二の具体例をあげますと、幕末時代のことですが、元治元年(一八六四)、常陸国(現在の茨城県下)水戸藩で起こった事件で死歿した田原彦三郎道綱という侍の妻多加(三十五歳)とその長女千代(十七歳)、次女喜代(二歳)は、連帯者として幕府の手に捕えられ、獄中でたおれたため、明治二十四年に合祀されました。

 また、沖縄で戦歿した「ひめゆり」・「白梅」等の七女学校部隊の女生徒の方々、「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中、悲惨にも敵潜水艦によって撃沈されて、幼い生命を断たれた小学校女子児童たち、大東亜戦争終結直後の昭和二十年八月二十日、ソ連軍の不法侵入を最後の最後まで内地に通話し続けて、ついに自決殉職された樺太(現在のサハリン)真岡の女子電話交換手の方々らも皆、昭和三十年代から四十年にかけて合祀された女性祭神の方たちです。

 さらにまた、大東亜戦争終結時に責任を負って自決された方々、いわゆる戦争犯罪人として連合国側によって一方的に処刑された千余名の方々(当神社においては、これらの方々を「昭和殉難者」と呼称しています)、民間防空組織の責任者として敵機の空襲下に活躍中爆死された方々、学徒動員中に軍需工場等で爆死された学徒らも皆、御祭神としてお祀り申し上げております。

 このように靖国神社には、戦場で戦死された軍人、軍属ばかりでなく、文官、民間の方々、女性をも含めた多種多様の御祭神が祀られており、日本国民だれしもが崇敬し、奉賛するに相応しい御社なのです。

 なお、御本殿に向かって左側回廊の外側に、元宮と鎮霊社という二つの小さな御社があって、元宮というのは、文久三年(一八六三)、幕末の国事にたおれた志士の霊を慰めようと、京都において少数の有志が幕府の目をはばかって、ひそかに建てた小祠が元で、改築等幾多の経過を経て七十年後の昭和六年、靖国神社に奉納され、招魂社の元をなすともいうべきものとして、元宮と称して今日に至っています。

 鎮霊社(昭和四十年七月創建)には、靖国神社に合祀されていない方々の御霊と、国籍を問わず、萬国の戦死者あるいは戦禍犠牲者の霊が祀られています。

 右二社は、御本殿の神々と同様、日々宮司初め神社職員によって奉仕されています。

靖国神社で行われる祭典


 神社として一番重要な祭典は春秋の例大祭と合祀祭です。「春季例大祭」は、毎年四月二十一日から二十三日までの三日間、「秋季例大祭」は、十月十七日から二十日までの四日間にわたって執り行われ、これらの祭典には勅使(天皇の御使者)が差しつかわされ、皇族方も親しくご参拝になります。

 また、神社ご創立以来、天皇・皇后両陛下のご参拝も度々行われ、明治時代に十一回、大正時代に五回、昭和になってからは実に五十四回の行幸啓をあおいでいます。

 「みたま祭」は、昔から我々日本国民の多くが先祖の祭をする、いわゆる「お盆」にあたる七月十三日から十六日までの四日間執り行われ、奉納された各界名士の揮毫ボンボリ、御遺族・戦友・祟敬者から奉納された提灯が参道を埋めつくし、年間一番多くの参詣者をお迎えする夏祭りともいうべきものです。

 この外、神社としては、新年祭、建国記念祭、新年祭、昭和祭、御創立記念日祭、明治祭、新嘗祭、天皇御誕辰奉祝祭、月次(つきなみ)祭(毎月一日、十一日、二十一日)、さらに毎日の朝夕の御饌(みけ)祭、永代神楽祭、御遺族・戦友による慰霊祭、昇殿参拝等をご奉仕申し上げ、永代神楽祭では、お申し込みの御遺族等のご参列を願い、毎年永代にわたり御祭神のお名前を申し上げ、御神楽を奉奏して神霊をお慰めいたしております。

平成十四年七月十三日 新・遊就館開館


 遊就館は、御創立百三十年記念事業の一環として本館の改修と新館の新築工事を推進して参りましたが、平成十四年七月十三日に新装遊就館が堂々開館となりました。遊就館は、新館が増築されたことで従来の約二倍の展示スペースが確保され、新に”零式艦上戦闘機”も展示しております。また、本館一階・二階には、近代日本史をわかりやすく解説、展示。この他、新館一階のホールには、茶房(カフェテリア)や売店(ミュージアムショップ)が設置されるなど充実した諸施設が完備されております。是非、御家族お揃いで御来館下さい。

 以上が靖国神社の創建とその性格、御祭神並びに祭典についての概説です。
 今日の我が国の安泰と繁栄が、靖国神社の御祭神となられた方々の献身奉公によってもたらされたということに思いをはせて、子々孫々に至るまで、この御社を護持していただきたいと願う次第であります。


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