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文芸春秋:映画「靖国」が隠していること

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映画「靖国」が隠していること

誰も指摘しない重大な事実誤認がある
坪内祐三(評論家)
文芸春秋2008年6月号
6/6 誤字脱字引用符の訂正、傍点は太字で記す


  あれは去年の11月初めの事だった。原宿で開かれていたある画家の個展のオープニング・パーティーに出席していたら、親しい友人である編集者のSさんが、私に、ツボウチさん、中国人の監督が作った『靖国』というドキュメンタリー映画があって、けっこう面白いからツボウチさんも見てみません? まだ試写会やっていると思うから。と話しかけてきた。
  靖国オタクである私は、それはちょっと興味ありますね、と答えた。
  すると早速その翌日、映画の配給会社から試写(最終試写だったと思う)の案内のFAXが送られてきた。
  あまりにも急なスケジュールだったので、私は見に行かなかった。
  いや、無理すれば行けた。
  その案内には、コメントをぜひという添え書きがしてあった。
  その添え書きを目にして、私は、行く気がなえてしまったのだ。
  私がコメントをもしするとしても、それは、映画を見終えたあとで決めることだ。
  見る前から、コメントを、というのはとても無神経に思えた。
  しかも他ならぬ私はいわゆる靖国問題が話題になる前に刊行された長編評論『靖国』(新潮社・1999年)の著者である。
  それとも私がそういう人間だから、そのお墨付きがほしかったのだろうか。だとしたらよけいごめんである。

  映画の配給会社の人は、よく言えば熱心、悪く言えばしつこい人間で、その後、手書きの手紙を添えたDVDを送ってきた。
  そこにもまた、「40字から60字のコメントをぜひ・・・・・・」と書いていた。しかもその締め切り日(それは1週間もなかった)も書いてあった。
  その締め切り日がすぎた頃、FAXが届いた。
  文面を読んでみると、日本人でもここまで深く靖国のことを考えた人はいません・・・・・・だからくれぐれもコメントをよろしくお願いします・・・・・・とあった。
  日本人でもここまで深く・・・・・・、だって。『靖国』の著者である私は挑発を受けた気がして、すぐに返事のFAXを送った。
  自分は『靖国』という本の著者であるけれど、もちろんその事をふまえた上で、私に、日本人でもここまで深く・・・・・・なる言葉を投げかけ、さらに、そんな私のコメントをもらおうとするのか、という内容の。
  するとしばらくして返事があった。
  それは全然知りませんでした。申しわけありません。という。
  その正直さに私はちょっと好感を持ったが、何だか映画のレベルも分かった気がして、そのままDVDを見ることはなかった。

  それからしばらくして『週刊新潮』(2007年12月20日号)で、この映画を「反日映画」とする記事を目にした時も、ふーん、やはりそうだったのかと思う程度で、わざわざ見たいとは思わなかった。
  そんな私が、この映画を見なければと思ったのは、3月半ば、上映予定館の1つ「新宿バルト9」が上映中止を決めた時である。
  1つの映画館が上映を取りやめにしたなら、次々とそれに続く映画館が出てくることだろう(それが日本人の体質というやつだ)。
  そうなったら、それは、1つの社会問題となり、『靖国』という著書を持つ私は、コメント(まさに本来的な意味でのコメント)を求められるだろう。そのためには映画を見ておかなければ、と思ったのである(もっとも今に至るまで私のもとにはこの『文芸春秋』以外何のアプローチもきていない)。

  そして私は李纓(リイン)監督のドキュメンタリー映画を見た。
  見始めて数分後、タイトルバックが出る前に、私は違和ママ をおぼえた。
  しかしそれは私が靖国神社に詳しい人間だからである。
  現代に生きる普通の日本人のレベルで『靖国』を見て行こう。


御神体が日本刀!?


  『靖国』はまず、刀を振っている老人の姿が映し出される。
  この老人は刈谷直治さんという90歳の現役刀匠で、次のシーンではその刈谷さんの仕事場に映像が変る(その仕事場がどこにあるのかは明示されない)。
  そして刈谷さんはインタビュアーである李纓監督に何か刀に関する写真集を見せられたのち、自分が作った刀を昭和58(1983)年7月8日に靖国神社に奉納した時に神社からもらった感謝状を見せる。
  ここで注釈を加えれば、昭和58年7月8日はたぶんその年の御霊祭(みたままつ)りの時であり、その感謝状はまさに感謝状にすぎないのだが、李監督はそれを仰々しく読み上げて行く。
  まるで靖国神社がオフィシャルでそのような刀を製作しているかのような誤解を見ている者に与えそうだが、その誤解は、それに続くキャプションで増幅されて行く。
  つまり黒のバックの画面に、小さく、「昭和8年から終戦までの12年の間に"靖国刀"と呼ばれる8100振の軍刀が靖国神社の境内において作られた」というキャプション(実際は横書き──以下同)が流れる。そして刈谷さんがその"靖国刀"を作った刀匠の最後の生き残りであることを知らされる。

  ここでポイントとなるのは靖国神社で靖国刀が作られていたのは僅か12年であること、そして何故昭和8年という年にそのような施設が作られたのかということであるが、ごく普通の観客は、映画の冒頭に小さく流れるこのテロップからそんな事を考える余裕も知識もなく、靖国神社にいまだにそのような施設が実在するかのような錯覚を起こしてしまう(刈谷さんの仕事場の所在地──実は高知にある──が明示されなかったことが効果を上げてくる)。実際、この映画を一緒に見ていた40代の新聞記者は、私に、靖国神社にこういう施設がまだあるのかと尋ねた。

  続いて、「明治2年靖国神社設立」というキャプションが流れ(明治2年に設立されたのは東京招魂社で靖国神社の設立は明治12年であるがこの監督にとってはそんな些事はたぶんどうでも良いのだろう)、さらに続くこのキャブションに私は唖然となった。

  つまり、「246万6000余の軍人の魂が移された1振りの刀が靖国神社の御神体である」とあったからだ。

  日本刀が靖国神社の御神体だって!

  先の「明治2年靖国神社設立」というキャプションはただの間違いにすぎない。
  しかしこのキャプションは、間違えとかデタラメといったレベルを超えたかなり悪質な捏造、イメージ操作である。

  イメージ操作と述べたが、このすぐあとでタイトルが流れ、そのタイトルシーンは、まず日本刀のシルエットが映り、そののち靖国神社(靖国ではなく靖国神社でしかもその上のローマ字表記はYASUKUNIとなっている)という文字がその上に載る、きわめて効果的な物であり、その効果は映画の後半部で増す増す発揮される。

  靖国神社に祭られている御神体(御霊体ママ )、それはもちろん、刀ではなく剣である。
  明治44年に出た『靖國神社誌』(これは平成14年に復刻版が出たからけっして稀覯本ではない)によれば、「御霊代は神剣及神鏡にましまして、神剣は明治2年6月栗原筑前の鍛造し奉る所」とある。
  熱田神宮の例を持ち出すまでもなく、剣は、日本古来の「三種の神器」の1つである。つまりこの剣とは、須佐之男命がヤマタノオロチを倒した時そのヤマタノオロチのしっぽから出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)のことで、日本刀とは(ましてや靖国刀とは)全然関係ないのだ。
  日本史や神道にあまり詳しくない人間でも、「三種の神器」の意味するところは常識だと思っていた。

  だから4月2日の朝日新聞の夕刊の全面広告に載った対談「映画『靖国 YASUKUNI』を語り合う」で、監督の李纓が、
・・・・・・靖国神社は刀をご神体にし、そこに戦没者の魂をこめ、英霊としてほめたたえている。そこにはどんな意味があるのか。
  と語っているのは一種の確信犯であるから仕方ないけれど、対談相手の田原総一朗までもが、
・・・・・・この映画では、靖国のご神体である刀が重要なモチーフとして登場します。
  とのべているのには驚いた。

  さらに驚いたのはこの映画についての「解説」というコラムで、
 この映画では、日本人にもあまり知られていない事実が明らかにされる。それは、靖国神社のご神体が刀と鏡であり、昭和8年から敗戦までの12年から敗戦までの12年間、境内でも8100振りの日本刀が作られていたという事実。
  と書き記されていたことだ。
  どうしてこう簡単に皆、李監督にほいほいとだまされてしまったのだろうか(御神体が剣ではなく刀だったとして、では昭和8年までの御神体は何であったのだろうかという疑問はわいてこないのだろうか)。映像が操作して行くある種の力というのは時に恐ろしい。


すりこまれてゆくストーリー


  映画はこのあと、その最後の"靖国刀"職人である刈谷さんの姿と8月15日を中心とした靖国神社の風景が交互に映し出されて行く。
  刀を作っている時の刈谷さんの表情、そして李監督の誘導尋問のようなインタビューに対してもたまったくブレることのない言葉が素晴らしい(その点においてこのドキュメンタリーは見ごたえがある)。
  誘導尋問、といったが、李監督は、盛んに刈谷さんに、日本刀の切れ味について聞きたがる。刈谷さんは、その監督の質問に、「機関銃を切ったという話もある」と正直に答える。
  しかし監督が求めていたのはもっと生々しいエピソードである。
  なぜならこのやり取りの前のシーンは、戦争中に中国で"百人斬り"を謳われた2人の少尉のエピソードであるのだから(その2人は戦後軍事裁判で死刑となったのち昭和34年に合祀されたという映像が流れる)。

  ここで話および映画の流れをもう一度整理してみる。
  刀を振る刈谷さん。"靖国刀"を作った最後の生き残りである。その仕事場(実は高知にあるのだがいまだ靖国神社内にあると誤解を与える)。かつて"靖国刀"と呼ばれる刀が靖国神社内で作られ、しかも靖国神社の御神体は刀である。その刀で中国人たちを"百人斬り"した2人の少尉。彼らは死刑になったのち靖国神社に合祀された。
  そういうストーリーが観客にすりこまれて行く合い間合い間に、8月15日を中心とした現代の靖国神社の光景が映し出されて行く。

  外国人の目にはどのように見えるかわからないけれど、ここに映し出される8月15日の靖国神社をお詣りする軍服を着た人々は、私の目には、危険な人たちというよりも、ただのミリタリー服マニア、に見える。8月15日の靖国神社はいわばミリタリー服マニアのコミケみたいなものである。
  『靖国』の著者である私は、毎年初詣に靖国神社を参拝するし、桜の季節、奉納相撲や奉納プロレス、御霊祭り、春秋の例大祭と、しばしば靖国神社を訪れる。もちろん何も行事がない時も。
  そして靖国神社はそのたびに表情を変える。日本に19年暮らして、日本人以上に深く靖国のことを考えているという李監督はなぜ靖国神社のそのような四季の季節風景を1片もフィルムに収めなかったのだろう。


靖国刀の真実


  ところで、先に私は、誘導尋問と書いたが、日本刀の切れ味を尋ねるシーンで、李監督は、1冊の本を刈谷さんに差しだし、その本のある箇所を刈谷さんに読ませようとする。
  その本(サイズはかなり大きい)は、映画の最初でも登場していた例の写真集のようだ。
  映画を見終えたのち、私は、パソコンに向かい、インターネットの「アマゾン・ジャパン」で、チェックした。
  どうやらそれは『靖国刀』(トム岸田著・雄山閣出版・平成10年)という本だ。そして注文したら、数日後に送られてきた。

  そのA4判の本(写真集)を見て私はまたまた驚いた。
  誘導尋問の際に、李監督が刈谷さんに読ませていたテキストは、その本に載っていた森雅裕の「軍人と軍刀」という文章の一節だった。
 戦中の記録──というより、軍部のプロパガンダでは、日本刀の活躍は時として銃を越える。××少尉はあっぱれ、何人斬ったというような武勇伝が華々しく報道されたようである。
  李監督はこの「武勇伝」の部分を問題にしていたわけだが(「あっぱれ、何人斬った」という刈谷さんの声がはっきりと聞こえる)、森氏の文章のポイントは、続くこういう1節にある。
 砲煙弾雨のはずの戦場で、どうしてそんなことが可能なのかはさておき、武士道と軍人を結びつける刀は、忠誠と軍国精神の象徴としても格好の素材であった。
  森氏は自分のテキストが映画『靖国』の中でこのように使われていることを知っているのだろうか。

  しかし私が驚いたのはその事ではない。

  映画の最初の方、刀を作る刈谷さんの作業風景のシーンで、まるでサブリミナルのように、戦前・戦中の靖国神社における刀打ち作業をはじめとする日本刀鍛錬会の鍛錬所の写真が何枚も映し出されて行く。
  私も初めて見るかなり貴重な写真ばかりだ。
  そしてそれらの写真は殆どが『靖国刀』に載っていたのだ。つまり『靖国刀』からの転用だったのだ(映画ではその事はまったくクレジットされない)。
  いや、殆どと書いたけれど、例外もある。
  その内の一点が日本刀鍛錬会の五代目理事長東条英機の肖像写真だ。

  昭和13年5月から約半年ほど同会の理事長をつとめた東条英機は、歴代の11人の理事長の中でも3番目に短い就任期間(11代目の若松只一は就任と共に敗戦を迎えたのでそれを除くと2番目)であるのに(例えば7代目の阿南惟幾は1年半つとめた)、李監督は、『靖国刀』には載っていない東条英機の肖像写真を、「五代目理事長東条英機」というキャプション入りで、映画に挿入したのである。それはもちろん意図的な行為だったのだろう。

  先にも述べたようになぜ昭和8年という年に日本刀鍛錬会の鍛錬所が靖国神社境内に作られたのか、と私は思っていたのだが、その理由も『靖国刀』によって知ることができた。
  日本刀の伝統というのは戦国時代以来ずっと絶えることなく続いてきたという錯覚に私たちはおちいりがちである。
  しかし歴史の年表を見ればわかるように、維新後の明治9年3月、新政府は廃刀令を布告した。

  『靖国刀』に収録された「維新後の刀剣事情と靖国刀の意義」という一文で、刀剣ジャーナリストの土子民夫は、こう書いている。
 旧幕時代にはおそらく数百を数えた刀匠も廃藩と廃刀で一挙に零落し、研師も鞘師・柄巻師・塗師も、金工の諸職も、日本刀に関する限りことごとく失職の憂き目を見たのである。
  廃刀令はあったものの、しかし、単なる武器にとどまらない日本刀の価値観は変ることがなかった。例えば、「明治27年の日清戦争において役夫までもがこぞって日本刀を携行するような事態も生ん」だという。

  だから・・・・・・。
 靖国刀の誕生は一つに、わが国の不幸な武力による版図拡大を背景としている。すなわち、明治期の日清・日露戦争、大正期の第一次世界大戦(大正3年)・シベリア出兵(同7年)、昭和に入っての満州事変(昭和6年)と、軍刀としての日本刀の需要機会が相次ぎ、大量の日本刀が消失していくが、鍛刀界は自力でこの状況にこたえる力を失っており、粗製刀も出回り始め、一部では非常な危機が痛感されていた。そのような折に、陸軍の全面的な後ろ盾の下に陸軍大臣荒木貞夫中将や陸軍省軍務局長山岡重厚少将らが、良質の軍刀整備を急務として計画したのが日本刀鍛錬会であった。

  その場所が靖国神社に選ばれたのは陸軍と同神社との関係の深さによるものだろう。

  このままでは質の高い日本刀を作る鍛錬技術がすたれてしまうという危機意識が、昭和8年の日本刀鍛錬会設立となったわけだが、2度目の危機は、敗戦直後のいわゆる「昭和の刀狩り」の時に訪れ、製作の復活がゆるされたのはサンフランシスコ講和条約締結以後の事だ(『靖国刀』巻末の「関係者一覧」の履歴を見て行くと刈谷さんは昭和27年に講和条約記念刀を製作していてどうやらそれが刈谷さんの戦後第一作のようだ)。
  こうして日本刀の鍛錬技術は命脈を保たれ、昭和57年7月、靖国刀を作っていたかつての仲間達18人が集まり、日本刀鍛錬会の創設50周年に当たる昭和58年7月8日に合わせて新たな靖国刀を合作することを決めた(つまりそれがこの映画の冒頭に登場する感謝状の意味なのだが、その点に関しての何の説明もないから映画を見ている人間は今でも毎年のように靖国刀が靖国神社に奉納されているような──しかも御神体として──誤解を受ける)。


刀匠の映し出すもの


  ところで、先に私は、李監督の誘導尋問のような質問に対して刈谷さんがまったくぶれることがないと述べた。
  次々と質問を重ねて行く李監督に対して、刈谷さんも1つだけ質問する。
  つまり刈谷さんは、李監督に、「小泉さんが靖国神社にお詣りすることをあなたはどう思われますか?」と尋ねる。
  その質問に李監督は答えない。
  しばらくの沈黙ののち、「刈谷さんはどう思われますか」、と李監督は、質問をすりかえる。

  すると刈谷さんはここでもぶれない。
「韓国や中国の人たちは怒るかもしれないけれど、私は小泉さんといっしょのようなものだから、靖国神社は国のために亡くなった人の霊をなぐさめるためにあって、将来戦争が起こらないようにと・・・・・・」
と答える。

  刈谷さんの語るこの言葉は非常に深く説得力があった。しかもこのあとが見ごたえあった。しばし沈黙ののち、刈谷さんは深くためいきをつく。そして沈黙。しばらくのち、監督に向かって「お茶も差し上げないですみません」と言ったあと、また沈黙。
  8月15日の靖国神社に集まるミリタリーコスプレの人たちよりも、刈谷さんの方がずっと深く靖国のことを思っているのが、見る人に伝わってくる。

  これまで述べたように、李監督はこの映画で様々な情報やイメージの操作を行っている。
  そういう操作がありながら、刈谷さんの一つ一つは、その操作を越えて、靖国の真実を描き出して行く。
  その美しい姿をより多くの人たちに見てもらうためにも、『靖国』は、絶対に上映中止にするべきではない。

(文芸春秋 2008.6月号)



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