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四 日米戦争への道

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世界に知られていた南京大虐殺

四 日米戦争への道

ここで、当時日本国民はどのような反応をしめしていたかということについてごく簡単にふれておきます(この間題については、さきのパナイ号事件・南京事件に対する国民の反応とあわせて、日本国民の
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反応を比較分析する論稿をまとめる予定でいます)。

『昭和・第4巻日中戦争への道』(講談社、一九八九年)の年表の一九三七年三月二日の事項に「南京陥落の公表を待たず、東京では祝賀提灯行列が繰り出し、国会議事堂に電飾が点じられる」と書かれています。同じく一二月十一日付の『朝日新聞』は「日章旗南京に翻るまで」という南京占領記事を南京がまだ陥落していないにもかかわらず報道しています。このように、当時の日本の新聞報道を見ますと、マスコミは南京攻略戦の報道合戦を繰り広げ、日本国民の間には、日本軍はいつ南京を占領するのかというあたかもゲームでも見るかのような期待感が生まれ、それをさらに新聞やマスコミが煽っていたという状況があったように思います。

かなり早い時期から「南京陥落」の報道が繰り返され、国民の戦勝気分を必要以上に煽り立て、それが日本軍に強引な攻略作戦をとらせ、さらには南京入城式早期実施のために、すさまじい殺戮戦を展開させることになったのは、吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店、一九八六年)に指摘するとおりです(一四二頁)。

こうした、早期南京占領の「誤報」に躍らされ、かつ便乗しながら、官庁が音頭をとって祝賀行事を準備したわけです。ワシントンの米国立公文書館で見た国務省記録にあつたのですが、やはり一ニ月九、一〇日頃の段階で、植民地の台湾においてさえも官庁が音頭をとつて提灯行列の祝賀行事を準備していたことが報告されています。

南京が陥落するのは一ニ月一三日ですが、翌一四日夜には、皇居周囲を祝賀の群衆が埋めつくした提灯大行列が行われます。この提灯行列は全国各地で、官庁の肝煎りで挙行されたわけです。こうし
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て、日本国民は、中国に勝った勝った、これで中国も屈伏するという祝賀気分に浮かれたわけですが、そのいっぽうで、日本軍が南京で行った捕虜や市民の虐殺、略奪、放火、強姦などの惨状については、マスコミ報道でも厳しく秘匿され、日本国民には知らされなかったわけです。

いっぽうこれに対して、アメリカ政府と国民は、パナイ号事件と南京事件の発生に端的に示された、日本の日中全面戦争への突入過程を知ることによって、日本軍国主義の好戦性、侵絡性に大きな警戒心を抱くようになります。盧溝橋事件が起こった時点では、日本政府は不拡大方針をとり、南京攻略戦ももともとは参謀本部の正式な作戦にはなかったわけですが、上海派遣軍がやがて中支那方面軍になり、松井石根司令官の指揮下に南京攻略を強行し、陸軍中央部がそれを追認します。それを、マスコミが便乗して報道合戦をして国民の戦勝意識を煽り、さらに中央・地方の官庁まで戦局に便乗する姿勢をあらわに見せたわけです。

このように、日本の政府の、日本軍とくに現地軍の行動に対する統制能力のなさが、パナイ号撃沈事件を容易に起こさせたと認識したアメリカ政府は、日本軍はいずれはアメリカ軍にも不意の攻撃をかけてくる可能性があることを予知します。それに備えて軍備の拡張だけは進めておかなければ、ということになります。これらの事実関係について、改めて研究する必要があると思いますが、当時のアメリカ大統領ローズベルトは、ニューディール政策のある程度の行き詰まりということもあって、産業の活性化のために、軍需産業に力を入れるようになります。国民世論が対日警戒・対日制裁の方向に動いていましたので、それを利用した側面もあります〔拙稿「日中戦争とアメリヵ国民意識―パナイ号事件・南京事件をめくって―」(中央大学人文科学研究所編『日中戦争―日本・中国・アメリカ
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―』中央大学出版部、一九九三年)でこうしたアメリカ国民世論の変化を整理分析した〕。

石垣綾子さんは、パナイ号事件や南京事件が四年後の日米戦争に繋がっていく大きなきっかけになったことを、アメリカにおける自分の体験を通じて感じたとのことですが、著書の中でも次のように述べています。

「日本の中国侵略により、中国にあるアメリカの権益はおかされ始めた。揚子江のアメリカ砲艦パネー号の撃沈はそれを具体的に象徴する事件であった。中国支持と日本敵対の国論は、こうした国際関係の駆け引きを背景にしていた。太平洋戦争への道はすでにこのときから内包されていたのであったが、米国政府は、強硬手段で日本を刺激することはあくまでも避ける方針であった。なまぬるい政府のやりかたに反対して、民衆の間からは、日本の侵略に抗議するさまざまな運動が始められた。」(石垣綾子『回想のスメドレー』社会思想社、現代教養文庫、一九八七年、一一五頁)

パナイ号撃沈が真珠湾攻撃の序曲であるという捉え方が、アメリカ側に強くあることは、パナイ号事件に関する研究書のサブ・タイトルが以下のように付けられていることからも窺われます。


Harlan J.Swanson,“The Panay Incident:Pre1ude to Pearl Harbor",1967.
Hami1ton D.Pery,“The Panay Incident:Prelude to Pear1 Harbor",1969.
Manny T.Koginos,“The Panay Incident:Pre1ude to War",1967.

以上、「世界に知られていた南京大虐殺」と題して、アメリカにおける南京事件の報道の様子と、バナイ号事件とセットの形になった同事件に対するアメリカ国民の反応を紹介いたしました。今年
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〔一九九一〕は、ちょうど日米戦争、世界的にはアジア太平洋戦争開戦五〇周年になるわけですが、日中戦争から日米戦争にいたる過程で、南京事件とパナイ号事件が重要な意味をもっていたことを我々は十分に知っておく必要があります。現在は、南京大虐殺はなかったなどという最近の石原慎太郎発言に見られるような低次元の認識ではなく、日本人の歴史認識を鍛えるためにも、南京事件の日中戦争・アジア太平洋戦争における世界史的位置づけを、厳密に検討すべき段階にきているように思います。

なお、文字どおりの南京事件が世界に報道されていた様子については、笠原十九司証人意見書『世界に知られていた南京大虐殺』(教科書検定訴訟を支援する全国連絡会、一九九一年)を参照していただければと思います。

※本稿は、一九九一年一一月九日に明治大学大学院南講堂で開かれた「教科書検定訴訟を支援する一一月集会」における講演「世界に知られていた南京大虐殺――マギー牧師撮影のフィルムをめぐって――」のテープ起こし原稿に、さらに加筆訂正を加えたものである。
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以上


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