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第1 渡嘉敷島の巻(3)

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第1 渡嘉敷島の巻(3)


6 知念朝睦


赤松隊元副官であり、赤松隊長の側近であった。赤松隊唯一の沖縄県出身者である。当初から《赤松命令説》を否定する証言をしている。本件訴訟に出頭した証人である。(Ⅰ)
(1) 『ある神話の背景』【昭和48年5月発行】(甲B18)
「『(地下壕はございましたか?)ないですよ、ありません。』
知念氏はきっぱりと否定した。
   『この本に出て来るような将校会議というのはありませんか』
   『いやあ、ぜんぜんしていません。只、配備のための将校会議というのはありました。一中隊どこへ行け、二中隊どこへ行けという式のね。全部稜線に配置しておりましたんでね。』
    知念朝睦氏は、あまりにもまちがった記事が多いのと、最近、老眼鏡をかけなければ字が読みにくくなったので、この頃は渡嘉敷島に関することは一切、読まないことにした、と私に笑いながら語った。
    つけ加えれば、知念氏は少くとも昭和四十五年までには沖縄の報道関係者から一切のインタビューを受けたことがないという。それが、赤松氏来島の時に『知念は逃げかくれしている』という一部の噂になって流れたが、
   『逃げかくれはしておりません。しかし何も聞いていないところへ、こちらから話を売り込みに行く気もありませんから、黙っておりました。
    昨年春(昭和四十五年三月)赤松隊長が見えた時に、市役所の職員の山田義時という人から会いたい、という申し出でを受けました。何も知らないので、初めは会おうと思いましたが、その後、その山田氏が、赤松帰れという声明文などを空港で読み上げて、それで名前もわかりましたので、そんな人に会うのは不愉快だと思って断りました。しかしその時が面会を申し込まれた最初でした』」(甲B18p113,114)
「食糧の分配の問題ですが、これは住民が取りやすい豚だとか鶏だとかをとって、取りにくい牛は軍が食べる。これは村長の目の前でそういう協定をしたわけです。ところがそういうことは、全然、戦記にもありませんし、新聞にも出ません。」(甲B18p184)
(2)『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)p769~775
   「西山陣地では電話も通ぜず各隊との連結は容易ではありません。かろうじて各隊が集結していた頃、西山陣地の後方では、村民の自決が行われていました。
    十歳くらいの女の子と、兄弟らしい男の子が陣地に私を訪ねて来て、お母さんが自決したというのです。はじめて自決のことを聞きました。
    この子らは阿波連から恩納川に行き、西山陣地近くで、この子が手榴弾を発火させ、母親に投げたところ、赤児と母親の間におち、死んでしまったということでした。その自決場所には、妻子を殺したという男が半狂乱に、私に、自分はどうしても死ねないので斬ってくれと、わめいていました。この男も、姉妹も元気に居ります。
    どうして、こういうことがおきたのか。その動機は、おそらく、数日まえ阿嘉が全滅し、村民は自決したときいて、いずれ自分たちもあのようになるんだと、きめていたに違いありません。そこへ、米軍の追撃砲です。山の中をさまよい、わいわい騒いでいるところへ、どかんと飛んで来たのがそれです。
    もう生きられる望みを断たれたと、思っていたのです。それが自決をさせたと思います。しかし私が問題にするのは、十歳の少女がどうして手榴弾を手に入れたか、ということです。
    それにしても私が見た自決者の遺体は六、七体でした。記録に残る三二九体なら、それは、恩納川上流に累積していなければならないはずですが、そんなのは知りません。
    赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けて、早まったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。
    私は赤松の側近の一人ですから、赤松隊長から私を素どおりしてはいかなる下令も行われないはずです。集団自決の命令なんて私は聞いたことも、見たこともありません。
    もっとも、今現存しているA氏が機関銃を借りに来ていました。村民を殺すためだというので赤松に追い返されていました。」(p772~773)。
(3) 証人調書
  『沖縄県史第10巻』(乙9)はインタビューを受けて記載されたもので、その内容は正しいとはっきり証言している(知念調書p1~5)。特に《赤松命令説》が虚構であることについては反対尋問もふまえて明確に証言している。
   「(〈乙9の〉中身についてどう思いますか、正しいか間違いかということを聞かれて)正しいです。」(知念調書p2)
   「はい。自決命令はいただいておりません。」(知念調書p5)
   また、『沖縄県史第10巻』(乙9)p772・2行目以下のエピソードを更に具体的に証言している。
   「(何のために陣地に来たというふうに言ってたんですか。)それは理由はわかりませんけども、きょうだい2人ですから、戦隊長の命によりまして、乾麺麭を上げてやりましたら、帰りました。」(知念調書・p2)。
   「(知念さんは、その姉、弟に対して、何か言いましたか。)はい。これは言いました。とにかく絶対に死ぬなと、捕虜になってもいいから生きなさいと、死ぬのは兵隊さんだけだと、こう言っておりましたら帰りました。」(同p2)
   「(乾麺麭というのは、だれからもらったんですか。)戦隊長は、たしか3つだと思いますがくれましたので、それを上げて陣地から帰しました。」(同p3)
   「(姉弟に会って、その後に赤松戦隊長のところに言いに行ったわけですか。)はい。あのときは、もうそういうふうに子供たちが来たんですから、陣地の中へ来たんで隊長に報告いたしました。」(同p3)
   「(その隊長に報告をしたら、乾麺麭を赤松戦隊長が、これを姉弟に渡せということでくれたということですか。)はい、そうです。」(同p3)
   「(ほかにあなた自身がその女の子に対して上げたものはありますか。)たしか私は財布をやったと思います。」(同p3)
   「(なぜあなたは財布を渡したんですか。)これはもう兵隊でございますし、死んだらその財布は何も必要なくなると。そういうことで、おまえら絶対生きなさいよと、生きたらこの金は使えるはずだから、必ずそれを持っていきなさいと言って渡しました。」(同p3)
※ 知念自らが、陣地に来た「きょうだい」に対して、「絶対に死ぬな」と言い、赤松隊長から貰った「乾麺麭」をやり、自らの財布もあげている。「きょうだい」の話は、『沖縄県史第10巻』(乙9)にも記載されている話である。証言も具体的であり、《赤松命令説》の虚構を強く裏付けるものである。
(4) 『沖縄戦ショーダウン』(1~13)【平成8年6月】(甲B44)
   「知念朝睦さんに電話すると、『赤松さんは自決命令を出していない。私は副官として隊長の側にいて、隊長をよく知っている。尊敬している。嘘の報道をしている新聞や書物は読む気もしない。赤松さんが気の毒だ』という。これは全てを白紙に戻して調査せねばならない、と決意した。」(甲B44・3・6段目)
(5) 小括
    赤松大尉の元副官知念朝睦は、本件において最重要証人の一人である。
    知念は、『沖縄県史第10巻』(乙9)に収録された自身の証言を正しいものとして、それを更に具体的に証言している。《赤松命令説》、『鉄の暴風』の虚構性はより明白となっている。

7 金城重明


当時16歳。兄は阿波連の区長もしていた「金城重英」である。「金城武徳」と同級生である。「山城盛時」、「金城重英」と共に、「集団自決」を体験している。本件訴訟に出頭した証人である。(Ⅴ)
(1) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「渡嘉敷島でのいわゆる集団自決について、直接の指揮系統は未だ明確ではなく、赤松大尉は直接には命令を下さなかったという説もあり、したがって、その点は、いまは別個にして、当時の記憶をたどってみたい。米軍が慶良間列島に上陸したのが二十年三月二十六日、翌二十七日に、私たちは阿波連の部落から渡嘉敷へ移動した。そのときはすでに、私たちは軍と行動をともにするという意識が徹底されていて、みな玉砕の覚悟をもっていた。防衛隊から配られた手榴弾を手にして、ひたすら日本軍の命令を待っていた。だいぶんたって、軍からやっと自決命令が下った。ところが、最後まで戦う覚悟のはずの日本軍の陣地からは一発の応射もない。米軍の攻撃は、しだいに私たちに迫ってくる。すでに意を決していた私たちは、手榴弾のセンを抜き爆死を試みた。だが、前日からの雨で湿気を受けていたせいか、ほとんどがじゅうぶん発火せず、手榴弾の犠牲者はほとんどなかったといってよいくらいだ。後から考えれば、この手榴弾の不発のために悲劇はいっそうつのった。こんどは身内同志の殺し合いが始まったのである。私は米軍の爆風に冒され、意識がもうろうとしていたが、明らかに死を実感したことだけは確かである。やがて意識がはっきりしてくると、私の眼前で阿波連の区長が木を一本折って妻や子供をなぐり殺している場面が眼に映ってくるではないか。そのときの驚きようは、とてもことばにならない。その情景を見ていたまわりの人たちも以心伝心で、つぎつぎと家族同志、木やカマを使って殺し合い、自らの頸部をカミソリで切り、あるいはクワで親しい者の頭をたたき割る・・・。   私も、兄といっしょになって夢中で母と妹もなぐり殺した。半ば放心状態だった。島民が肉親までも殺し、また自らも命を絶たなければならなかった理由は3つあると思う。(1)米軍に捕まると惨殺される。(2)皇民として捕虜になることは恥辱である。(3)天皇陛下のために死ぬ、ということであった。」
※ 「直接の指揮系統は未だ明確ではなく、赤松大尉は直接には命令を下さなかったという説もあり、したがって、その点は、いまは別個にして、当時の記憶をたどってみたい。」として、結論を留保した記載をしている。《赤松命令》を直接経験していないことを意味する。《赤松命令説》とは異なる3つの理由を挙げている(前記(1)(2)(3))。
(2) 『ある神話の背景』(甲B18)
   曽野綾子は、金城重明の証言については「正確を期すために」、同人の手記をそのまま掲載している。
   「三月二十八日、自決場へ集結せしめられてから、死の命令が出るまでの数時間は極めて長く重苦しく感ぜられた。」(甲B18p154)
「いよいよ自決命令が出たので、配られた数少ない手榴弾で、身内の者同士が一かたまりになって自決を始めた」(甲B18p155)
「しかしデモーニッシュな死への至上命令が遂に内面を支配した。怪獣によって魔力が充電される様に、死ななければならないと言う意識がいよいよ支配的になって行く。十六歳と言う年齢の少年の敏感さと純粋さが、異常な方向へ向けられてしまったのである。」(甲B18p156)
「しかし渡嘉敷島での最後の生き残りであると信じた私共は、敵の惨殺に会う時がいよいよ決定的に刻一刻と迫ってくるのを重く感じた。それはまさに末期的死の意識なのである。この様な状況で生き延びることはなお恐ろしい絶望でしかなかった。残された道は死のみである事を、以前よりもひしひしと直感した。この様に集団自決が終りに近づくに連れて、死の集団の強い連帯を覚えた。すべてが一つの死の家族集団と化したのである。肉親を越えたより大きな死の家族集団が、渡嘉敷の集団自決場で、瞬間的に形成された。   
この死の連帯感が、私をして他人の死を早める働きへと動かしめた重大な要因だったのだ。」(甲B18p161)
「生きることより恐ろしい状態が来た時には死を願う。私たちの場合は異常の状況ですから、生きることが、生き残ることが恐かった。」(甲B18p161)
※ 《赤松命令》は出て来ない。むしろ、「死の連帯感」を重大な要因としている。
(3) 『「集団自決」を心に刻んで』【1995年6月第1刷・1999年9月第3刷発行】(甲B42)
    著者の金城重明は、何百人という集団自決が起こった原因として、
「『皇軍』との"共生共死"の思想こそが、非戦闘員を死に追い込んだ最大の要因だったのです。」(甲B42p50)
としており、集団自決の最大の要因を、『共生共死』の思想に求め、赤松隊長の命令とはしていない。
    自決の経緯についても記載されているが、次のとおり、金城自身は、自決命令を目撃(直接体験)しておらず、「軍の命令」については、「議論がある」としている。金城重明には《赤松命令説》を語る上での証人適格はないのである。
「三月二八日の朝を迎えました。どんより曇った空が、当日の暗い、悲惨な出来事を予告しているかのようでした。村長の指揮のもと、住民は一か所に終結しました。重大な出来事、すなわち、死が待っているであろう、ということは、だれにも明瞭に予感されていました。」
「私どもは、刻々と迫りくる命令を待ちました。軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられました(この事実関係については議論がある)。また、すでに米軍は三百メートル近くまで迫っている、との知らせもあったようです。」(甲B42p52)。
※ 当時の自決に至る金城重明の心理状態も記載されている。この心理状態の記述からは、集団自決の発生が赤松隊長の命令により強いられたものという事実はうかがえない。
「決して、われ先に死に赴く男性は、一人もおりませんでした。愛する者を放置しておくということは、彼らを、最も恐れていた『鬼畜米英』の手に委ねて惨殺させることを意味したからです。『集団自決』が進行するにつれ、『生き残る』ことへの恐怖心と焦燥感のボルテージが、極度に高まってくるのを強烈に感じました。『生き残ったらどうしよう』と"共死"の定めから取り残されることへの恐怖は頂点に達しました。私どもは死の虜になってしまっていたのです。当時の『教育』の凄まじさに身震いがします。」(甲B42p55)。「もし、軍隊や住民側から"自分たちはまだ生きているぞ"との情報を伝達してくれる者が一人でもいたら、『集団自決』は中途で断念されたに違いありません。しかし、あのような状況では、それを期待する方が無理だ、との反論が返ってくるだろうと思います。」(甲B42p56)
  「また、同じ慶良間の阿嘉島の『集団自決』(三月二六日)の誤報が、渡嘉敷の悲劇の遠因になったことも否定できません」(甲B42p57)
(4) 証人調書
金城重明の証人調書において、自己の体験しない事実・評価は、何ら証言としての価値がない。価値があるのは、それがどんなに悲劇的であろうとも、公的に語った「集団自決の実像」である。
(5) 小括
    金城重明の証言で明らかになったことで重要なことは、大きく分けて二つである。一つは、金城重明は、《赤松命令説》を語る証人としての適格性がないこと、もう一つは、被告らが《赤松命令説》をすり替えて主張する《3月20日手榴弾交付説》において手榴弾を受け取るべきはずの人物が誰も手榴弾を受け取っていないことを新たに証言したことである。すなわち、《赤松命令説》、《3月20日手榴弾交付説》は何ら根拠がない虚構であることが明らかとなったのである。


8 山城盛治


渡嘉敷出身、当時14歳。「集団自決」の事実を正直に証言したものである。山城は、「金城重明」、その兄「金城重英」と共に「集団自決」の体験者である。(Ⅴ)
(1)『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(甲B39)p399~406
「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。
 女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。
僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとおかしくなっていた。
    そうこうしているうちに、米軍からも弾がボンボン射ちこまれてね。 
 私は一四歳だったけど、村の青年たちが、死ぬ前に、アメリカーを一人でも殺してから死のう、斬り込みに行こうと話し合ってね。
行く前に、心残りがないようにと、刃物、ほとんどが日本軍のゴボウ剣ですが、どこから持って来たかわからないですがね。
それで(ゴボウ剣で)子どもは、背中から刺し殺し、子どもは、肉がうすいもので、むこうがわまで突きとおるのです。
  そして、女の人はですね、上半身裸にして、左のオッパイをこう(手つきを真似る)自分であげさせて、刺したのです。
私は、年が若いし、青年たちに比べて力もないから、女の人を後ろから支える役でしたよ。
私たちは三人一組でね、一人は今、大学の先生をしています、もう一人は、区長、字の世話係りですよ。
 年よりはですね、首に縄を巻いて、木に吊すのです。動かなくなったら、降ろして、こう並べるのです」
(2) 小括
     上記「大学の先生」とは「金城重明」、「区長」とは金城重明の実兄「金城重英」のことである。「集団自決」は多様な態様を含むものであるが、《赤松命令説》は、この多様な態様を全て説明できるものではない。このことからも《赤松命令説》の虚構性は明らかである。

9 小嶺園枝


渡嘉敷出身。当時30歳である。当時4人の子供の母親である。「集団自決」の体験者である。(Ⅳ)
(1) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(甲B39)p372~381
「本部のそばの川なんか、水が溢れて、赤土がドドーッと流れて、そこを渡って、今、玉砕場といわれているところに行った。
    私たちは死ぬつもりはないから、最後の最後まで立っていたけど、他の人たちは、心中して、家族みんな死ぬのもいるし、傷負って生きている人もいるし、むごいものでした。
    うちは、子ども四人に夫婦の六人家族、一番上の兄夫婦は子どもがなくて、また、姉が南洋から子ども三人つれて引き揚げて帰っていたから、これだけ一か所にまとまって座っていたら、義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を二個持ってきた。」(甲B39p374)
   「始まったのは、日がくれる前ですよ、スバヒラ(周り)で手榴弾をボンボンする人、太刀(銃剣)やヤマナジ(ナタ)で家族殺すのもいるし、負傷した人たちは、アビャーアビャーして、“タシキティキリー、クルチキリー”(助けてくれー、殺してくれー)するものだから、ウワラヌフルモーから本部の兵隊に追っ払われて、今の第二玉砕場に兵隊に連れて行かれたのですよ。
    その前だったかね、村長の米田さんが、本部から機関銃かりて生き残った人たちをやろうとして兵隊にとめられたのは、親も子も血ダラダラして、本部に行ったら、隊長にはおこられるし、もう一人の兵隊は、剣ふりまわして、怖くなってカーシーガーラに逃げていく人もいるし」(甲B39p375)
(2) 小括
     4人の子供を持つ母親の体験証言である。《赤松命令説》を何ら語っていない。自決後、「隊長にはおこられる」という証言をしている。「義兄が、防衛隊だったけど、隊長の目をぬすんで手榴弾を二個持ってきた。」(甲B39p374)として、防衛隊が手榴弾を赤松隊長の目をぬすんで入手していたことを明らかにする。《手榴弾交付=「命令」説》の根拠は、武器は厳重に管理されている筈であるから赤松隊長が同意を与えたに違いないとするものであるが、防衛隊の持ち出しが可能な戦況であったのであり、前提が破綻している。

10 小嶺幸信


渡嘉敷出身、当時14歳である。(Ⅴ)
(1) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(甲B39)p385~389
   「玉砕場」に行った経緯が証言されている。
   「アメリカーが上陸するまでは、西側(部落の)壕にいたが、その夜(二六日)防衛隊が『敵が上陸して危険だから移動しろ』と、いう事で、一応南側の山に避難した。
    シジミチ山で一晩過ごしました。そこから見える慶良間海峡には、軍艦がいっぱい並んでいるのが見えて、もうそこら辺りにも(敵は)入り込んでいると思って、また、部落に降りて北山に行った。
    その日は、だいぶ雨が降って、母の両親は、もう年で山道は歩くこともできない状態で、じいさんばあさんに『あんたたちは、若いから、出来るだけ命を永らえるようにしなさいよ』と、いわれ、別れました。
    その夜、北山の、今、玉砕場と呼ばれるている処についた。
    僕らは、夜明前に着いたが、夜が明けてから村の人たちが、どんどん避難してきた。どこから命令があったか知らないけど、みんな集まって来るから、僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた。誰が音頭をとったか知らないが、"天皇陛下バンザイ"と三唱やった事を覚えている」(甲B39p386)
(2) 冊子『わたしたちの渡嘉敷島《六年生の社会科郷土資料》』(渡嘉敷村教育委員会編)【1989年3月31日初版・2004年3月31日改訂版発行】(甲B48)
    p39に上記(1)と同様の記載がある。
(3) 小括
    「僕は、そこが安全な避難場所だとばかり思っていた」と証言している。《集合「命令」説》の破綻が判る証言である。

11 連下政市


赤松大尉の元部下である。当時第二中隊の第二戦闘群の郡長、少尉。《赤松命令説》を否定する証言である。(Ⅰ)
(1) 『週刊朝日「集団自決の島-沖縄・慶良間」』【1970(昭和45)年8月発行】(甲B20)
   「真っ暗な夜、10時過ぎにもなっていたでしょうかぁ。3、40人もの住民がワンワン泣きながらやってきた。『もうカネもいらない。殺してくれ。兵隊さんと一緒に死にたい』と叫びながら、手にもった貯金通帳や国債やかつおぶしを投げつけるのです。その泣声を耳にして、米軍陣地から機関銃を撃ちこまれ、一人の兵士が戦死した。『あんた方がきては撃たれるし部隊も迷惑するから動いてくれ』といっても泣くばかりで、説得するのに2、30分もかかったのを覚えている。その時点では自決のことは知りませんでした」(甲B20p21)

連下元小隊長に宛てられた島民の手紙
  「(集団自決後、敵の機銃陣地に切り込みにいく途中)、連下少尉殿、あなたの刀を貸してくれませんか・・・、子供等を処分整理してこないとうしろがみが引かれて、どうしても貴殿方と一緒に行動することは出来ません、といったら貴殿がおこられてバカをいうもんじゃない、人間はどんな目に逢おうと、或いはちりぢりばらばらに別れても生きるものは生かすことだ、人間は死ぬことはやすいが、死んでからは生かされるものではない、例え戦争といえどもそんなバカな考えをもってはいけないよとさとされたのでほんとに思いとどまったのでした」
この手紙を基に、中西記者は「必ずしも赤松隊と島の人々とが真向から対立していたとはいえないようだ。」とコメントしている(甲B20p21)。
(2) 『ある神話の背景』(甲B18)
    連下少尉は、住民が陣地内になだれ込んだ時点の事実を目撃している。
   「二十七日の夜、雨の中で(ということは闇夜であった)村の人たちが、興奮してやって来て、彼の目の前で貯金通帳やかつおぶしを『ほかして』ここへおいてくれ、とわめいていたのを目撃していた。
    しかし、そこはまだ、穴一つ満足にない陣地であった。いや、陣地の予定地だったという方が正しい。いくら予定地であろうと、軍陣地内に民間人を入れるということはできない。
    連下少尉は、当然これを断った。」(甲B18p127,128)。

    連下少尉は、「集団自決」の「場所」についても証言している。赤松隊長の「ほんの数人」、『鉄の暴風』に書かれる「329人もの屍がるいるい」という状況を見たことがないというのを受けての証言である。
   「私は一人見ました。一週間後に谷川の傍にいたんです。死体かと思ったら、生きていました。『兵隊さん』って、声をかけられました。こめかみのところに血痕が附着していましたが、一人でした。」(甲B18p131)、
「あちこちで自決されたのと違いますか」
という連下少尉の発言を受けて、赤松大尉は、「三百人以上もの方が固まって亡くなった光景というのが、どうしても実感としてわかない」と答えている(甲B18p132)。
(3) 小括
住民の手紙の文面から、集団自決後に、連下は、子供達を殺すと言っている住民に対し「バカなこというな」と言って止めている。「自決命令」が出ていたのであれば考えられない行動である。 

12 富野稔


当時20歳、赤松隊長の部下、当時第二中隊長。元少尉。(Ⅰ)
(1) 『ある神話の背景』(甲B18)
富野少尉は、自決の場所、自決当時の陣地になだれこんで来た住民を目撃している。
「(自決した方をみたか)滝壺の傍でなら、二十名ばかり見ました。」
   「(非戦闘員の村民がいる場所として適当か)上陸地点は、大体、敵の上陸でき得るところが決まっています。つまり南の方から上って来る可能性がこの場合、強い。その場合、軍が南向きに布陣したら、その後北側に、住民を置くのは一応常道だと思います。」(甲B18p134)
   「(自決の前夜、豪雨のときしていたこと)穴掘りです。道具がないから、ゴボウ剣で掘っていました。前にも申しました通り二中隊の連れていた兵は約六十名で軽機関銃一丁だけですが、これではそう長い間、保たないな、と思っていました。」(甲B18p134,135)
「住民の方が流れ込んできたのは(28日の)14時頃です。二中隊正面に、泣き叫びながら押し寄せました。アビ叫喚というのでしょうか。確実に弾着を連れながら、近寄って来ました。つまり、敵の弾を引きつれるようにして来たんです。《兵隊さん、殺して下さい》口々に言いながら陣地へ入って来るので、どうしようもありませんでした。まさに生き地獄でした」(甲B18p135)

   富野元少尉は、「当時の風潮」についても証言している。
「私は防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったと思います。今の考えの風潮にはないかもしれませんが、あの当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持はあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、自らの命を絶った、という面もあると思います。死ぬのが恐いから死んだということがあるでしょうか。
    むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさを自らおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません。」(甲B18p167)
(2) 小括 
部隊の当日の状況を証言している。当時、《赤松命令説》が出せる戦況にないことが判る。「心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持」は、先述の連下少尉に宛てられた住民からの手紙にも、同様のことが記載されている。

13 太田正一


元赤松隊候補生。《赤松命令説》を否定する。(Ⅰ)
(1) 『ある神話の背景』(甲B18)
「もし、本当に玉砕命令を出していたのなら、生き残って再び集った人をそのまま見逃しはしないでしょうね。命令は命令ですから、いったん出した命令は遂行しなければならないし、また、そうできる状態にあったと思うんです。」(甲B18p141,142)
(2) 小括
    「軍隊の命令」の性質について語っている。《赤松命令説》に従って命令が遂行された事実は見当たらない。むしろ、陣地内になだれこんだ住民を追い返したり、衛生兵を派遣して治療にあたらせる等《赤松命令説》と相反する事実が認められる。

14 若山正三
赤松隊長の元部下、軍曹。衛生兵として「集団自決」後の住民の治療にあたっている。(Ⅰ)
(1) 『ある神話の背景』(甲B18)
     赤松隊長の意向で村民の治療をしたことを語っている。これも《赤松命令説》が虚構であることを示す重要な事実である。
「村民の治療をなさったのは、若山さんのご一存ですか?」
「いや、軍医や隊長の意向でもありましたんでね。」
「若山さんが、こっそり行っておあげになったんじゃありませんか?」
「いやそんなことはないです。明らかに隊長と軍医に言われたからです」
「それを証言なさいますか?」
「それはまちがいないことです」(甲B18p121,122)
(2) 小括
     太田元候補生が言うように、もし《赤松命令説》が事実であるなら、村民の治療をするわけがない。この証言も《赤松命令説》が虚構であることを示す事実である。

15 皆本義博
    元赤松隊、赤松隊長の部下である。原告側の証人となった。(Ⅰ)
    法廷で、当時の戦況、赤松隊長とのやり取りを具体的に証言し、《赤松命令説》を完全に否定した。

16 照屋昇雄

戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わる。《赤松命令説》を完全否定する証言をしている。
(1)『産経新聞記事』(豊吉広英)【平成18年8月27日朝刊】(甲B35)
    琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らと集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討し、その方法として「軍による命令」という便法を案出し、玉井喜八村長が赤松元隊長に告げたところ、「隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする」と言って赤松元隊長が重い十字架を背負ったことを証言した(甲B35・1枚目、3枚目)。
「平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、『軍命令』とは一切刻まれていない。渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。同村の担当者は、『命令』があったかどうかは、い・/div>


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