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第1 渡嘉敷島の巻(2)

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第1 渡嘉敷島の巻(2)


5 比嘉(安里)喜順


集団自決当時29歳、元渡嘉敷村の駐在巡査、赤松大尉の指示を村民に伝達する立場にあった。一貫して《赤松命令説》を否定する人物である。(Ⅱ)
(1) 『週刊朝日1970年8月21日号「集団自決の島-沖縄・慶良間』(甲B20)
   「艦砲に撃たれて、防衛隊員は戦意を失墜し大あわてでした。住民が集結したら、防衛隊員が『こりゃだめだ。捕虜になるより死んだ方がいい』と言い出したのです。そこで村長をはじめとする村役場の幹部5、6人が自決の相談をして、部隊へ1人を走らせたのです。わたしは傍らでそれを見ていたからよく覚えています。連絡が部隊に着くか着かないうちに、一角で米軍の機関銃がパンパンと鳴りはじめ、防衛隊員が手榴弾をかかえて家族とともに自決をしはじめたのです。早まったことをしたなと思いましたがもう手のつけようがなかった」
   と証言した。(甲B20p22)
(2) 『潮「集団自決を追って」』(星雅彦)【昭和46年11月発行】(甲B17) 
   作家星雅彦が証言をまとめたものである。
「3月27日夕方、西山の谷間の陣地で赤松隊長に会った安里巡査は、これからどうしたらよいかわからないので、軍のほうでなんとか保護する方法はないものか、どこか安全地帯はないものか、と相談を持ちかけたところ、赤松隊長は、次のようにいった。『軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一カ所に避難していたほうがよい。場所は軍陣地の北側の西山盆地がいいだろう』(安里証言・甲B17p208)
「およそ千人が西山盆地に集まった。集団の一角に、村長を中心にして、郵便局長や校長や助役や巡査や防衛隊の幹部らが集まってなにやらしきりに協議していた。『これからどうするかという意見を出し合ったが、話合っていくうちに、玉砕するほかはない、という結論になってしまった。しぜんに、玉砕ということになって、その恐怖感から逃げられなくなった』(安里らの証言・p210) そこで気丈な古波蔵村長は、具体的にどういうふうにするか、と話を進展させた。あれこれ意見がでたが、結局、みんなが死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が、『友軍の爆薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょうか』と申し出たことから、それに一決して、不断から親しく兵隊と接触している防衛隊3人が出掛けることになった。(甲B17p210)
「『・・・どうせ死ぬならみんないっしょのほうがいい』とウシの弟の防衛隊が話しているとき、安里巡査がきて、『手榴弾が爆発するときは手にしっかり握っていたほうがよい』と助言した。それからまもなくして古波蔵村長がみんなの中央に立って、『敵に取り囲まれたてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう』と、声をふるわせながらいった。 急にしーんと静まり返った。・・・遠くで誰かが『発火用意、打て!』と叫ぶと同時に、ぱあーん、ぱあーんと、続いて手榴弾の炸裂音が聞こえた。」(甲B17p211)
「村の指導者たちやその家族や防衛隊の幾人かは、そろって無事で、その集団にまじっていた。みんなひどく興奮していて、狂人のようになっていた。村長は狂ったように逆上して『女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい!』と叫んだ。その意志を素直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順は、集団より先がけて日本軍陣地に駆け込み、『足手まといになる住民を撃ち殺すから、機関銃を貸して欲しい』と願い出て、赤松隊長から『そんな武器は持ち合わせていない』とどなりつけられた(安里、伊礼蓉子らの証言。その点、古波蔵村長は米軍に決死の戦闘を挑むつもりだったと、異議を申し立てている)。」(甲B17p212)
「阿波連の青年たちがワイワイ騒ぎ立てながら走ってきた。血の気のない顔で、彼らは何やら奇声をあげ、まだ生きている人を探し出しては、持っている棍棒で撲殺するのだった。その中の金城重明(現牧師)という16歳の少年がウシの側へ寄ってきた。学校で成績がよいと評判の少年だった。彼は立ち止まった。と、いきなり直径10センチぐらいの棍棒を振り上げ、「まだ生きているのか!」と叫び、妹を抱き押さえて後込みしている長女の頭へたたきつけた。・・・。」(甲B17p213)
(3) 『ある神話の背景』(甲B18) 
恩納河原へ行く前に分散していた村民を集めた理由について(甲B18p123~)
「私は地理がわからないので、赤松大尉を探すのに一日かかったわけです。私が、渡嘉敷島へ来てから赤松隊長に会ったのもその日が初めてですからね。」(甲B18p123)
   「自決の日が!?」
「はい。二十二日に島へ着いて、二十三日がもう空襲ですから。そういうわけで(赤松)隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておるでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、また、捕虜になる可能性はありましたからね。そしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最後まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。
しかし今は、砲煙弾雨の中で、部隊も今から陣地構築するところだし、何が何だかわからないせっぱつまった緊急事態のときですから、そうとしか処置できなったわけです。」
   「それで恩納河原が比較的安全な場所だということになった訳ですか」
「私としては比較的安全な場所と思ったわけです、しかも友軍のいるところとそう離れていませんし」
   「すると恩納河原へ避難せよという場所の指定はなかったんですか?」
「場所の指定はないですね。思い思いに避難小屋を作ってあったんですよ。」
「住民は恩納河原に集まれ、といわれた、ということになっているんですが」
「いや各々自分の思い思いのままの避難小屋という立派な小屋を作ってあったですよ。敵はもう上陸してくる。とにかく山の中で一応かくれておこうと、避難させたわけですよ。隊長も、生きられるまでは生きてくれ、そういう趣旨のもとに、部隊の隣のところに、状況を見ながら……そういうことだったですがね。戦争のどさくさにまぎれて、皆、あの時、おしつけなかったですからね。集めたら、こういう結果になってしまって、村長以下、皆、幹部もね、捕虜になるよりは死んだ方がいい、その時、私は生かすために、ここ迄苦労して、避難して来たのにね。雨の中を皆、つれて来たのに……敵もおらんのに、どうして死ぬことができるか、とわしは反対(したんです)……生かすために連れて来た、隊長もそういうお考えで、こっちに、近くで静かにしているように、戦闘の邪魔になるからですね。そういうこと、言うたわけですよね。
 しかし皆、艦砲や飛行機からうちまくる弾の下で、群集心理で半狂乱になっていますからね。恐怖に駆られて……この戦争にあった人でないと(この恐怖は)わからんでしょう。だから、しいて死ぬという、自決しようという、部隊が最後だということの○○(一語不明)を受けて、死のうという。私は今のままなら死ねないなあ、と言ったんですがね。」
「村の主だった方はあの狭い沢の中で死ぬということについて相談をなさったんですか」
「はい、その人たちは、もう半狂乱になって、恐怖に駆られて、もうこれは当然、捕虜になるよりは死んだ方がましだということになって、日本人だという精神じゃっていって、やむを得なかったですね。ことに離島であって、離島になればなるほど、そういう精神が鞏固ですよ。私はあく迄生きるために来たんだから、しいてあれなら、アメリカ兵が来て、一人でも会って戦闘でもして(から死のうと思ったのです)、部隊がもう最後という時に、一人は部隊のレンラクに出た筈ですよ。その時に、敵の手榴弾、艦砲と共に手榴弾投げた音があったんですよ。それをもう友軍の最後だ、斬り込み総攻撃だと思って、ああなってしまったわけですよ」
「重大決定をなさろうとしていらした時はどういう方々がいらっしゃいましたか」
「自決する時ですか」
「はい」
「村長とか防衛隊の何人か、役場関係の人もおったと思いますが」
「それで、どうしても死ぬということに……」
「ええ、どうしても死ぬという意見が強かったもんで、わしはサジ投げて……わしはどうしても死ぬ前にアメリカに対抗してでなければ死ぬ気なかったです。それだけははっきりしています」
「レンラク員を部隊に出しました。その時に突然、友軍とアメリカ軍の射撃があったわけですが、それをもう部落の人は、友軍の最後の総攻撃だと思い違いしてですね、ひどかったもんですからね。死にたい死にたいということで……」
「きっかりと万歳を三唱なさったという説もありますが」
「とにかく、一たんは万歳といったわけです」
「それは誰かが万歳を主唱したという訳ではないんですね。なんとなく……」
「ええ、なんとなくやったわけじゃないですかねえ」(~甲B18p127)
 「友軍の近くにいれば心強いというのはあの当時の誰もが持っていた気持だと」安里氏はいう。(甲B18p127)。
「自決の後はどうされましたか」
「重傷者は置いてですね。それから友軍の機関銃でも借りて、死のうということになって、残って歩ける人たちは行ったです。ところが部隊は、今うちこまれるから、危険だから……又、部隊だって機関銃かすわけはないですよ。その時に皆集まって、がやがやするもんだから、敵の探知器に知られて、ひどくうちこまれたですよ。それからはもう、皆死ぬ気持がなくなったわけですよ。今まで死のうとしたんですけど」
「第二玉砕場には、それからいらしたわけですね。」
「はいはい」(甲B18p127)
当時の赤松隊の状況を、『ある神話の背景』(甲B18)は、一隊員の証言を引きながら、次のように記載している。
「かりに、あの時、自決命令、出したとしても、とても、伝令が、あの場所まで辿りつけなかったんじゃないかな。皆稜線の上にへばりついていて、伏せながらも、まだ一糎でも体低くしようとして、木の枝なんかでお腹の下掘ってた状態ですからね。向こうも、整然と集まってたわけじゃないでしょうし。平和な時に、考えて、数百米離れたところにある、小学校の校庭で、整然と並んでいる生徒に何かを伝えに行くような訳にはいきませんからな」(甲B18p129)
(4) 『沖縄県警察史第二巻(昭和前編)』(沖縄県警察本部)【平成5年3月発行】(甲B16)
「安里巡査は、住民の避難誘導について相談する為に赤松隊長に会い『これから戦争が始まるが、私たちにとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか』と相談した。すると赤松隊長は、『私たちもいまから陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか静かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか』と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、『なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう』と言った。・・・全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。」(甲B16p773~774)
「私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた。・・・集まった防衛隊員たちが、『もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい』と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れてきたのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は『生きて虜囚の辱めを受けず』だったので、言っても聞かなかった。そこで、『じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡を取ってからその返事を待って、それからでも遅くはないのではないか』と言って部隊長の所へ伝令を出した。だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で『天皇陛下万歳、天皇陛下万歳』と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として手榴弾を持っていたと思う。その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発弾が多く玉砕できない人たちがいた。」(甲B16p774~775)
 「玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩ける者は一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲が撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。その時友軍に、『危険だから向こうに行け』と言われて、元の場所に帰ってきた。」(甲B16p775)
 「玉砕してから恩納河原の避難小屋に集まり避難生活が始まった。食糧を探すのに必死だった。・・・赤松隊長は、『私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きてください』と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。」(甲B16p775~776)
(5) 『光の泉「沖縄・渡嘉敷島の集団自決戦後51年目の証言」』【1996年7月】(甲B43)
    《赤松命令説》を明確に否定する証言をしている。
「米軍上陸の3月27日、比嘉(安里)は、ぐるりと米軍が取り囲んだ状況で、まず、赤松大尉に会うことだと考え、村民をどうしたらよいかを赤松大尉に相談した。赤松大尉は、これに対し、『我々は今、海から揚がって陣地構築を急いでおるところですから、作戦の邪魔にならない、部隊近くの安全な所に避難させておったらいいでしょう。我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ』と言われました。
私たちも部隊の近くは安全ですから『じゃあ、そうしましょう』と、あちこちの避難小屋を歩きながら、部隊近くに集まるように伝令しました。」(甲B43p45上段~下段)。
※ 住民が部隊近くに集まるようになった経緯が詳細に証言されている。「村民をどうしたらよいか」という「相談」に対する話し合いが、「命令」「強制」「誘導」等抽象的な「評価」としてではなく、その具体的な話の中身が「事実」として生々しく証言されている。「我々は死んでもいいから最後まで戦う。あなたたち非戦闘員は生きられる限り生きてくれ」という言葉には、どこにも強制性はない。

   また、その後の経緯についても詳しく証言している。
「私は地理が分かりませんが、地元の人はよく知っております、どの部隊がどこにいるか、どこが一番安全か。村長さんも村民に伝え、それは人から人へと自然に伝わっていったんです。大雨の中、一晩かかって思い思いに集まったところが、玉砕の場所になったわけです。谷と谷の間のちょっとした広場でした。」(甲B43p45下段)。
「私は支那事変での戦争体験がありましたから少しは落ち着いておられましたが、離島の人たちには初めての戦争でしょう。心の動揺を来したと思うんです。村長さんも、防衛隊(現地召集兵、家族と一緒に戦っていた)も捕虜になるよりは自決したほうがましと、村の幹部がそういう意見になってしまったんです。それで私は村の幹部に言うたです。『戦争は今から始まる。まだ、敵も見ていないし、自決するためにみんなを集めたわけではない。生かすためにみんなを連れてきた。交戦もしていないのに、どうして早まったことをするんだ。死ぬのはまだ早い。』と、私も村の指導者ですから、自分ひとり死なないとは言えない。しかし、敵と交戦もしないうちに死ぬつもりはなかった。」(甲B43p45下段)
「皆、艦砲と飛行機から撃ちまくる弾の下で、半狂乱になっていますからね。どうしても死ぬ、死にたいという。日本人の精神じゃ、と言って。私もいつまでも一人我を通すわけにはいかず、『それなら、あんたたちに任そう』とサジを投げてしまって、側に退いて状況を見ておったわけです。私は部隊に報告する義務がありますからね。」(甲B43p46上段)。
※ この後すぐに手榴弾による集団自決が始まるわけであるが、「不発が多くて死んだのは何名かでしょう」(甲B43p46上段)。その後、機関銃を借りにいって赤松隊長に断わられたことが証言されている。これは、「集団自決命令」とは相容れない行動である。

「それから友軍の機関銃でも借りて死のうと、生き残って歩ける者は部隊の陣地へ押し掛けていったんです。私もついていきましたが、向こうでも止められたですよ。部隊だって機関銃を貸すわけではないです。」(甲B43p46上段)
   自決の報告を聞いた赤松大尉は、「早まったことをしてくれた」と言われた(甲B4346p下段)。
   赤松大尉の人間性についても言及されている。
「部隊の食糧倉庫が海岸ばたにありました。そこに米が積んでありましたが、赤松さんは、その米を民間と軍とに半分分けしたんですよ。防衛隊も皆手伝って、私が立ち会って分配したんです。自分の食糧もないときに。『部隊は最後まで頑張る。あなたがたは、このあるだけを食べて、あとは蘇鉄でも食べて生きられるだけ生きなさい』となったわけです。」(甲B43p46下段~)。
そして、赤松大尉が命令を出していないと断言している。
「赤松さんは命令を出してもいない。命令を出せる時期でもなかった。海から揚がって、すぐ陣地構築、それで精一杯でしたから。赤松さんは非常に申し分のない人格者でした。」(甲B43p48上段)。

なお、赤松大尉は、これに関して、『ある神話の背景』で、次のとおり述べている(甲B18p103)
「安里さんの記憶では、西山の複廓陣地へ移ってから私を捜して来られたということになっているようですが、私はどうしても、旭沢で安里さんに会っているような気がしてならないんです。勿論、私の記憶違いかも知れませんが、複廓陣地へ移ってからは、村民の方と殆ど接触がなかったように思いましてね。
    そこで初めて村の人の話が出たんです。
    安里さんは、要するに私のところへ情報を聞きに来られた。敵はいつ上がるんだ。どこへ逃げたらいいんだ。もっともな質問です。しかし、私も正確には答えられない。
    上陸は多分、明日だ。部隊はこれから、西山の方へ移って、そこへ陣地を作るつもりだから、と答えた。住民は-私は前にも申し上げたように、自分自身は今頃は出撃して死んでいる筈だったから、住民対策は誰かがやってくれると思って、実は殆ど考えたことがなかった。弱りました。
    しかし、部隊が西山へ行くんだから、そちらも、近くの谷へ移ったらどうですか、と安里さんに言った。深い意味があった訳じゃありませんが、それが自然のなり行きだったような気がするんです。まあ陣地が作れる程度の所があれば、その陰に住民が隠れる、という感じでした。」
(6)『沖縄戦ショーダウン』(1~13)(上原正稔・訳注)【平成8年6月】(甲B44)
   比嘉喜順さんに会って事件を聞くと、
「その通りです。世間の誤解をといて下さい」
と言う。
   「赤松嘉次さんは人間の鑑です。渡嘉敷の住民のために一人で泥をかぶり、一切、弁明することなくこの世を去ったのです。私は本当に気の毒だと思います。家族のためにも本当のことを世間にお知らせください」(6・1段目)
(7)『沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄』(曽野綾子著)【平成15年9月発行】(甲B4)
    安里喜順の証言が、再びまとめられている。内容的には、『ある神話の背景』(甲B18)と同内容である。
(8) 小括
    安里巡査は、《赤松命令説》の有無を判断するにあたり、「知念朝睦」と並ぶ最重要証人である。安里は、《赤松命令説》を完全に否定する。証言も一切ぶれていない。
同じく両名が重要証人であるとの認識を抱いている曽野綾子は、次のような感想を述べている。
   「その時に私は驚いたのだが、知念元副官と言い、安里元巡査といい、鍵を握る人物が現存していて、少しも面会を拒否していないのに、取材のために会いにきた沖縄側のジャーナリストは1人もなく、私より前に取材にきたのは『週刊朝日』の中西記者だけだという事実だった。ついでに言うと、大江氏も渡嘉敷島にさえ取材に来てはいなかった。当時渡嘉敷島には民宿が一軒しかなかったが、私が当然のように大江氏の名前を出しても宿の人はぽかんとしていた。」(甲B18・2枚目第3段)。
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