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第4・5(5)イ 皆本証人の証言について

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について
第4・5(5) 知念証人及び皆本証人の各証言等日本軍関係者の供述、体験談について

第4・5(5)イ 皆本証人の証言について





(ア)(赤松大尉の言動を把握できる立場にいなかった)*


証拠(甲B66)によれば,皆本証人は,海上挺進戦隊第三戦隊の第三中隊長であった者であると認められる。そして,証拠(甲B66及ぴ皆本証人)によれば,皆本証人は,陳述書(甲B66)あるいはその証人尋問において,昭和20年3月27日,赤松大尉から部隊の後退の援護を命ぜられ,午前9時すぎころに渡嘉敷島に上陸した米軍に対し,第三中隊に配属された基地隊の高塚小隊を率いて交戦したこと,同月28日午前1時ころになって,ようやく第三戦隊の主力部隊と合流し,午前3時ころになって,赤松大尉と会ったこと,皆本証人は,同月28日,第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり,赤松大尉の側に常にいたわけでないこと,赤松大尉が住民に対して陣地の近くに来たらと言ったことも,当時,聞いていなかったことを記載し,若しくは証言した。もっとも,防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)では,
「二十七日〇九〇○ころ猛烈な砲爆撃の支援下に渡嘉志久海岸及び阿波連海岸に米軍が上陸を開始した。第三中隊長皆本義博少尉(57期)は配属の高塚小隊(勤務隊の高塚春次郎少尉以下二八名)を指揮し,渡嘉志久東側高地から渡嘉志久海岸に上陸した米軍を射撃して前進を阻止したが,迫撃砲,機関銃の猛射を受け交戦約三○分にして高塚少尉以下九名の戦死者を生じた。皆本中隊長は高塚少尉に代わって小隊を直接指揮し,交戦を少時続けたのち一○○○ころから撤退を開始し,二十八日一〇〇〇ころ戦隊本部に到着した」
と記載されており,皆本証人が本隊と合流した時間に関し皆本証言と差異がある。

第4・5(1)イ(イ)のとおり,皆本証人は,赤松大尉が住民を西山陣地の方に集合するように指示した昭和20年3月27日には,主カ部隊と合流していないとのことであるから,同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになる。そして,翌28日の合流時間は,皆本証人の証言等と防衛庁防衛研修所戦史室「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)との間で食い違いがあり,特定できないけれども,皆本証人の証言等によれば、同月28日,第三中隊長として中隊を率いて陣地の配置場所におり,赤松大尉の側に常にいたわけでないことが認められ,同日の赤松大尉の言動を把握できる立場になかったことになり,赤松大尉の言動についての証言の評価に当たっては,この点を重視する必要がある。


(イ)(手榴弾に関し証言の齟齬)*


皆本証人は,手榴弾に関し,陳述書(甲B66)に
「手榴弾は軍が管理していましたが,一部を『防衛隊』の隊員に配布していました。」

「『防衛隊』とは,防衛召集により部隊に編入された成人男子あことで,沖縄では昭和19年7月に編成されました。普段は家族と一緒に暮らしているのですが,いざという時には敵と戦わなけれぱならず,軍人としての扱いを受けていました。そのために,軍は防衛隊員にも手榴弾を公布していたのです。あくまで戦闘に備えて交付していたのです。」

「渡嘉敷島の集団自決で手榴弾が用いられたのは,以上の理由によるもので,普段から防衛隊員が手榴弾を保持していたからです。決して軍が自決を命じるために手榴弾を交付したのではありません。」(甲B66・5頁)と記載している。

ところが,被告ら代理人の
「しかし皆本さんは手りゅう弾の交付自体,それは御存じないんですね。」
という問いに対しては
「はい。」
と答え,
「交付の際にどういう命令が出てたということも御存じないということですかね。」
という問いに対しては
「そうです。」
と答え,さらには手榴弾の交付時期に関する質問に対しては,
「私は当事者ではありませんから,何月何日ごろということは私はここで申し上げることはできません。」
と答えている。そうすると,皆本証人の証言は,手榴弾を交付した目的等を明示する陳述書(甲B66)の内容と齟齬し,手榴弾に関する皆本証人の陳述書(甲B66)の記載及びその証書には疑問を禁じ得ない。


(ウ)(まとめ)*


以上のとおり,皆本証人は,昭和20年3月27日及び同月28日の赤松大尉の言動を把握できる立場にあったとは認めがたく,また,その陳述書(甲B66)に記載された手榴弾に関する記述は,皆本証人自身の証言と齟齬し,信用できない。


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