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j 徳平秀雄らの供述(ha)

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について
第4・5(2) 集団自決に関する文献等
  • イ 渡嘉敷島について
    • (イ) (赤松命令説を否定等する文献)*

j 徳平秀雄らの供述(ha)



(a)(徳平秀雄の体験談)*

徳平秀雄は,渡嘉敷島の郵便局長であった者である。

徳平秀雄は,「沖縄県史 第10巻」に寄せた体験談に
「恩納川原に着くと,そこは,阿波連の人,渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって,艦砲,迫撃砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現われ,わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ,そこに当っていました。そこでどうするか,村の有カ者たちが協議していました。村長,前村長,真喜屋先生に,現校長,防衛隊の何名か,それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも,そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと,主張した人もいました。特に防衛隊は,闘うために,妻子を片づけようではないかと,いっていました。防衛隊とは云っても,支那事変の経験者ですから,進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は,持って来た手榴弾を,配り始めていました。」

「そういう状態でしたので、私には、誰かがどこかで操作して,村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」
と記載した(乙9・765頁)。

(b)(大城良平の体験談)*

元第三戦隊第一中隊付防衛隊の大城良平は,「沖縄県史 第10巻」に寄せた体験談に
「赤松隊長が自決を命令したという説がありますが,私はそうではないと思います。なにしろ,赤松は自分の部下さえ指揮できない状態にきていたのです。私は自分の家内が自決したということを聞いて,中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長は,そんなことは知らなかったと,いってました。ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば,敵の捕虜になるより,いさぎよく死ぬぺきだということです。自発的にやったんだと思います。それに『はずみ』というものがあります。あの時,村の有志が『もう良い時分ではないか』といって,万才を三唱させていたといいますから,それが『はずみ』になったのではないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いたといいます。その時,村の指導者の一人が,住民を殺すからと,機関銃を借りに来たといいます。そんなことは出来ないと,赤松隊長は追いやってと,彼自身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということになります。」
と記載した(乙9・781頁)。






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