- イ 渡嘉敷島について
- (イ) (赤松命令説を否定等する文献)*
f 「沖縄県警察史第2巻」(平成5年)沖縄県警本部発行(ha)
(a)(「沖縄県警察史第2巻」における安里巡査の供述)*
「沖縄県警察史第2巻」は,沖縄県警本部が発行した沖縄県の警察に関する資料である。
「沖縄県警察史第2巻」には,安里巡査の供述として,
「私は赤松隊長にあった。『これから戦争が始まるが,私たちにとっては初めてのことである。このままでは捕虜になってしまうので,どうしたらいいのか』と相談した。すると赤松隊長は,『私たちも今から陣地構築を始めるところだから,住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように,どこか静かで安全な場所に避難し,しばらく情勢を見ていてはどうか』と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので,すぐ部落に引き返した。」
「私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して,住民を誘導避難させたが,住民は平常心を失っていた。」
「集まった防衛隊員たちが,『もうこの戦争はだめだから,このまま敵の手にかかって死ぬより潔く自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい』と言い出して,村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし,戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし,当時の教育は,『生きて虜囚の辱めを受けず』だったので,言っても聞かなかった。そこで,『じゃあそれを決行するのはまだ早いから,一応部隊長のところに連絡を取ってからその返事を待って,それからでも遅くはないのではないか』と言って部隊長の所へ伝令を出した。だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて,急に撃ち合いが激しくなった。そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして,方々で『天皇陛下万歳,天皇陛下万歳』と始まった。その時,防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として,手榴弾を持っていたと思う。その手榴弾を使って玉砕したが,幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。玉砕できなかった人たちが集まって,友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しょうと言うことになって,自分達で歩ける者は一緒に友軍の陣地に行ったが,友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ,多くの人たちがやられた。その時友軍に,『危険だから向こうに行け』と言われて,元の場所に帰って来た。」
との記述がある(甲B16・773ないし775頁)。
(b)(他所での安里巡査の供述)*
安里巡査は,後記kのとおり,沖縄タイムス(甲B60)に赤松大尉の直筆の手紙を紹介し,コメントした特嵩力に宛てた昭和58年6月8日付けの手紙(甲B61)でも,集団自決が軍命でも赤松大尉の命令でもないと記載するなどしている。