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f 「戦闘概要」(昭和44年,新崎盛暉「ドキュメント沖縄闘争」所収)(ha)

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について
第4・5(2) 集団自決に関する文献等
  • イ 渡嘉敷島について
    • (ア)(赤松命令説記載文献)*

f 「戦闘概要」(昭和44年,新崎盛暉「ドキュメント沖縄闘争」所収)(ha)



「戦闘概要」は,昭和28年3月28日,太平洋戦争当時の渡嘉敷村村長や役所職員,防衛隊長らの協カのもと,渡嘉敷村遺族会が編集したもので,新崎盛暉「ドキュメント沖縄閾争」に転載,収録されている。

「戦闘概要」には,
「同年三月二七日午後,赤松隊長より,当時の村長と駐在巡査を通じて、住民は各自の壕を後にし,指定された西山の友軍陣地北方に集合せよとの命令伝達されたので,各自の壕を後にし,指定された西山軍陣地北方に集結した。同年三月二八日,午前一○時頃,部隊より住民二○名に対し,一個ずつの手留弾が渡され,午後一時頃皇國の万才と日本の必勝を祈り,一せいに玉砕した。」
との記載のほか,
「昭和二○年三月二七日,夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」

「間もなく兵事主任新城真順をして住民の集結場所に連絡せしめたのであるが,赤松隊長は意外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。何のために住民を集結命令したのか,その意図は全く知らないままに恐怖の一夜を明かすことが出来た。昭和二○年三月二八日午前一○時頃,住民は軍の指示に従い,友軍陣地北方の盆地へ集ったが,島を占領した米軍は友軍陣地北方の約二,三百米の高地に陣地を構え,完全に包囲態勢を整え,迫撃砲をもって赤松陣地に追り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された。危機は刻々と迫りつつあり,事ここに至っては如何ともし難く,全住民は陛下の万才と皇国の必勝を祈り笑って死のうと悲壮の決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手留弾各々二個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり,一発の手留弾に二,三〇名が集った。瞬間手留弾がそこここに爆発したかと思うと轟然たる無気味な音は谷間を埋め,瞬時にして老幼男女の肉は四散し阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。」

「手榴弾不発で死をまぬかれた者は友軍陣地へ救いを求めて押しよせた時,赤松隊長は壕の入口に立ちはだかり軍の壕へは一歩も入ってはいけない,速かに軍陣地近郊を去れと激しく構え,住民をにらみつけた。」
として,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に対して部隊陣地北方の盆地への集合・自決・軍の壕からの立ち去りを命じたとする記述がある(乙10・12,13頁)。

赤松大尉が自決命令を出したとする「戦闘概要」の記述は,昭和45年に発行された「週刊朝日」(甲B20)にも引用されている。






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