- イ 渡嘉敷島について
- (ア)(赤松命令説記載文献)*
c 前記「沖縄戦史」(ha)
「沖縄戦史」には,
「大尉は」
「西山A高地に部隊を集結し,さらに住民にもそこに集合するよう命令を発した。住民にとって,いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった。部隊の集結場所へ集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ,西山A高地へ集合したのである。しかし,赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は,これから,米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は,部隊の行動をさまたげないため,また,食糧を部隊に提供するため,いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである。」
「住民の間に動揺がおこった。しかし,自分たちが死ぬことこそ国家に対する忠節であるなら,死ぬよりほか仕方がないではないか。あまりに従順な住民たちは,一家がひとかたまりになり,赤松部隊から与えられた手榴弾で集団自決を遂げた。なかには,カミソリや斧,鍬,鎌などの鈍器で,愛する者をたおした者もいた。住民が集団自決をとげた場所は渡嘉敷島名物の慶良間鹿の水を飲む恩納河原である。ここで三百二十九名の住民がその生命を断ったのである。」
として,赤松大尉が住民に対して自決命令を出したとする記述がある(乙5・48,49頁)。