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e 「母の遺したもの」(平成12年)宮城証人著(ha)

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について
第4・5(2) 集団自決に関する文献等
  • ア 座間味島について
    • (イ)(梅澤命令説を否定等する文献)

e 「母の遺したもの」(平成12年)宮城証人著(ha)



(a)(執筆契機)*

「母の遺したもの」は,座間味村の女子青年団員であった初枝の娘である宮城証人が初枝からの告白を受けたとして執筆したものである。


(b)(告白)*

「母の遺したもの」には,「沖縄敗戦秘録―悲劇の座間味島」に掲載された初枝の手記の原告梅澤の集団自決命令について
「母は…梅澤氏に面会して『あなたが命令したのではありません』と告白しました。」
との記載がある。(甲B5・8,9,250頁以下)。


(c)(集団自決の概要記述)*

また,「母の遺したもの」には,概要,
「そこで,盛秀が戦隊長を前に発した言葉は,

『もはや最期の時がきました。若者たちは軍に協カさせ,老人と子どもたちは軍の足手まといにならないよう,忠魂稗前で玉砕させようと思います。弾薬を下さい』

ということだった。初枝は息が詰まるほど驚いた。しばらく沈黙が続いて。垂直に立てた軍刀の柄の部分にあごをのせ,片ひざを立ててじっと目を閉じて座っていた戦隊長はやおら立ち上がり,

『今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい』

と,五人を追い返すように声を荒げて言い,申し入れを断った。五人はあきらめるより他なく,その場を引き上げていった。その帰り道,盛秀は突然,防衛隊の部下でもある恵達に向かって

『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』

と言った。あとに続く言葉ば初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも,役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に違ぶよう命じた。盛秀一人の判断というより,おそらく,収入役,学校長らとともに,事前に相談していたものと思われるが,真相はだれにもわからない。」
との記述がある。


(d)(軍曹から手榴弾)*

もっとも,第4・5(2)ア(ア)l(c)のように,「母の遺したもの」にも,木崎軍曹からは
「途中で万一のことがあった場合は,日本女性として立派な死に方をしなさいよ」
と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載されており(甲B5・46頁),この点では,「母の遺したもの」にも,座間味島での集団自決に軍が関係したことを窺わせる記述が存することが指摘されなければならない。


(e)(援護法の適用に関達して)*

さらに「母の遺したもの」には,援護法の適用に関達して,次のような記載がある。すなわち,
「貧しいながらも住民の生活が落ちつきだした一九五七(昭和三二)年,厚生省引揚援護局の職員が『戦闘参加(協カ)者』調査のため座間味島を訪れたときのこと。母は島の長老から呼び出され,

『梅澤戦隊長から自決の命令があったことを証言するように』

と言われたそうである。」

「母が梅澤戦隊長のもとへでかけた五人…のうちの唯一の生き残りということで,その場に呼ばれたのである。母はいったん断った。しかし,住民が『玉砕』命令を隊長からの指示と信じていたこともあり,母は断れずに呼び出しに応じた。」

「厚生省による沖縄での調査がはじまったのが一九五七(昭和三二)年三月末で,座間味村では,四月に実施された。役場の職員や島の長老とともに国の役人の前に座った母は,自ら語ることはせず,投げかけられる質問の一つひとつに『はい,いいえ』で答えた。そして,『住民は隊長命令で自決したといっているが,そうか』という内容の問いに,母は『はい』と答えたという。」

「座間味村役所…では,厚生省の調査を受けたあと,村長を先頭に『集団自決』の犠牲者にも『援護法』を適用させるよう,琉球政府社会局をとおして,厚生省に陳情運動を展開した。その時に提出した資料『座間味戦記』が私の手元にあるが,内容は一九四四(昭和一九)年九月の日本軍駐屯にはじまり,翌敗戦の年の阿嘉島住民が投降してくる八月下句まで,座間味村での先頭ママ:戦闘 の模様がタイブ文字およそ九千五百字で綴られている。主語は省略されているが,明らかに私の母の行動と思われる文章が数カ所に見られる。そしてこのなかに,

『梅澤部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い,又老人,子供は全員村の忠魂碑前に於て玉砕する様にとの事であった』

というくだりが含まれている。」

「その後,前述した『援護法』の適用を申請するため作成された公文書が出されるが,個人的に座間味島の『隊長命令説』を証言として書いたのが,実は私の母だった。一九六二(昭和三七)年,農家向けの月刊誌『家の光』で『体験実話』の懸賞応募の記事を見つけた母は,さっそく,軍の弾薬運びや斬込みの道案内をした体験を書いて応募した。日本本土はすでに高度成長に入っていたが,沖縄はなお米軍の支配下にあり,教育・文化の復興は取り残されていた。その沖縄の,さらに離島である座間味島に自由に入ってきた唯一の雑誌が,この『家の光』であった。隅から隅までむさぼるように『家の光』を読んでいたという母が,小さな囲み記事とはいえ募集告知を見逃すはずはなかった。原稿をまとめるにあたり,『自決命令』についてどう記述するか,母はずいぶん悩んだ。落選すれば問題はないが,万一入選した場合は雑誌に掲載されることになっている。『集団自決』で傷害を負った人や遺族にはすでに国から年金や支給金が支給されており,証言を覆すことはできなかった。悩みに悩んでの執筆だったが,母の作品は入選し,翌年の『家の光』四月壕ママ:号 に掲載された。そのなかには,

『[三月二五日]夕刻,梅澤部隊長(少佐)から,住民は男女を問わず,軍の戦闘に協カし,老人子どもは全員,今夜忠魂碑前において玉砕すぺし,という命令があった』

と記述されている。村役所から厚生省への陳情に使われた文書を引用したものだった。」

「『集団自決』を仕事として書くためにやってきた娘に,自分の発言がもとで『隊長命令』という。“ウソ"を書かせてはいけないと思ったのか,あるいは,死者の弔いが『三十三回忌』で終わってしまうことを意識してか,慰霊祭が終わった日の夜,母は私に,コトの成り行きの一部始終を一気に話し出した。梅澤戦隊長のもとに『玉砕』の弾薬をもらいにいったが返されたこと,戦後の『援護法』の適用をめぐって結果的に事実と違うことを証言したことなど。そして,

『梅澤さんが元気な間に,一度会ってお詫ぴしたい』

との言った判決文ママ、原文:とも言った 。」
(甲B5・250ないし255,260,261頁)





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