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a 原告梅澤の陳述書等(ha)

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について
第4・5(2) 集団自決に関する文献等
  • ア 座間味島について
    • (イ)(梅澤命令説を否定等する文献)

a 原告梅澤の陳述書等(ha)



原告梅澤の陳途書には,
「問題の日はその3月25日です。夜10時頃,戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が5名来訪して来ました。助役の宮里盛秀,収入役の宮平正次郎,校長の玉城政助,吏員の宮平恵達,女子青年団長の宮平初枝(後に宮城姓)の各氏です。その時の彼らの言葉は今でも忘れることが出来ません。『いよいよ最後の時が来ました。お別れの挨拶を申し上げます。』『老幼女子は,予ての決心の通り,軍の足手纏いにならぬ様,又食糧を残す為自決します。』『就きましては一思いに死ねる様,村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。』その言葉を聞き,私は愕然としました。この島の人々は戦国落城にも似た心底であったのかと。」

「私は5人に毅然として答えました。『決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共に頑張りましょう。』と。また,『弾薬,爆薬は渡せない。』と。折しも,艦砲射撃が再開し,忠魂碑近くに落下したので,5人は帰って行きました。翌3月26日から3日間にわたり,先ず助役の宮里盛秀さんが率先自決し,ついで村民が壕に集められ,次女と悲惨な最後を遂げた由です。」
との記載があり(甲B1・2ないし3頁),原告梅澤は,本人尋問において,同趣旨の供述をしている。

また,原告梅澤は,沖縄タイムスの牧志伸宏に対し,昭和60年,梅澤命令説を否定して抗議している。





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