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b 「地方自治七周年記念誌」(昭和30年)沖縄市町村長会発行(ha)

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について
第4・5(2) 集団自決に関する文献等
  • ア 座間味島について
    • (ア)(梅澤命令説記載文献)

b 「地方自治七周年記念誌」(昭和30年)沖縄市町村長会発行(ha)



「地方自治七周年記念誌」は,戦後における沖縄の政治,経済,教育,文化,社会その他の事情を総合して沖縄の全市町村の概要をまとめた記念誌である。

「地方自治七周年記念誌」には,
「戦闘記梅択少佐(隊長)の率いる約千五百名の日本陸軍部隊が初めて座間味村字座間味に本部を設置して離島の阿嘉島および慶留間島の各部落まで駐屯したのが一九四四年九月十日であつた。」

「一九四五年三月二十四日土の臭も鼻をつく中で一晩を過ごして目を覚す頃にはすでに敵機の来襲である」

「心待ちに待った友軍機は遂に姿を見せず,おまけに夕刻からは艦砲射撃まで加えて来た。昼夜を徹しての艦砲射撃の連続であった。恐怖の一夜を明かした二十五日も朝から艦砲と空からの攻撃に一刻も壕を出る事が出来ない。山に谷に畑に砲弾、爆弾の炸裂する音は耳をつんざく程であった。相当数の艦船が港内に来ていると云う事を聞かされ,何んとも言えぬ悪感に背筋が冷くなつた。」

「夕刻に至つて部隊長よりの命によつて住民は男女を問わず若い者は全員軍の戦闘に参加して最後まで戦い,また老人子供は全員村の忠魂碑前において玉砕する様にとの事であつた。」

「命令を受けた住民はそろって指定の場所に集まつて来た。」

「住民の内には米軍の上陸を知って自決をはかり家族全員も刺殺した悲惨事もあり,天皇陛下万歳を三唱して各自持参せる毒薬(アヒサン)小刀,カミソリ,手榴弾で一挙に六十名も自決したのが内川山壕の惨事であった。その壕では米軍の進撃によつてあわてふためいた住民に対し専ら慰撫激励に努めた村長野村正次郎,助役宮里盛秀,収入役宮平正次郎の三役も妻子と共に自決に参加したのであつた。」
として,原告梅澤が老人・子供に対して忠魂碑前での玉砕を命じた旨の記述がある(乙29・450,451頁)。


被告らの読みとり(関連)
<原告らの読みとり>



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