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第3・6 争点6(公正な評論性の有無)について

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pipopipo555jp

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沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第3 争点及びこれに対する当事者の主張

第3・6 争点6(公正な評論性の有無)について




第3・6(1) 原告らの主張


沖縄ノートの各記述は,赤松大尉に対する過剰かつ執拗な人格非難をするものである。

例えば,沖縄ノートの各記述には,
「生き延ぴて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している,この事件の責任者はいまなお,沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」

「慶良間の集団自決の責任者も,そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを,たえずくりかえしてきたところであろう。人間としてそれをつぐなうことは,あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで,かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。」

「一九四五年を自己の内部に明瞭に喚起するのを望まなくなった風潮のなかで,かれのペテンはしだいにひとり歩きをはじめただろう。」

「しかもそこまで幻想が進むとき,かれは二十五年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に,甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと,渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては,およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想をまでもいだきえたであろう。」

「かれはじつのところ,イスラエル法廷におけるアイヒマンのように,沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろう」
との表現があるが,これは,曽野綾子が「人間の立場を超えたリンチ」と評するように,人身攻撃に及ぶもので,適正な言論として保護されるぺき公正な論評の域を完全に逸脱するものである。


第3・6(2) 被告らの主張


沖縄ノートの各記述には,前1で主張したとおり,いずれも赤松大尉を特定する記載はなく,赤松大尉に対する人身攻撃たり得ない。

本件記述(2)は,集団自決に表れている沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生という命題が,核戦賂体制の下での今日の沖縄に生き続けており,集団自決の責任者の行動が,いま本土の日本人がそのまま反復していることであるから,咎めは我々自身に向かってくると問いかけるものであり,集団自決の責任者個人を非難しているものではない。

「おりがきたら,一度渡嘉敷島に渡りたい」
と語っていた集団自決の責任者の内面を著者の想像カによって描き出すとともに,これは日本人全体の意識構造にほかならないのではないかと論評したものである。

本件記述(5)は,アイヒマンが「或る昂揚感』とともにドイツ青年の間にある罪責感を取り除くために応分の義務を果たしたいと語ったように,渡嘉敷島の旧守備隊長が,日本青年の心から罪責感の重荷を取り除くのに応分の義務を果たしたいと語る光景を想像し,しかし実は日本青年が心に罪責の重荷を背負っていないことについてにがい思いを抱くと述べ,日本青年一般のあり様について論評したものである。本件記述(5)は,ドイツ青年と日本青年の罪責感を対比することが主眼であって,原告らが主張するように,赤松大尉を,
「『屠殺者』やホロコーストの責任者として処刑された『アイヒマン』になぞらえられるような悪の権化」
であると人格非難するものではない。


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